Monday, December 18, 2006

「よい」学校へ-実学志向の呪縛(スクラップブック)

これらのことについては以前書いたこと以上に言うべきことはない。当該部分だけを引用しておこう。


このような考えは、中学・高校といった中等教育にまで浸透している。「偏差値、ネームバリューなどから見て、少しでも「よい」高校は、「よい」大学へのパスポートである」、「中学は・・・」というわけだ。これが、日本の社会が過去数十年にわたって是認してきた通念であり、現在の学力低下は、教育の内容ではなく、教育がもたらす「実益」(むろん表面的な)に関心を持ち続けた、その必然的な帰結である(アメリカやヨーロッパでも事情は似たり寄ったりであるが、もたらされる帰結は異なる。日本ほど大学進学率が高くないからである)。これは一部の「教育熱心」な「教育ママ」の行き過ぎや歪んだ価値観といった個人的な資質に帰される問題ではない。「知」や「文化」に無関心でありながら、その世評や功利的価値には過大な評価を与える、社会の全般的な風潮自体が問題なのである(言うまでもないが、偏差値やネームバリューを評価したり、有名塾の校長の講演会に足繁く通うことが「知」に敬意を持つことではないし、ハイカルチャーに精通することが必ずしも「文化」に親しむことなのでもない)。「ゆとり教育」や「総合学習」の意義は決して小さいものではないが、問題の根はもっと深いのである。では、「知」への敬意を持てばそれでいいのか。そうではない。まだ、「実学志向」という、結局のところ「能率」や「効率」、一言で言えば、performativityの問題と結びついた根強いイデオロギーが残っている。これについては、項を改めて述べる。

「ゆとり教育」や「総合学習」についてのみ付言しておく。未履修問題などはなから起こることが分かっていた事態であり、今さら何を騒いでいるのかという感じである。未履修問題とは、文部省が教えるよう定めた正規のカリキュラムと受験勉強用に学校で設定された特別なカリキュラムとのずれの問題である。奔走されている関係各位には申し訳ないが、本当の問題はそんなところにはないと思う。

すべては「受験戦争」に対する誤った反省から始まった。受験戦争は苛烈にすぎた。だから「ゆとり教育」が必要なのだ、と。受験勉強は不毛にすぎた。受験のための知識、知識のための知識ではなく、厳しい現実社会を生き抜いていくための知恵が必要だ。そのための「総合学習」なのだ、と。

だが、「ゆとり」とは学校で教えられるものなのか?ゆとりもなく働いている親の姿を間近で見ているほうがよほど「人生勉強」になっているというのに?「生きるための知恵」とは授業で教えられるものなのか?子供たち、教師たちは、総合学習の時間を受験勉強にあてることがまさに厳しい現実社会を生き抜くための知恵だと本能的に知っているというのに?何も分かっていないのは、いったい誰だ。

いじめが巷で話題になっている。「大人の間にすら陰湿ないじめがあるのに、子供の間でだけ根絶できるはずがない」という意見がある。一理あると思う。学校は社会の鏡である。親が馬車馬なのに子供にはゆとり、有給すらろくすっぽとれない親の黄金則が「カイシャに盲従」なのに子供には総合学習。大人の社会が虚弱で歪んでいるのに、子供だけたくましく清廉潔白などとはムシがよすぎるというものだ。

共通一次はセンター試験になった。前期・後期に分かれた試験方式はまもなく前期のみに一本化されようとしている。まもなく大学全入時代を迎えるのだという。大学は生き残りを賭けて必死なのだという。大学も一企業として「当たり前の」営業努力を求められているのだという。本当にこれでいいのか?議論すべきはこんなことなのか?

大学とはどのような場所であるべきなのか。社会の中にどのような位置を占めるべきなのか。そのことを国民の間で十分に議論したうえではじめて、本当にすべての子供たちが大学に行くことが「必要」なことなのか、その子供たちにとって「いいこと」なのかが議論できるようになるはずではないか。そして大学に入るためにどのような基礎知識・基礎教養が必要なのかについて、つまり大学受験についての議論が可能になるはずではないか。

今現在、国民は大学で与えられるべき教育について明確なヴィジョンをもっていないというのが偽らざるところではないか。本当に大学に行くことが「必要」なのかどうかも。子供にとって本当に「いいこと」なのかどうかも。理念のもつ力を深く信じる必要性を説く声すらも、今の日本国民の耳には届かない。

「私たち」は本当の問いを回避し続けている。他の多くの問いとともに。仕事が忙しいから。時間がないから。


<家庭学習時間>小中学生で増加「学習離れ」に歯止めか

 減少していた家庭での学習時間が増加に転じるなど小中学生の「学習離れ」に一定の歯止めがかかっていることが、「ベネッセコーポレーション」(岡山市)の調査で分かった。また「いい友達がいると幸せになれる」と小中高校の9割以上が答え、子どもが「友人関係」を重視していることも浮き彫りになった。
 同社の「学習基本調査」は90年からほぼ5年おきに実施。今年6~7月に全国の公立小中高生計9561人を対象に行った。回答は児童生徒に直接記入してもらった。
 家庭学習時間(平日)の平均は90年調査から2回続けて減少していたが、今回小学生は前回01年の71.5分から81.5分、中学生は80.3分から87.0分に増えた。今回70.5分の高校生は前回とほとんど差がなかった。
 社会観に関する問いでは、「いい友達がいると幸せになれる」とした小中学生はいずれも9割を超え、高校生は96.3%に達した。子どもたちが友人関係を重んじ、生活の中心にしていることがうかがわれる。「いい大学を卒業すると将来幸せになれる」と答えた小学生は61.2%だったが、高校生は38.1%に減少。学年が上がると「高学歴が有利」とは考えない傾向を示した。 また、「日本は努力すれば報われる社会だ」と答えた小学生は68・5%▽中学生54・3%▽高校生45・4%となり、こちらの答えも年齢が上がるにつれ減少した。さらに高校生の75・8%が「日本は競争の激しい社会だ」と答えた。【吉永磨美】

 耳塚寛明・お茶の水女子大教授の話 ゆとり教育の実施で学力低下論や保護者の不安が高まり、「脱ゆとり」論が出てきた。その結果、家庭教育や基礎学習が徹底され、小中学生の「学習離れ」に歯止めがかかったのではないか。(毎日新聞) - 12月11日19時21分更新


高校生宿題しないの? 「家庭学習ない」4割 やる気も格差拡大 
12月12日8時0分配信 産経新聞

 「家庭でほとんど勉強しない」と答えた高校生が4割近くに増加し、学習離れが広がっていることが、教育シンクタンク「ベネッセ教育開発センター」(東京)の「学習に関する意識実態調査」で11日、明らかになった。小中学生では「できる子」と、そうでない子の学習時間の差は広がる傾向がみられ、同センターでは「学習意欲の格差が広がっている」とみている。
 調査は今年6月と7月に全国の小学生2736人、中学生2371人、高校生4464人に学校を通じて実施。平成2年、8年、13年にも同一調査を実施しており、結果を比較した。
 家庭での学習頻度は、高校生は「ほとんど勉強しない」が前回の23・1%から27・9%に、「週に1日くらい」も8・8%から9・9%に増えた。1日平均の家庭学習時間も「0分」が前回の22・8%から24・3%に増え、「約30分」も15・2%で、全体の4割近くが家庭でほとんど勉強しなかった。
 小中学生では、成績上位者の学習時間が前回調査結果より大幅に長くなった。全体では家庭学習時間は平均5~10分延び、小学生で81・5分、中学生は87分となった。
 これに対して高校生の家庭学習は、平均70・5分で前回と比べてほぼ横ばい。平成2年時の調査と比較すると、成績で平均点前後に位置する中間層の生徒の勉強時間が約30~50分近く減るなど、生徒の学習離れが広がった格好だ。
 今回の結果についてベネッセ教育開発センターは「小中学生では前回より改善した点もみられたが、高校生では、家庭学習は限られた生徒が行うものになっており、深刻な結果だ」と指摘。「少子化の影響で大学受験がやや広き門となっていることが、高校生を家庭学習に駆り立てなくなった理由だろう」と分析している。
最終更新:12月12日8時0分


格差の現場:/5 広がる 異なるスタート地点 /宮崎

 宮崎市中心部の進学塾の前では、毎晩同じ光景がみられる。午後9時過ぎ、授業を終えた小学生たちが、ドアから次々と駆け出してくる。通りには親たちの迎えの乗用車が並んでいる。
 小学6年の息子と5年の娘がこの塾に通う父親(38)は、はるばる日南市から送迎に来ていた。妻と交代で1日に昼夜2往復することもある。片道1時間の両市を週10往復はする。
 「正直、大変だと感じる時もあります。まだ小学生だし……。でも人生のスタートが異なればゴールも違ってしまう」。息子は県外の名門私立中高一貫校を志望する。「地元に学力を伸ばす教育環境があれば一番いいんですが」と言い、日南市へとハンドルを切った。  

 ◇   ◇

 04年度の県教委の7教育事務所管内別の学力調査は興味深い結果を示している。小学低学年までは、なぜか都市部より田舎の方が学力が高い。しかし高学年以降、都市部の学力が急上昇し、田舎は追い抜かれるのだ。
 小学3年、小学5年、中学2年を比較すると、小学3年で西臼杵(高千穂町など)と西諸県(小林市など)が同率1位。児湯(高鍋町など)も3位と郡部の順位が高い。都市部の宮崎(宮崎市など)は最下位の6位だ。ところが、宮崎は小学5年で3位に浮上、中学2年では1位に躍り出る。
 小学低学年までは田舎の学力が高い理由を、ある小学校教諭は「郡部の少人数の学校では一人一人の子供に合った教え方ができる。子供も指導を素直に受け入れ、まじめだからでしょう」と分析する。小学高学年以降、都市部の学力が上昇する理由を、宮崎市内の進学塾関係者は「塾の影響」と断言する。この塾は、市外からの塾生が2割を占める。「地方の親にも危機感があるから、日向市や小林市、都城市からも子供を通わせるんでしょう」と明かす。
 日南市から通う父親は「自分が高校生だった20年前と比べ、全国と宮崎との格差はさらに広がり、県内の地域間での格差もますます広がってきたようだ」とため息をついた。県教委の調べでも毎年、約45人が県外の有名私立中学に進学している。競争社会を生き抜くための受験技術を得る機会も、都市と地方で差が広がっているのかもしれない。
6月27日朝刊(毎日新聞) - 6月27日18時0分更新


都教委“未履修”を黙認 都立高20校 総合学習で受験対策
12月12日8時0分配信 産経新聞

 必修科目の未履修が全国の高校で相次いで確認された問題に絡み、東京都立高校約20校が「総合的学習」の授業を数学や英語など受験対策に振り替えていたことが11日、都教育委員会の調査で分かった。総合的学習は体験学習やテーマ研究を狙いとするが、学習指導要領を逸脱した受験対策の隠れみのになっていた。都教委は都立高の未履修は1校のみとしていたが、これら“偽装授業”を行っていた学校については「成績表は総合的学習でつけている」として未履修ではないとの判断を示し、黙認の態度だ。進学率の向上を目指した都立高改革の落とし穴が浮かび上がった形だ。
 都立八王子東高で倫理の未履修が発覚したのを契機に都教委が11月、全都立高207校を対象に調査。その結果、約20校が総合的学習の一部を受験対策に振り替えていたことが判明。この中には、戸山や立川の進学指導重点校も含まれていた。
 多摩地区の中堅校では、3年生約45人が2単位(70時間)すべてを数学の応用問題集を購入した受験勉強に活用。同校は平成15年度の総合的学習の導入からこうした授業形態をとっていた。
 また、区部の高校では3年生の2単位(同)の3~4割を「入試基礎講座」などの授業に振り替え。校長は「不適切と受け取られかねない授業」と話しているが、進学校を中心に総合的学習を受験対策に特化させていた傾向が強いとみられる。
 都教委は「(20校は)限りなく灰色に近いが、成績表は総合的学習でつけており、未履修でないと判断している」との見解を示した。いずれも「正規履修の範囲内」として、改善指導にとどめる方針。しかし教育関係者は「受験対策は明らかに総合的学習の趣旨を逸脱しており、都教委が都合よく解釈しただけ。他県では未履修扱いだ」と批判している。
 今回のケースについて文部科学省は「個別の具体的な内容を見てみないと分からないが、総合的学習の趣旨を踏まえず、授業で入試問題ばかりを解かせていたのであればおかしい」としている。 文科省によると、必修科目の未履修が確認された国公私立合わせた高校は全国で663校(11月22日時点)。都は私立14校と都立1校の計15校。                   

◇【用語解説】総合的な学習の時間 平成14年度(高校は15年度)施行の学習指導要領で導入。(1)問題解決能力を養う(2)自己の在り方、生き方を考える(3)教科、科目の知識、技能を総合的に生かす-が狙いで、「国際理解」「環境」「生徒の興味・関心、進路に応じた課題」などを例示している。高校3年間で3~6単位が配当されるが教科書はなく、内容は地域や生徒に応じ、学校で決めるよう求めている。最終更新:12月12日8時0分

Saturday, December 16, 2006

memento mori -またひとつ私たちの手で自由が殺されていく。

覚えておけ、言い訳をするな。「彼ら」をあてにできない以上は。「彼ら」は「私たち」ではないのだから。まったく興味を示してこなかった「私」。口先だけで何もアクションを起こさなかった「私」。電子署名が精一杯だった「私」。議員たちにファックスを送り続けて満足してしまった「私」。国会前の人間の鎖で完全燃焼した「私」。「私」たち一人一人の手で、今日またひとつ、自由が圧殺されていく。戦争への道を切り開いたのは「私」たちだということになるだろう。

「思想の自由」とは冗語である。思想とは自由であり、自由とは思想である。思想という自由を人間のかけがえのない、奪うことの許されない権利と考える一人でも多くの「私たち」と出会うために、堅忍とともに「彼ら」を呼び招き続けること。それが哲学でなくて何であろうか。


教育基本法改正案きょう成立へ 会期18日まで延長 与党調整
12月15日8時0分配信 産経新聞

 今国会の最重要法案である教育基本法改正案は14日、参院教育基本法特別委員会で自民、公明両党の賛成多数で可決された。15日の参院本会議で成立する見通しだが、民主党など野党4党が内閣不信任決議案提出を決めたため、与党は15日に会期末となる国会を小幅延長する方針を決めた。
 教育基本法の改正は、昭和22年の施行以来初めて。前文には現行法にはない「公共の精神」、教育の目的には「伝統と文化の尊重」「わが国と郷土を愛する態度を養う」などが明記された。
 自民党が当初求めていた国を愛する「心」の盛り込みは、公明党との与党協議で「態度」となった。公明党を除く宗教界から要望が強かった「宗教的情操の涵養(かんよう)」については、「宗教に関する一般的な教養」との表現にとどまった。
 現行法10条の「教育は、不当な支配に服することなく」との条文は、教職員団体などが国旗掲揚・国歌斉唱を拒否する根拠とされてきた。改正案にもこの部分は残ったが、「法律の定めるところにより」との文言が追加された。安倍晋三首相は14日、特別委の質疑で「法律にのっとって行われる教育行政は『不当な支配』ではない」と強調した。
 特別委は14日夕、野党による追加質疑終了後、与党が緊急動議を提出し、採決に踏み切った。野党4党はこれを受け、15日朝、衆院に内閣不信任決議案を提出することを決めた。参院でも首相問責決議案提出を検討しているが、当初予定していた麻生太郎外相の不信任決議案提出は見送ることになった。
 与党は法案成立を確実にするため、会期延長に踏み切る方針。20日に平成19年度予算の財務省原案内示を控えていることから、延長は18日までの小幅にとどめる方向で調整している。参院自民党の国対幹部は14日夜、記者団に対し、15日午前に同党の衆参国対委員長会談を開いた上で、首相と会期延長について最終協議する考えを示した。
最終更新:12月15日8時0分

Wednesday, December 13, 2006

棚から一掴み(大学関係記事スクラップブック)

というわけで、忙しいときは棚から一掴み。


<学術会議調査>研究機関の12.4%が論文などで不正 
12月12日11時32分配信 毎日新聞

 日本学術会議が全国の大学、研究機関、学会を対象に初めて実施した論文や研究資金などに関する不正の実態調査で、有効回答数の12.4%にあたる164機関が「過去10年間に不正行為の疑いがあった」と答えた。02年以降の発生件数が増えており、同会議は「国立大学の法人化など、研究現場の競争激化が影響している可能性がある」と分析している。
 調査は今年5~6月に実施。全国の大学、高等専門学校、研究機関、学会の計2819機関に質問表を送付し、1323機関(46.9%)から回答があった。
 不正行為の疑いは計236件あり、そのうち150件が「不正があった」と認定された。認定された不正の内訳は、▽論文の多重投稿52件▽研究資金の不正使用33件▽研究の盗用31件▽データ改ざん5件▽プライバシーの侵害4件▽データねつ造3件▽その他22件。論文にまつわる不正が全体のほぼ3分の2を占め、研究資金の不正使用が約2割だった。
 不正行為の疑いの発生件数は01年までは10件前後だったが、02年19件▽03年33件▽04年29件▽05年46件と急増。内容別では、データのねつ造・改ざんや盗用、論文の多重投稿の増加が目立った。
 調査を実施した同会議科学者の行動規範に関する検討委員会の浅島誠委員長は「04年の国立大学法人化の前後で不正が増えたのは、隠されていた事案が表に出たことに加え、研究資金の獲得競争やポストの任期制導入で研究者が追い詰められ、過酷な環境にいることも背景にあるようだ」と話している。【永山悦子】
最終更新:12月12日11時32分


これは経済効率を優先する日本の教育行政の論理的帰結である。

大学夜間部 東海地方で次々募集停止 教育格差拡大に懸念

愛知県議との意見交換会では、県立大の募集停止の方針に対し、学生から反発の声が上がった=名古屋市中区で9月、浜名晋一写す  

 苦学生の象徴「夜学」が次々に姿を消している。東海地方で6校あった大学夜間部のうち、日本福祉大と愛知大、名城大が00年から05年にかけて学生募集を停止した。岐阜大は07年、愛知県立大は09年に募集を停止し、存続するのは名古屋工大の1校だけだ。募集を停止する各大学は「勤労学生の減少」を理由に挙げる。専門家からは「経済的に苦しい家庭に生まれた子供の行く大学がなくなってしまう」と、さらなる教育格差の拡大を心配する声が上がっている。【浜名晋一】

 「働きながら学び、異なる世代の人と机を並べられるのが魅力。廃止を撤回してほしい」。愛知県立大英米学科4年の真野由紀さん(24)は、募集停止の方針を残念がった。先月19日、名古屋市内で存廃をテーマに、学生約10人と県議との意見交換会が開かれ、学生から反発の声が噴出した。昼間、喫茶店でアルバイトをした後、大学に通う松岡浩平さん(21)=3年=は県議に対し、「家計を助けるためにも、学費の安い夜間はありがたい」と強調した。
 同大では主に夜に授業がある「夜間主コース」に996人が在籍する。学費は昼間主コースの半額の約27万円で、ここ3年間の入試倍率は4~5倍と人気が高い。しかし、勤労学生の比率は大幅に低下し、98年度には全体の62.6%と半数を超えていたが、今年度は25%に。関係者は「昼間部の受験に失敗した学生が志望した結果だ」と、夜間部本来の意義が失われている現状を指摘する。このため、県は「勤労学生に高等教育を提供するという夜間大学の本来の趣旨から逸脱している」として、今年3月に募集停止を決定した。
 一方、04年度に夜間部の募集をやめた愛知大。同市東区の車道キャンパスには授業が始まる夕方になると、学生が続々と登校する。定員400人に対し、286人が在籍。法科大学院進学を目指して法学部に通う女性(40)は「大学教育は社会人にも開かれるべきで、社会人が通える夜間部を廃止するのは間違っている」と主張する。
 だが、定員割れもあって、多くの学生の関心が薄いのも現実だ。4年の男子学生(22)は「働きながら勉強したいという人は減っているし、廃止は時代の流れでは」と冷静に話す。
 文部科学省によると、夜間部のある大学は全国で79校。99年には104校あったが、7年間で25校が夜間部を廃止した。

 教育関係の著書も多いルポライター、鎌田慧さんの話 勤労学生の排除は教育の機会均等の理念に反する。少数でも受け皿の保証をすべきだ。エリート養成を進める一方、広く学業の機会を認めないのは教育格差の拡大につながる。(毎日新聞) - 10月14日17時12分更新


<科研費>9大学で不適切経理10億円超 会計検査院が指摘

 文部科学省が交付する科学研究費補助金(科研費)を巡り、東京大など九つの国立大学で、研究用に購入した物品の納品書の日付が、業者側に残った日付と大幅に異なる不適切な経理を行っていたことが、会計検査院の調べで分かった。日付が1カ月以上異なっていた納品書の総額は10億円を超え、文科省は、1年以上ずれていた6大学の計約2000万円分について、補助金適正化法に基づき返還させた。また、私立大学も含めた全大学に対し、納品検査の徹底を通知した。

 科研費は独創的・先駆的な研究を発展させる目的で、文系・理系や基礎・応用を問わず、あらゆる学術研究を対象にした政府の研究資金で、06年度の文科省分の規模は総額1895億円。
 検査院の調べでは、9大学で注文した物品を業者が大学に納入したものの、事務担当者の確認が遅れたため、業者側と大学側で、それぞれ保管していた帳簿類の納品日付にずれが生じた。うち約2億円分については、大学側の納品が年度末の3月31日を越え、補助対象の翌年度になっており、文科省の補助条件に違反した状態になっていた。さらに約2000万円分は、研究者が1年以上前に納品があったにもかかわらず、大学側に届けていなかった。
 ただ、研究費の私的流用やプールなどといった不正行為はなかった。
 文科省学術研究助成課は「公務員の定数削減の影響で、事務スタッフの減少が納品を確認する体制の不備につながった。今後、納品検査を徹底させ再発防止したい」と話している。
 科研費を巡っては昨年、慶応大医学部教授ら4大学の研究者らが、実験用動物などの架空購入などで、総額約8900万円の不正受給を検査院から指摘された。このほか、別の研究費を巡っても今年、早大理工学部教授の不正受給が発覚している。【斎藤良太】(毎日新聞) - 10月1日3時11分更新

Tuesday, December 05, 2006

グレゴリオ『純粋理性批判殺人事件』

旅の本。8月末日、羽田空港にて、機中読書・バカンス読書のため、マイケル・グレゴリオ作『純粋理性批判殺人事件』(角川文庫、2006年)の上巻を、巷で話題沸騰であるらしいdeath noteという漫画の最終巻とともに購入。原題は、Critique of Criminal Reason。『犯罪理性批判』とでも訳せば、サルトル『弁証法的理性批判』に始まり、ドゥブレ『政治的理性批判』を経て、スローターダイク『シニカル理性批判』に至るカント・パロディの系譜に(かすかに)連なることが容易に想起されるわけだが、一般読者向けにはたしかにこの邦題がいいだろう。

表題から察するに、名探偵カントか、天才的犯罪者カントが登場するのであろうという見込みであった。背表紙によれば、「世界中の出版エージェントの度肝を抜いた大型新人デビュー作、壮大な歴史ミステリ!」であるとのこと。遅読の私も、二三日で読了。

別にどうということのない本なので下巻を買わずにいたが、やはりなんとなく気持ちが悪いので、最近下巻を購入。堅忍の一字とともにやはり数日で読了した。「唯一の手掛かりが導くありえない真実」という帯の文字は先の触れ込みに比べれば食指をそそるが、しかし内容に適合したものとは必ずしも言えない。

カントの「根元悪」(radikale Böse)の概念を「あらゆるものの中で最も極悪非道なもの。冷酷な殺人。動機のない殺人」(下・139頁など)と結びつけるという発想自体は悪くない。カントが探偵なのか犯罪者なのか最後まで分からないというプロットも悪くないと思う。にもかかわらず、読後感を正直に言えば、本書を人に薦めようとは思わない。なぜか。

結局本書をつまらないものにしているのは、作者の皮相なカント理解である。カントが探偵なのか、犯罪者なのか、あるいはそれ以外なのかはここでは重要ではない。本書の舞台は1804年2月のケーニヒスベルク。したがって登場するカントは最晩年のカントである。問題は、従来のカントを「人間の肉体的および精神的世界を、論理という手段で定義するために一生を費やしてきた」(下・57頁)哲学者と捉え、晩年のカントを老衰や狂気によるそこからの逸脱ないし成熟と見る主人公のカント像がまったく魅力的でない、という点にある。
しかし、彼はおだてられなかった。癇癪を爆発させ、目をぎらつかせ、両手を激しく振り回した。「いかれたカント、と不埒な連中はわしのことを呼んでいる。精神と魂を堅苦しい理論体系と不変の法則の世界に閉じ込めたというのだ。大学での最後の日々は耐えがたかった。実に屈辱的だった。あんな処遇をされたことは、これまで一度もなかった。苦悶に耐えていたのだ!」感情が激して、カントの目はぎらついていた。声は怨念でかすれていた。彼の唇からもれた恨みのこもった笑い声には、ユーモアのかけらもなかった。「やつらは大馬鹿なのだ!非現実的な夢想者…わし一人で計画を立て、実行できるとは想像もできないのだ。連中にはわからんだろう、美しさが…」(下・134-135頁)。

グレゴリオ的カントの言う「美しさ」が探偵的なものであれ、犯罪者的なものであれ、このような取り乱した場面は必要なかったのではないか(カント時代の大学については、下記2002年10月14日の項参照)。性格の複雑さを見せるのはいいのだが、それを老齢や時代状況の変化のせいにするのは安易に過ぎるということだ。

晩年のカントが聖書的伝統に準じて弱い人間の魂を「曲がった木」(下・138,140頁)と見た、というのはよい。しかし、それを「人と人の関係では論理は通じない」(同上)などという凡庸な一言で片付けてしまっては、《道徳的カントから探偵的あるいは犯罪的カントへ》という移行の両側が―いわゆる批判期までのカントも晩年のカントも―色褪せて見える。

「いや、グレゴリオの描写はもう少し微妙だ」と言う人もあるだろう。実際、カントの発言が魅力的に見える場面も確かにある。だが、カント「最後の著作」を主人公が破いて川に捨てる場面を見る限り、作者がこの論文の「書き手」がカントでなかったという事実を最大限利用しなかったこと、ひいては哲学者カントの何も理解しなかったことは残念ながら明らかである。

翻訳は読みやすかったが、一点だけ。下巻285頁の《カント教授なら「至上命令」だといっただろう》というのは、原文を確かめたわけではないし、最近出た岩波版全集の訳語も知らないのだが、「定言命法」としたほうがよかったのではないだろうか。

道徳的カントから探偵的あるいは犯罪的カントへという移行に豹変を見るのではなく、むしろ、それまでのカントの思索の「論理的」帰結として、『実践的見地からする人間学』――これは1798年、カントが生前自らの手で刊行した最後の著作である――刊行と並行して、『犯罪的理性批判』の実践(執筆ではなく)が行われていた、といったストーリーのほうが少なくとも私には興味がもてるような気がする。要するに、pathologischという語のカント的用法に着目することで、リゴリズム道徳哲学の極北と見なされていた『実践理性批判』の只中に享楽の論理を見て取ったラカンの「サドとともにカントを」(Kant avec Sade)のほうが、はるかに『犯罪理性批判』の名にふさわしいのではないか、ということだ。

ちなみに、帯には「呪いと理性が同居する稀有な時代を精緻に描く、この夏のミステリ決定版」という文句もある。フリーメーソンや黒魔術、あるいは錬金術や動物磁気のことを念頭においての台詞だろうが、心理学や精神分析、社会学やシステム論、「マイナスイオン」や「トキソプラズマ」だって、百年後にどう言われているかは知れたものではあるまい(2002年10月19日の項)。細木某や江原某の流行る日本については何をかいわんや、である。呪いと理性は、 この意味では、あらゆる時代に同居しているのである。

カントについては、ドイツ語訳も出ているこちらのほうが圧倒的に面白いので、お勧めしておきたい。紹介はいつものごとく中途半端で終わってしまっている。
ボチュル『カントの性生活』(1)2002年1月2日の項
ボチュル『カントの性生活』(2)2002年1月12日の項
ボチュル『カントの性生活』(3)2002年10月13日の項
ボチュル『カントの性生活』(4)2002年10月14日の項
ボチュル『カントの性生活』(5)2002年10月17日の項
ボチュル『カントの性生活』(6)2002年10月21日の項

Monday, December 04, 2006

時間をかけて(efficacité du temps)

きちんとお答えしなくてはと思いつつ、忙しいとそういう義務感が負担になって余計に筆が重くなるという悪循環に陥ってしまいました。これではせっかく重い腰を上げて、ひとまずコメント欄を限定的に開放した意味もないわけですが…。「投瓶書簡」のような感じで気長にお願いします。お便りには目を通しておりますので。



制度的な努力は静かに進行している。ちょっとしたトラブルもある。年かさの人であれ、誰に対してであれ、もっとゆっくり時間をかけて、十分に意を尽くして説明していかねばならないと繰り返し自分に言い聞かせる。

研究面での努力は、これに比べればもっとフィジカルだ。やらねばならないことはすべて技術論的なレベルで解決できることである。マルクスの言うように、人間は解決できる問題しか(本当の意味では)提起しないのである。

私のような人間でも悩み相談などを受けることがあるが、そういうときいつも困ってしまう。たいていの場合、彼らの中で答えはすでに出ており、私にはアドヴァイスの仕様がないように思われるからである。「研究が進まない」「どうすれば良い論文が書けるんでしょう」云々。こういう質問はたいていの場合、偽の問題であり、問題のすり替えである。偽の問題に悩まされ、疲労困憊し、それを振り払うのに時間と労力を費やす(その実、それは彼らが発明したものなのだ)ことが彼らの真の目的なのであり、これをフロイトは「疾病利得」と呼んでいた。彼らは問題を精神的なものにし、深刻にとる。pathétiser, psychologiserしすぎるのである。

『二源泉』の人格性概念を、ベルクソンが用いている声という形象を通して分析してみようという趣旨の論文をひとまず書き上げた。ハイデガーによるカントの人格性概念分析と比較したり――和辻は1931年の段階でこの分析を取り上げて論文に組み込んでいる。やはりあの当時の即応力には並々ならぬものがある――、パスカルのさまざまな習慣論を持ち出したりと、いつもどおり好き放題である。今、この論文の細部を詰める作業を始めている。

というわけで、いつも斜め読みの『パンセ』とともに、斯界の泰斗・塩川徹也氏の『パスカル『パンセ』を読む』、岩波セミナーブックス80、2001年を読んでいる。開始数頁でいきなりつまづく。「着手」って、チェスのmoveのこと(ほぼ同義)だったのね。

Thursday, November 30, 2006

感謝知らず-高潔の哲学史(取るに足らぬ序文)

sympaな人はいくらもいる。magnanimitéをもった人はなかなかいない。フランス語のmagnanimeの語源であるラテン語のmagnanimusは、magnus(大きい)とanimus(心)からできた語である。寛大・高潔・高邁・高貴・広量・雅量などと訳される。

純潔を保つために人を遠ざけ、あるいは「孤客(ミザントロオプ)」であるがゆえに否応なく保たれた純潔が腐り落ち、傲岸不遜に堕する、そういった人々のことをいっているのではない。純潔と高潔は異なる。マニャニミテは、泰然自若とも訳せるはずだ。

人と交わることを怖れず、人の輪の中にあって高潔を保ち、どうしても空の高さを感じさせずにおかない人。ごく稀にそういう人に出会うと、性別はどうあれ、心がときめく。少し時代がかっているかもしれない、でもそれがなんだろう。

Sed omnia praeclara tam difficilia, quàm rara sunt.

とスピノザも言っているではないか。私自身も、常々magnanimeでありたいとは思っているし、またそのように振る舞うよう努力もしているのだが、修行が足りないのでずいぶんつまらないことで腹を立てることもある。

もっとも、《いろいろと親切に教えてあげてもなんとも思わない》とか、《情報をしれっと利用した挙句にあたかもはじめから自分は知っていたと言わんばかりのポーズで対抗意識をむき出しにしてくる》とかいうくらいはかわいいもので、全然許容範囲である。

パリのとある友人があるテーマについてゼミを開くことにしたと予告を送ってきたのだが、そこに並んでいる参考文献は一年前なら彼の知らなかったものばかりだ。たしかに悔しい気持ちもないとはいえない。だが、この悔しさはフランス人の彼がパリで当該テーマについてセミナーを開くという事実に対する私の地政学的な関心(羨望?)に由来するもので、彼のそういう性格自体への怒りに由来するものではない。たぶん彼は私に情報提供を乞うたという事実すら忘れている幸福な人なのだから…。まあ、そういう人は世界中どこにでもいる。

自分のmagnanimitéを本当に試されるのは、いわれのない攻撃を受けた場合ではあるまいか。火のないところに煙は立たぬという。しかし、マッチ一本から大きな山火事に至るには、相当乾ききった心か、苛立ちの大風という下地がなければならないはずである。なんでも悪く取る用意のある人に対してどう毅然とかつ穏やかに対処できるか。哲学者たちの声に耳を傾けてみよう。

ちなみに、「取るに足らぬ序文」とは、キェルケゴールのドン・ジョバンニ論である「直接的エロス的諸段階、あるいは音楽的-エロス的なもの」(『あれか、これか』第一部第二論文)序文の表題である。ウェブ上ではデンマーク語で読むこともできる

Tuesday, November 28, 2006

混線、混戦-戦場で友に送る手紙

最近年齢の壁やfameないしstatusの壁にこつんと当たる小さな事件が幾つか起こってきている。今自分が置かれている状況と自分にできること、あるいは自分が実現したいと思っていることの間に開きがあるからだ。しかし、それでもなお、弛まず進んでいきたいと願い、日夜努力を続けている。

そんな中で、温かい声を掛けてくださる方々がいてくださって、精神的にとても助かっている。自分の研究のことは自分でやるほかないという以上に、単に自分の事柄なわけだが、状況を変えていこうとすると、求められるのはそういった事柄以上のものだ。しかし、自分の仕事と決して無関係ではない。見知らぬ人が他人を判断する基準は仕事しかないのだから。

他方で、物見高く見ているだけという人々もいる。自分は知らないよ、と。おこぼれには与るけれど、と。 ある程度優秀な学者も含めて、普通はそういうものかもしれない。たぶん「羊たちの沈黙」はいつの時代にもある。彼らはいつも小声で文句を言いながら付き従う。私の努力が実を結ぶのはまだまだ先のことだろうが、そのとき彼らは、今私が時代状況に感じている閉塞感やそれを突破するために払っている努力や犠牲の大きさなど一顧だにせずに、結果だけを平然と受け取るだろう。彼らはいつも小声で文句を言いながら誰かにつき従うだけだからだ。あてにできるのは、研究レベルの努力と制度的なレベルの努力という「両面作戦」で行動を共にしてくれる友人たちだけだ。

しかし、「日本は知的砂漠である」という意見には反対である。教育国家と文化国家の違いも弁えないそのような放言にはルサンチマン以上のものを認められない。言い放つだけならとても簡単だとも思う。大切なのは内側から(繰り返すが研究レベルだけでなく制度的なレベルで)少しずつでも変えていくことだ。そのような努力抜きの「鋭い批判」などに何の意味もない。

aboutに掲げているが、大事なのは嘲笑することでも、慨嘆することでも、呪詛を投げつけることでもなく、理解しようと努めることである。真の理解はやがていつの日か真の変革につながる。

Thursday, November 23, 2006

Master Mundus追加情報

専用サイトが設置されたと連絡がありました(11月1日の項に追記)。すでに複数の日本人に連絡が行っているようなので、今回はメールでは流しません。もしかすると新たな情報が追加されているかもしれませんので、興味のある方はチェックを、周りに興味のある方がいらっしゃりそうな場合にはアナウンスをお願いします。hf

Sunday, November 19, 2006

予行演習にゼミを活用する

現在、「《大いなる息吹…》 ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』における呼びかけ・熱狂・情動」(仮)という論文を執筆中である。

『二源泉』に現れる《声》《火》《道》のイメージを丹念に追いかけることで、「開かれたもの」(開かれた道徳・動的宗教)のダイナミズム、創造的行動の論理の構成要素、すなわち《呼びかけ》《熱狂》《情動》の諸特徴を明らかにするとともに、哲学研究において隠喩をたどること、テクストの声に耳を傾けることの重要性を強調する――といった趣旨である。

先々週、h大学aゼミで、先週t大学sゼミで、それぞれ予行演習として発表させてもらった。自分の考えをまとめるのにこういった形で親しい先生方のゼミを使わせてもらうのが好きだ。勝手知ったるアットホームな雰囲気で、けれど真剣勝負で発表する。

まあ、往々にして最初はアイデアをたくさん詰め込んだまとまりのない発表で、聞いていただく方々に申し訳ないくらいなのだが、それでも徐々に形になっていくのだから、やはり発表はしてみるものだと思う。人それぞれ自分なりの仕事のスタイルがあるから、別にお勧めするわけじゃないけれど。

発表はたいてい同じ反応。最初に哲学科で聞いてもらうと、たいてい構成がクリアでないと言われるので、ここで大枠を明確にするよう努める。次に仏文科で聞いてもらうと、専門ではないので難しいと言いながら、けっこう細かい点をいろいろと突っ込んでくれるので、ここで微調整する。

先週の発表では読み上げ原稿を完成できず、三分の二程度はアドリブで喋ったのだが、そのほうが圧倒的に分かりやすくて面白かったとほとんど全員言っていた。喜んでいいのか悲しむべきなのか。

水曜が締め切りなのに、まだ最終形が見えない。『二源泉』を読んだことのない人にも分かるように丁寧な序論を書いたら、それだけでかなりの分量になってしまったので、ひとまず《声》《火》《道》で三分割することに決めた。というわけで、今回は「(上)《声》-呼びかけにおける人格性の問題」を扱う。査読側がなんと言うか分からないけれど…。

Friday, November 17, 2006

近況

このへんで、帰国後の仕事ぶりをまとめておきます。まず研究発表。

1)9月9日(土)日仏哲学会2006年秋季研究大会(於:法政大学)にて、「ベルクソンと目的論の問題-「苔むした」生気論?」と題した研究発表を行なう。

2)9月18日(月)第20回ベルクソン哲学研究会(於:学習院大学)にて、「場所の記憶、記憶の場所-ベルクソンとメルロ=ポンティ」と題した研究発表を行なう。

3)10月28日(土)日本フランス語フランス文学会2006年秋季大会(於:岡山大学)にて、「唯心論(スピリチュアリスム)と心霊論(スピリティスム)-ベルクソン哲学における催眠・テレパシー・心霊研究」と題した研究発表を行なう。

1と3はそれぞれの機関紙に掲載されるよう、これから論文化を鋭意行なっていくつもりですが、2は機関紙がないのでどうしたものか。

次に、論文(掲載決定済み・現在投稿中・投稿予定)ですが、

4)カッシーラーのベルクソン『二源泉』に関する長い書評(というより研究論文)の仏訳、および、それに付した私のこれまた長い序文が『ベルクソン年鑑』(PUF)に掲載されます。近日校正刷が送付されてくる旨(ようやく・・・)連絡がありました。

5)「哲学の教育、教育の哲学」(仮)と題するエッセイを某所に投稿中。これは厳密には私の研究分野ではありませんが、興味をもっている主題の一つなので、これまでに書きなぐったものを出してみました。まったくの床屋政談ですが、どうなることか。

6)大学紀要に「《大いなる生の息吹…》 ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』における呼びかけ・情動・熱狂」と題する論文を投稿予定。現在鋭意執筆中です。

これからの執筆計画。

7)ベルクソンにおけるメタファーやアナロジー(修辞学の問題)に正面から取り組んでみたい。これは来年春の仏文学会向け。

8)来年の百周年トゥールーズ篇では、もう一度「目的論」の問題を取り上げなおし、いっそうの深化を試みるつもり。あるいは技術論をやり直そうか。

9)最後に、問題の大論文。これらと同時並行的に。というか、これらの仕事は全部、大論文のélaborationの過程なわけですが。

Monday, November 13, 2006

テクストの聴診-杉山直樹『ベルクソン 聴診する経験論』

ネットでフランス哲学に関するラジオが聞けるという話をした。朗読や講義のCDがあるという話もした。もちろん重要なのは有名人のお話(師のお声)を謹聴することではない(2005年3月2日の項「追っかけは追っかけ(『異邦人のまなざし』余談2)」)。聴くという体験を通じて思考を紡ぐことが何をおいても重要なのだ。

「聴く」と言えば、日本のベルクソン研究者一同が待望していた杉山直樹氏の著作がこの10月に刊行された。その名も『ベルクソン 聴診する経験論』(創文社)。カバーに印刷された仏語題名は、

Naoki SUGIYAMA, Bergson, auscultateur de l'expérience, Sobunsya, 2006.

となっている。いずれ仏訳していただきたいものだ。書評はまた別の機会にして、本書の印象を一言で言えば「王道を行く」という感じ。私はしばしば杉山氏を「日本のヴォルムス」と呼ぶのだが、そのような直感は間違っていなかった、と本書に目を通しながら思った。

王道にもいろいろあるので、守永直幹氏の著作『未知なるものへの生成 ベルクソン生命哲学』(春秋社、2006年)も、個人的には「王道」路線だと思っている。ファイティング・ポーズが勝っているので、分かりやすく言えばマイク・タイソン、より正確な比較対象を探せば輪島功一ということになろう。杉山氏は、一見より穏やかだが、舌鋒は鋭い。分かりやすく言えばモハメッド・アリ、より正確な比較対象を探せば具志堅用高ということになる。プロレスで分かりやすい例を探せば、猪木と馬場となる(ちなみに「猪木スタイル」必ずしも「ストロングスタイル」ならず、と言っている人がいるが卓見である)。

ちなみに、檜垣立哉氏の『ベルクソンの哲学 生成する実在の肯定』(勁草書房、2000年)は、入門書と研究書の中間くらいという位置づけだと思うが、チャーミングな魅力に満ちているので、『酔拳』のジャッキー・チェンといったところであろうか。千鳥足だからと打ちかかったらとんでもない目に遭う。彼の研究スタイル全般に言えることだが、やりたい放題に見えて、けっこう計算されているのだ。

話を元に戻せば、ベルクソンを「経験の聴診者」と定義する杉山氏自身のアプローチが実にベルクソニアンである、つまり「聴診的」である。
[ベルクソンの文体は]流麗なリズムをそなえた繊細な文体、などと言われはするし、確かに目の前の数行単位で読む限り、彼の言葉はそう言われもしよう心地よい滑らかさを有してはいると思うが、しかしそうしたフレーズたちが構成する全体はというと、それは私には、実に見通しの悪く、ぎこちない、今にも崩れそうな集塊のように映る。ノートを取り、用例集を作り、自前のレキシコンを作成し、つまりは「哲学書」を前にしての通常の読みの作業をするのだが、こんな難物はない。[…]このような哲学を「明晰」だの「端正」だの形容する人々が少なくないようだが、きっと彼らは、ベルクソンのテクストを本当に自分で読んだことがないのだ。

引用の仕方でその人がテクストを読むという行為をどう考えているのかは如実に分かる。explication de texteの伝統のない場所では、読むという行為にあまり注意が払われないようにも思える。引用とは添え物ではないし、偉大な哲学は論理の骨組みだけに解体されはしない。

というわけで、本書にはいくつかの偏りが生じている。本書は「ベルクソン哲学」というものの包括的な注釈書とはなっていない。参照される著作のページリストを作れば、どこが素通りされているかは明らかだと思う。私としてはまず、テクストとして前述の「異様さ」を強く孕むと感じられた箇所を中心に読解を試みたつもりである(ある意味、この取捨選択が本書の一番大きな主張だとも言える)。[…] このように一定のテクストの読解だけにこだわる態度がある種の顰蹙と嘲笑の対象になることは分かっているが、今の私は、騒がしい「アクチュアリティ」にとびつくよりもむしろその種の地味な作業を続けることにこそ意義があるように感じている。

テクストを前にすればごく当たり前の態度をこのように「偏り」と呼ばせ、いくつかの特権的テクストを執拗に読解し続ける態度が「ある種の顰蹙と嘲笑の対象になることは分かっているが」と予防線を張らせずにおかない場所において、哲学のテクストを「読む」とはいったい何でありうるのだろうか?

この「読む」ことに関する無関心はまた、「読みあげる」ということに関する無頓着と切り離せない関係にあるように思う。現在の哲学系(思想系ではない)の発表はたいがい原稿を事前に配布しそのまま読み上げる形式のものだが、形式としては実に退屈で工夫がない。原稿を配るのなら、わざわざ読み上げる必要はないではないか。

もちろん、目の前にテクストがあったほうが親切だという考えは分からないではないし、一字一句を点検できるという意味で可能性としては緻密な議論が展開できるようになっていることは認めるが、テンションが如実に下がることもまた事実だ。これでは、耳で話を追うという重要な思考の体験がまったく蔑ろにされていると思うのだが、どうだろうか。思考の刺激ということだけから言えば、いっそ「4分33秒」のケージよろしく発表時間中ずっと沈黙を守っていたほうがいいのではないかと思うくらいだ。

海外では数え切れないほど発表を聴いたが、読み上げ原稿を配布する場面に出会ったのは、外国人相手とか自分が慣れない外国語で話すとか、そういう例外的事態だけである。もちろん、何も配らないことが多いフランス流のやり方が完全だというのではない。おそらく両方の中間くらい、各項目のレジュメ+引用文がいいのではないか。

「読む」ことへの無関心、「読み上げる」ことへの無頓着は、結局のところ「聴く」ということに対する不感症に通ずる。何度でも言おう。耳からはじめること、哲学の歌を聴け。

Saturday, November 11, 2006

哲学の歌を聴け(追加情報)

あがるまさん、「ファンレター」(!)、ありがとうございました。読みやすいシンプルな外観さえ整えば、あとはあまりデザインにこだわらないという私のような機械音痴にとって――この怠惰があまり快いとは言えない事件を惹起したりもしましたが――、ブログは大変便利な道具です。

今のところ直接お顔とお考えを存じ上げない方とブログ上で交流させていただくことには消極的ですが(したがってこういった形でいつもお返事を差し上げられるか分かりませんが)、いただいた貴重な情報は皆で共有できればと思いますので、これからもぜひご教示くださいませ。

*あがるまさんのメールより一部抜粋
ウィーン大学の講義や講演(の一部)はhttp://audiothek.philo.at/modules.php?op=modload&name=Downloads&file=indexで聞くことが出来ることを知りました。大御所E.Tugendhatの2002年の動物と人間の違ひについての2つの講演などもあり、内容は余り面白くもなささうですが、話し方は明確で聞き易いですね。その他の大学はどうなつてゐるのか知りませんが、Toulouse大学の資料の頁は充実してゐました。ところでパリのF.Dasturの許で(10年くらい前に)九鬼周造についての論文を書かれた方の消息をご存知ですか?

こういった「耳」の情報、とてもありがたいです。最近はいろいろな音源がネット上にアップされていて、こういったものを「哲学耳」のトレーニングにどんどん活用していくべきだと思っています。九鬼の方は存じ上げません。DasturはパリⅠのあと、今は亡きジャニコーの誘いでニース大学に移り、近頃退官したはずです。私は彼女を見るといつも「やんちゃで憎めない精悍なドラ猫のようだ」と思います。彼女は私と会うといつも(たぶん日本人なら誰にでも)「デリダとヘーゲルについてすごい博論を書いた日本人がいるんだけど、知ってる?どこの出版社も出してくれないのよ」というのですが、そのたびに「名前なんだっけなあ」と言ってました。覚えといてよ、っていう(笑)。日本人の名前って彼らには難しいですからね。

Thursday, November 09, 2006

『創造的進化』百周年トゥールーズ篇

トゥールーズ大学のサイトに告知されてしばらく経つから、もう日本でも伏せておく必要はないだろう。来年はベルクソンの『創造的進化』が刊行されてからちょうど百年目にあたり、世界各国でそれを祝う催しが企画されている。トゥールーズ大学でも来年2007年の4月にAtelier Bergsonを開こうという企画が持ちあがり、私にorganisateursの一人になるよう要請が来た。

まだろくにキャリアもスタートしていない人になぜ、と驚いてはいけない。フランスではコロックを仕切るのは、どちらかと言えば、将来を見込まれた(?)若人たちのやる仕事なのである。フランスの御大たちはむしろ自ら率先して発表をしたがる。これは齢を重ねるほど落ち着いて「差配」仕事だけを引き受けたがる風土とはかなり異なる。

今回の一件で本当に驚くべきは、まだろくにキャリアもスタートしていない「外国人」になぜ、ということである。これには正直私も驚いた。それとともに、人種の分け隔てなく人を見る目を持った(?)co-organisateursに驚嘆もし感謝もしている。と同時に、冷静に見れば、これは「アジアを引き込む」という遠大な戦略のごくわずかな一端なのだとも思う。

それはともかく、今回の私の望みは、1)『創造的進化』に関する日本最強布陣をつくること(もちろんフランス語ができることが最低条件である)、2)フランス側に旅費を出させること、であった。二つ目は些細な金銭問題のようだが、決してそうではない。フランス側にほぼ全額出してもらって日本人哲学者チームが丸ごと呼ばれたことが、果たして過去何度あったか?

日本人がフランスに行って発表したといっても、たいていの場合は個人招待が限度、グループの場合は持ち出しが多い。しかし相手の誠意、こちらに対する評価は、そういう部分に表れるのである。望みは十分に叶えられたので、とても満足している。

このブログを読んでくれている数少ない私の友人たち――しかし真の知的友情とはいつの時代も稀なものだ。無理に耳目を集める必要はない――にはまだもう少しサプライズがある。いずれここで一番にご報告できればと思う。

Tuesday, November 07, 2006

哲学の歌を聴け-『意志的隷従に関する文言』のCD



フランスやドイツには哲学関係のCDが少なからず存在する。ドゥルーズのものは日本でも(日本でこそ?)よく知られているであろうから、ここでは日本人にとってもっと切実な意味で重要なCDを紹介しておく。切実だという理由はすでに述べたことがあるので、ここでは繰り返さない(2003年8月2日の「意志的隷従と怠ける権利」の項を参照のこと)。

朗読しているドゥニ・ポダリデスは、名前からしていかにもギリシャ系移民の二世ないし三世。私のお気に入りの役者だ。コメディー・フランセーズで「リュイ・ブラース」に出演しているのを見たこともあるし、ブルデューの息子の情けないドキュメンタリーにも友情出演したりと芸の幅は広いが、やはり軽い映画がいい。ガストン・ルルー原作の『黄色い部屋の謎』は誰にでもお薦めできる佳作である。

このCDを出しているテレーム出版社の名前はもちろんラブレーの「テレームの僧院」から来ている。作家・思想家の言語のもつ「音楽性」に注目し、「声に出して読むことは、偉大なテクストを誰の手にも届くものにする」と宣言できるのは、それ以前のフランス知識人たちの地道な努力、歴史の積み重ねがあるからにほかならない。日本の哲学はどうだろうか?「聞くに堪える」だろうか?あるいは、より正確に言えば、思想の重みに堪えて聴き続けようとする聴衆はいるだろうか?



日本でも西田の対談の録音などが残っているようだが、記念館の独占物にしておくというのはいかがなものか。また、西田の主著の録音などは不可能なものか?もし不可能に思えるなら、なぜ不可能なのか?近代日本の哲学がはらんでいる問題の核心には案外そんな素朴なところから接近できるかもしれない。耳から始めること、哲学の歌を聴け。

Sunday, November 05, 2006

哲学に-耳を澄ませば(ネットラジオの効用) 

哲学の祖をソクラテスとするか、プラトンとするか。いずれにしても、哲学と耳の関係は決定的に重要だ。ソクラテスは著述活動より口頭での対話を自らの思考の手段として選んだ。プラトンはそのスタイルをできるかぎりエクリチュールに、すなわち韻とリズムを重んじた言葉に移し変えようと試みた。

日本の西洋哲学研究にはいろいろと大きな問題があるが、その一つに「耳」の問題がある。より詳しく言えば、西洋諸語を聴くことの困難という問題があり、また翻訳日本語で西洋哲学を聴くことの困難という問題がある。



フランスは文化国家であり、日本は教育国家である。フランスにはarteがあり、日本には教育テレビがある。フランスには一流の研究者が最先端の研究成果を自由に発表するコレージュ・ド・フランスがあり、日本には大家が実に行き届いた入門コースで懇切丁寧に教えてくれる放送大学がある。

悪平等社会である日本は「目」新しいものをすぐに取り入れる自由闊達さがあるが、また資本の論理に従ってすぐに忘れてしまうという気風があり、階級社会であるフランスは外来のもの、新手のものをなかなか取り入れないが、いったん取り入れると粘り強く「耳」を傾けるという気風がある。ニュートラルに言えばそういうことだが、殊高等研究に限って言えばそうはいかない。

日本では大衆教育や啓蒙には金を出すので人が集まるが(文化センターやレクチャー・コースの隆盛を見よ!)、金を出すだけではどうにもならない高等研究は遅々として蓄積していかない。建築への意志、文化への意志、すなわち堅固(堅実にして着実)な制度化が欠けているのだと思う。アメリカのそれとかなりよく似た、自由で軽やかで純粋資本主義的な状況下で、日本の人文科学、とりわけ哲学・思想研究は無限の後退戦を強いられている。

このような気風を一朝一夕に変えられるわけもないし、状況を客観的に見れば、そんなことを望むことすら非現実的と笑われかねない。だが、小さなところから始めることは暗い時代の人々にも可能だし、暗い時代にはむしろそのようなところから始めざるを得ない。

France Cultureでは、毎週金曜日に哲学に関する放送「Vendredis de la philosophie」が朝十時から一時間放送される。私たちはそれをネットで聴き、podcastで録音していつでも聴きなおすことができる(Windowsでも)。日本はどうだろうか?日本の哲学は、真剣な哲学・思想研究は、人々の耳に届いているだろうか?

耳から始めること、哲学の歌を聴け。

***

p.s.ラクラウ=ムフのすでに古典となった『ヘゲモニーと社会主義者の戦略』に関するバリバールらとのCollège International de Philosophieにおける討議もよろしければどうぞ

Wednesday, November 01, 2006

Master Mundus、あるいは無限の後退戦を戦い抜くこと

数ヶ月前からすでに数人の方にはお知らせしておりましたが、Master Mundusがとうとう本格的に動き出すこととなりました。

Erasmusというヨーロッパの大学間短期留学・単位互換制度はご存知の方も多いと思います。Erasmusは学部レベルですが、それを今度は大学院レベルで長期、それも独仏の哲学・思想研究の少数精鋭に絞ったもの、それがMaster Mundus EuroPhiloです。

詳細は当該サイトを参照していただきたいのですが(専用サイト設置:2006年11月22日追記)、年間2万1千ユーロ(150円換算だと315万円)相当の奨学金を得ながら、二年間で仏・独などの三つの大学で優秀な研究者のもとで研究し、フランス哲学とドイツ哲学両方のスペシャリストを目指す、というものです。この制度に非ヨーロッパ圏からも参加者を募ることがこの度正式に決まった旨、フランス側の代表者であり私の友人でもある
Jean-Christophe Goddard氏から連絡がありました。

一年に全世界(非ヨーロッパ圏)から13人だけ選ばれるという超難関コースですが、教育内容的にも財政的にも恵まれた環境で研究するという経験は、日本の優秀な哲学・思想系の若手研究者にとって何物にも代えがたい財産となることでしょう。

この壮大な実験を見るにつけ、現在の日本の西洋哲学・思想研究には大きく二つの構造的問題があるという事実が浮かび上がってきます。今この話に関係のある限りで簡潔に言えば、一つ目は、哲学研究における語学教育(とりわけ書く・話す)の軽視や早期からのインテンシヴな教育の不在など、「高等教育」という視点が決定的に不足していること、二つ目は、ドイツ哲学とフランス哲学の間に積極的な共闘の姿勢があまり見られず、とりわけ「両刀使い」を育てようとする姿勢がほとんど見られないことです。
Cf. 以前書いたgribouillage「哲学の教育、教育の哲学」を参照されたい。
(1)数の問題 (2005年2月21日)
(2)エリート教育の問題 (2005年5月9日)


私たちの国の問題を他国の新制度によって解決できるなどと幻想を抱いているわけではありませんし、日本人にとって西洋諸語の言葉の壁が大きいことも重々承知しています。ただ、手遅れになる前にその欠を少しでも埋めていくのは現在の大学人、哲学・思想研究者の責務であるとも思っています。人文科学が強いられている無限の後退戦をただ嘆くばかりでは何も始まりません。若手の優秀な研究者の出現を偶然の産物とするのでなく制度的に促進していくこと、今回のMaster Mundusはそのごくわずかばかりの補完になりうるのではないかと期待しています。

自薦他薦を問いませんが、皆様の周りの優秀な大学院生(来年度から即留学できるので修士終了間際がベスト、博士前半まで)をこの制度にご推薦いただけませんでしょうか?現実問題としましては、フランス語ないしドイツ語のどちらか一つがとてもよく出来(読み書き話す)、もう一つは読める(少し話せる)くらいでよいと思います。仏独の思想を研究対象としていれば、どの学科に所属していても問題はありません。

フランスの大学に応募される場合、いろいろとご相談に乗ることも出来るかと思いますので、どうぞ私のほうまでお気軽にご相談くださいませ。

Wednesday, May 31, 2006

最後の発表

とうとうフランスで最後の発表が終わった。これからもフランスで、あるいは海外で発表する機会があるといいけれど、ともかくも「武者修行」の一階梯としては終わった。

いろんなところで発表してきた。フランスのニース、イタリアのチッタ・ディ・カステッロ、ノルウェーのベルゲン…。リールでは小さい発表も含めれば、かなりやった。

もちろんやりのこしたことがないと言えば嘘になるけれど、後悔はしていない。自分なりにできることはやってきたと思う。

(サッカー選手の大久保が帰国したそうだけれど、彼のも含め、「欧州組」のインタヴューにはいつもいろいろと考えさせられた。)



最後の発表は、2006年5月17日水曜日。午後5時から7時まで、マシュレ・ゼミで行われた。与えられた発表時間は一時間、質疑応答が一時間。

外国人や新参者の作法は与えられた規則を完璧に守ることであり、望むらくは、それでいて、内容において、大方の聴衆の予想をいい形で裏切ることである。

バリバールなどの「権威」筋は悠々と与えられた時間をオーバーして喋るが、若手や新参者がそれをやるのは好ましくない。発表や講演は聴衆あってのものであり、聴衆の注意・忍耐力は若手や新参者に対してそれほど寛大ではないからである。もちろん発表の内容が格段に面白ければ別だが、それにしても限度はある。

数週間前にバリバールがマシュレ・ゼミに来たときは、1時間50分喋った。おかげで質疑応答がほとんどなかった。私が唯一の質問をする特権を得たのだが、まともに発展させられなかった。友人たちはそれでも「名人」のお話を長時間拝聴できて至極満足そうだったけれど。

私はちょうど一時間きっかりで終えた。これは少し後悔している。あと五分から十分延ばしてでも、具体例を交えて、論点を補強すればよかった。マシュレ・ゼミの常連でもあり、ある程度発言を認められてもいるので、そのように振舞うことは、発表の内容を豊かにするという意味でも、むしろ望ましいことであったろう。



発表後の質疑応答では、まずマシュレがこれまでの6年間を振り返り――私の6年間はまた、マシュレ・ゼミの6年間でもあった――、私の努力をずいぶん賞賛してくれた。これは本当に嬉しかった。なぜなら、彼こそは私がどのような努力をしてきたかを最もよく知る人だからである。

ゼミの最終回(5月24日)が終わった後の打ち上げ(仏語でpotという)で、マシュレは乾杯の音頭をとって、こう言った。「この乾杯は、6月に帰国してしまうわれわれの友人hfに捧げたいと思います。彼はこのゼミに本当に多くのものをもたらしてくれました」。

むろん彼だけではない。このゼミに定期的に参加している誰もが、私の努力と進歩の軌跡を知っている。私はこのリールで少しずつ友人の輪を広げてきた。遊び友達のことを言っているのではない(ここはそれを語る場ではない)。仕事のレベルの話をしているのである。この「知的な友情」はいくつかの形で花を咲かせた。これから実をつけていくだろうか?

それはともかく、質疑応答はいつの日かやってくる諮問を想定した形で行われ、その意味でためになった。主に、「ベルクソンと現象学の関係」「ベルクソンの傾向概念とシモンドンの個体化理論の関係」などが話題にあがった。これについてはまた後日。



発表後、ゲストスピーカーの恒例行事となっているマシュレとの晩餐に連れて行ってもらう。とはいっても、派手嫌いのマシュレのこと。リヨン料理を出すこじんまりしたレストラン(というか大衆食堂?)で、なごやかに食べ、しばし歓談にふけった。これも思い出になるだろう。



テキストは推敲を経て、昨日、研究グループ"Savoirs, Textes, Langage"のサイトに掲載されたので、ご興味のある方はどうぞ。

Friday, May 12, 2006

騎馬槍試合か、ボクシングか(質疑応答の作法)

発表が来週に迫ってきている。毎回、発表のたびに、課題をもって取り組もうとしている。少しでも内容をより豊かなものにしようといった一般的な注意点だけではなく、「めりはり、緩急をつけよう」とか、「聴衆の反応を見て難易度の調整をできるようになろう」とか。ほんのちょっとしたことなのだけれど、これがフランス語だと、日本語でよりもさらに難しくなる。

聴衆とのアイコンタクト以外にも大事なことはある。自分が発表者ではなく、質問者である場合。コロックのような場所での質問と、ゼミでの質問はやはり同じような仕方でするわけにはいかない。それぞれのTPOを考えつつ、掛け合いというか間合いを図るのが難しい。フランス語だから難しいというのもあるが、それぞれの分野の特徴のようなものを頭に入れておかないといけないので余計に難しいのだ。

私はしばしば「フランス哲学の質疑応答はjouteのようなものだ」と言う。joute(ジュート)とは、中世の騎馬槍試合のことである。この試合の目的は、相手をむやみやたらに突き殺すことにあるのではない。高度に儀式化され、形式化されたこのゲームの目的は、いかに優雅に相手の急所とされるところに軽く触れて見せるか、というところにあるのである。

フランス哲学者の保守本流たちの議論は、素人目には勝負がついていないように見える。お互いに優雅に称え合っているだけのようにも見える。しかし実際には、大抵の場合、勝負はついているのである。

科学哲学や古代哲学あるいはphilologieの分野では、事情はまったく異なる。これはボクシングである。すなわち、いかに的確に最も強い力で相手を打ちのめすことができるか、が重要なのである。しかし、さらに重要なことは、ボクシングはストリート・ファイト(喧嘩)ではない、ということだ。科学哲学者たちは「お前の言ってることはナンセンスだ」と言わんばかりの猛攻撃を仕掛けあうが、よほどのことがないかぎり、議論が終われば、後は仲良く飲み仲間になる。フランス哲学のほうは、飲み会のほうも限りなく社交界の縮小再生産である…。あんまり具体的に書けないけどね(笑)。

Tuesday, May 02, 2006

Penseurs japonais(日本の思想家たち)

店頭で見て驚いた。



今年の3月に発売になった本らしい。
http://www.lyber-eclat.net/nouveautes.html#kassile1

幾つもの懐かしい顔、よくメディアで見かける顔が見られてよかったし、彼らのフランス語力を知ることもできてよかった。中身は…。

しかし、いずれにせよ、dialogues du commencement ならぬ、commencement des dialogues が必要なことだけは間違いない。まだ始まってもいないのだから。

Wednesday, April 26, 2006

固有身体、身体の所有(身体=技術哲学)

固有である(être propre)とはどういうことか。

あるものに固有であるということは、あるものをしてそのものたらしめている、ということである。内角の総和が二直角に等しいという事実は三角形の本性から演繹されるものである以上、三角形に固有である(être propore)。つまり三角形の特性(propriété)である。

所有物(propriété)を所有(appropriation)するとはどういうことか。

所有の原理とは比喩的・アナロジカルなものであるのか。あるものとそれに固有なものの関係と、所有者とその所有物の関係は相似である、といったように?

何かを所有するという身振り、さらには何かに固有であるという存在様態の奥に潜む人間学、存在論とはいかなるものであるのか。

あらゆる身体の哲学は、実は、この驚くほど単純で、恐ろしいほど神秘的な問いへの応答の試みではないのか。なぜなら身体とは特性(propriété)と所有物(propriété)の間で揺れ動くものだからである。そもそも原理的に切り離しえないもの――だが、これはそれほど自明なことではなくなりつつある――を手に入れるとはどういうことか。

おそらく以上の言述はひどく抽象的なものに見えるかもしれない。サミュエル・バトラーの言葉を引いておこう。

「多様な人種を区分する主なものは、黒人諸部族、チェルケス人、マレー人、アメリカ原住民などの間に求めるべきではなく、むしろ、金持ちと貧乏人との間に求めるべきである。この二つの人種に見られる身体組織の差異は、いわゆる人種の類型間にある差異よりもはるかに大きい。金持ちの人間は、ここから英国へと、行きたくなればいつでも行ける。それに対し、もう一方の人間の脚は、目に見えぬ運命にしばられて、彼らを一定の狭い範囲を越えて運んでいくことができない。

…自分の身体に、いずれかの太平洋航路客船会社の一船室を付け加えられる人は、それができない人よりも、はるかに高度な身体組織にめぐまれているのである。

…見事にあつらえられた一揃いの手足をもつのは、大金持の人間でしかない。われわれは、このうえない科学的厳密さをもって断言することができるのだが、知られうる限り最も驚くべき身体組織となっているのは、かのロスチャイルド家の人々にほかならない。」

ここにベルクソンの身体=技術哲学の根本原理をなす一節を重ね合わせる。

「有機的に組織された(ほかならぬ直接の行動を目指して組織された)われわれの身体は、ひどくちっぽけなものだが、その表面がわれわれの現実運動の場所だとすれば、有機的ならぬわれわれの巨大な身体(宇宙)は、将来とられうる行動の、また理論的に可能な行動の場所だと言える。

…われわれの身体諸器官が自然の手になる道具と言えるとすれば、われわれの手になる道具は、当然人工の身体器官だということになる。職人の使う器具は、彼の腕の引き続きだと言えよう。してみれば、人類の道具制作は、自分の身体の延長である。」

ドゥルーズ+ガタリの『アンチ・オイディプス』や『ミル・プラトー』がこの延長線上に来るのはもはや明白である(ドゥルーズをきちんと勉強していない人のために言っておけば、先のバトラーの一節は、若きドゥルーズがつくった教科書的アンソロジーからの引用である)。この問題系に、表層的なレベルではなく、最も概念的なレベルで、しかし常に現実から離れることなくアプローチすることを可能にするもの、それが身体なのである。

いかに冗談ととられようとも(笑)、「結婚の形而上学」とその脱構築が位置するのも、まさにこのレベルにおいてである。愛する人を所有するということ、とはどういうことか。浅見さんの本は出発点として貴重である。私たちは哲学的な問題としてまだまだ展開できるし、西洋哲学史にはいくらでも扱うべきテクストがある。

Tuesday, April 25, 2006

怠け三題

アレルギーに悩まされている。動物の毛というか皮膚成分+ハウスダスト+花粉症のトリプルパンチである。フランス北地方の花粉の飛ぶ時期は2~4月らしいのでそろそろ終わってほしいのだが、ひどいときはまったく何もできない。する気さえ起こらないのである。

アレルギー患者でない人の目には「単に怠けているだけ」と映るようで、そのような無理解はもちろん十分理解できることなのだが、実際は怠けているのではない。偏頭痛や生理などの身体的理由、欝などの心理的理由から仕事が手につかない、という人にはお分かりであろう。



私自身はさほど怠け者だとは思っていないが――昨年度だけで論文4本、ドイツ語からフランス語への翻訳ひとつ、発表を5つ(仏語2、英語1、日語2)やっているのだ。怠け者などと言われる筋合いはないと思うが――、しかし、たしかに学者の仕事につきものの「怠け」というものもある。

教育者・大学教員としての話をしているのではない。学者・研究者には、芸術家に近い、創造的な部分があり、この部分を単にお役所仕事的に、半ば機械的・事務的にこなしていくのは、予算をとるためといった外的な理由を除けば、あまり意味がない。

短期的・個人的には利益もあり、「生産性」もあるかもしれないが、真の意味で生産的・創造的であるとは言えない。創造的であるためには余暇や怠けが必要であるという点で、少なからぬ思想家・芸術家の意見は一致している。



フランス人は怠け者でバカンス好き、日本人は働き者で有給もとらない、といった紋切り型が通り相場かと思うが、別の見方もあり、それはそれで筋が通っている。日本人の働き方は効率が悪い、朝から晩までずっとオフィスにいるが、常に集中して仕事に取り組んでいるわけではない、というものである。だからといって、フランス人の勤労意欲を弁護しようという気にもなれないのだが(笑)。

しかし、哲学者に限って言えば、フランス人のバカンスの取り方はやはり堂に入っている。何度も言うように、日本では哲学というのは教授の子息でなければ変人のやるものであるが、ヨーロッパでは教授の子息でなければブルジョワや貴族崩れのやるものなのである。この社会階層の違いは、よきにつけ悪しきにつけ、哲学をする「スタイル」にまで影響を及ぼしている。



近況としては、四月末までに共訳書の2稿をひとまず終え、それと同時に身体論文の校正を終える予定。同時並行で、5月中旬の発表の準備も進めている。これだけ働いても文句が出るのだから、やはり社会人というのはおそろしく働いているらしい。…日本人だけという気もするが。バカンスなのに、こんなに狂ったように朝から晩まで働いているのは。

Friday, April 14, 2006

翻訳について(1)

ここしばらく書くほどのことがない。そういうわけで、(き)(ふ)さんたちからお借りしているユリイカ特集号『翻訳作法』から抜粋でもしようか。

柴田元幸のインタヴュー≪君は「自己消去」できるか?ゼロ志向の翻訳ゲーム、最強プレイヤーかく語りき≫より

≪実は翻訳ほど、受験英語をちゃんとやったことが報われる仕事もないんじゃないですかね。[…]誰も使わない表現や古くなってしまった表現なんかを教えたって仕方がないっていう批判があるわけですが、翻訳する上ではどんな表現も一通り知っていたほうがいい。[…]受験英語で覚えて、そのあとずっと見たこともなかったけど、翻訳していて小説のなかで出会った表現というのはけっこうある気がする。≫

≪大学の授業で学生の翻訳を見ていると、特に「時制」についての理解が雑だったりします。[…]「時制」の理解は、翻訳する上ですごく重要です。≫

≪基本的な表現に関しては、単に辞書的な意味を知ってるだけじゃなくて、その言葉の「顔」を実感としてわかっていることが大事でしょうね。tiredと言わずにexhaustedと言ったら「あー疲れた」という疲労感がより強いとか、justifyは「正当化する」と訳されるけど、日本語の「正当化」みたいに否定的なニュアンスは普通ないとかね。そういうのを覚えるにはやはり受験勉強のようなやり方ではなく、濫読的に英語を読んだり、映画を見たりするのがいいでしょうね。もちろん英語圏で暮らすのが理想だけど、なかなかそうもいかないし、英語圏に住んでも周りが日本人ばっかりだったりするとあんまり効果はないしね。≫

≪一度「この言葉はこう訳せばいいんだな」と定まってしまうと、もう文脈も考えずに、自動的にそう訳してしまう。これはマズいです。やはり原文のトーンを聞かないといけません。だから、翻訳は数をやればうまくなるかどうかも実はわからない。逆にある種の「型」にはまってしまう危険性があるかもしれません。これって人生すべてそうかも(笑)。≫

≪岸本佐知子さんが言ってましたが、「翻訳者は小心者のほうがいい」ということもあって、「辞書にはこう書いてあるけど、これでいいのかな」と常に不安を感じる人のほうが向いてますよね。特に、形容詞、副詞とかで、辞書にそう定義が載っているからといって、なんかしっくり来ないなあと思いながらそのまま書いたりするのはマズい。そういうときは、少なくとも英英辞典の一冊や二冊は引かないとね。英英辞典は形容詞や副詞に関しては英和辞典よりずっとよくわかる。そもそも英和辞典はたいてい、プリンタとスキャナとファクスの複合機みたいな感じで、どんな状況にも対応できるように、よく使う意味もあまり使われない意味も全部ずらっと並べていて、どれを選んだらいいかよくわからないことが多いですよね。それに対して、ロングマンなどで出している学習用の英英辞典は、あまり使われない意味は見事に切り捨てています。現代英語を訳す上では、むしろそのほうがありがたかったりもする。まあ、何でも載ってる英和と併用するからそう思うんでしょうけど。≫

≪たしかに昔の翻訳者には、英語のスピリットがよくわかっていなかった人も多かったかもしれない。文字通りにも比喩的にも英語が「聞けない」し、文章を読んでもそのトーンがわからないということがあったかもしれません。バイリンガルの人たちはその逆で、英語のトーンとか、どういう感じかというのはよくわかるんだけど、そこで完結してしまって、それを日本語ではどう言えばいいかということをあまり律儀に考える気にならないんじゃないか。まあでもバイリンガルの人だってみんな一人ひとり違うから、あんまり一般化しないほうがいいでしょうけど。[…]理想的ってことで言えば、もっと若い人たちのなかで出てきはじめている、アメリカでバリバリ勉強してきて博士号までとってきて英語力から発想からボディランゲージから何から全部身につけてきた人のほうが理想的じゃないですかね。なんて言うと嫌味か(笑)。≫

≪人文科学の翻訳が総じてひどいのは、心理学なら心理学の専門家が一人で訳しているからであって、ほんとは心理学の専門家と英語を専門にしている人間が協力し合うのが理想。それと同じことを、日本語母語者と英語母語者でやるといいよね。≫

≪英語翻訳の場合、英語について言えば、いろんな英語の文体を知っていて、いろんな声を聞き分けられる、ということは必要ですね。日本語の語彙や表現も豊富でないと、ということもよく言われるし、理屈としてはそうだと思うけど、実感としてはあんまりそういう感じがしないですね。僕は日本人として決して語彙が多いほうだとは思いません。敬語とかも全然知らないし(笑)。で、実感としてはむしろ、「この文体には、この日本語はそぐわない」というように、「原文の雰囲気や感じにそぐわない言葉を削り取る」能力が大事な気がする。例えば、ヘミングウェイの禁欲的な文体に妙に男臭い、安っぽくハードボイルド風の言葉が混じってしまうとかいうのは、マズいよね。

 英語は、土着的なアングロサクソン語と、知的なラテン系の言葉で成り立っている。それと同じように、日本語も、土着的な大和言葉と、インテリ発の漢語で成り立っている。だから、レベッカ・ブラウンやポール・オースターが書くような、アングロサクソン語中心の文章を、やたら漢語の多い日本語にしてしまうと、かなり違ったものになってしまう。推敲する作業って、そういうそぐわない言葉を抜いていくという面がかなりありますね。これとこれは雑草だから抜かないと、みたいな感じかなあ。≫

思想系翻訳の場合には、したがってある程度漢語が多くなるのは必然なのだが、とはいえ読者層を意識しなければいけない場合、このバランスが難しい。フランス語は名詞偏重の言語でもあるだけにいっそう厄介な問題だ。

Tuesday, April 04, 2006

神の一手か、最善手か

以下の文章の端々に『ヒカルの碁』を読んだ痕跡が見られる(笑)…。

ところで、いい機会なので、ここで一言はっきりさせておけば、私は別にポップカルチャーを蔑視しているわけではない。連ドラでも漫画でもJ-POPでも芸能ニュースでも、分け隔てなく楽しむことができる。ただし、ポップカルチャーはあくまでもポップカルチャーであって、これが大なり小なり普遍的な価値をもつ、などと主張することはできない。早い話が、ベビースターラーメンは好きだが、だからといって誰にでも「これほんとにおいしいから」と薦めようとは思わない、ということである。私が何らかの文化現象に「くだらない」という表現を使う場合、それは必ずしも個人的な趣味判断の問題ではない。普遍的には「素晴らしい」が個人的には「つまらない」場合と、普遍的には「くだらない」が個人的には「好きだ」という場合を分けて考えなければならない。


3月29日(水)

マシュレゼミ。友人fkのロバートソン=スミスに関する発表。やっぱり同世代の中では、彼の社会学・人類学に関する情報収集・整理能力はずば抜けている。しかし、私同様、アイデア先行の部分が目立つ。議論ではそこを突いてやる。議論はいつも真剣かつ楽しく。議論の仕方にちょっと八方美人的過ぎるところもある彼だが、彼となら真剣かつ楽しい議論ができる。

同日夜、鮨聖Mの「最後の晩餐」を味わうべく、親友gb&df、畏友cdmおよび共通の友人aら六人で集合。共通の知人で博論に苦しむpの話が出る。cdmの指摘はいつもながらとても鋭い。

「彼の問題はね、アリストテレス解釈の中で議論の余地があるとされている部分と、識者の間ですでに評価の定まっている部分との見分けがついていないってこと。彼にとってはすべてが重大な問題で、すべてが議論し直される必要があるっていう感じなのね。で、それはまずい。別に識者の意見に盲従しろっていってるんじゃないのよ。ただ、従来の「常識」を覆して自分の意見を言うにせよ、まずはそれが常識であるってことを踏まえてる必要がある。そうじゃないと、彼は単なる知的アナーキストになっちゃう。」

日本では哲学科の学生たちというのは男も女も「もさい」というのが定番になっているような気がする(そうでもないか?)。ヨーロッパのさまざまな国籍の哲学者を見てきたが、おしゃれのみならず知的洗練の度合いは平均的に高い(これは社会階層の問題が関係しているのだと思う)。男女を問わず、「知的な美しさ」というものがある。もちろん「知的」というのは「物知り」intellectuelということではない。「本物を知っている」intelligent ということだ。

『ヒカ碁』第18巻「番外編」の「奈瀬明日美」の回などはまったくその好例である(笑)。風俗ビルの囲碁サロンで、かなり胡散臭いおっさんに囲まれて、しかしひたむきに碁を打つ奈瀬。碁の院生・奈瀬のルックスに惹かれて彼女を口説こうとしていた若者は、自分の「常識」をはるかに超えた世界にただただ恐怖を覚えて逃げていく。彼女の真剣さに打たれたわけですらない。ただ、彼女と彼女の生きる世界が「ちょっとヘン」だから怖くなったのだ。こういう人には「知的な美しさ」は一生分からない。ひたむきに本物であろうとする人の美しさが。

共訳者の翻訳チェック。コメントを書くのは翻訳の直しより時間がかかる。


3月30日(木)

たまにメールを見ない夜に限って重要なメールが入っていたりする。どうして私の指導教官は、ぎりぎりまで重要なことを言わないのだろうか?「緊急にカッシーラー論文&解説をPUFの担当者に送れ」って。日程を知ってれば、あらかじめ間に合うように最後の微調整(語句をいじるなど)をしておくのに…。豪友gcに頼んでおいた添削を慌てて取り入れて送信。

「明日(木)15-16時に会えるから、よかったら大学に来たら?」って…。はじめてバリケードと妙に威張った学生検問をかいくぐり、指導教官と会談。博論に関していろいろ収穫あり。

前々から懸念されていたカッシーラー論文の「問題」が最終的に浮上。カッシーラー全集の著作権を握っているのはイェール大学なのだが、著作権料がかなり高いらしい。で、それをPUFが買ってくれるかどうか。それから、仏語版全集を出しているCerfがすでに翻訳権を取得してしまっていないか。…って、もっと前から調べといてくれよ(笑)。

翻訳チェックで徹夜。徹夜しないとまとまった時間が取れないのである。


3月31日(金)

アレルギー科の医者に診てもらう。最近の疲れは、もしかすると花粉のせいかも、という仮説も捨てきれない。

共訳者と会合。彼に叱られるのは精神的な滝に打たれているようで痛いが心地よい。私はひそかにexercice spirituelle と呼んでいる(笑)。


4月1日(土)

awからメールあり。来週月曜日にバディウと一緒にラジオ番組をやることが急遽決まったので、私がバディウをどう思っているか聞きたい、とのこと。急遽決まったとはいえ、なんで急ぎで「私のバディウ観」を言わなきゃいけないの?調子のいい甘えん坊だなあ。しょうがないので、ごく基本的な視座を与え、去年edがやったバディウ&ダヴィド=メナールとのセッションでの私の「質問」(という名の批判)のtranscriptionを添付ファイルで送付。

同日、日仏哲学会から公募論文の査読結果が到着。「採用」とのこと。条件付きだから完全に問題のない論文として認められたとは言えないが、「再査読なしの採用」だから論文全体のクオリティは認めてもらえたらしい。査読の論評は、これまで読んだどんな論評よりも私の論文の特性と問題点を捉えていて、素直に嬉しかった。こんな論評を自分も書けるようになりたいものだ。

夜、6年来の戦友およびラトビアなyy嬢にそれぞれの「愛と哀しみの青春」を語りつくしていただく会。この歳で夜更かしはもう無理だ。二三日引きずってしまう。「絶対面白いから!!」と『ヒカルの碁』を手渡された。悪魔の贈り物


4月2日(日)

を一日半廃人のように読み耽り、最終第23巻まで読了。

夜、fkよりメールあり。次の水曜日のマシュレゼミでの発表(二回連続)の前に会いたい由。彼とは、2000年に私がリールに来て以来の仲。今はボルタンスキーのところで研究員をやっている。ノルマリアンたちが抜け、今やずいぶん発言者のレベルが下がってしまったマシュレゼミでは、残念ながら私の発言くらいしかまともな質問がないので、彼は私の前回の質問の続きを聞きたいのだろう。少しずつfkにも実力を認められつつあるのだなと素直に嬉しい。実力は論文や講演、発表、質疑応答の中ではかられる。それ以外のところで、いかに友達ぶろうが、私的な会話の中で知識をひけらかそうが、駄目である。

『ヒカルの碁』は、前半三分の一くらいは、『月下の棋士』路線(強烈な個性同士がぶつかり合い「神の一手」を追求する路線)で行くか、もう少し現実に近い「切磋琢磨」路線で行くかに揺れがあった。『月下の棋士』の棋士たちの多くは研究会を開かなさそうだが(一手一手に命がこもっているので、下手に練習できない(笑))、『ヒカルの碁』の棋士たちは実に精力的にいろんな研究会を飛び回っている。

しかしまた、あまりにリアルになると(毎日シコシコと棋譜の読解・整理に励む院生、プロの間の低俗な感情のもつれ…)、これはこれでドラマ性に欠けるし。際立ったカリスマであるアキラや野生の天才をもつヒカルといった「選ばれし者たち」も、普通に研究会や碁会所で切磋琢磨し、最善手を検討する。その「天才」と「リアル」のバランスがよかったのであろう。

「切磋琢磨」のリアリティがよく出ているのが伊角(イスミ)くんのエピソードである。筋はいいのだが、優しい性格が災いしているのか精神的に脆く、日本棋院院生からなかなかプロに上がれない彼(第10巻)。ついに四つ年下の主人公ヒカルたちにまで先を越され院生をやめてしまう(第12巻)。立ち直りのきっかけをつかもうとやってきた中国での特訓中に「感情のコントロールは、習得できる技術」と教えられ、少しずつ復調していく(第16巻)。実際のプロ棋士の間で伊角くんの人気が高い(最終第23巻)というのも、あながちルックス面や性格的な面での評価ばかりではあるまい。我々別種の「院生」から見ても、なかなかリアルな悩みを抱えた人物だからではあるまいか。しかし、彼が主人公であれば、ずいぶん地味なドラマしかできない。


4月3日(月)

畏友lfが予告どおり最新の論文を送ってくれる。Cahiers Gaston bachelard に載った奴。「君にも興味ある主題だと思って」なんて言いつつ、「○○や××にも渡してくれ」なんてちゃっかりしてる。それぞれへの献辞が関係を表していて面白い。一番世話になった人には「友愛と最良の記憶とともに」、親しくないけど関係を大事にしておきたい人には「amicalement」、友達には「amitiés」(後二者はわずかな程度の差で、ほとんど同じ)。

夜は、独立系書店Meuraの集い。

Wednesday, March 29, 2006

天使の比較解剖学

インリンさんのコメントにつらつら返事を書いているうちに長くなったので、本文のほうに移します。

***

フェヒナーのダンス論やジェイムズの紹介文などが入ったやつですね。フェヒナーの天使論というのは、要はかなり怪しげ(笑)な宇宙人論みたいなもので、人間以上の超高等生物(生きた遊星)を呼ぶのに他にいい名前もないから「天使」でどうだ、と。というか、フェヒナー自身もふざけて書いてるので、戯作といってもいいかも。

Gustave Theodor Fechner, Anatomie comparée des anges, suivi de Sur la danse, postface de William James, éd. de l'Eclat, coll. "Philosophie imaginaire", 1997.

ランブダシズムのせいでダンス論を翻訳しているラバンは、ラバノテーションのRudolf Laban (1879-1958)のことだと思ってました。が、そうではなく、現代の精神分析家・哲学者Claude Rabantだったのですね。今は亡き"imago"(feu imago...)の1995年10月号に榎本譲さん訳の「死の名」という論文が出ているようです

ちなみに、僕が「非人間の心理学」会場に持っていったもう一冊の本は、最近復刻されたコルバンの古典。

Henri Corbin, "Nécessité de l'angélologie" dans Le Paradoxe du monothéisme, éd. de l'Herne, 1981, 2003.

Tuesday, March 28, 2006

疲れた旅人

3月21日 ベルクソン業界の某御大より連絡あり。私の労作カッシーラーを軽くいなしてくれた某大書店にもう一度それとなくとりなしていただけるとのこと。親切な目利きが周りにいてくれてよかった。

3月22日 指導教官からメールあり。カッシーラー論文の仏訳に寄せた長文の解説は評価してもらえたようで、いつも以上のお世辞("parfait", "un beau travail")をかなり割り引いても率直に嬉しい。「君の博論にも何らかの形で絶対組み込めると思うよ」…というわけで、早く博論の全体像が見えるプランを出せ、とのこと。アメとムチねっていう。

恒例のマシュレ・ゼミ。ローゼンバーグについての議論。グリーンバーグやら、ジャッドやら。フランスの標準的な哲学者がマイケル・フリードやロザリンド・クラウスに気づくのは一体いつになることやら。

3月23日 献本の報せ。もちろんすべてお世話になった先生行き。ところで、某出版局の連絡はどうして全部郵便なんだろう?執筆者全員に送っていると手間もコストも馬鹿にならないと思うのだが…。その割りに専門書業界の苦境にご理解賜りたく今回は印税なしでというのは、本格的な財務金融改革に手をつけずに増税する小泉政権のようでなんか納得がいかない。まあ、メールにすると余計に煩瑣になるのかもしれないが。

3月24日 一日中アリストテレス・中世哲学ゼミ。非人間の心理学ということで、動物・ロボット・天使の心理学。圧倒的に知的な発言を聞いていると、なんとも言いようのない精神的高揚を覚える。こうなると学問は舞台芸術に近い。

3月25日 友人を招待。徹夜して翻訳。

3月26日 友人に招待される。徹夜して翻訳。翻訳とは何ぞやてな文章も書きたいのだが、あまりにも疲れていて頭が回らない。普段雑誌を通し読みしたりはしないが、ユリイカ』の「翻訳作法」特集だけは頭から読み続けている。舌津智之(ぜっつ・ともゆき)さんが、柴田元幸訳の同名小説にひっかけて、「憑かれた=疲れた旅人」とは「翻訳家」の別名なりと論じている。
『憑かれた旅人』(1999)Haunted Traveller
バリー・ユアグローの不条理ショート・ショート累積型小説。「呪われた旅人」と訳したくなる原題だが、あえて「憑かれた」とした訳者の柴田元幸は、もちろん「疲れた」との掛け言葉を意識している。ネット上で読める訳者/著者の往復Eメール書簡によると、ユアグロー自身も邦題のダブル・ミーニングを「嬉しい」と気に入っているようだ。本作品でこの拙文を締めることにしたのは、ある意味、「憑かれた旅人」とは、「翻訳者」の別名であるように思われたからである。原作者に憑依された夢遊病者。自由のきかない金縛り状態で疲弊する創作者…。もちろん、どうせ憑かれる/疲れるなら、その結果印税が入るに越したことはないのだが[…]。(112頁)

憑かれているかはともかく、疲れた旅人であることだけは間違いない。

Tuesday, March 21, 2006

終わり良ければすべて良し

1)長らく刊行予定と聞かされ続けてきた『ベルクソン読本』(法政大学出版局)がようやく4月12日に刊行されるとの報。本当に長かったが、出ると聞くとやはり嬉しい。私のごく短いサーヴェイも載っているので、よかったらご覧ください(というか、買ってください)。

2)昨晩から徹夜し、今日早朝、今週の翻訳予定分を終える。ほぼ予定通りに進んでいる。

3)フランスの雑誌に依頼されて出したはずのエッセイにレフェリーで文句がついていた件。「飛び道具」を出してみた。さて、どうなるか?

4)その後、疲れを癒す暇もなく家事・炊事、その合間に仏文学会誌掲載論文の校閲を終える。添削してくれた親友edは、何度も校閲者の仏語能力に疑問を呈していたが、「まあ、そういうもんだから…」と慰める。仏語能力だけでなく、哲学に関する素養、ベルクソン研究に関する基本的な知識など怪しい点はいくらでもあるし、それはそれで仏文学研究者なのだから責められない点もあるが、いずれにせよ校閲の結果、論文が良くなったのだから、それでいいではないか。理性の狡知というべきか。

Wednesday, March 15, 2006

パプラス

無用の書類のことをフランス語でpaperasse、無用の書類の山のことをpaperasserieという。別に無用とは言わないが、今日は一日中、年度末にあたって、および年始に備えての書類作りに忙殺された。実際、教師生活を始めたらこんなもんじゃないのだろうとは十分承知しているつもりだが、それにしても疲れる。

友人が貸してくれた『ユリイカ』の特集「翻訳作法」を読む。柏倉さんのマラルメ連載ものからヒントを得て短いエッセイが書けそうな気がする。スピノザ・マラルメ・ヴィトゲンシュタインの教科書をめぐる三題噺なんてどうだろう。他にも引用したいエッセイ・論考多数。それはともかく、「自己評価」パプラスに関して、相変わらずの高山宏節炸裂。
見事に2000年、2001年あたりから高山マシーンは油切れのポンコツ状態。自著リストを見ても、そして翻訳リストを眺めても、改めてぞっとするような真空状態に陥っている。大体がこういう自己回顧そのものが、ひたひたと前のめりにのみ走ってきたぼくには相当違和のあることのはずなのだが、三十年間一度もやらされたことのない自己評価、自己査定をくり返し巻き返しやらされたこのたびの大学「改革」のお蔭である。「自己評価」などというウソに決ってるばかばかしい作業を象徴する語にして、この四、五年、ジョークにもならぬ当り前の日常語に化してしまった。なんだか履歴書と業績一覧ばかり書かされている。翻訳家暮しがこう簡単に「自己点検」「自己評価」できてしまうのも、今という残酷なタイミングだからだ。土日も会議、夏休みもずたずたに寸断されるこの三年ほど、五百、六百、七百というページ数のハードな本の翻訳を引き受けてきた高山宏にとって、石原慎太郎の官僚どもと、同じくらい愚鈍な大学機構はかなり決定的なダメージだったことが改めてよくわかった。主客一如、批評と翻訳が完璧に合体できた陶酔境には十五年ほどの時間がいっぱいいっぱいかもしれない。でないと「死んでいたかもしれない」(一息入れさせてくれて石原さん、ありがとう、のバカヤロー)。(2005年1月号、177頁)

ところで、同じブラウザ、同じ文字コードunicode (UTF-8)を使っているはずなのに、なんだか文字がおかしい。友人にギリシャ語フォント・ギリシャ文献CD-ROMを入れてもらったことと関係あるんだろうか?ショートカットの割り当てが勝手に変わっていたり、添付ファイルが送信できなくなったり…。

Tuesday, March 14, 2006

校閲、校閲、校閲…

3月10日(金)

ある本を共訳している友人に私の担当部分の初訳を見てもらう。率直に言って目も当てられない状態。この翻訳は、一般的な教養をもつ日本の社会人が少し頑張れば理解できるようなものでなければならない。友人の優れた言語能力、翻訳に対する真摯な取り組みに改めて感服すると同時に、自分の至らなさを痛感。時間がないのは誰でも同じことで言い訳にはできない。

とあるフランスの雑誌から依頼されていたエッセイがレフェリーで厳しい意見をいただいているとの通知を受け取る。仏語の問題、そして内容的な「薄さ」の問題。書き直す時間はあまりにも限られているが、全力を尽くしたい。


3月13日(月)

rythmesureに関する論文の校閲が届く。二人の先生方の「参考意見」はかなり異なる。一人はほとんどノータッチ。もう一方はかなり親切なのか(あるいは哲学論文に馴染みがないのか)、ずいぶん私の仏文に赤を入れてくださっている。これでも、本を何冊か出しているフランス人の友人とかなり議論して練り上げた仏文なのだが…。

むろん、どの件に関しても、低レベルのルサンチマンなど抱いても仕方がない。こちらとしては最善を尽くして自分にできる限りの日本語と仏語を練り上げるほかない。

Monday, March 06, 2006

ベルクソンをめぐる会合

前にも言っていた3月3日の会合(Wormsという現在の第一人者主催の、ベルクソンに関する博士論文を準備している学生たちのゼミ)は無事終了した。きわめてこじんまりとした集まりで、お誘いした(き)(ふ)さんご夫妻には悪いことをしてしまったかな…。でも、聴きに来ていただいてありがとうございました。

発表者は全部で四人。ベルクソンの精神物理学的二元論をとりわけ「物質」概念に即して見ていこうというフランス人。このブログにも参加していただいている、ベルクソンとピエール・ジャネの比較研究を行っていらっしゃる日本人の方(インリンさん――これは「ハッスル」で活躍したアイドル(?)の名を私に発音させようという、そしてプロレスファンの注目を集めようという、きわめて巧妙な謀略なのでしょうか!?困惑しますね――)。ベルクソンにおいて比喩や文彩がもつ言説戦略的な効果を持続概念に即して見ていこうというロシア人。そして私。

私の発表のタイトルは、"Endroit de durée, lieu de mémoire. Quelques réflexions sur Quid Aristoteles de loco senserit"というもの。

ごく簡単に言うと、持続は空間の中には見つからないとして、ではどこに見つかるのか。いや、より正確に言えば、「純粋持続の中にいる」と言うとき、「の中に」が意味していることは厳密には何であるのか、持続の場所はどこか?という問いに対する答えの断片をアリストテレスの場所論に探る、というもの。全体の構成は、

1)アリストテレス論の紹介
2)とりわけ最終章の奇妙な構成を、先述した仮説に基づいて読み解こうとする
3)持続の場所、記憶の場所についてより広範な仮説の提示

という感じ。言いたいことがすべて伝わったとは思わないが、質問も盛んに出たし、私の研究に関心をもってくれたようなので、ひとまず所期の目的は達せられた(と思う)。

今後の予定。

1)友人から催促を受けている翻訳に取り掛からねばならない。いろいろ制約が課されて閉口気味だが、まあ一応全力と誠意は尽くさねばならない。

2)5月18日についに博論の本格的な概観についての発表を行なう。そのため、三月中旬に指導教官と話し合いを持つ。それまでに、去年書いた「ベルクソンの身体概念」に関する論文を出発点にしつつ、より広汎で、より体系的な見取り図を描かねばならない。これから先は、書かねばならない章に取り組みつつ、すでに書いた論文に手を入れて、章に仕立てていくという作業に取り組んでいこうと思う。

Monday, February 20, 2006

ベルクソンのアリストテレス論(2)

では、まず全体の概要をおさえるところから始めよう。少し遠回りに見えるかもしれないが、ベルクソンの場所論が分析対象としているアリストテレスの『自然学』第4章を概観するところから始めることにする。

(1931年のCarteronの翻訳以来、実にほぼ70年ぶりに新しい仏訳が出た(tr. Pellegrin, GF, n°887, 2000 ; 2e éd. revue, 2002.)。日本でも、ハイデガーをして「西洋哲学の根本著作」と言わしめた本書が、文庫本で読めるようになってほしいものだ。

もう一つ、入手しやすくきわめて便利なのが、Press Pocketという出版社が出しているcoll. "Agora - les classiques"である。翻訳は1861年(!)のものであり、最初の2巻分しかないが、自然学に関する問題系を通覧できるアンソロジー(エンペドクレス、デモクリトス、プラトン、デカルト、スピノザ、マルブランシュ、ライプニッツ、パスカル、ヒューム、カント、コント、フッサール、パトチュカ、コイレ、シモンドン)が付されている。原典を読まずに語る風潮が蔓延する昨今、アンソロジーの復権は、「90分で分かる」とか「サルでも分かる」といったお手軽なマニュアル本などよりよほど望ましい。90分で分かってたまるか!)

ペルグラン版は、第4巻(208a29-224a16)に関して、以下のような14の章区分および節題を提案している。

第1章(208a29-209a30)
 場所の研究
 場所の実在を論証する4つの理由
 場所の本性に関する6つの困難

第2章(209a31-210a13)
 場所はある場合には形相であるように、またある場合には質料であるように思われる。
 これらの同一視がうまくいかないことを証し立てる幾つかの理由
 
第3章(210a14-210b32)
 「ある事物が別の事物のうちにある」と言える8つの場合
 第一義的には、ある事物は自分自身のうちには存在しえない
 ゼノンのアポリアに対する応答
 場所は今度は質料でも形相でもないこと

第4章(210b33-212a30)
 場所に認められる6つの点
 場所の定義に関する予備的考察
 場所の定義
 この定義は場所に関する複数の意見を正当なものと認める

第5章(212a31-213a10)
 全体の場所
 場所の定義は当初[第1章で]想定された諸々の困難を解決する

第6章(213a11-213b29)
 空虚の研究
 空虚の実在に関する不十分な反駁
 空虚を主張する者たちの論

第7章(213b30-214b10)
 「空虚」という語が意味するところ
 空虚の実在を主張する者たちへの応答
 
第8章(214b11-216b20)
 分離された空虚の実在を反駁する4つの論拠
 空虚の実在は運動と相容れない。5つの論拠
 可動的なもの(les mobiles)の速さの差に基づく論拠
 中間(le limieu)に由来する困難
 物体に由来する困難
 それ自身において考察された場合の空虚

第9章(216b21-217b28)
 物体の内部に空虚はない
 アリストテレスの立場
 結論

第10章(217b29-218b20)
 時間の研究
 時間の実在に関するアポリア
 時間の本性に関するアポリア:三つの理論

第11章(218b20-220a25)
 時間の定義に関する予備的考察
 時間の定義
 定義に対する5つの補足

第12章(220a26-222a9)
 時間の4つの特性
 時間のうちに存在すること
 時間は停止の尺度である
 あらゆる非存在者は時間のうちには存在しない

第13章(222a10-222b29)
 「今」という語のさまざまな意味
 他の諸々の表現
 時間と消滅(corruption)

第14章(222b30-224a16)
 時間に関する他の諸考察
 時間と魂
 時間とはいかなる運動の数であるのか
 円環的移動は基準となる運動である
 「数とは同である le nombre est le même」ということが意味するところ

***

こうして『自然学』第4巻の目次を眺めただけでも、ベルクソンの時間の哲学にとっての重要性が分かるが、念のため『自然学』全体の構造およびそこに占める第4巻の位置を足早に確認しておこう。

Ce qui constitue une cohérence théorique de la Physique d'Aristote, malgré sa hétérogénéité interne due à l'articulation de sujets différents et à la coexistence de terminologies divergentes, c'est une réelle unité d'objet de la Physique. Comme le souligne Pierre Pellegrin, "la Physique est une étude du changement" (voir l'"Introduction" à sa traduction de la Physique, p. 38).

Contrairement à ce qu'une lecture rapide pourrait laisser croire, dit Pellegrin, les deux parties de la Physique, dont les commentateurs ont proposée depuis l'Antiquité la division entre l'une traitant de la "physique" proprement dite et l'autre du mouvement, ne sont pas si hétérogènes qu'on ne croit. En fin de compte, et indépendamment de la querelle concernant la coupure entre les deux parties, qu'elle soit entre les livres IV et V ou entre les V et VI, la première partie consacrée à des questions générales de physique sert d'introduction à la seconde traitant plus particulièrement du mouvement. Précisons avec Pellegrin : les quatre premiers livres analysent ce que l'on pourrait appeler les caractéristiques générales et les conditions de possibilité du changement, le livre V attaque à même la notion de changement en donnant une définition générale et les principales caractéristiques, et enfin les trois derniers livres développent la théorie aristotélicienne du mouvement, notamment du mouvement local, en proposant, je cite Pellegrin, "une cinématique qui aura une immense importance historique, et en rattachant tout mouvement au mouvement de l'univers produit en dernière instance par le premier moteur immobile" (p. 38).

La lecture du livre II portant sur la causalité que Bergson va entamer plus tard dans son cours de 1902-1903 au Collège de France sera une autre histoire. Ici, nous allons nous concentrer uniquement sur le livre IV et la place qu'il occupe dans l'ensemble de la Physique d'Aristote.

C'est le changement qui va traverser ainsi un champ ouvert entre la physique et le mouvement. Et les notions de lieu, de vide et de temps, telles qu'elles sont analysées tour à tour dans le livre IV, jouent ainsi un rôle de charnière. (à suivre)

Sunday, February 19, 2006

ベルクソンのアリストテレス論(1)

(ちなみに、きりがないのでこれくらいにしておくが、ラテン語副論文に関して最後に三つ。

1)フランスの科学的心理学の祖といわれるテオデュール・リボー(Théodule Ribot, 1839-1916)の遺伝に関する1873年の博士論文(L'hérédité, étude psychologique sur ses phénomènes, ses lois, ses causes, ses conséquences.)の副論文は、
Quid David Hartley de associatione idearum senserit (1872).

2)リボーの弟子で、これまた重要なフランスの心理学者・医学者ジョルジュ・デュマ(Georges Dumas, 1866-1946)の博士論文は La Tristesse et la joie (1900) であるが、その副論文はオーギュスト・コントに関する
Quid Augustus Comte de suae aetatis psychologis senserit (1900).

3)現在忘れられがちだが重要な社会学者リュシアン・レヴィ=ブリュール(Lucien Lévy-Bruhl, 1857-1939)の主論文は L'idée de responsabilité (1884)であるが、その副論文はなんとセネカの神概念に関する
Quid de Deo Seneca senserit.
である。
 ちなみに、ラテン語の動詞 sentire に関して、友人フレデリック・ケックの博論のnote 149にはこうある。

La thèse complémentaire latine de Lévy-Bruhl s'intitulait Quid de Deo Seneca senserit, qui jouait sur l'ambiguïté du verbe latin « sentire », signifiant à la fois "penser" et "sentir", pour défendre la thèse selon laquelle Sénèque a su donner des éléments pour une conception de la Providence divine réconciliant les voies de la nature et les exigences de la raison, mais sans en avoir réellement démontré les fondements. Cf. ibid., Paris, Hachette, 1884, p. 64 : "Humanior fit Deus, amicus, et semper in proximo. Providentia autem qualis sit, quoque modo se in rerum natura deprehendi sint, optimo Seneca sensit, male demonstravit." C'était déjà réfléchir aux rapports entre lois naturelles et exigences de la liberté à travers le sentiment, réflexion dont l'étude de la mentalité primitive prend le relais.

むろん、senseritを用いたタイトルはきわめてありふれたものであり、ベルクソンがこの語を用いることで言葉遊びをしているとは思えないが。)


というわけで、ベルクソンの博士号申請用副論文 Quid Aristoteles de loco senserit (1889). である。

このアリストテレス論は、最初、Les Etudes bergsoniennes, tome II, 1948, pp. 29-104.にRobert Mossé-Bastide (Rose-Marie Mossé-Bastide) に仏訳が掲載され、のちに全集第二巻ともいうべきMélanges (PUF, 1972) に収められた。

この『補巻』に寄せられたアンリ・グイエの序文によれば(以下、p. IXによる)、「この学則に縛られた業績 ce travail scolaire」をベルクソンは決して自分の仕事と認めず、この小論は博論審査用にわずかに印刷されただけで、その後は彼の著作リストに載せられることもなかったが、にもかかわらず次の二つの点で「意義深い significatif」ものである。

1)哲学的・教説的(doctrinal)・内容(contenu)的な関心:ベルクソン哲学の形成期および前期における、アリストテレスとの対話の重要性。ベルクソンは少なくとも次の年度において直接的かつかなり入念にアリストテレスに関する講義を行なっている。

 1885-1886 クレルモン=フェラン大学文学部における講義
 1886-1887 クレルモン=フェラン大学文学部における講義
 1888-1889 クレルモン=フェラン大学文学部における講義
 1902-1903 コレージュ・ド・フランスにおける『自然学』第2巻の注釈
 1903-1904 コレージュ・ド・フランスにおける『形而上学』第11巻の注釈

このようなアリストテレスとの継続的な関わりの中で、1889年のアリストテレス論は、博士論文主論文との関連でとりわけ興味を惹くものである。なぜなら、「場所 lieu」に関するアリストテレスの諸テクストの分析の狭間から、彼自身の持続の哲学における「空間 espace」概念の位置づけが垣間見えるからである。

2)哲学史的・操作的(opératoire)・形式的な関心:ベルクソン哲学自体に興味のないものでも、ベルクソンのような大哲学者が他の大哲学者についてどのような読解を、どのような手続きを踏みつつ、提示するのか興味のあるところである。この点で、『アリストテレスにおける場所の観念』は、ベルクソンがどのように哲学史にとりくんでいたか、その所作について教えてくれるごく稀な好例である。

引用箇所の選択や、ギリシャ語の原文を採録している幾つかの長い註からは、彼の該博な知識や自分の解釈を正当化する際の繊細な配慮が、彼の他の著書よりもはるかによく見える。ベルクソンの読解は忍耐強いものである。一文一文に立ち止まり、その意味するところが究極的にはどこへ向かおうとしているのか、そこに立ち現れてくる困難はいかなるものであるのかを見定めようとする。

アリストテレス哲学の体系的な首尾一貫性を救おうとするために読むのではなく、そのような似非哲学的な配慮から離れて、そこに姿を現している問いをただひたすら鮮明な形で取り出そうと努めること、これがここでのベルクソンの目的に他ならない。(続く)

Saturday, February 18, 2006

ベルクソン、『アリストテレスの場所論』

これからしばらくベルクソンのアリストテレス論読解に向けて準備作業を行っていく。今回は余談。

***

『時間と自由』すなわち『意識の直接与件に関する試論』は、ベルクソンが1889年に提出した博士号取得のための主論文であり、処女著作として有名であるが、その時の副論文である『アリストテレスにおける場所の観念』は圧倒的に読まれていない。

国家博士号取得のための主論文・副論文の制度はその後も長らく続き、フーコーであれば主論文が『狂気の歴史』で副論文が『カント『人間学』の生成と構造』(未刊行)、ドゥルーズであれば主論文が『差異と反復』で副論文が『スピノザと表現の問題』といった感じで、主論文に自己の哲学的な営為の到達点を示すもの、副論文によりアカデミック("thèse d'érudition"と呼んでいる人もいるくらいである)、より哲学史的、より文献読解的なものを提示するという伝統があった。

とはいえ、ベルクソンの時代とフーコーやドゥルーズの時代の間にもすでに明確な違いがある。それは副論文はラテン語で書かれたという点である。

たとえば、ラヴェッソン(1813-1900)
の有名な『習慣について』(1838年)の副論文は、プラトンの甥でその死後アカデメイア学頭の地位を継いだスペウシッポス(Speusippe)に関する
Speusipii de primis rerum principiis placita qualia fuisse videantur ex Aristotele.
であるし、

ベルクソンが生涯にたった一度献辞を付したその宛先であるラシュリエ(1832-1918)の、これまた有名な『帰納法の基礎』(1871年)の副論文は、
De Natura syllogismi
であり(のちにRevue philosophiqueの1876年5月号に"Les conséquences immédiates et le syllogisme"という表題で掲載され、1907年にEtudes sur le syllogismeという論文集に収められたものの元になったのではないかと思われる)、

最後にブートルー(Emile Boutroux, 1845-1921)
の代表作『自然法則の偶然性について』(1874年)もまた博士論文であるが(これはラヴェッソンに捧げられている)、その副論文は、
De Veritatibus aeternis apud Cartesium.
である(本論文はその後、1927年にブランシュヴィックが序文を書き、カンギレムが仏訳して出版された。1985年の再版は現在でも原則的には入手可能である。Des Vérités éternelles chez Descartes, traduite par G. Canguilhem, Paris : J. Vrin, coll. "Vrin-reprise", 1985.)。

ちなみにきわめて細かい話だが、このとても有益なサイト - sublime, absolument sublime ! - からダウンロードできる"L'histoire de la philosophie"というのは、ブートルーの1908年の著作 Etudes d'histoire de la philosophie の巻頭に置かれた論文である。なんと著作全体がBNFでダウンロードできる。

Friday, February 17, 2006

それから

Aix-en-Provence大学での発表を無事終えた。主催者側のご好意で、単なるdoctorantとしては恐縮するほど至れり尽くせりの待遇であった。出席者は15人くらいで、ベルクソンの思想に(とりわけ『二源泉』に)共感を示すかどうかは別として、私の発表に関しては「明晰でとても分かりやすく、はじめて『二源泉』が分かった気がした」と好意的な評が多かったので、準備に手間をかけた甲斐があった。

とはいえ、口からでまかせのお世辞などお手の物の南仏気質。彼らの評価と好意が本当に分かって嬉しかったのは、ゼミを終えたあと。フランスでは通常(少なくとも私の知る限り)、教官や発表者を交えたゼミ後の飲み会などそうそうあるものではないし(教官の性格やゼミの性質にもよるけれど)、実際、彼ら自身も「めったにしない」と言っていたが、「一緒に飲みに行こう」と誘ってくれたこと。みんな何となく残って一緒に喋りたそうだったので、これはよかった。

中身は結局、こんな感じ。

1.『二源泉』の概観
(1)ベルクソン哲学における『二源泉』の位置
(2)各章ごとの争点

2.『二源泉』の一読解:人格・情動・合理性
(1)人格と個人性:ベルクソンからシモンドンへ
(2)情動:ベルクソンとカントにおける「熱狂」概念
(3)新たな合理性に向けて:グランジェの『非合理』を批判する

***

さて、その後は徹夜続きの代償として病気で倒れたり、事務作業に集中したりとろくに勉強できなかったが、今後の予定としては:

1)3月3日にリールで若手ベルクソン研究者の集いがあるので、そこでの小さな発表の準備。ベルクソンとアリストテレスにおける運動と場所の話にしようと思っている。

2)5月18日にやはりリールの有名なマシュレ・ゼミで発表することになっているので、その準備。こちらは遂に本格的にベルクソンの身体概念についての博論の概要を打ち出すことになる。

これから数ヶ月が山場になる。

Tuesday, January 31, 2006

ベルクソンの人格理論

『二源泉』についての講演まで、もうあと一週間となってしまった。今日、レジュメとベルクソンのテクスト抜粋を向こうの大学宛てに送った。テクスト抜粋は、5から40ページという話だったので、『二源泉』全体を概観できるよう、各章から断片を合計20ページほど選び出した。さまざまな要求(1)DEA学生向け、2)経済学ないし社会科学に関するもの)を満たすべく努力したつもりだが、一週間で読ませるには長すぎた気もする。

同時進行で発表用原稿も書いている。やはり書き出すと面白くてとまらなくなる。大筋は頭にあるものの、詳細は書きながら「発見」するし、ときにはまったく予想外の発展を見せることもある。こういうときに日頃「無意味な博学」と揶揄されている事柄が役に立つこともある。

どうやら一時間強喋ればもう十分といった感じであるようなので、逆に時間が足りないな、と思い始めている。各セクション20分くらい。

現在は『二源泉』を概観する第一セクションを書いている段階。大体のイメージはできつつあるが、神秘主義についてゴダール(Jean-Christopheのほうね)のものを読みきるには時間が足りないので、第三章の部分はどうするか。

今日は、グイエの論文「創造的人格」を読んだ。哲学史家の本領発揮といった論文で、ベルクソンの人格理論の発展を時代順におさえている。理論的には得るところが少ない。大変失礼ながら、グイエにしてこのレベルかと安心させられる。

『二源泉』が新たにもたらした理論的寄与として、たとえばドゥルーズは情動の理論や哲学的蓋然性を積極的にプッシュしているが、人格性に関してももう少し掘り下げられるのではないか、というのが私の発表で理論的に新しいところである。人格性に関する議論は各章に出てくるが、とりわけ第二章の出来事の「人格性の要素」はきわめて興味深い。私はカントとシモンドンを使う。

Thursday, January 26, 2006

根源の彼方に

デリダはほとんど読んだことがないが、なんとなく嫌いだ、という方は哲学関係者の中にも多いであろう。だが、少なくともプロである限り、読まず嫌いは禁物である。ここでは、食わず嫌いを緩和していただくべく、ごく簡単にデリダ的な思考の一典型を示してみたい。

次に引用する一節では、「記号」を主題として、それが形而上学的歴史の桎梏から抜け出すことの困難が語られている。簡単に歴史と縁が切れて、新たな思考を始められるとする立場(ここでは新たな記号学・記号論の創設)のナイーヴさに注意を喚起するという態度は、彼の哲学を一貫して貫くものである。

だが、デリダと単なる歴史重視の保守派ないし相対主義を振りかざす懐疑主義者とを隔てる一線は、次の二点において明確である。1)「閉域外のほのかな光を未だ名づけえぬままに垣間見せている断層」、すなわち一時代の閉域を超えて新たに到来しようとするものを正確に捉えようとする注意、2)歴史的相対主義(価値判断停止の恒久化)に落ち込むまいとする意識、がそれである。

以上の方法論的なレベルにおいて見られる超越論的なアプローチは、分析対象の措定の仕方にも現れている。シニフィアンを含む記号、さらにはエクリチュール全般の「外在性」が、それらの概念に存在論的に先行する、という考えがそれである。起源には起源の代補が、差延が先行する、という考えは超越論哲学の過剰なまでの徹底化に他ならない。この意味で、ヴァンサン・デコンブがデリダの思想をフッサール、とりわけハイデガーの「現象学の徹底化」と呼んでいるのは正しい。



≪もちろん、これらの概念を捨て去ることが問題なのではない。それらは必然的なものであって、少なくとも今日われわれは、それらなしにはもはや何事も思惟することはできない。まず問題なのは、分離しうるものだとしばしば素朴に信じられている諸概念と思惟の諸態度との一貫した、歴史的な連係を明らかにすることである。記号と神性とは、同じところで同じ時に生まれた。記号の時代は、本質的に神学的である。それは、おそらく決して終わらないであろう。しかしながら、その閉域はすでに素描されているのだ。

"Bien entendu, il ne s'agit pas de "rejeter" ces notions : elles sont nécessaires et, aujourd'hui du moins, pour nous, plus rien n'est pensable sans elles. Il s'agit d'abord de mettre en évidence la solidarité systématique et historique de concepts et de gestes de pensée qu'on croit souvent pouvoir séparer innocemment. Le signe et la divinité ont le même lieu et le même temps de naissance. L'époque du signe est essentiellement théologique. Elle ne finira peut-être jamais. Sa clôture historique est pourtant dessinée.

 以上の諸概念の構成する遺産を揺り動かすために今日これらの概念が不可欠であるだけに、なおさらわれわれはそれらを放棄してはならない。閉域の内部において、斜に構えた、常に危うい運動によって、そして自身が脱構築しているものの手前に再び落ち込んでしまうという危険をたえず冒しているひとつの運動によって、危機的で危険な諸概念を慎重で綿密なひとつの言説で包囲し、それらの危機的な概念の有効性の諸条件、場、諸限界を提示して、それらが所属している機構はそれら自身によって脱構成しうるのだということを厳密に指摘せねばならず、また同時に、閉域外のほのかな光を未だ名づけえぬままに垣間見せている断層についても、指摘せねばならない。

Nous devons d'autant moins renoncer à ces concepts qu'ils nous sont indispensables pour ébranler aujourd'hui l'héritage dont ils font partie. A l'intérieur de la clôture, par un mouvement oblique et toujours périlleux, risquant sans cesse de retomber en-deçà de ce qu'il déconstruit, il faut entourer les concepts critiques d'un discours prudent et minutieux, marquer les conditions, le milieu et les limites de leur efficacité, désigner rigoureusement leur appartenance à la machine qu'ils permettent de déconstituer ; et du même coup la faille par laquelle se laisse entrevoir, encore innommable, la lueur de l'outre-clôture.

この場合、記号の概念は範例的なものである。われわれは先ほど、それが形而上学に所属していることを見た。しかしながら周知のように、一世紀ほど前から、記号という主題は、意味作用の運動を意味、真理、現前、存在などからもぎ離すのだと自称していた一つの伝統の、断末魔の苦悶である。[…]われわれが気にかけているのは、[新たな記号論の誕生の成否などではなく]記号の概念――これは(現前の)哲学の歴史の外では決して存在もせず、機能もしなかった――の中でなおも一貫して、また系譜的にこの歴史によって規定されているものである。だからこそ、脱構築の概念、またとりわけ脱構築の作業、その「スタイル」はその本性上、さまざまの誤解や誤認にさらされ続けているのである。

Le concept de signe est ici exemplaire. Nous venons de marquer son appartenance métaphysique. Nous savons pourtant que la thématique du signe est depuis près d'un siècle le travail d'agonie d'une tradition qui prétendait soustraire le sens, la vérité, la présence, l'être, etc., au mouvement de la signification. [...] Nous nous inquiétons de ce qui, dans le concept de signe -- qui n'a jamais existé ni fonctionné hors de l'histoire de la philosophie (de la présence) -- reste systématiquement et généalogiquement déterminé par cette histoire. C'est par là que le concept et surtout le travail de la déconstruction, son "style", restent par nature exposés aux malentendus et à la méconnaissance.

 <意味するもの>の外面性はエクリチュール全般の外面性であって、われわれはもっと先で、エクリチュール以前には言語記号は存在しないということを示そうと思う。この外面性なしには、記号の観念そのものが崩壊してしまう。それとともにわれわれのあらゆる世界、あらゆる言語は崩壊するであろうがゆえに、またこの観念の明証性と価値とはある分岐路までは破壊不可能な堅固さを保有しているがゆえに、この観念が、ある一つの時代に所属しているからといって「他のものに移行」せねばならぬとか、また記号を、記号という用語や観念を捨て去らねばならぬとか結論することは、いささか愚かしいことであろう。われわれがここで素描している態度を適切に把握するためには、新たな仕方で「時代」、「一時代の閉域」、「歴史的系譜」という表現を理解せねばならず、まずもってこれらの表現をあらゆる相対主義から引き離さねばならない。≫ (デリダ、『根源の彼方に グラマトロジーについて』、足立和浩訳、現代思潮社、1972年、36-37頁。一部改訳。)

L'extériorité du signifiant est l'extériorité de l'écriture en général et nous tenterons de montrer plus loin qu'il n'y a pas de signe linguistique avant l'écriture. Sans cette extériorité, l'idée même de signe tombe en ruine. Comme tout notre monde et tout notre langage s'écrouleraient avec elle, comme son évidence et sa valeur gardent, à un certain point de dérivation, une indestructible solidité, il y aurait quelque niaiserie à conclure de son appartenance à une époque qu'il faille "passer à autre chose" et se débarrasser du signe, de ce terme et de cette notion. Pour percevoir convenablement le geste que nous esquissons ici, il faudra entendre d'une façon nouvelle les expressions "époque", "clôture d'une époque", "généalogie historique" ; et d'abord les soustraire à tout relativisme." (Jacques Derrida, De la grammatologie, éd. Seuil, 1967, pp. 25-26.)

Thursday, January 19, 2006

運転再開

Auf deutschを新たな形を加えつつ再開することにしました。よろしければご覧ください。hf

Monday, January 16, 2006

1.『二源泉』の位置(1)新たな論理の探求

慌しく一週間が過ぎた。さぞ集中して勉強に励んでいることだろうと思われるかもしれないが、まったくさにあらず。相変わらずの事務処理に加え、思いがけない事件に巻き込まれ、2,3日潰れてしまった。

卑俗な、物悲しい、救いのない話で、精神的に疲弊した。私なりの「大リーグ挑戦」を励ましてくれる方もいれば、こうしてものの見事に脚を引っ張ってくれる人もいる。安心して背中を見せていたらいきなり撃たれたという感じである。疑念を抱くということは誰しもあるものだが、その疑念を客観的に相対化し、最低限度コントロールできるかどうかは知性、すなわち学者に必要不可欠な能力の枢要である、ということだけは付言しておきたいと思う。そもそも私の精神の単純率直さが分からないとは!

これから留学される私の友人たちには、この先きっと色んなことがあるだろうけど、nervous breakdownしないよう精神的なタフさを身につけることをお奨めしておきたい。一人で、海外で、博論準備の重圧に耐えるのはそう簡単なことではない。



さて、リズム論文の校閲も終了し、残るは『二源泉』読解である。もう残り一カ月をきってしまった。

以下は、いずれフランス語で書かれる講演の素描である。ベルクソンの『二源泉』をまったく(あるいはほとんど)読んだことがない、しかしベルクソンについて一応の予備知識を持っているという哲学科の学生を聴衆として念頭においている。



あまりscolaireな形で、protocoleにのっとって皆さんを眠くさせるのは本意ではないので、一気に主題に入らせていただきます。

ベルクソンの『道徳と宗教の二源泉』の主題とは何か?この一見きわめて容易に見える問いが、実は、『二源泉』をめぐる問いのうちで最も難しいものの一つなのです。

はたして『二源泉』は哲学書なのか?道徳と宗教の歴史的起源を探る歴史書なのか?社会学的・人類学的著作なのか?誰がこれらの問いに完全な答えを与ええたでしょうか?

実はこの諸科学を横断しているところから来る曖昧さこそ、ベルクソン哲学の独創性をなす構成要素の一つなのです。その独創性は、ベルクソン哲学が諸科学と特殊な関係を結んでいるところに由来します。その関係とは一言で言えば、それら諸科学の絶えざる再鋳造の試みとでも言えるでしょうか?

実際、『試論』とは何でしょうか?人間の意識を抽象化して取り出すことに反対し、生のままの具体的な意識を持続の中に見出すことを主眼とする著作だと考えられています。しかし、実際には、人間の意識を粗雑な抽象化によってその本質を毀損することなしには捉えられなかった当時の実験心理学(精神物理学)に対する批判であり、持続概念を用いることによって、意識をより正確に、より繊細に把捉しようとする新たな論理を提出しようとした著作ではなかったでしょうか?

『物質と記憶』とは、記憶を大脳の物理化学的機能によって説明しようとするいわゆる局在化理論に反対し、記憶の真の精神的性質を見出すことを主眼とする著作だと考えられています。しかし、実際には、記憶を粗雑な一対一対応によってその本質を毀損することなしには捉えられなかった当時の大脳生理学に対する批判であり、記憶概念の洗練(運動記憶と想起記憶の区別)によって、心身問題をより正確に把握しようとする新たな論理を提出しようとした著作ではなかったでしょうか?

『創造的進化』についても同じことが言えます。生命進化の過程をすでに進化し終えたものの総体から説明しようとする従来の進化論に反対し、ありのままの生命の流れの原理を「エラン・ヴィタル」の中に
見出すことを主眼とする著作だと考えられています。しかし、実際には、生命進化を粗雑な網の目にかけることでその本質自体を毀損することなしには捉えられなかった当時の進化論に対する批判であり、新たな生命進化の概念である「エラン・ヴィタル」を用いることによって、生命進化の問題をより正確に把握するための新たな論理を提出しようとした著作ではなかったでしょうか?

要するに、ベルクソンとは、合理的説明に非合理的現実をつきつけることで対抗しようとした非合理的・神秘的な哲学者ではなく、粗い網の目しか持たない不十分な合理性に対して、より繊細な網の目をもった計測装置、概念装置の必要性を説く哲学者、したがって当時の合理性の観点からすれば非合理と捉えられるとしても、単に新たな、より広く、より柔軟な合理性を探し求めた哲学者であったということができます。

むろん、すぐに付け加えておかねばなりませんが、彼の試みが成功したかどうかというのはまた別の話です。もし我々がベルクソンは上記の諸分野において新たな「科学」を確立したと言えば、それは言い過ぎということになるでしょう。

しかし少なくとも、彼は新たな「論理」を提出しようとしたということはできるし、またそこにこそ彼の哲学探究の真価を見て取らねばならない。では、ベルクソンの四大著作のうち、前三作の探求した論理が以上にごく簡単に素描したようなものであったとして、最後の大著『二源泉』の探し求めた論理とは、いったいどのようなものであったのでしょうか?(続く)

Monday, January 09, 2006

plan G (続)

以前、plan Gとして話していた計画がほぼ正式に決まったので報告しておきます。2月8日に南仏Aix-en-Provence大学の「哲学と経済学(および社会科学)」というセミネールで、ベルクソンの『二源泉』について話すよう招待を受けたという件です。

友人の招待ですが、とても嬉しく思っています。今後の日本人若手研究者のこともあるから、あまり恥ずかしい事はできないな、とも。気を引き締めてかからねば。日本人研究者もハイテク機械で高名な哲学者の録音ばかりしているわけではなく、なかなかやるじゃないか、と言われるように。

二時間半くらい話せ、ということなので、もちろんきちんと原稿を用意していくつもりです。日本ではどうか分かりませんが、少なくともフランスの哲学分野においては、セミネールで(もちろん学生向けのセミネールではなく、研究者間のセミネールで、ということだが)一つ発表をせよという招待を受けた場合、多かれ少なかれ完成した読み原稿を用意してきているように思います。

しかし、参加者の中には、DEAの学生もおり、『二源泉』が課題として挙げられているということなので、講演の組み立ては以下のようにしようと考えています。

1.ベルクソン哲学における『二源泉』の位置(DEA学生向け)

2.ベルクソン哲学(とりわけ『二源泉』)における身体論の重要性(ベルクソン研究者向け)

3.ベルクソン哲学(とりわけ『二源泉』)における合理性・功利性の取り扱い(社会学者・経済学者向け)

それぞれA4で十二三枚ずつくらい書いていけば、二時間半ということになるでしょう。というわけで、以後しばらくベルクソンの話ばかりになります。

Friday, January 06, 2006

Caute !

冬休みは二つの論文の仏訳、フランスの某雑誌に掲載される予定のエッセイの改稿、そして何よりも書類の処理に明け暮れた。実際、一昨日、ようやく二ヶ月以上にわたる滞在許可証更新作業を終了し、昨日は一日中、事務処理に忙殺された。その甲斐あって、幾つかの懸案事項が一挙に解決されたことは喜ばしい限りだが、精神的にはかなり消耗した。

これら一連の作業およびそれにまつわることどもを通じて痛感したのは、「慎重に」という姿勢の重要性であった。一つだけさして支障のないものを例として取り上げてみる。

先に言及したエッセイとは、昨年、リールのとある独立系書店の25周年を祝って(2005年5月31日のpostを参照のこと)刊行された小著Ici, là-bas, etc...ブログを参照のこと)のために執筆したBright future? Quelques réflexions sur les "sans-papiers" à venirのことである。ここで言う「サン・パピエ」とはいわゆる滞在許可証を持たない不法滞在者のことではなく、文字通り「紙なし」の電子空間の到来が決定的な影響をもたらす独立系書店とその未来のことである。

改稿にあたっては、再三再四「中立性」を要望された。もともとが独立系書店の可能性を探るという展望のもとに書かれている以上、当然予想されることだが、改稿は困難であった。そもそもその手の「中立性」など信じてはいないということもあったが。しかし、中立的(毒にも薬にもならない)でない効果をもたらすためにはまさに中立的でなければならない、ということも教えられた。

また、ある種の思想的党派性がなくもない雑誌なので、引用する哲学者の名前一つでリジェクトされる可能性もあると言い含められた。その結果、重要なレフェランスも落とさざるを得なかった。むろん分かる人には分かる目配せはしてある。

かなりタイトなスケジュールで辛かったが、私にとっては実に貴重な体験だった。



「初夢」などという過激な小文を正月早々ものしておきながら「慎重に」もないものだと嗤われるかもしれないが、慎重さはすでにスタイルの中にわずかながら努力として顔をのぞかせている。

ホワイトヘッドは、

諸事物の本性のうちにある深みを探索する努力は、どんなに浅薄で脆弱で不完全なものであるか。哲学の議論においては、陳述の究極性に関して、独断的に確実だと単にほのめかすだけでも愚かさの証拠である。
Combien sont superficiels, insignifiants et imparfaits les efforts pour sonder la profondeur des choses. Dans la discussion philosophique, c'est folie que de laisser entendre paraître la moindre certitude quant au caractère définitif de toute affirmation.

と言っている(『過程と実在』、序文)。また、彼は合理主義の口を借りて、

哲学における主な誤りとは、誇張である。
L'erreur primordiale en philosophie est l'exagération.

とも言っている(『過程と実在』第一部・第一章・第三節)。年初にあたって肝に銘じておきたい。

Saturday, December 31, 2005

優しいFWは生き残れない(哲学においても)

今日、リズム論文の仏訳を終えた。明日はオーバーホールすることにして、新たに動き出すのは新年からにする。新年早々の目標は二つ。1)一月上旬に指導教官と会う予定なので、その際に約束の博論序論の一部を渡すこと。2)二月のAix遠征に向けて準備を始めること。

ところで前回のようなことをしょっちゅう書いていると、私は傲慢で叩かれたことがないかのように思われるかもしれない。しかし、かなり厳しい目にあっていることも事実である。未だに「こんな程度のフランス語のレベルじゃ出版できる状態じゃないね」と厳しいフランス人の友人に言われたりすると、かなりめげる。そりゃお前はいいよな、と思う。正直腹も立つ。けれど、こればかりは仕方がない。相手の土俵で、相手の流儀で戦っているのだ。手加減してもらって、勝ったことにしてもらって、最後に「よく頑張ったね」などと言われたいためにフランスに来ているわけではない以上、言い訳はできない。



友人の間では周知のことだが、私がスポーツネタを話題にする場合には、ほぼ必ずや学問研究の比喩としてである。したがって、以下に書くことは直接サッカーに関することではない。サッカーファンの方々に無駄な時間を使っていただきたくないので、あらかじめお断りしておく。



私は「スポーツナビ」の欧州各地のサッカーコラムの愛読者である。これらの記事はすべてフリーランスのライターによって書かれており、もちろん新聞記者の書くものより断然面白い。書くときの緊張感が違うし(彼らは面白いものを書かなければそれまでなのだ)、欧州についての文化的理解の深さも違えば、そもそも欧州サッカーという以前に、サッカーについての理解の深さが違う。

ホンマヨシカさんの「セリエA・未来派宣言」も私が愛読しているコラムの一つである。今日は、2005年12月28日付の記事「優しいFWは生き残れない」を読んで印象に残ったので、ご一読をお勧めしておく。ここではとりわけ印象に残った部分だけを引用させていただく。

いつものようにほほ笑みを浮かべながら質問に答えていた柳沢からは、試合に出場できない悔しさは伝わってこなかった。インタビューが終わった後、日本人ジャーナリストの輪の中に知り合いのジャーナリストを見つけたので、「柳沢から悔しさが感じられないね」と聞くと、「いや、やはりインタビューをしたくなかったようで、そのまま立ち止まらずに行こうとしましたよ」とのことだった。だがそれでも僕が「でも、悔しさが全然感じられないよ」と続けると、面識のないジャーナリストの1人が、「悔しくても、彼はそれを外に出さないタイプだから」と答えてその場を去った。僕にしても柳沢が悔しい思いをしているだろうと重々承知しているのだが、問題は彼がその悔しさを外に表わさない(表わせない)ことだ。 インタビューを受けたくなかったのなら、待ち受けている日本人記者たちには失礼だが、無視して通り過ぎるか、「何も言うことがありません」と立ち去るぐらいの悔しさを表わす行動を見せてほしかった。

この一文を読んで感じることは二つ。

1)一つは「悔しくても、彼はそれを外に出さないタイプだから」と答えてその場を去ったジャーナリスト氏は、質問の真意をなんら理解していない、典型的な日本人ジャーナリストである可能性があるということ。欧州に何年住んでいても、いつまで経っても悪い意味で日本人のままという人がいる。柳沢が周囲に嫌な気分を味わわせまいと悔しい思いをじっと押し殺しているだろうことは百も承知のうえで、彼がイタリアで活躍するために必要な感情表現上の工夫とは何なのかを問うているのだ。日本人が日本人スタイルで仕事をしていて受け入れられる土壌(たとえば寿司屋などの日本料理店ないし海外進出した日本の大企業)で仕事をしている人はよい。また、自分のスタイルや信条を投げ打ってまで成功などしたくないという人も勝手にすればよい。だが、そうでない場合には、時には自分の性格も信条も投げ打ってでも、相手の要求に応えてみせる用意が必要だ。「自分のスタイル」を云々するのはその後でいい。ちなみに、ホンマさんは

今年の初めだったか、スペインリーグのコラムを書いておられる木村氏が、大久保の日本人には珍しいアグレッシブな姿勢を評価されていたのを読み、セリエAでもそれくらいの姿勢(特にFWというポジションでやっていくには)が必要だと、僕は至極納得した。

とも書いておられ、木村さんの当該記事ではないが、大久保に関するKosuke Itoさんの記事(や別の記事の抜粋)を賛意とともに引用させていただいた私としては、意を強くした次第である。

2)二つ目は、この点(悔しさをストレートに表に出すこと)をそのまま哲学研究に応用することは、もちろん(笑)、できないということ。哲学というのは、悪く言えば、鼻持ちならないお高くとまった分野である。日本はいざ知らず、とりわけ欧州では、未だに良家の子女が「修身」として学ぶ学問である。実際、私の知り合いにも、貴族の末裔のような人々がいくらでもいる。この点、私たち哲学研究者の要求される技術は、サッカーにおける上記のような闘争心むき出しのガッツの見せ方とは、100%逆でなければならない。つまり、インテリジェンスとユーモアを兼ね備え、スマートでエレガントでなければならない。

(むろん、両者の差異を相対化することは幾らでもできるが、本質的な差異が残ることに変わりはない。)

このことはサッカーを低く見ることも、哲学を高く見ることも意味していない。哲学に対して皮肉を込めて言っているのでもない。フィギュアスケートやシンクロナイズドスイミングにおいて、何よりもまず優美さが要求されるからといって、彼らにガッツが求められないわけでないのと同じである。ただ、ガッツをまったく別の形で表現しなければ、そのガッツ自体が無意味になってしまう領域・分野というものが存在するのである。

ただ、哲学研究とフィギュアやシンクロの違い、そして哲学とサッカーの共通点の一つは、それが多民族間の「チームスポーツ」だということである。この点はきわめて重要なので、項を改めて書くことにして、ここで言いたかったことを最後に一言でまとめておくとこうなるだろうか。

私たちは競技場に「心優しいFW」を見に来ているのではない。「点取り屋」を見に来ているのである。哲学においても事は同じである。

Thursday, December 29, 2005

自己点検(仏語添削について)

以前、自分のblog(もちろんblog一般ではまったくない)に対するとるべき態度と、とるべきでない態度して、こういうことを書いたことがある。

しかし、誰のためのblogなのか、何のためのblogなのか、ということをさらに考えた場合、結局のところ、上に挙げた二つの態度は必ずしも両立しえないものではないのかもしれない、という思いを強めている。自分の活動状況についてより詳しく書くことは、私が思っていた以上に、他人の役にも立つものなのかもしれない。したがって日々の活動報告のようなものを少し増やしていこうと思う。



昨日、身体論文の仏訳およびレジュメを終えた(いずれ正式に公刊されることになったら、要約も公開しよう)。とりかかったのが21日だったから、6日で終えたことになる。この間、二度フランス人の友人にチェックしてもらい、議論している。こういう慌しい時期に快くチェックを引き受けてくれたlpに感謝したい。昨日は、論文抜きで、ご飯(pissaladière, tarte à l'oignon du Sud de la France)をご馳走になったので、そのことにも感謝したい(笑)。

今日からリズム論文の仏訳に取り掛かる。こちらはすでに以前始めていたので、できれば年末までに終えたい。そして別の友人edに送る。

仏文の添削というのは――断るまでもないと思うが、以下は私の体験に基づく主観的な体験談ないし内省の結果であって、必ずしも一般性・普遍性をもつものではない――、よほどの仏語の達人でもない限り、ほぼ誰しもやってもらっていることと思うが、複数の依頼相手がいたほうがいい。もちろん渡仏しても最初のうちはそれほど多くの友人がいるわけでもなく、また相手のレベルを選べるわけでもないが、いずれそうなることが望ましい。添削相手によって、出来上がりは一変する。しかし、そのためには自分のフランス語の質を常時brush upしていくことが大切である。逆の状況を考えてみればいいので、日本語初心者が書いた、間違いだらけの論文を直すときと、日本語上級者が書いた論文を直すときとで、同じ原則をもって接しているわけはない。

ちなみに、私はお金を払って添削してもらったことは一度もない。友人に頼んで、あとで一杯おごったり、ご飯をおごったりする程度である。だからプロフェッショナルな添削の良し悪しについてコメントすることはできない。私の場合、直す側は基本的に親切心ないし友情でやってくれているので、添削のやる気は1)こちらの書くものの質と2)相手の忙しさによって決まる。

1)彼らは哲学者であり、面白いものを読まされれば、基本的に知的興奮を覚える人々である。したがってこちらが一定水準に達しているものを書けば、添削にも自然と身が入る。そのためには基本的なところでミスを繰り返してはいけない。サッカーと同じである。名コーチに指導してもらいたければ、あるいは能力ある同僚と共同自主トレをやりたければ、「自分はこの人のトレーニングのために時間を割いてあげてもいい」と思ってもらえるレベルに達していることが必要である。

2)しかし、いくらこちらが努力していい物を書き、相手が興味を持ってくれようとしても、相手が忙しければ駄目である。そして当たり前のことだが、能力のある人ほど忙しい。自分の言いたいことに自分が思いもつかなかった言い回しや面白いコメントをくれることがあるのも、そういう人々である。しかし、彼らには時間の制限がある。こちらも相手のことをリスペクトしているので、もともと長々と意味なく引き止めたりはしないが、そうはいっても相手も忙しく、必ずしもこちらの意図に沿ってくれるとは限らない。そういう場合、友情に満ちていながらも、知的緊張感をもった関係を複数保持しておくことが肝要である。でないと、緊急にヘルプが必要な場合に、お手上げということになる。

添削を頼める友人を複数持っておくことはまた、自分の書く物の分野によって、添削を頼む適任者を選べるという利点を生む。経済的な内容ならslだなとか、少しエピステモ系ならplだなとか、リズムなどの変わった主題ならedだなとか、フランス語を重視したいのでkgだなとか。

そのためには普段の自然な会話がすでに一定程度のレベルを備えていなければならない。フランス語がひどかったり、哲学の知識がなかったりすれば、能力のある誰が助けてくれようか。人が親切心で動いてくれる場合には限りがある。プラスアルファを引き出すのは自分の責任である。つまり結局のところ、普段の努力、不断の努力でほとんどのところは決まっている。「365歩のマーチ」とはそういうことである。

以上のことは自分に自戒をこめて言う。

Saturday, December 24, 2005

365歩のマーチ(Gebrauch der Füße)

"So geht es allen noch rohen Versuchen, in denen der vornehmste Teil des Geschäftes auf den Gebrauch der Vernunft ankommt, der nicht, sowie der Gebrauch der Füße, sich von selbst vermittelst der öfteren Ausübung findet" (Kant, Kritik der praktischen Vernunft (1788), Beschluß).

"Il en est ainsi de tous les essais encore rudimentaires, dans lesquels la partie principale du travail dépend de l'usage de la raison, qui ne s'acquiert pas de lui-même, comme celui des pieds, par un exercice fréquent" (Kant, Critique de la raison pratique, Conclusion).

「研究の仕事の最も重要な部分が、理性の使用にかかわる試みであっても、もしその試みが粗笨であれば、結果はいずれもこのようなものになるのである。理性の使用は、足の使用と異なり、ただ反復使用したところで、おのずからその使用法が手に入るわけではない。」(カント、『実践理性批判』、結び)

Friday, December 09, 2005

知の末路

pense-bêteにも参加してくれている友人toshoheiさんが『週間金曜日』の「金曜アンテナ」というコーナーに、稲荷明古さんという方の「廃寮問題で係争中の山大」というごく短い報告が掲載されていることを教えてくれた。末尾を引用させていただく。
 国賠訴訟の控訴審判決(今年9月)で仙台高裁は、大学から寮自治会への「人格権」侵害を認め、国側に賠償を命じた。この判決に原告側は「組織としての大学の違法性を免罪する不当判決」として上告。原告団は最高裁勝訴へ向け、全国行脚を続ける(詳細は、URL http://dorouso.hp.infoseek.co.jp/)。
 廃寮の背景には独立行政法人化の流れがあった。全国で2番目に小さな国立大学(学生8323人)である山大は生き残りをかけて、文科省通達を強行した。「貧乏人は大学に来るなという圧力は全国で目に見えて深刻化」している。信州大学では今年、休学者の1人に「学内への立入を一切禁止する」との通告が出された。


これ以上愚かなことを続けるつもりなのだろうか。生き残りをかけて死に物狂いの大学のことだけを言っているのではない。国公立大学をそういう状況に追いやることで、日本の知の状況を決定的な壊滅状態に追い込んでおいて、「民営化=合理化」で得をしたつもりでいる日本国民のことを言っているのである。

ほとんどフリーター(派遣社員でもよい)状態でカップメンをすすりながら巨大掲示板に延々と愚劣な極右的言辞を書き込み続ける者、嬉々として小泉政権を支持し続ける薄給のサラリーマン…。自分の政治的行動――何度でも言うが、ノンポリも一つの政治的行動である。自分はノンポリだからなどと悠長に構えているつもりの者は、完全に勘違いをしている。レイプの現場に居合わせながらNoの声をあげない者はYesと言っているのと同じである。――の論理的帰結を考え抜くことのできない者が大半を占めたとき、ファシズムは到来する。

左翼的言説か否かなどどうでもよい。まずは『週間金曜日』の編集長コラム「「下流」の敵は、格差社会実現をもくろむ米国かぶれの為政者にあり」を読んでいただきたい。大筋には賛同できる。

Saturday, December 03, 2005

京大図書館BNC移転問題について

私の友人たちの中にはすでにご存知の方も多いと思うが、一応念のためにここにも掲載しておく。

現在、京都大学附属図書館BNC(バックナンバーセンター)の桂キャンパス移転計画が持ち上がっており、それに対する反対運動が組織されている。署名頁はこちら

大したことではない、どうでもいいじゃないか、必要部分だけ頼んでコピーしてもらえばいいじゃないか、と言う方もいるかもしれない。だが、こういう考え方は、研究活動の創造的な部分の実態をきわめて矮小化して捉えていると言わざるをえない。

学者にとって(少なくとも人文系の学者にとって)、雑誌のバックナンバーを手にとって眺められるということには測り知れない価値がある。研究者であれば、大なり小なり思いがけない発見をしたという経験があるはずだ。

自分の大学ではないから関係ない、という方もいるかもしれない。だが、えてして話はこういう「大したことではない」ところから、「自分と関係ない」と思っていたところから始まるのだ。

ディティールにしか真実は宿らず、実践にしか真実は宿らない。

Friday, December 02, 2005

plan G

現段階ではまだ詳細は書けないのですが、フランスのある地方大学に勤める友人が、ベルクソンについて話をしに来てはどうかという提案をしてくれました。

正直言って、嬉しい気持ちと不安の両方があります。一方では、もちろん嬉しいに決まっています。友人と言えども、まったく話のできない奴と思われていれば、誘ってくれるはずはないからです。したがってフランス人研究者に伍して対等に扱ってもらえている、という点ではとても喜んでいます。

しかし他方で、不安要素には事欠きません。

たしかに、コロックや研究会(Journée d'étude)など発表者が複数いる場合、あるいは一人で話す場合でも、知り合いのたくさんいるゼミなどで発表するなどの経験は私にもあります。しかし、知り合いがほとんどいないところに乗り込んで行って、私が唯一の「ゲスト」として一人で延々としゃべり、質疑応答に答えねばならないという状況ははじめてです。

しかも発表・質疑応答(もちろん仏語)含めて2時間半!これは未だ博論も仕上げていないような若造にはかなり荷が重い。これまでに呼ばれた講演者のリストを見ていると、はっきり言って場違い、お門違いもいいところ、という感じです(笑)。

また、「哲学と経済学」を主題とするゼミに呼んでくれているので、「ベルクソンにおける経済学の扱い」といった感じのテーマで話すことになっているのですが、これまた門外漢もいいところ。これも気を重くしている大きな要因です。

しかし、そろそろ次のステージにチャレンジするいい機会です。与えられた機会を確実にものにして、次のチャンスにつなげていきたいと思っています。

こういう私的なことを書くことには正直躊躇いがないわけではありません。しかし、私の友人たち、とりわけ私より若い友人たちの参考になればと願っています。

そろそろお客さん的、物見遊山留学生的な立場を脱却しなければなりません。

Thursday, November 24, 2005

日本は文化国家ではない?

まったく正当な意見である(この対談「日本を取り巻く無責任の体系」は必読)。
国家は費用を出さない、その代わり地方の都合で六・三制さえ五・四制に変えていいなんて、事実上、国家が公教育を放棄したに等しい。教育の自由化・地方分権化を進めるっていうと聞こえはいいけど、実際には、子どもを塾にやる余裕のある人とない人、都市と地方の格差が開く一方だよ。

公教育の理念さえ放棄しようとする国家をもはや文化国家と呼ぶことはできないだろう。教育さえいささかの躊躇いもなく自由化・地方分権化の名の下に――しかしながら実際にはネオリベ的「民営化」の一環にすぎない――叩き売りに付してしまえる国家は、単なる資本主義国家と呼ばざるを得ないのではないか?

義務教育費負担金移譲 高校経費8400億円で代替 地方は反発

 自民党の文教制度調査会と文部科学部会は十八日、三位一体改革で焦点となっている義務教育費国庫負担金八千五百億円の削減に対する代替案として、地方交付税で賄っている公立高校の関連経費八千四百億円を地方へ「税源移譲」する案を党執行部に提示した。与党案として検討した上で首相官邸と交渉するよう求めているが、地方六団体や総務省は「改革の趣旨から外れた内容で論外」と猛反発している。
 代替案によると、教職員給与費など公立高校の運営関連費は全国で約二兆千億円(二〇〇四年度分)。このうち、地方交付税分は約八千四百億円で、残りは地方税で賄っている。この八千四百億円を地方税へ振り替えることで「地方交付税への依存度が低くなり、地方財政の自立が図られる」としている。
 河村建夫調査会長は記者団に対し「交付税が抑制される中で教育費削減の懸念も出ている。まずそちら(高校分)を移譲し、きちっと自主財源で行うべきではないか」と語った。
 これに対し、総務省は「『税源移譲は補助金負担金から』という骨太の方針に反する」と批判。全国知事会も「地方交付税は地方の固有財源で、いわば一般財源。まさに形だけの移譲案だ」と切り捨てた上で「もし地方税に振り替えた場合、財政難の自治体は高校教育費を捻出(ねんしゅつ)できない恐れも出てくる」と反論した。
 同負担金は昨年の政府・与党合意で税源移譲の対象となった二兆四千億円の中に含まれているが、削減は暫定扱い。地方六団体は一般財源化を求めているが、文科省や中教審は負担金制度維持を主張。同調査会と同部会も制度堅持の緊急決議をしている。(西日本新聞) - 11月19日2時18分更新

また、もう少し一般的にいうと、この意見にはまったく同感である。
小泉みたいなやつが暴走すると、ある種、国権派と真の民権派が最低限綱領では一致しちゃうわけだ。たとえば、教育は国家の義務だというのは、森喜朗や石原慎太郎が言うとおりだし、公共事業の無駄をなくしつつ、しかし、地方でも安心して暮らせるインフラをつくるのが国家の義務だというのは、亀井静香の言うとおりであって、その点では一致せざるをえない。

Monday, November 21, 2005

アメとムチ?

<東京大>学業優秀なら行きたい学部へ 来年度から

 優秀な学生はお望みの学部へ――。東京大(小宮山宏学長)は1~2年の学部前期課程から後期課程に進む際、成績優秀者には、入学したすべての科類から、すべての学部に進学する可能性がある「全科類」枠を06年度の新入生から導入する。一方、導入後、例えば文科1類から従来は全員が法学部に進めたが、成績次第では必ずしも「全入」とはいかない場合も出る。日本を代表する大学がアメとムチで学業のレベルアップを促す異例の取り組みと言え、大学改革がどこまで進むのか注目される。

 同大では、入学1年半後に学生の志望と成績によって、後期課程の学部・学科などを決める進学振り分け制度を実施している。従来は文科1類から法学部、文科2類から経済学部、理科3類から医学部医学科には前期課程を終えた全員が自動的に進学できた。

 同大が15日発表した06年度入学者募集要項によると、新制度では成績による振り分けを行う。主に成績優秀者の選択肢を増やすため、教養学部後期を除く全学部に「全科類」枠を設け、文系から理系、理系から文系を含め、より自由な進路変更を認める。

 例えば、法学部は受け入れ予定数415人のうち、文科1類からは395人(入学定員415人)に絞り、14人を「全科類」枠に割り振る。理科全類を対象とした6人の枠も加えると、文科1類の20人が予定数からあふれる形だ。

 全科類枠は学部によって差があり、法、工、医各学部は予定数の1割を下回る一方、最大は4割を超す教育学部までさまざま。同大は「安易な進路変更を奨励するものではない。強い動機と優秀な成績があり、場合によっては進学先の『要求科目』の履修をこなす、かなりハードな努力をすれば、変更も不可能ではなくなるのが趣旨」とくぎも刺している。【長尾真輔】(毎日新聞) - 11月16日9時35分更新

Thursday, November 17, 2005

情動の科学哲学(épistémologie des affects)

パスカル・ヌーヴェル(Pascal Nouvel)が、情動の科学哲学(épistémologie des affects)についてのセミネールをパリ7で行っているようだ。

ダーウィンの古典的な情動研究から、情動をコントロールする(エクスタシー、 MDMAなど)現代のメディカル・テクノロジーまで、カンギレム=フーコーのエピステモロジーを「情動」という現象に適用しようということであろう。

興味のある方は、彼のサイトをご覧ください。

Tuesday, November 15, 2005

nemo repente turpissimus

"Croire le mal moins rude quand il nous est commun avec plusieurs personnes, c'est, disait-il, une grande marque d'ignorance, et c'est avoir bien peu de bon sens, que de mettre les peines communes au nombre des consolations." (Spinoza, selon Lucas)

上の世代が戦わなかったツケは、下の世代に押し付けられる。その結果、我々は同時に複数の戦線で戦わざるをえない。上は「生意気な」と言うか、「やるならやれば」と言うだけである。周りは無知な呑気さを振りまいているか、勇気を出せずに怯えているかである。少しずつでも「連帯」できる友人の輪を広げていくほかない。

はじめに(2005年2月10日)

New Deal (2005年4月10日)

「連帯」と「世間」(2005年2月12日)

意志的隷従と怠ける権利(2003年8月2日)

「おフランス」と「ここがダメだよ日本人」(2005年2月22日)

哲学の教育、教育の哲学(1)数の問題(2005年2月21日)

哲学の教育、教育の哲学(2)エリート教育の問題(2005年5月9日)

哲学のアグレガシオン、アグレガシオンの哲学(序論断片)(2004年10月11日)

アグレグ(2004年9月28日)

両面作戦(哲学の地政学)(2004年11月1日)

スシボンバーの憂鬱(2004年10月20日)

デーゲーム(2005年5月19日)


「国立大は安い」今は昔? 入学料では私大と逆転

 国立大で入学料や授業料の値上げが続いた結果、入学料では国立大の方が私立大より高い“逆転現象”が起きている。充実した施設とともに、国立大の売りだった「安さ」。各大学は「これ以上学生の負担を増やすことがないように」と、国の予算編成を前にさらなる値上げを警戒している。

 長崎市で7日、開かれた国立大学協会(国大協)の総会。会長の相沢益男東京工業大学長は「入学料の値上げは断固反対だ」と発言した。今春に授業料の基準となる「標準額」が1万5000円引き上げられたため、「次は入学料」という警戒感を国大協として表した。(共同通信) - 11月14日11時37分更新

cf. 大学は出たけれど2005(2005年5月7日)


授業料減免 全学年一斉に厳格化 大阪府立高 公平性など重視

 大阪府教委は十一日までに、来年度から適用基準を厳しくする府立高校の授業料減免制度について、全学年一斉に適用する方針を固めた。九月議会では新入生から段階的に実施する方向で検討していることを明らかにしていたが、公平性の観点や、財政難から早期に全面適用を求める声などもあり、一斉適用を採用することにした。今年度に減免を受けている生徒については、経過措置として新基準で除外されても現行基準(旧基準)で再審査する。

 府立高校の年間授業料は全国一高い十四万四千円。平成十六年度で全国トップの24・4%、ほぼ四人に一人が減免を受けている。新制度では両親と子供二人のモデルケースで、これまでは総収入四百三十六万円以下だった全額免除の基準を二百八十八万円以下まで引き下げる。

 減免の基準になる収入は、これまで源泉徴収票や確定申告書の控えなどで判断してきたが、不動産などの副収入や複数の収入先がある場合などは把握が難しいため、新制度では住民税の課税証明書をもとに正確な収入を算定する。

 運用について府教委は、九月議会で「在校生は現行の減免制度を利用することを前提に府立高校に進学したという事情もある」と答弁。新基準の適用は新一年生からとし、二、三年生については旧基準を適用する方向で検討してきたが、公平性などを欠くことから見直すことにした。

 ただし、今年度に減免適用を受け、新制度では除外対象になる生徒については、経過措置として旧基準で再審査を行い判定する。

 この場合の適用期限は修業年限プラス一年で、全日制などは平成二十年度、定時制や通信制などは二十一年度、高専は二十二年度まで運用される。

 府教委は新基準での正確な収入状況を把握できる書類を基に、これまでの適用者に制度見直しに伴うしわよせが大きくならないように努めるとともに、「収入が多いのに減免を受けているケースがある」といった批判も解消したい考えだ。(産経新聞) - 11月11日15時12分更新

Sunday, November 06, 2005

Invasions barbares

以下のことは、特に、科学哲学や分析哲学など、科学性・厳密性・普遍性を標榜する学問に携わる若い研究者たちに向けて書かれている。

哲学が、あるいは一般的に言って学問が、真理を目指し、普遍性を目指す営為であるなら、それにより見合った手段でなされるべきである。現在、自然科学の分野で英語がスタンダードと化したのは、――愚かなファシストが言うように、英語が「数を数えるのに適している」からでないことは言うまでもない――、世界の歴史的・政治的・経済的な動向がもたらした必然的帰結である。

哲学では、現在、英・独・仏の三ヶ国語が他にぬきんでて、特権的な地位を占めている。もし私たち日本の哲学者が世界の哲学の動向に積極的にコミットしたいと思えば――それ以外に真理や普遍性の探究に参与する方法があるというなら、禅でも日本語でも「日本固有」のものを持ち出せばよい――、好むと好まざるとにかかわらず、これらの言語で読み、書き、話していかなければならない。

この厳然たる事実の哲学的な意味を理解している日本の哲学者はどれくらいいるのだろうか。逆に言えば、日本語でしか思考できないことを思考し、書けないものを書いている哲学者がどれくらいいるのだろうか。そうでなければ、普遍性の探求であり、世界に開かれてあるべきはずの哲学研究を、なぜ日本語という普遍性に開かれているとは言いがたい言語で書くのか(私はもちろんここで各言語の質的優劣を論じているのではない)。

≪ある個人が言語共同体の外にいるとき、その人は社会的な共同体一般からも脱落してしまうことになるのです。なじみのない言葉を話す人はそのままよそ者、すなわち、内的な人間的-道徳的な絆が成り立たない「野蛮人」と思われてしまうのです。

たとえその人が高度の精神文化を身につけていても、今所属している共同体の内部で言語的に理解されないならば、その人はすぐさま「野蛮人」になってしまうのです。オヴィディウスがTristia ex Pontoで、「この地では、わたしは野蛮人だ。というのは、何も分かってもらえないのだから」と述べているとおりなのです。

言語を越えた共同体という思想、すなわち特定の言語の使用により作り出され、まとめあげられるのではないhumanitasという思想が獲得されるまでには、きわめて大きな努力が費やされ、きわめて大きな精神的-道徳的な苦労が必要であったことを、人類の歴史は教えてくれます。

たしかに、この「人間性」という理念は言語を越え出ています。しかし観点を変えれば、言語はこの理念への不可欠の通過点であり、この理念に至るためにぜひとも必要な段階だということになるのです。≫
(カッシーラー、「言語と対象世界の構築」)

Saturday, November 05, 2005

Ce qui nous manque

France Cultureというラジオ局がある――以下に書くことはどれもフランスに住んでいる知識人なら知っている基本的な情報ばかりである――。プログラムを一瞥していただければ分かるように、ハイカルチャー・ラジオ局である。

Des tours de Babelではハイカルチャーテレビ局の話をした。どうもこういう話ばかりしていると、自分が鼻持ちならない教養主義者のような気がしてくるのだが、しかし教養総崩れの現在の日本を見ていると、やはりどうしてもこのような「反動」的な姿勢をとらざるを得ない。私が教養主義者なのではなく、現在の日本の知識人の平均があまりにも教養を軽視しすぎるのである。)

毎週金曜日の午前9時からは、CIPのFrançois Noudelmannらが監修する"Les Vendredis de la philosophie"という番組がある。今日は、ベルクソンについて、フレデリック・ヴォルムスが50分ほど話した。先週はドゥルーズについて新しい世代(我々の世代まで含めて)が話していた。放送はネット上で一週間だけ聴くことができる(一週間経つと消えてしまうので注意!)ので、興味のある方はどうぞ。

日本では、いかに文化的な放送局であっても、純粋に哲学的な議論のためだけに毎週金曜日の午前9時という時間帯を開放してくれるところがあるだろうか。古くはデモクリトスやエピクテトスから、エックハルトやジョルダーノ・ブルーノを経て、ナンシーやランシエールに至るまで、毎週専門家を呼んで、小一時間しゃべってもらえるところが?

もちろん、こういったことは一方で、国家の文化政策(文化省)のバックアップが欠かせないし、他方で、哲学の新刊書を出す際に宣伝を打ちたいと考えている学術系出版社との協力が欠かせない。フランスの大学界がさまざまな問題を抱えているとしても、こういう側面では日本よりはるかに進んでいる、と言わざるをえない。

すると、こんな答えが返ってくる。フランスと日本では制度が根本的に違うのだから、羨んでみても仕方ないのだ、と。そんなことなら何十年も前から分かっているのだ、と。なるほど。

では、少なくとも、羨むところから始めよう。この放送を聴いて、我々(個人としての我々、制度としての我々、文化国家としての我々)に欠けているものが何かを正確に把握するところから。少なくとも。

しかし、それすらも難しいのだ。なぜならネオリベ的な大学改革に反対している私の友人たちですら、1)フランスにおける哲学の特殊な位置づけに話を還元して事を片付けるか、2)こちらも「現実主義」で対抗すべきなので、古典教育だとか教養主義だとか悠長なことは言っていられない、と考えているようだからである。しかし、果たしてそうだろうか。

Monday, October 31, 2005

Sho SAITO

Né en 1968. Ancien étudiant à l'Université de Kyoto. Maître de Conférences d'études des langues et cultures à l'Université d'Osaska. Auteur de Humboldt no Gengo-kenkyû. Yûkitai tositeno Gengo (Recherches linguistiques de Humboldt. Langage comme organisme), Presses universitaires de Kyoto, 2001.

Ses articles écrits en allemand:
- "A. F. Bernhardi und W. v. Humboldt. Eine negative Auswirkung der allgemeinen Grammatik", in Neue Beiträge zur Germanistik (Japanische Gesellschaft für Germanistik), Bd. 3/5, 2004, pp. 75-91.
- "Zur Analytik des Sprachphänomens", in T. Ogawa, G. Rappe, M. Lazarin (eds.), Interkulturelle Philosophie und Phänomenologie in Japan. Beiträge zum Gespräch über Grenzen hinweg, Iudicium Verlag (München), 1998, pp.85-106.
- "Der "Menschliche Ursprung" der Sprache und die "Leibniz-Aesthetische Hülle" bei J. G. Herder", in Herder-Studien (Herder-Gesellschaft Japan), Bd.2, 1996, pp. 30-46.

Pour en savoir plus, voir son site: Sho Saito Webseite Posted by Picasa

Kiyonobu Date

これからは少しずつ、友人たちの仕事を相互に紹介するように心がけていきたい。ちなみに、pense-bêteその他で、私が表明している個人的な政治的・社会的・哲学的見解に、彼らが必ずしも賛同しているわけでないことは言うまでもない。

まず、pense-bêteにも名前を連ねていただいている、伊達(手戸)聖伸さん。フランスにおける宗教問題、いわゆるライシテ(脱宗教化・非宗教化・政教分離)問題、特に第三共和政下におけるライックな道徳の専門家である。彼の研究生活および奥様との仲睦まじい日常生活を綴った「kiyonobumie」。ご一読をお勧めします。

Kiyonobu DATE

Ancien étudiant à l'Université de Tokyo. En tant que doctrant à l'Université Lille III, prépare une thèse sur La Morale laïque sous le régime de Troisième République. Dans la Laïcité 1905-2005, Entre passion et raison (Seuil, 2004), Jean Baubérot mentionne son mémoire de DEA sur "La Morale laïque scolaire à travers le cas du département du Nord" (2003).

Pour en savoir plus, voir son Blog (en japonais) :
Kiyonobumie. Posted by Picasa

Sunday, October 30, 2005

近況

一ヵ月半、日本に一時帰国していた。ようやくひと段落着いたので、近況を記す。

2005年9月10日(土)日仏哲学会にて「ベルクソンの身体概念-フランス唯心論の再検討」と題する発表を日本語で行なう。

2005年10月15日(土)日本フランス文学会にて「ベルクソン哲学におけるrythmeとmesureの問題」と題する発表を日本語で行なう。

現在抱えている作業は次のとおり。
・カッシーラーのある論文を仏訳したので、それに付す解説を仏語で執筆中(11月上旬)。
・上記二つの発表を仏語論文として執筆(11月下旬~12月下旬)。
・もう一つ翻訳作業にタッチしているが、正直あまり気乗りがしない。
・来年1月に友人の古代・中世哲学講義での「ベルクソンとアリストテレス」に関する発表の準備。
・来年2月にリールで行なわれる予定の研究会での発表の準備。

Wednesday, August 24, 2005

ギイェルミの偉大さ:翻訳者、教育者、哲学者

 「今、フランスで人気のある、「売れ線」の、「旬」の哲学者っていうと誰なの?」と日本の友人たちによく聞かれる。聞くほうは別に悪意があるわけでもなく、ただ純粋な好奇心か、話題に困ってか、あるいはむしろ親切心か同情心で聞いてくれるのであろう。

 しかし、そういうことはパリの”トレンド・トレーダー”にでも訊いてもらいたい。私は大リーグ通になりたいのではなく、大リーグで勝負したいのである。パンチョ佐藤になりたいのではなく、3Aでも、1Aですらいいから真っ向勝負で自分の力量を試したいのである。ここに記しているのは、その練習メモのようなものかもしれない。



 フランスと日本では制度が根本的に違うのだから、羨んでみても仕方ないのだという。そんなことなら何十年も前から分かっているのだという。なるほど。しかし私がここでやりたいのは、ルサンチマンを吐き散らすことではない。いかに幼稚で、基本的なことであろうと、具体的に実行可能な対案を模索したいのである。

 例えば、マニュアル本以外に、過去の偉大な(「有名な」ではない)哲学者たちの講義録を可能な限り廉価で出版すること。例えば、哲学のさまざまな古典的テーマに関するアンソロジーを可能な限り廉価で出版すること。例えば、哲学のクラシックの原語との対訳版を可能な限り廉価で出版すること。

 しかし、古典的なテクストを原典で読むという作業を学生にますます課しにくくなっている(学生・大学・政府の「要望」に答えねばならないから、学生の語学力・読解力が限りなくお粗末なものになってきているから)現状の中では、このような出版では採算がとれないのだという。

 フランスでは、このような採算の見込めない学術書の廉価出版に対しても、しばしば「国立図書センターによる援助」"avec le concours du Centre national du Livre"がなされる。日本では、高価な学術出版に関してこの種の財政的援助が見られるが、廉価の出版に関しては(少なくとも私の知る限り)存在しない。学問とはいったい誰のためのものなのか。すると、こんな答えが返ってくる。

 フランスと日本では制度が根本的に違うのだから、羨んでみても仕方ないのだと。そんなことなら何十年も前から分かっているのだと。... da capo senza fine.



 哲学的アンソロジーが重要なのは、哲学において教育ということが本質的な位置を占めるからである。教育において哲学が本質的な位置を占めることもまた言うまでもない。「哲学の教育、教育の哲学」という表現が単なる言葉遊びでなく、哲学における最も重要な問題の一つを言い当てている所以である。

 この機会に、ギイェルミ(Louis Guillermit, 1982年死去。生年不明)の優れたアンソロジー『プラトン自身によるプラトン』の紹介をしておこう(Platon par lui-même, éd. de l'Eclat, 1989; repris dans la coll. "GF-Flammarion", 1994.)。


1.翻訳者ギイェルミ
 ギイェルミは、フランス哲学界ではまずもってカント翻訳者として知られている。ヴラン社から出ている『論理学』(1966)、『理論と実践』(1967)、『プロレゴーメナ』(1968)、『判断力批判第一序論』(1975)の翻訳は彼の手になるものである。権威あるEncyclopoedia Universalisの「カント」の項や、定評ある『シャトレ哲学史』第V巻の「カント」の章を執筆したのも彼である。彼のカント研究の集大成的な著作として、死後出版された L'élucidation critique du jugement de goût selon Kant, texte établi et présenté par E. Schwartz et J. Vuillemin, éd. du CNRS, 1986. また、18世紀後半のドイツ哲学ということで言えば、彼の博士論文 Le réalisme de F.H. Jacobi, Aix-Marseille, Publications de l'Université d'Aix-en-Provence, 1982.がある。

(せっかくの機会だから、ギイェルミのヤコービ研究について一言しておこう。

「神秘主義者ヤコービ」という流布しているイメージに対して、ギイェルミは「神秘主義的なものと実証的なものとを逆説的に組み合わせることである種の「実在論」を導き出そうとしたヤコービ」という解釈を対置する。哲学には「経験」を捉えきることはできないとしてその「不当」な権利主張を退け、むしろ神秘主義的なもののうちに経験の核となる客体=対象、すなわち現実的なものを探し求めたヤコービの思考を、ギイェルミは、「非哲学non-philosophies」の系列に属するものと見なす。

実証的なもの(positif)は、ベーコンの与えた意味(もはやそれ以上説明できない最終的な事実が自然の実証的な法則と合致するものと見なされる場合の実証的なもの)を引き継いでいるように思われる(…)。神秘主義的なもの(すなわち、ヤコービ自身が言うように「完全に神秘的なもの」)は、レヴィ=ブリュールの与えた意味(「神秘主義的なものとは、感覚には知覚されえないにもかかわらず現実的な力・影響・作用の存在を信じる場合に言われる」)と同時に、偽ドゥニが創出した狭義の宗教的な意味(「理性的推論ではなく愛による神との結合がもたらす学」)でもありうる。(p. 65, n.2.)
ギイェルミは、ヤコービの実在論(リアリズム)のきわめて独創的なあり方を強調しつつ、その実在論が必然的に経験と信仰との関係に関する反省を促す以上、ヤコービの思想は神学的伝統よりも、むしろ例えばレヴィ=ブリュールによる原始心性の分析など人類学的伝統のほうに近いのだと繰り返し指摘している。以上の記述は(とりわけこの最後の点に関しては)、友人フレデリック・ケックに負っている。彼の博論の註611を参照されたい。http://www.univ-lille3.fr/theses/keck-frederic/html/these_notes.html 


2.教育者ギイェルミ
しかし、ギイェルミには翻訳者以外にもう一つの顔がある。教育者の顔である。ジャック・ピジョーは、『プラトン自身によるプラトン』の序文でこう述べている。

ルイ・ギイェルミが偉大な翻訳者であることは、彼のカントの翻訳によって知れ渡っていた。彼は偉大な翻訳者であり、かつ偉大な哲学者であった。一方を抜きにして他方を語ることはできない。(p. 8.)

これはもちろん、哲学書を正確に翻訳するためには語学力のみならず根本的な哲学的素養が必要であり、哲学書を正確に理解するためには哲学的な素養でだけでなくしっかりとした語学力の裏づけがなければならないからである。より正確にこう言おう。「ルイ・ギイェルミは、偉大な哲学翻訳者であり、かつ偉大な哲学教育者であった。つまりは端的に偉大な哲学者であった」(Louis Guillermit était un grand traducteur de philosophie et un excellent professeur de philosophie, bref un grand philosophe tout court.)と。翻訳・教育・哲学を切り離して考えることはできないのである。

ピジョーはこう続けている。

ルイ・ギイェルミは、かなりの量のきちんと書き下ろされた講義ノートをあとに遺した。生前カーニュ(ノルマル準備クラス)や大学の授業で用いられ、絶えず改良を加えられていたこれらの講義は、彼の学生たちを虜にした。

このギイェルミの教育者としての本領が最もよく垣間見られるのが、彼の講義録『プラトンの教え』(L'enseignement de Platon, 2 tomes, Nîmes, éd. de l'éclat, 2001.)である。第一巻は、『カルミデス』『ラケス』『リュシス』『エウテュプロン』『大ヒッピアス』『小ヒッピアス』を、第二巻は、『ゴルギアス』『パイドン』『メノン』を扱っている(『国家』『ソピステス』を扱う最終第三巻は、2002年刊行予定であったが、未だ未刊)。

第二巻序文で、ジル・ガストン・グランジェはこう述べている。

ルイ・ギイェルミは、私も含め同世代の者たちの中でも抜きん出て優秀な研究者であったが、あまり多くの業績を残さなかった。にもかかわらず、私たちはカントやヤコービに関する彼の仕事を知っている。また、パリやエクサンプロヴァンスでの授業は、学生たちの心に比類なき哲学的遺産を残した。私は学生たちから非常にしばしばその名講義ぶりについて聞かされたものである。(…)

ルイ・ギイェルミは、同世代のプラトン注釈者たちのうちで疑問の余地なく最も優れたもののうちの一人であった――いや、おそらくは最も優れていた。彼の聴衆たる学生に向けられたこれら対話篇の解釈は、彼がいかに深くプラトン思想に馴染んでいたかを示すと同時に、彼の例外的な教育者としての才能をも示している。きわめて適切に『プラトンの教え』というタイトルを付された本書においても、ギイェルミが常々説いていた、話しかけるような、対話のような表現の長所が見出される。


par Jean BlainLire, mars 1995Cette anthologie constituée de textes extraits de l'ensemble de l'œuvre de Platon, regroupés autour des principaux thèmes de sa pensée, est l'une des meilleures introductions qui soient à la philosophie de l'auteur de La République. Ce grand professeur que fut Louis Guillermit, mort en 1982, ne s'y propose - rien de plus mais rien de moins - que de laisser Platon commenter Platon.Ces pages, choisies pour leur caractère exemplaire ou significatif et servies par une belle traduction, s'adressent à tous ceux qui désirent s'orienter dans la lecture d'un des plus grands penseurs de tous les temps.
http://www.lire.fr/critique.asp/idC=30611/idR=210/idTC=3/idG=7

Thursday, June 09, 2005

怠ける権利のために(Le droit à la paresse, à la Nietzsche)

≪挽歌。

――瞑想的生活の後退やときにはそうした生活の過小評価を伴ってくるということは、おそらく我らの時代の長所なのであろう。しかし我らの時代が偉大なモラリストに乏しく、パスカル・エピクテトス・セネカ・プルタルコスがもうほとんど読まれず、労働や勤勉――以前は健康という大いなる女神のお供であった――がときおり病気のように荒れ狂うかに見えるということは、率直に認めなくてはならない。思索のための時間も思索にある安らぎも欠けているので、人はもう相違する見解を吟味しない。それを憎んで足れりとしている。生活速度が恐ろしく増したので、精神も眼も半端なまたは間違った観察や判断に馴らされ、誰もが土地や住民を鉄道によって知る旅行者に似ている。

自主的な慎重な認識態度はほとんど一種の狂気として見下げられる。自由精神は悪評されている。特に学者たちによってだ。彼らは自由精神の物の見方に、彼らの深遠性や蟻の勤勉さが欠けているのを不満として、自由精神を学問の片隅に閉じ込めておきたがっている。ところが自由精神は、孤立した立場から学者・博識者の全召集軍を指揮して彼らに文化の進路や目標を示すというまったく別のさらに高い課題をもっているのである。――

今歌われたような嘆きは、たぶん止むときが来るであろう、そしていつか瞑想の精霊の堂々たる帰還に際して自ずから黙り込むであろう。≫



≪活動家の主要欠陥。

――活動家には通常高級な活動が、私のいわゆる個人的な活動が欠けている。彼らは役人・商人・学者として、つまり類的存在としては活動的であるが、はっきりときまった個々の、しかもかけがえのない人間としてはそうではない。この点から見れば彼らは怠慢である。

――彼らの活動がほとんどいつも幾らかは不条理であるということが、活動家の不幸である。たとえば、金を貯めている銀行家にその休みない活動の目的をたずねてはならない。この活動は不条理なのである。活動家は、石が転がるように、機構の無感覚性に従って転がっていく。

――あらゆる人間は、あらゆる時代と同様に、今でもまだ奴隷と自由人とに分かれている。なぜなら、自分の一日の三分の二を自分のために持っていない者は奴隷である。その他の点ではたとえ彼が政治家・役人・学者など何者であろうとしても同じことである。≫



≪閑人のために。

――瞑想的生活の評価が下がってきた印として、学者たちは今では一種のせかせかした楽しみを求めて活動家と張り合い、それでしたがってこの楽しみ方を、本来彼らに属しているような、そして事実はるかに多くの楽しみともなるようなやり方よりも高く評価しているかに見える。

学者たちは閑暇を恥じる。しかし閑暇や無為は高貴なものだ。

――無為が実際あらゆる悪徳の始まりであるならば、したがってそれは少なくともあらゆる美徳のすぐ近くにあることになる。暇な人間は常に、活動家よりまだましな人間だからである。

――だが、私が閑暇や無為ということで、諸君を指しているとはまさか思うまいね、怠け者の諸君?――≫(ニーチェ、『人間的な、あまりに人間的な I』、第5章、断章282-284)