今日見たCharles Laughtonの"La nuit du chasseur"(Night of the Hunter, 1955, US, 1h33)は、久しぶりに当たりでした。問題となっているのは、reality/real/realismであり、サスペンスとおとぎ話をいかに交錯させるか、であるように思われます。
青髭を下敷きにしたマルセル・カルネの傑作「愛人ジュリエット」は、完全にシュールな設定を夢の中に置くことでおとぎ話を無理なく観客に納得させ、ジェラール・フィリップの焦燥感を強調することで現実感・リアリティを喚起することに成功していました。しかし、子供たちを主人公にした場合、現実感はどうしても薄れます。子供の想像力が、楽しげなものであれ、恐怖に満ちたものであれ、等しく幻想を肥大させるからです。
Robert Mitchum扮するダンディな、しかし右の拳にLOVE、左の拳にHATEと彫り込んでいる一風変わった牧師は、神に楽しげに話しかけながら次々と犯罪を犯す一点の曇りもない悪党で(映画館の中で退屈そうに周りを見渡し「全員殺すことは出来ないな」と呟き、ジャケットのポケットから飛び出しナイフを突き出す姿に、我々は彼が『羊たちの沈黙』のレクター博士のような正真正銘の精神異常者であることを予感します)、車を盗んだかどで(本当はそれどころではないということを終わり近くになって我々は知らされるのですが)刑務所に行くことになります。
同じ頃、おそらくは最初の男がつかまった所から遠からぬどこかでしょう、大急ぎで自分の家に戻ってきたもう一人の男は、何かをどこかへ隠してから、表で遊んでいた9歳くらいの長男と4歳くらいの娘に決して秘密を話さないと誓わせ、その隠し場所と、それがとんでもない大金であることを明かします。到着した警官たちによって取り押さえられ地面に押さえ込まれた彼もまた銀行強盗と殺人の罪で刑務所へ、こうして二人の犯罪者が出会うことになります。
男が夢にうなされて思わず口走ってしまった「あれは大丈夫だろうか。しかし…そして子供達がそこへと導いてくれるだろう」の後半部分が聖書の言葉であることを、うわべの慈愛と底知れぬ皮肉に満ちた笑みを浮かべつつ指摘しながら、牧師は「あれ」が大金であることを直感し、静かにそれを奪い取ることを決意します(このミッチャムの言葉を待つまでもなく、リリアン・ギッシュがマタイによる福音書の「良い木には良い実」の個所を朗誦する冒頭で、我々はすでにこの映画が聖書への言及に満ちた作品となるだろうことを告げ知らされています)。
数ヵ月後、出所した牧師は、兄妹とその母のもとを訪れます。ここまで計算された省略語法で一気に「伏線」を喋った後で、からスローテンポです。穏やかな張り付いたような笑みと巧みな弁舌ですぐさま街の人々ばかりか、その母と娘(この少女の牧師への親愛の情は、絶えず曖昧なままであり、それがまたサスペンスの一要素を構成するのですが)までも陥落した彼も、一徹さと聡明さを兼ね備えた長男はそうやすやすとはいかないということを見破り、作戦を変更します。金目当てに自分の近寄ってきたのではないか、と内心疑念を抱いていた(しかし同時に疲れきった心のどこかで、誰かに頼りたい、何かにすがりたいと感じている)少年の母には、刑務所で死んだ主人が「金は川に捨てた」と言っていたと語って聞かせて、女性の頑なな心を解きほぐし、結婚にこぎつけた後で、じっくり時間をかけて子供たちの心に取りかかることにしたのです。賢明なヘンゼルとグレーテルのような(…)