Sunday, December 30, 2007

二十歳の微熱?(「哲学と大学」のために)

プロ野球選手は、選手として自分のパフォーマンスを最大限に上げることを目指すと同時に、一事業主として、自分たちの属するプロ野球界がより公正で、より魅力ある形で発展するよう、議論を怠らない。若手選手であろうが、同じことである。

若手研究者はよりよい研究をすることにだけ没頭していればよいのだろうか?私は「政争」などに首を突っ込もうとは思わない。ただ、自分の置かれた状況に関して、その「歴史」を学び、その「政治学」を学び、哲学的な分析を施し、そのことによって状況がより開かれたものになるよう、稚拙ではあれ、絶えず試みたいとは思う。

私個人の研究は、それがいかに拙いものであれ、研究史を学び、その問題点を浮き彫りにすることで当該分野の刷新に貢献しようとする問題意識に貫かれている。

問題意識に貫かれた研究をするだけでなく、問題意識そのものをすでに何度も公表している(「世界におけるB研究の現在」「観客でも批評家でもなく」)。

状況に対する批判的考察だけでなく、積極的な「介入」も行ないうる限り行なっている。例えば、国際シンポジウムをやる。ただし、西欧の有名な研究者を読んでお話を拝聴、そんなことはやらない。彼らを呼ぶとしても、それはガチンコ勝負の場を用意するためであり、日本の第一線の研究者たちにフランス語で発表してもらうため、その現場を若手研究者たちに見せるためだ。

このような発想は、過去数十年の日本の哲学研究に対する私なりの見方から出てきた私なりの回答である。つまりは、私なりの「理論的介入」であった。何人かの若手は本当の意味でインパクトを受け取ってくれたように思う。それは彼らの今後の行動で分かってくるだろう。

自分がそこに身を置いてものを考えている「場所」について考え、書き、そして介入すること、この「理論的実践pratiques théoriques」なしに哲学的思索の深まりなどあり得ない。これが私の素朴な、しかし深い信念である。

日本において哲学は大学で展開されている。哲学の唯物論的基盤は大学であり、日本の哲学的思考は大学という知の再生産機構によってその形態・内容を規定されている。だが、「哲学と大学」という結びつきは決して普遍的に自明な事柄ではない。そしてだからこそ問いかけねばならないのだ。哲学と大学はいかなる関係を結んでいるのか、結びうるのか、と。

「哲学と大学」と言ったとき、単に「哲学科」のみが問題になっているわけでもないし、教えられる学科内容としての「哲学」だけが問題になっているわけでもない。

私がこの問題について考え始めたのは最近のことではない。新しいのは、少人数ながら同志を得て、共に考え始めたこと、このことである。

レディングズを読み、『諸学部の争い』を読み、フンボルトを読む。それは、哲学・思想研究者なら誰もが通り過ぎる「二十歳の微熱」なのだろうか?そうかもしれない。だが、そうであるとしても、日本の過去数十年の思想的・政治的状況は、まさに、「それは誰しもが通り過ぎる道」と言いながら、実は誰も真に通り過ぎてはいなかった、誰も共に通り過ぎてはこなかったという事実を端的に示してはいないだろうか?

大学論も哲学論も教育論も教養論も山ほどある?そのとおり。そして結果は、西洋哲学の観客であり批評家である。日本の現状に対して毒にも薬にもならない観客であり批評家である。「教育再生会議」!

哲学には現実を分析し、分析によって介入する力があると信じるのか否か、問題はそれだけだ。哲学史は哲学の重要な一要素だとは思うが、哲学のすべてだとは思わない。

「教育の哲学、哲学の教育」「結婚の形而上学とその脱構築」「旅行の哲学。世界観と遠近法主義」、他人から見てどれほど幼稚に見えようとも、私にとってはどれも哲学的なessaiなのである。

Thursday, December 27, 2007

「理科系離れ」が本当に意味していること

飛行機の中で、『教育民主化の袋小路。「理科系の危機」について』という本を少し読んだ。

Bernard Convert, Les impasses de la démocratisation scolaire. Sur une prétendue crise des vocations scientifiques, éd. Raisons d'agir, octobre 2006.

内容をかいつまんで説明しておくと――

≪近年、理科系離れの進むフランスは、世界的な科学技術競争で後れをとっている。これはおおよそ事実だが、その説明とされる主張は完全に誤っている。いわく「嫌いになったから」、「怠けるようになったから」、最近の子供たちは、理科系の授業の厳しさから逃げ出すようになった、というのである。

フランスの大学における理科系離れの兆候は、1990年代中頃に現れた。物理学と化学、次いで生物学と数学。この現象には歯止めがかからず、教員たちは懸念を表明し始めた。事が公になると、ジャーナリストや政治家がさまざまな説明を付け始める。時の文科相[ministre de la Recherche]は、科学に対する「意欲の欠如」だと「説明」した。この手の分かりやすい説明は、多くの人々の賛同を得やすく、反論するのが不可能なほど曖昧模糊としているので(「努力しようという意欲の喪失」などなど)、またたく間に広まってしまった。

モリエールの医者たちが説明に持ち出したvirtus dormitivaの現代版[日本で言えば「昔は空き地があり、ガキ大将がいたから、いじめがなかった」というアレな説明である]には大きく分けて三つある。

一つは、イメージの問題である。科学技術の進歩が問題解決よりもむしろ解決不可能な問題を量産することに役立ってしまっている、というのである。だが、各種世論調査が示しているように、科学や科学者という職業は常に非常な敬意の対象となっているし、それより何より、大半の生徒たちはそういった「イメージ」で進路選択をしているわけではない。

二つ目は、教育の問題である。科学教育は、アカデミックすぎる、堅すぎる、例えば最近の物理学は過度の数学化が進み、素朴な好奇心や直にものに触れ、実験するという姿勢を忘れてしまった、というのである[有馬…]。この問題は、結局は、次の三つ目の問題と結びついている。

要するに、現在の理科教育は難しすぎる、だからより「易しい」、より「報われる」学問が選ばれるのだ、理科系の学問は学者として成功するのが最も難しい学問だ、というわけである。だが、この手の主張は説明すべき事柄を先延ばしにしたにすぎない。理科系の学問に「難しい」というイメージがあるのは今に始まったことではない。ならば説明すべきは、二十年前より易しい内容を教えているはずの今日の理科系からなぜ学生は離れていくのか、ということであるべきだろう。

これらの説明が不十分であるのは、見定めるべき「兆候」を見誤っているからである。理科系に進学する学生数の減少に目がくらみ、国を支える科学・技術の未来を憂えて、ジャーナリストや政治家、有識者たちは、この現象に過度に注目しすぎているのである。生徒たちが理科系に進まなくなったのは、科学に不満を持っているからだ、科学が好きでなくなったのだ、イメージだ、教育だ、難しすぎる…

だが、この事態において本当に問題になっているのは「理科系」なのだろうか?筆者コンヴェールの主張はこうだ。

いわゆる「理科系離れ」の背後には、実は、1980年代末に始まった高等教育の変化が潜んでいる。行政当局の圧力と、数を増す一方の生徒(そして親)の要望に圧され、大学は、企業の要求に応える即戦力教育(formations professionnalisées)を重視し、いわゆる純粋理論系の基礎研究を疎かにしてきた[言うまでもないが、金になる基礎研究は別である]

1990年から2000年までの高等教育への進学内訳を見てみると、興味深い事実が浮かび上がる。それは、生徒たちが離れていったのは「理科系」ではなく、「大学全体」だということ[ここには特殊フランス的な要因があり、日本と単純比較はできない]、より正確に言えば、大学で教えられる「理論的な学問全体」だということである。すなわち文学、人文学、経済学、法学もまた、まったく同じ時期に入学者数が減少に転じているのだ。これらの学問も突如として「イメージ」が悪くなったり、突如「難しく」なったり、突如教育を見直さねばならなくなったのだろうか?

理科系離れは、現在なお進んでいるより大きな現象の一要素にすぎず、このグローバルな現象をこそ解明せねばならないのである。≫

日本には、「理科系離れ」の神話よりさらに厄介な神話もあるわけだが。。


理科専科教員の設置、「道徳」教科化…教育再生3次報告
12月25日22時42分配信 読売新聞

 政府の教育再生会議(野依良治座長)は25日、首相官邸で総会を開き、理科教育強化のために理科専科教員の設置を進めることや小中学校で「道徳」の教科化などを柱とした第3次報告を決定し、福田首相に提出した。

 同会議は来年1月、これまで3回の報告を踏まえ、最終報告を取りまとめる予定だ。 第3次報告は、「公教育の再生」を掲げ、<1>学力の向上<2>徳育と体育の重視<3>大学・大学院の抜本改革<4>学校の責任体制の確立――などを重点課題とした。

 具体的には、2006年国際学習到達度調査(略称PISA)などで、理数系の学力水準が低下していることを踏まえ、小学校高学年に理科専科教員の設置を進めるなど、理科教育の強化を打ち出した。さらに、学力向上に向けた意見交換のため、各都道府県の代表者による「全国教育再生会議」の開催を提案した。

Tuesday, December 25, 2007

クリスマス・プレゼント

パリを去る前日、友人ヴァイオリニストjvがオペラ・コミックでのゲネプロに招待してくれた。フレンチ・オペラの救世主ガーディナーの指揮で、ChabrierのL'étoile。演奏は少し硬かったかもしれないけれど、素人の私にそんなことが気になるはずもない。通常のオペラ・ブッファより繊細なタッチの音楽にのせた馬鹿馬鹿しくも大胆不敵なリブレットに、みんな大喝采。ちょっと早いクリスマス・プレゼントだった。

"Malgré toutes les qualités que j'ai évoquées, L'Etoile reste pour beaucoup à redécouvrir.

C'est qu'en effet le public français du XXe siècle s'est éloigné de sa tradition musicale pour se tourner principalement ves les répertoires italien et allemand. C'est l'une des bizarreries de l'évolution du goût moderne. On peut l'expliquer en partie par le fait que l'internationalisation des pratiques rend le répertoire français, et singulièrement comique ou bouffe, plus difficile à appréhender.

Pourtant, je pense que nous vivons aujourd'hui un moment historique et je suis heureux d'avoir la chance d'y participer. C'est un grand plaisir artistique de renouer avec ce répertoire mais aussi avec ce théâtre, où l'on sent battre l'âme de la musique française." Sir John Eliot Gardiner

On pourrait dire la même chose à propos de la philosophie française du XIXe et du début du XXe siècle. Husserl et Heidegger sont un Rossini et un Wagner en philosophie. Pourtant, je pense que nous vivons aujourd'hui un moment historique et je suis heureux d'avoir la chance d'y participer...

今夏来、彼と私の軽くて熱い議論の主題だったからだろうか。一昨日、友人vcがラルースの彼のコレクションから「結婚の形而上学とその脱構築」のポピュラー・バージョンを出さないかと提案してくれた。poisson d'avrilじゃないのと軽口を叩きつつ、もちろん承諾。軽い本になるけれど、書きたい主題なので。二年後に出す予定。これもクリスマス・プレゼントかな。

Thursday, December 20, 2007

喫緊の課題

12月18日、パリ第8大学のClaude Mouchard教授が、東大・駒場で開かれていたレクチャー・セミナーに参加。ミショーのL'espace aux ombres読解にはいろいろ示唆を受けた。私の「記憶の場所」論に活かせないかと思ってのこと。

12月19日、青山大学のFrançois Bizet助教授の講演"Post-exotisme : sur Antoine Volodine"に参加。「旅行の哲学。世界観と遠近法主義」に活かせないかと思ってのこと。

当面の課題。ひと月で三本。フィジカルと技術的精度。

1)十二月末までに日本語論文を某雑誌に投稿。
2)一月中旬までに仏語論文を完成(掲載決定済)。
3)同じく一月中旬までにベルクソンの隠喩論を完成(掲載決定済)。

Wednesday, December 19, 2007

課題

声を掛けてみる。何度も、何度も。辛抱して待ってみる。じっと待つ。粘り強く。

呼び声は、「自分が呼びかけられているのだ」と呼びかけられている者が気づいて、はじめて成立するものだ。

それでも駄目なら、仕方がない。諦めるというのではない。時節を待つ。

奉仕は往々にして罠に変わるものだから。奉仕という病の疾病利得。

ただ待つのではない。その間、自分を鍛え続ける。



どのように前に進むのか。フィジカルと共に技術的な精度を上げること。課題はひとまず三つ。

A. 言葉。語学力の向上。

1.フランス語をもう一度、一から叩き直したい。関連して、翻訳技術の向上に取り組みたい。つまりは日本語力の向上に。
2.英語とドイツ語のパフォーマンスをもっと上げたい。
3.ラテン語とギリシャ語再入門。
(4.イタリア語とポルトガル語をせめて継続的に勉強していきたい。)

B. ベルクソン研究の深化(ショートプログラム)

ひとまず完成したばかりの研究だが、各パーツの再検討を始める。それぞれを深めるために、資料を再検討し、可能な限り厳密な形を目指したい。幾つかの論文として、仏語・英語・日本語での雑誌掲載を目指す。最終的に、二年後くらいに本にできればいいが。

C. 哲学の教育、教育の哲学(フリー・プログラム)

「旅行の哲学」「結婚の形而上学とその脱構築」とともに今後の研究課題なのだが、現在、「哲学と大学」グループが動き出したので、まずはこれから。

Tuesday, December 18, 2007

long périple chapitre II

12月4日夜、そういうわけで、コンピュータをはじめ、電子機器ほぼすべて、各種資料を盗られてしまった。電話番号さえも。。友人に緊急のヘルプ・コールをかけるの一苦労。安ホテルを選んだのが災いし、電話が故障中。テレホンカードを買っても、かけ方を教えてくれる人がいない。人々は親切で、我慢強く私の言葉に耳を傾けてくれるのだが、帰ってくる言葉は(ブラジル訛りの)ポルトガル語。読めばおおよそ分かる言葉でも、聞くと本当に分からない。初めてのブラジルの夜は、言葉がまったく通じない(英語もフランス語も似非イタリア語も)絶望的な状況の中、過ぎていった。。しかし、最終的に友人に電話をかけ、警察やタクシー会社に盗難手続きを頼む。かなりへこんで床に就く。


12月5日、ようやくサン・カルロスのデボラ・モラート教授に電話することができた。タクシーをサン・パウロまでよこしてくれる。タクシーで片道三時間。バスより多少割高だそうだが、ハイウェイ強盗にでも会わない限り、盗難の可能性はない。妻子と大量の荷物が一緒ではこれがベストの選択だろう。タクシーを待つ間、市内観光。Sujinho(スジーニョ、「汚い奴」くらいか?)というレストランで、feijoada paulistaなどを食べる。正直、平均的日本人のお腹には重すぎると思う。ブラジル料理には一撃で完敗、という感じ。largo de Sao Bento、pátio do Colégioを駆け足で見て、サンカルロスへ。くたくた。。

12月6日、UFSCar (Universidade Federal de Sao Carlos) で、日本とブラジルのフランス哲学研究分野の交流を目的とする、小規模セミナーを開催。私なりのベルクソン『試論』読解(リズムと催眠)を提示。盗難で発表原稿を紛失し、1時間半くらいでつくった資料をもとに、アドリブで喋りまくり、気が付くと三時間。それでもとても反応がよくて(優しく忍耐強くて?)、来年は『物質と記憶』のレクチャーをしに来てくれ、と言われた。




左はDébora Cristina Morato Pinto教授と。右は参加者の何人かと(左から二番目の男性が現在の哲学科長でドイツ観念論の専門家EduardoBaioni教授。フランス語がうまく、盗難の件では最後まで本当にお世話になりました。その右手前の小柄な女性が同じく哲学科で教鞭をとるSilene Torres Marques教授。バルバラスのもとで、ベルクソンの自由概念について研究していたとのこと)。


ホテルに帰ると、子供が体調を崩していた。デボラさん(ブラジルではすぐにファーストネームで呼び合う)に付き添ってもらい、慌てて病院へ。なれないこと続きで、点滴を打ってもらうだけで三時間。またもや、くたくた。。


12月7日、友人mbの住む隣町カンピーナスへ。子供の調子は小康状態。夜は、ブラジル的な料理ということで、churrascoにチャレンジ。よほどお腹の調子を整え、体調万全で行かないと、まるで歯が立たない。この料理には永遠に勝てない気がする。。




友人の愛犬Jolie


12月8日、カンピーナスでゆっくり。近くの自然公園を散策し、市場をぶらついてタコスみたいなのを食べたり。前日は子供の誕生日だったが、この日は友人の誕生日。彼が友人たちを自宅に招いてパーティ。深夜まで深酒し、結局ホテルに戻らず。友人宅で一泊。


12月9日朝、友人が青ざめた顔で部屋の中にふらふら倒れこんできて、肩で息をしながら言う。「とても気分が悪くて、サンパウロには行けない。病院に行ってくる」。この日、友人の車でサン・パウロまで送ってもらい、そのまま一緒に市内観光するはずだったのだが。。またもやinfans状態に取り残された私たち。合鍵で入ってきたお手伝いさんとの気まずい時間(そりゃ怪しむよね)。。結局、病院から戻ってきた友人の奥さんがタクシーを呼んでくれて、それでサン・パウロへ。家族が市内観光している間に、Eduardoに付き添ってもらい、空港へ。空港警察に盗難の経緯を説明し、盗難証明を出してもらう。


12月10日、私に残された数時間。もちろん…サン・パウロ一という大書店Culturaへ直行。Bento Prado Jr.の数冊の書物や、今のところポルトガル語でしか手に入らないGérard Lebrunの巨大な論文集 Filosofia e sua História などを購入(ちなみに言っておけば、彼はブラジルに大きな足跡を残した人である)。




傷心と満足感を抱いて、帰途に就く。最近の飛行機には、ベルリッツの語学練習ゲームが搭載されている。ポルトガル語とドイツ語の練習に励む。。語学の鍛錬は、新たな出発に向けての第一課題である。

Sunday, December 16, 2007

帰国

帰って参りました。三週間に及ぶ遠征は、赤ん坊連れで荷物が極端に多かったこともあって、さすがに疲れた。

11月21日に東京発、パリ着。発表準備に勤しむ。

22日にベルクソン国際学会総会に出席。その後、学会の粋なはからいで、ジャック・ドゥーセ図書館に所蔵されているベルクソンゆかりの品々の特別展示にしばし見入る。

23日、コレージュ・ド・フランスでの大規模コロック。夜、韓国チームと会食。お膳立てに奔走したものの、日本人参加者が少ない。残念だが、そういうものだ。

24日、ENSでコロック二日目。第一セクションにて、ベルクソンとレヴィナスにおける物質性についての発表を行なう。ヴォルムスの締めの発表で私の発表に言及があった時は素直に嬉しかった。

その後、パリにしばし留まり、gsbやpcと旧交を温める。

27日‐29日、リールに到着。まだしていなかった諸々の準備に大慌てで着手。例えば、potとか、pain surpriseを予約したり、ワインの選定をしたり、これはこれで少し時間が要る。

30日、運命の日。良いところも悪いところも、そのまま評価された気がする。「リール大学にとって君は誇りだった」と言われた時はさすがにぐっときた。そして寂しいような、なんとも言えない感じが残る。泊めてもらったgb、df、clとch'ti longで会食。一年半ぶりでもウェイターは覚えてくれていた。

12月1日‐2日、アルザス人のlpとcp(昼食)、ヴァランシエンヌの日本人(夜・鍋)、ベルギー人(昼・ベトナム料理)、リールのミャンマー人(夜・ミャンマー料理)の友人たちと慌ただしく再会。もちろんお会いしたい方々はもっともっといたのですが、基本的に日本でお会いできる可能性のない方々を優先せざるを得ませんでした。すみません。。。

12月3日早朝、ブラジルに向けて出発。12月4日夜、サン・パウロのグアルーリョス国際空港に到着。タクシーでホテルへ…しかし、この後、ホテル前で荷物を降ろしている間に、荷物を盗られてしまった。それも、PCはじめ大事なものが詰め込まれたコンピュータ・ケースを。。

Sunday, November 18, 2007

メモ

自分用のメモに。シンポジウムや講演などは新たな出会いの場である。教えてもらった情報を忘れないうちに書きつけておかないと。

1.PAMから勧めてもらった本を読むこと。生物学者たちが「生物の論理Logique du vivant」(ジャコブの本の原題)でなく「生命の論理Logique de la vie」に関心を持つようになってきている、その代表例として挙げてくれたが、はたして…?
Denis Noble, The Music of Life, Oxf. Univ. Press.

2.YKがドイツの生気論の歴史をフォローしたものとして教えてくれたのがこれだった。読まねば。
Timothy Lenoir, Strategy for Life.

3.MKが「オランダにはほとんどベルクソニアンがいないけれど」と言いながら紹介してくれたのが彼。
Jan Bor, thesis Bergson en onmiddellÿke ervaring (1990)
(Bergson and Immediate Experience)

Retired 2005 from Hogeschool (Polytechnic) van Amsterdam, Bor is interested also in art, (zen-)buddhism.

大国のベルクソン受容ばかり追うのは何だか…という気がしている。英仏独語、それは確かに大事なのだが、そこに留まって安穏としているのも何だか…。マイナー言語を母国語とする者としての問題意識を大切にしたいし、それを何らかの形で実践に変えていきたい。

フランス、ブラジルに発つので、ひと月ほど更新できなくなります。では、十二月中旬以降に。皆様もお体にはくれぐれもお気をつけて。

Sunday, November 11, 2007

悪い奴ら…誰が?

あまりにも忙しすぎる。事務作業で一日が終わる、そんな繰り返し。それでも、そんなときにこそ真価が問われるのだと自分に言い聞かせる。自分がイラついているとき、何かに、誰かにかこつけて爆発してみせることはあまりに容易い。

ymさん、fiさん、ご著書およびご研究、お送りいただき本当にありがとうございました。ぜひ参考にさせていただきます。



「奨学金削減」の記事を見たとき、この記事を思い出した。

生活保護不正受給、4年で1・5倍に増加…厚労省

3月6日1時52分配信
読売新聞

 2005年度の生活保護費の不正受給額は、前年度を約10億円上回り、約71億9000万円だったことが5日、厚生労働省のまとめでわかった。

 01年度(約46億7000万円)と比べ、約1・5倍に増加している。

 厚労省によると、件数も1万2535件で、前年度比で1624件増加。内訳を見ると、働いて得た収入をまったく申告していなかったケースが53・4%と最も多く、働いて得た収入を過少申告していたケースも加えると、63・5%だった。「各種年金などの無申告」も15・5%あった。

当たり前のことだが、不正受給を擁護しようというのではない。問題は、「不正受給」が増えてきたからという名目のもとに正当な受給そのものを削減するという手口である。なぜ事業予算そのものの削減なのか。なぜ不正受給防止策の練り直しではないのか。この件については、「善意を利用する者たち」(tours de babel, 2006年6月5日)も見ていただければ。


善意を利用する者たちを利用して、善意を盗みとろうとする人々がいつでもいる。そして、小悪を叩いて回ることに血道をあげ(反撃を恐れなくていいから)、巨悪に盲目な人々がいつでもいる。


財務省 奨学金事業の見直し検討 遊興費転用の学生増加で
10月29日8時33分配信
フジサンケイ ビジネスアイ

 財務省は28日、2008年度の奨学金事業予算を削減する方針を固めた。同事業費が年々増額を続ける一方で、奨学金を遊興費に転用する学生が目立ち、苦学生支援という奨学金本来の意味が薄れつつあるためだ。

 奨学生数は、07年度に全国の大学・短大生の3分の1に当たる114万人に達し、同事業予算も年々増加を続けている。同事業を所管する文科省は、08年度概算要求で奨学金関係予算で前年度比約210億円増の1439億円を求めた。

 これに対し、財務省は「苦学生でない人が同事業の対象に入っている」と指摘する。無利子奨学金に比べ審査基準の緩い有利子奨学金を含めると所得1344万円以下の世帯が対象となり、大学生などの子供を抱える世帯の約8割が条件に当てはまる。学力基準も緩く「手を挙げれば大体、奨学金がもらえる」(主計局)のが現状という。

 財務省の資料によると、奨学金を電話代や海外旅行費など勉学以外の目的に使う奨学生が増加する一方で、勉学費や書籍購入費は大幅に減少している。

 また、奨学生の増加に伴い奨学金が回収できなくなる例が続出。05年度末の時点では、14万件が不良債権化し、06年度には延滞債権総額が2000億円を超えた。旧育英会の奨学金事業を引き継いだ「日本学生支援機構」が回収を進めているが、06年度に扱った1万件のうち、約半数の4395件は居所不明などの理由で未解決のままだ。

 財務省は、この対策として「機関保証」の義務化などを検討している。機関保証は奨学生が毎月一定額の保証料を「日本国際教育支援協会」などの保証機関に支払い、返済が滞った場合、同機関が本人に代わり国に返済する制度だ。

 文科省は「事業費の不足で、貸与の条件を満たしていても奨学金を受けられない学生が毎年いるのが現状」として予算増額の必要性を強調するが、財務省は「納税者に説明できるとは思えない」としている。


奨学金予算削減へ 回収不能2000億円/遊興費に転用増え…
10月29日8時0分配信
産経新聞

 財務省は28日、来年度予算で文部科学省の奨学金事業予算を削減する方針を固めた。奨学金を遊興費に転用する学生が目立ち、苦学生支援という奨学金本来の意味が薄れつつあると判断している。奨学金を返さず、回収不能に陥った延滞債権総額も急増、平成18年度には2000億円を突破しており、財務省では新たな保証制度の義務化も迫る構えだ。

 文部科学省は来年度予算の概算要求で、奨学金関係予算として前年度を約210億円上回る1439億円を計上した。

 奨学生数は、19年度で全国の大学・短大生の3分の1に当たる114万人に膨らんでおり、奨学生数の拡大を背景に奨学金関係予算は年々増加している。

 ただ、財務省は奨学金が「必ずしも苦学生でない人も対象に入っている」と指摘。無利子奨学金に比べて審査基準が緩い有利子奨学金まで含めると、年間所得が1344万円以下の世帯が対象で、大学生などの子供を抱える世帯の約8割が条件に当てはまる。審査の学力基準も緩く「手を挙げた人はだいたい奨学金がもらえる」(主計局)のが現状だという。

 財務省によると、奨学金を電話代や海外旅行費など勉学以外の目的に費やす奨学生が増加傾向にある。これに対して勉学費や書籍購入費は大幅に減少しており、財務省は奨学金が勉学よりも娯楽に振り向けられているとみている。

 一方、貸し出した奨学金が回収不能に陥るケースも急増している。

 18年度には延滞債権総額が2000億円を超え、15年ほどで約3倍に膨らんだ。旧日本育英会の奨学金事業を引き継いだ日本学生支援機構が回収を進めているが、18年度に回収を行った1万件のうち、約半数の4395件は居所不明などの理由で未回収のままだ。

 このため、財務省は奨学生に対する機関保証の義務化などを検討している。奨学生が毎月一定額の保証料を日本国際教育支援協会など保証機関に支払うことで、返済が滞った場合、保証機関が本人に代わって返済する制度を導入することにより、同省は未回収リスクを回避できるとみている。

 文科省は「事業費の不足で、貸与の条件を満たしていても奨学金を受けられない学生が毎年いるのが現状」として予算増額の必要性を強調するが、財務省は「納税者に説明できるとは思えない」として削減方針を固めている。

Wednesday, November 07, 2007

哲学と大学と…余暇

ドゥルーズ・スピノザ研究者であるIzumiS/Zさんの11月5日付のブログ「大学における哲学教育をめぐる雑感」を読む。

まったくそのとおりである。最後は、自分の哲学する力を高めること、それに尽きる。それには静かな時間、孤独な時間が必要だ。社交からも、ブログからも解き放たれる時間。こうして一方に余暇の問題がある。

他方で、学校で教わること、「学び」の重要性がある。とりわけ現在の若手研究者が高度な研究を遂行していく上で必要な語学力――正確な読解力だけでなく、書き、話す力――を確実に養成する制度的枠組み作りには、大学別といった枠を超えて、日本の西洋哲学研究者全体で取り組む必要があるように思う。

余暇と学び、要するに伝統的な「スコラ」の問題である。

西洋の哲学研究者たちは、長期休暇を利用して思索を深め、研究を進める。学期中は丹念な教育活動とダイナミックな研究活動(学会・研究会)に忙殺されるからである。

私たちの国の大学は、それを許す環境にあるだろうか?

そもそも、長期休暇自体が短く、しかも休暇中にしばしば拘束される(私は「一流大学」の話ばかりをしているわけではない)。これは日本の社会全体が労働過多を容認しているからである。日本は「経済大国」だと思っている人は多いが、日本企業の実に多くの部分は「時間泥棒」をしてはいないか(最近のpenses-bêtesの一連の記事を参照のこと)。
「短絡的な考えがもたらす害の例の一つは、多くの教授たちは週六時間しか働かないという現在の認識である。野球選手が、打者としてバッターボックスに立つ時間によって報酬が決まるとは誰も考えない。

他の選手が走るのに、キャッチャーはしゃがんでいるからといって、報酬が他の人より少なくて当然とは誰も思わない。

スポーツの世界からもう一つ例をとれば、例えば、冬季オリンピックのフィギュア・スケートの相対的人気は、速さを競う他の種目とは違った意味をもっている」(レディングズ、『廃墟のなかの大学』)

膨大な量の事務作業は、大学教員の仕事なのか?サッカーにおける「ホペイロ」の役割を、日本で大学を論じる人々はもっと知るべきだ。
Jリーグ開幕前、僕が日本に戻ってきたとき、日本サッカーには本当に何もなかった。ある程度予想はしていたけど、さすがに少し戸惑った。ブラジルでは、ドクターやマッサージ師はもちろん、ホペイロ(ポルトガル語で「用具係」)や洗濯係まで、選手を支える各ポジションに「プロ」がいたからね。僕が加入した読売クラブ(現・東京ヴェルディ1969)は、当時の日本では、プロフェッショナリズムという点では一番進んでいたと思うけど、それでもクラブハウスはプレハブ小屋の域を出ていなかった。スパイクの手入れもユニフォームの洗濯も、みんな選手が自分でやるのが当然のことだった。(『カズの手紙』第27回、2005年7月7日付)
(日本人ホペイロ・プロ第一号である松浦紀典(まつうら・のりよし)さんに関する基本情報は、こちらこちらなど)


日本の大学の研究・教育環境の整備状況は、Jリーグ開幕以前的である。独創的な研究活動を行なうにも、丹念な教育活動を行なうにも、財政支援だけでなく、何よりも時間が必要である。

そのためにこそ、経団連や財務省の推進する「資本の論理」、その尻馬に乗る文科省の「エクセレンスの論理」「産学共同」ではない道、もう一つのパフォーマティヴを、哲学的に、模索する必要がある。時間泥棒の張本人が時間をもっと有効に使えと説教するとは!

古来から時間が哲学の特権的主題の一つであったこと、哲学が「余暇」との関係抜きに考えられないことを思い起こせば、「哲学と大学」を論じるにあたって、時間と哲学、時間の哲学が問題にならないはずはない。


国立大交付金/地方国立大学を守ろう
(『山陰中央新報』、2007年5月30日付論説)

 国立大学の運営費交付金の配分をめぐり、ホットな論争が続いている。経済財政諮問会議の民間議員からの提案がきっかけだ。成果に応じて配分される競争的研究費だけでなく、日常の人件費などランニングコストにあたる運営費交付金も各大学の成果を反映した配分としたらどうか、というのだ。

 運営費交付金は、国立大収入の約半分近くを占める。教員数など規模に応じて配分され、人件費や日常の教育・研究費など基盤的経費として使われる。大学法人化後は毎年度1%ずつ減額され、一方で競争的研究費の割合が高くなってきた。

 提案は、国際競争力を高めるため、基盤的経費の配分にも競争原理を導入し、資金の選択と集中を促そうというものだ。

 これに対し国立大側は、成果の見えやすい分野ばかりが評価されることになり、基礎研究や自由な発想による研究の芽がつぶされる、と反論。産業基盤の弱い地方大学や教育系大学の経営が困難になると主張している。

 資源の有効活用は必要だが、大学の役割を考えれば、ここは国立大側の方に説得力がある。「努力と成果に応じた配分」と言うが、大学は産業界の下請けではない。企業にすぐ役立つ応用研究ばかりに目が向くような一面的な議論では国の将来を誤りかねない。

 ノーベル賞につながるような問題発掘型の研究には、研究者の自由な発想が不可欠だ。長期に問題に取り組める土壌が必要で、基盤的研究費は欠かせない。

 教育という視点も忘れてはならない。教員養成など人材育成はそもそも競争になじみにくく、すぐに「成果」が見えるようなものでないが、大学の重要な仕事だ。

 財務省の試算によれば、競争的経費である科学研究費補助金の配分実績で運営費交付金を再配分すると、現在より配分が増えるのは東京大など十三大学だけで、七十四大学が減額となる。

 中でも、教員養成が目的の教育系大学の減額幅は大きく、現状の一割以下になるところもある。まさに「技術開発に取り組める人たちが申請した件数だけでお金を配分したら、将来の人材を養う基礎にお金が回らなくなる」(伊吹文明文部科学相)。

 試算では、交付金が半分以下になる大学が五十大学。鳥取大が60%、島根大に至っては70%以上の減額となる。文部科学省によると、半分以下となれば経営破たんは免れないという。民間議員からは「努力しない大学がつぶれるのは仕方がない」「全都道府県に国立大が必ず一つ必要なのか」との声もあるが乱暴すぎる。

 私大の多い大都市圏と違い、地方国立大の地域への貢献度は大きいものがある。医師や教員など地域を担う人材育成で重要な役割を担っている。都市と地域の格差が広がる中で、地域と密着した地場産業支援の役割を担えるところがほかにあるだろうか。

 授業料設定などに自由競争を持ち込む動きもある。だが「効率」だけでこの問題を切り取るのはあまりに短絡ではないか。研究面での独創をどう生かすか、人材育成や地域の主体性をどう支えるのか、地方分権への展望も含めた複眼的論議が絶対に必要だ。



地域格差を誘導する恐れ/国立大交付金減額

 財務省は国立大学法人(全国八十七大学)の運営資金として国が支出している「運営費交付金」について、競争原理に基づき再配分する試算を公表した。

 科学研究の成果等という一面で評価した試算で、全国の85%の七十四大学で交付金が減額されるという内容だ。そして50%以上の減額が弘前大学の68.7%など五十大学、50%未満が二十四大学になるとされた。教育系大学は悲惨な内容だ。

 国の財政改革という命題の中で、歳出削減が検討されたものという。一つの試算とはいえ、直線的な評価であり、大学間格差を助長し、ひいては地域格差を誘導する恐れのある机上の財政理論といわざるを得ない。

 国立大学法人が歳出削減の聖域とはいかない。しかし、財務省が示した試算が科学研究費の配分実績を尺度にしたことには、異論がある。わずかに東大、京大、東京工業大、東北大、北大など十三大学が増額されるだけ。これに対し、地方大学は脅かされる内容だ。

 こうした財務省の成果主義に対抗し、文部科学省は大学の地域経済に与える影響を検証し、弘前大学の四百六億円、雇用創出六千七百七十四人をはじめ、中堅大学が生み出す経済効果を試算。「大学の地域貢献を無視した(今回の)議論は、あまりに乱暴」と、財務省試算に反発した。国が教育再生を叫ぶ中で、多くの大学も同様だろう。

 科学研究とはいっても、地方の経済基盤は脆弱(ぜいじゃく)で、大学の産業振興研究(シーズ)への企業参加は極めて少ない。そもそも中央との格差は、歴然としている。

 一方で、大学の役割には教育、研究、地域貢献がある。科研費のみを指標に大学を測り、地方切り捨てにつながるシミュレーションに、真に合理性や総合的見地があるのだろうか。

 弘前大学の二〇〇七年度予算をみると、予算総額はざっと三百六十億五百万円。約半分は総人件費に充てられる。歳入は付属病院収入百数十億円を見込み、国からの運営費交付金が約百二十億円。これに授業料、検定料、入学金などが加わる。大学の経営に、運営費交付金がいかに寄与しているかがわかる。

 時期は示されていないが、仮に試算通り68.7%、約八十億円もの減額なら総合大学の維持、経営は死活問題となる。

 いま、日本社会を少子化の大波が襲う。「大学全入時代」に突入するともいわれる。さらに、国は未曾有の財政赤字に苦しんでいる。大学間に競争原理を導入した独立法人化の狙いのその深奥には、こうした時代背景を基にした大学の再編・統合があるといわれる。もちろん、各大学は改革を積極的に進め、一層の努力をする必要がある。

 運営費交付金については経済財政諮問会議等でも、一部から見直し論や意見書が出された。弘大は二十五日夜、政府諸会議に対し遠藤正彦学長名で緊急声明を出し「人を育むための百年の計に真に耐えるものか疑いを持たざるを得ない」と批判した。

 試算について財務省主計局は「大学改革の一つの論議の中で、交付金配分ルールも論議への一つの材料」としたが、地方をよく見つめる必要がある。

Friday, November 02, 2007

哲学と大学(第一回)

「哲学と大学」第1回に参加してきた。楽しく刺激的な時間を過ごさせていただき、どうもありがとうございました。

とりわけynさんの活躍ぶりを間近に見ることが出来てよかった。あらためて「色んな分野で活躍している人たちというのは、やりたいこととやるべきことをきちんとやってのけているんだな」という思いを深くした。

討議での発言を幾つか拾っておこう(後記:討議についての報告が既にUTCPのHPに掲載されている。簡にして要を得た、見事なまとめである。この報告を読まれた後に、以下の文章を読んでいただくと、問題の所在が分かりやすくなるように思う)。

1.「宛先」の問題

こういった議論を始めるにあたっては、常に議論の「場」がどのように形成されているのかに注意を払わねばならない。言い換えれば、「ここにいない者」に注意を払わねばならない。

a(・女性)*女性はいらっしゃったので。
b・「崖っぷち弱小大学」(杉山幸丸)の存在
 *「一流大学」との両極だけでなく、中間層(例えば、地方大学)も考慮に、との声もあった。
c・自然科学・理工系の存在
 *自然(自然科学)と人間(人文科学)の間の社会(社会科学)も考慮に、との声もあった。
d・非西洋系の存在

この「宛先Adressat」の問題は、今回取り上げられたレディングズの『廃墟のなかの大学』についても指摘された。誰に向かって書かれているのか?大学人に向かって書いていていいのか。

a・性差などマイノリティの問題は、カルスタの勃興を通じて明瞭に意識されている。
・その一方で、「大学は従来、国民文化と強く結びついていたが、グローバリゼーション状況下でその結びつきが決定的に解消される」という図式が、例えば戦後日本にどれほど当てはまるのか、疑問が残る。言い換えれば、本書においては「文化」と「国民文化」がほぼ同一視されてしまっているように思えるが、果たしてそれは妥当か。この同一視は、日本のように大学の数がきわめて多い国における

b)大学と文化の関係、教育と研究の関係(大学に「文化=教養」を求めるのか、ノウハウ=各種資格を求めるのか)、
c)文科系と理科系の関係(文科系が圧倒的に多い)、
d)カルスタの現状

を分析する上で、見逃しえない影響を及ぼすように思われる。

2.『廃墟のなかの大学』の大枠

・批判的分析の部分(主に1~3章)および
・歴史的経緯の部分(主に4~9章)はおおむね的確と言えるが、
・積極的提言の部分(主に10‐12章)にはかなり不満が残る、 といった印象が共有されたように思う。

批判的分析に関して「的確」というのは、現状を客観的に分析するに際して、「エクセレンス」概念がそのイデオロギー的な性格を暴露するところまで徹底的に議論を進めることによって、この「空疎な概念」に批判的な射程をもたせたからであり、

「おおむね」というのは、その批判的射程が厳密に(とりわけ特殊日本的に)どこまで届きうるものなのか、未だ判然としないところも残るからである。

もう少し時間があれば議論を深めたかったのは、むしろ後半部について、とりわけ「不同意の共同体」や「大学をめぐる信の問い」の真の射程についてであった。

3.商業主義(commercialism)と消費者主義(consumerism)

 エクセレンスを量的一元化志向と捉えるとしても、大学によって追求するエクセレンスは質においても量においても異なる。研究における学問的エクセレンスを追求する姿勢が文科省によって奨励・推進されるという事態と、「即戦力」教育・資格取得を強調することで少しでも多くの学生を囲い込もうとする事態は、まったく同じ事態の裏表ではないように思われる。

では、前者は国際競争における生き残りを賭けた闘いであり、後者は少子化を踏まえ生き残りを模索する闘いであると定義できるだろうか。これについてはもう少し考えてみる必要がある。

エクセレンスの「本性の差異」に対して、あらゆる大学を貫く傾向、「差異の本性」として指摘できるのは、学生や学費を払う親を「消費者」として位置づける消費者主義の蔓延ではないだろうか。周知のように、オープン・キャンパスなどの試みはすべて、学生獲得競争の一端にほかならない。


企業の研究職社員、学士の3割期待外れ…文科省調査
10月30日13時42分配信 読売新聞

 研究職で採用した社員が「期待を上回った」と考える企業は1~2%程度にとどまっていることが、文部科学省の調査でわかった。

 「期待はずれだった」とする企業の割合も、大学の学部卒者(学士)で3割にのぼるなど、企業に利益をもたらす新規事業や新製品開発を担う中心的な人材として採用されながら、期待に沿えない企業研究者が相当数いることが浮き彫りになった。

 調査は今年2~3月、研究開発を行う資本金10億円以上の企業1791社を対象に実施。過去5年間に採用した学士、大学院の修士、博士の各課程修了者、博士号を取得済みの「ポストドクター(ポスドク)」の四つに分けて、研究者の資質などを聞いた。有効回答は896社。

Wednesday, October 31, 2007

まず踊ること

11月末にコレージュ・ド・フランスで大規模なベルクソン・シンポがあり、ワークショップの部に参加する。その一週間後、リールで私にとっては重要な出来事がある。

その後、12月中旬にブラジルでベルクソン・シンポがあるので、パリからサン・パウロに飛ぶ。我々のプロジェクトの目的の一つが、世界規模のベルクソン研究ネットワークを確立することだからである。

リールに来ていたブラジルのベルクソン研究者mbとは仲が良かったので、久しぶりに会えるのが楽しみだ。すぐメールに返事をくれたのは嬉しかった。

リールにいた頃、「ブラジルの夜」と銘打って何人かで集まり、私はエリュアールの長大な詩を暗唱してみせ、彼はサンバの踊り方を教えてくれたことを懐かしく思い出す。



「プロジェクトX」とか、その進化型の「プロフェッショナル~仕事の流儀」とか、「単なるガンバリズムでしょ」と敬遠する人もあろうし、大好きな人もあろうし。

しかし、格好などどうでもいい。ヒントは何から得てもいいのだ。

***

常々口にすることがある。「展開が許せば三振を狙いたい。見ている人に感動を与えたい。自分の力でそれができるのであれば」(「これぞ守護神!球児3K5セーブ」、スポーツニッポン - 2007/4/11 6:04)。



14球の直球勝負には大胆かつ、したたかな計算もあった。「オール直球? そうやったかな? まあナイターでバッターも球が見にくいと思ったんでね」。 打者の目はまだ完全にナイター・モードにはなりきっていない開幕間もないこの時期。さらに中日は3カードをすべてドーム球場で戦っている。“我が家”甲子園が直球をより速く感じさせてくれることを知っていた。(「阪神球児オール直球3K!中日ねじ伏せた」、日刊スポーツ - 2007/4/11 10:05)



勝ちに謎めきやミラクルはあっても、負けに不思議はない。敗北に至る背景には、そこにたどりつくまでの必然的な過程がある。鉄壁の堅守を誇る落合竜が10日・阪神戦で、唯一の弱点から崩落した。ウッズの落球。山本昌の心は乱れ、リズムが狂った。(「竜の弱点…マサ狂わせたウッズの落球」、デイリースポーツ - 2007/4/11 10:27 )

Tuesday, October 30, 2007

教養と政治

≪「教養」と「政治」との組み合わせ。――このように問題を取り上げると、そこにエリート主義の匂いをかぎつけ、「教養」なき衆生を支配しようとする権力意志を読み取る人もいるかもしれない。とりわけ、この日本、少なくとも現在の日本社会では、そうした反応をする人が大半を占めるだろう。

だが、ここであえて、「教養」と「政治」とを組み合わせて論じるのは、これまでこの国では、三木清のような少数の例外を除いて、そうした課題を追求した試みが、ほとんど見られないからである。例えば、かつて1969年(昭和44年)に、蠟山政道は、『政治学』を収録した『アリストテレス全集』の一巻に寄せた短文でこう述べていた。

「その[『政治学』の]第7巻と第8巻が教育に関する見解に当てられている。そして、政治的な理想と教育の原則との関係が述べられている。/近代になってから政治学と教育学とはまったく袂を分かってしまい、政治学の立場で教育問題を取り扱っているのはきわめて少なく、特に日本ではその傾向が強い。

戦後日本で、教育の政治的中立ということが主張された。その際、政治の意味が政党政派の政治というような狭くかつ低いものにされてしまい、それに戦前の極端な国家主義への反動も加わって教育基本法における「良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない」(第8条)とあるにもかかわらず、教育界には政治と教育との根本的な関係について関心を払うことが避けられてきた。

そこに、戦後日本の民主教育の欠陥の一つがあり、それがいま大学紛争その他となって現れている、といっても過言でない」≫(苅部直(かるべ・ただし)、『移りゆく「教養」』、NTT出版、2007年、103-105頁)


Q. あなたはよく「素人」と「専門家」の区別を強調するが?

A. そのとおりです。ただし、哲学に関する知識のレベルにおいてではありません。例えば哲学的概念は、それがどんなに難解なものであっても、一つ一つ取り上げてみれば、本やインターネットによって習得可能なものであり、決して思われているほど理解不可能なものではありません。

たいていの学問においてと同様、哲学において素人と専門家が区別されるのは、知識が活用されるその仕方においてです。具体的に言えば、直面している問題を正確に把握し、関連すると思われる知識を記憶の中から必要なだけ呼び出し、的確な形に組み合わせ、問題を論じる、その仕方においてです。

さらに、この「判断力」を駆使して論文を執筆し、研究を遂行する人が「研究者」と呼ばれるわけです。

ここで強調しておきたいのは、私はこのブログでほとんど常に「研究」の視点から語っているということ、若い人について語る場合でも、「大学院生」や「ポスドク」と言わず、「若手研究者」という言葉を用いているということです。

このように区別を強調せねばならないのは、日本の大学制度が、若手研究者がなるべく早く経済的自立を達成し、自尊心をもった形で独立できるような制度を未だ完全に確立していないからです。

日本学生支援機構(旧・育英会)がある?貸与するにも親を保証人に取る制度に頼って自立できるでしょうか。日本学術振興会がある?それによって何パーセントの若手研究者が身分を安定的に保証されるというのでしょうか。

人文系の学問を研究することがモラトリアムの延長線上で語られかねない現状は、学生および家庭・教員および大学・社会や政府の利害が複雑に混ざり合うことで成り立っていますが、一つだけたしかに言えることは、このような状況は研究にとって危機的なものであるということ、「大学院大学」という戦略では、大衆化に対抗して研究の質を維持できないだろう、ということです。

資本の論理、エクセレンスの論理に抗するには、どうすればいいのでしょうか?レディングスの提唱する不同意の共同体は、実現可能なものなのでしょうか?


TVでよく見る「特任・特命・特別教授」って何なの?
5月31日10時0分配信 日刊ゲンダイ

 TVのワイドショー等で、コメンテーターとして引っ張りダコの有名人センセイ。例えば、作家の猪瀬直樹(60=信州大)は国立の東工大の特任教授。元 TBSアナウンサーの木場弘子(42=千葉大)は、千葉大の特命教授。俳優の原田大二郎(63=明大)は明大の特別招聘教授、アグネス・チャン(51=カナダ・トロント大学)は目白大学の客員教授。「教授」は分かるとしても、「特命」や「特別招聘」って何なの?

「法律上、大学には学長、教授、准教授(旧・助教授)、助教、助手および事務職員を置くように決められています。ほかに副学長や学部長、講師、技術職員など置くことができます」(文部科学省広報担当)

 ナントカ教授というのは、各大学がそれぞれ設けている特別な肩書。実務レベルで、大学側から依頼する場合が多い。「本校の場合、特任、特命、客員を設けています。教授になるには年齢規定(60歳未満)がありますが、特任教授は不適用。授業は担当するので、一番教授に近い立場です。特命教授は授業なし。客員は1年ごとの更新で、常勤と非常勤があります」(早大広報)

「ここ最近、特別な教授が増えています。宣伝になり、各大学の特色を出しやすいためではないでしょうか」(明大広報) ま、一流大学はナントカ教授なんかで受験学生を集めず、プライドを持ってほしいものだが……。

Monsters of Excellence

≪いささか大げさな言い方で恐縮だが、大学こそ現代日本の普通の若者の集まる場である。その大学を変えなければ日本の将来はない。≫(『崖っぷち弱小大学物語』)

レディングスの『廃墟のなかの大学』に全面的に賛成というところからは程遠い位置に私はいるわけだが、それでも数々の指摘は実に真実を穿っていると思う。

例えば、大学における高等教育を取り巻く状況の中で、「エクセレンス」を追求する姿勢(COE=Center Of Excellence)と、「消費者主義」が密接に結びついているという指摘は正しい。

エクセレンスとは何か?量的基準への一元化であり、その基準への盲目的信仰の嬌声=強制である。エクセレンス主義と消費者主義の結合についてだけ言えば、「弱小大学」だろうが、「一流大学」だろうが、抱えている構造的な問題は同じである。

この問題をCOEで取り上げるという姿勢自体、高く評価できる。絶えざる自己省察、自己批判の姿勢、そう、それこそ哲学の仕事だと思う。



昨今、巷で話題になっている社会現象は、多かれ少なかれこの大きなグローバリゼーションの流れの中にある。

「小さい政府」「民間の活力の導入=競争社会」に快哉を叫び、トヨタが自動車生産台数で世界二位になったと自慢げで、経済大国になった今も世界有数の長時間労働を続け、サラリーマンの年収が8年連続でダウンしているのに、小さなデモさえ民衆自身から非難される。

「ハケンの品格」を信じ込まされ、テレビ・雑誌を通じて「セレブ」に羨望の眼差し。持ち上げて落とすことが昨今の現象なのではない。その周期と落差が加速度的に速く、大きくなったことが新しいのであり、その背後には「エクセレンスの論理」がある。

食品にまつわる偽装や、少年ボクサーのルール違反といった問題が新しいのではない。エクセレンス至上主義(売上高、株価や視聴率といった量的基準への急速な一元化)が、丸山真男の指摘した「無限責任→無責任」という特殊日本的な風土と見事に結びついたことが新しいのである。

消費者的「非難」が一向に生産的な「批判」、建設的な「議論」に転じていかない。

レディングスの大学をめぐる状況分析は、どこまで日本に当てはまるのか?これが私の素朴な疑問である。



この国は経済的貧者・社会的弱者を切り捨てる方向に進んでいる、それは確かだ。人々はそんな国の姿勢を知らず知らず真似し、子供はそんな親の姿勢を知らず知らず真似する。それでいて「いじめをなくせ」だの、「教育再生」を願っているなどと言う。

教育を語る際に「斜交いからの視線」――夜回りや元不良といった「マージナル体験」への盲目的な信仰――を持ち上げること自体がすでにデマゴギー的である。批判装置自体が「エクセレンスの論理」に取り込まれてしまっている。

揚げ足取りの「批判」で己の知的優越感を感じ、悦に入ろうというのではない。哲学が政治や教育になしうる寄与があると言いたいだけだ。「忙しいから」「興味ないから」と逃げないこと、少しでも知ろうと努め、事態を把握しようとすること、まずはそこから始まる。

行動を起こすこと、大事なのはそれだけだ。社会や政治が変わるのでなければ、教育が変わるはずもない。教育が変わるのでなければ、社会が変わるはずもない。政治や教育を変えられない哲学にさほどの意味があるとも思えない。哲学には経済効率以外の、人間精神を豊かにするパフォーマティヴもある、と示すことができるはずだし、また示すことができるのでなければならない。

学問は何の役にも立たず、役に立たないことに意味がある、と大正教養主義的な「虚学」賛歌を言っているのではない。質的に異なるさまざまな「役に立つ」がある、異質なパフォーマティヴを模索せねばならない、と言っているのである。


保護者の理不尽なクレーム、専門家による支援検討 文科省
7月9日8時1分配信 産経新聞

 理不尽な要求で学校現場を混乱させる保護者ら、いわゆる「モンスターペアレント」について、文部科学省が来年度から、本格的な学校支援に乗り出す方針を固めた。地域ごとに外部のカウンセラーや弁護士らによる協力体制を確立し、学校にかかる負担を軽減することを検討している。来年度の予算要求に盛り込みたい考えで、各地の教育委員会にも対策強化を求める。

 文科省が検討している支援策は、保護者から理不尽な要求やクレームが繰り返された際、教育専門家ら外部のカウンセラーが保護者と学校の間に入り、感情的なもつれを解消して問題解決を図るというもの。

 保護者とのトラブルが法的問題に発展するケースもあるため、学校が地域の弁護士からアドバイスを受けられるような協力体制づくりも進める。地域ごとにカウンセラーや弁護士らの支援チームを結成することも検討する。

 教育現場では近年、無理難題を押しつける保護者らが急増。こうした保護者らは「モンスターペアレント」と呼ばれ、校長や教員が話し合いや説得に努めてきた。しかし感情的なもつれなどから問題解決がこじれ、学校にとって大きな負担になることが少なくないという。

 モンスターペアレントについては今月初めの副大臣会議でも取り上げられ、文科省の池坊保子副大臣が早急に対策に取り組む姿勢を示していた。 文科省幹部は「学校が一部の保護者らの対応に追われて、子供たちの教育活動に支障が出るようになったら本末転倒。各教委が率先して対応に乗り出す必要がある」としている。


【主張】問題親 非常識に寛容すぎないか
産経新聞(06/19 05:17 )

 自分の子が悪いのに、しかった教師のところに怒鳴り込む。なんでも学校のせいにして損害賠償まで請求する。そんな理不尽な親の問題が深刻になっている。

 親からの無理難題の事例は枚挙にいとまがない。 大阪大の小野田正利教授らがつくる「学校保護者関係研究会」の聞き取り調査からも、その一端がうかがえる。「なぜうちの子が集合写真の真ん中ではないのか」「子供がけがをして学校を休む間、けがをさせた子も休ませろ」「子供から取り上げた携帯電話代を日割りで払え」など、要求内容はあきれるばかりだ。

 東京都港区教育委員会は、弁護士と契約して校長らの相談窓口をつくった。親とのトラブルで訴えられるケースを想定し、保険に入る教職員も増えている。こじれる前の対応が重要なのはいうまでもないが、やむにやまれない措置をとる教委が目立つ。

 学校関係者を中心に、「モンスターペアレント」(怪物親)という造語が広がっている。絶え間ない苦情攻勢で学校教育にも支障を来す親の存在は、教師を萎縮(いしゅく)させている。学校が壊されてしまうという恐れも抱くという。そんな関係は危機的だ。

 学校給食費を払わないばかりか、子供が通う保育園の保育料を払わない親も増え、自治体が法的措置を講じて督促するなど対応に苦慮している。支払い能力があるのに払わない親が増えているのだという。ここでも、自己中心的で規範意識のない親、学校を軽くみる親の姿が浮かび上がる。

 問題親が増えている背景に、子育てに対する学校、家庭、地域の役割分担意識の希薄化を指摘する見方もある。教育はすべて学校の責任とする風潮である。教育委員会も親からのクレームに過敏となる傾向がある。その結果、親の非常識が放置され、理不尽な要求に振り回されている。

 今年元日付の「年頭の主張」でも紹介したが、かつて欧米人は礼節を備えた日本の子供たちに目を瞠(みは)り、その子供たちを一体となって育(はぐく)む日本の社会や家庭の姿に感銘を受けたという(渡辺京二著『逝きし世の面影』から)。そうした社会を取り戻す必要がある。それにはまず、親の非常識を正すところから始めなければなるまい。

想像力、海外組

私とは入れ違いなので交流はないのだが、リールにClaudio Majolinoという若手の分析系現象学者がいる(おそらくJocelyn Benoit的な方向性と考えてそれほど間違いではないだろう)。

彼のやっているセミネールは想像力に関するものである。
Séminaire « Facta et ficta : analyse du traitement phénoménologique de l’imagination (Phantasie) et des actes non positionnels ».

興味のある方はSTLの該当頁を覗いてみてはいかがでしょうか。



サッカー日本代表のオシム監督は、「残念ながら日本には個人のスターしかいない。私はチームとしてスターになりたいし、いつかそういう時代がやってくる」と言った。選手によって人気が上下する日本のサッカー文化の未成熟さに原因があるというのはもっともだ。

「人気が低下している」フランス思想・哲学研究も同じことではないだろうか。「殿様商売」を改めねばならない。だが、「観客が見たいのは海外組」などというマーケティングの専門家は、期待の地平を一歩も超え出ていない。評価基準を自らつくりだし、「需要」を創出するのが真のパフォーマティヴではないか。

いつまでも海外組でもあるまい。だが、一昔前の広島カープのように、純国産にこだわる意味もない。チームとして向上するにはどうすればいいか、それだけが重要だ。人気は監督の考える最優先事項ではない。



スター不在で集客・視聴率低迷 サッカー日本代表
産経新聞
07:36
トラックバックURL: http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/63366/TrackBack/

 サッカーの日本代表人気が低下している。かつてプラチナチケットだった入場券は昨年のオシム監督就任以降、減少傾向で6月のモンテネグロ戦は日韓W杯以降、最低の2万人台の入場者数を記録した。危機感を募らせる日本協会“殿様商売”を改め始めた。そんな中、アジア杯が開幕したが、29日の決勝戦が参院選投開票日とぶつかり大会が選挙戦とかぶってしまい、前回大会のような盛り上がりは期待しにくい。

ヒデの穴 日本代表戦といえば、スタジアムがレプリカユニホームを着たファンで真っ青に染まるのが相場だった。ところがオシムジャパン発足後、国内開催7試合中、4試合で観客の入りは9割未満。モンテネグロ戦に至っては2万8635人と、6割にも満たなかった。


 視聴率も低迷気味だ。平均視聴率が20%を超えたことはなく、特に3月24日のペルー戦の13・7%(関東地区、ビデオリサーチ調べ)は同時間帯に行われた女子フィギュア(38・1%)、プロボクシング亀田興毅ノンタイトル戦(16・2%)にも及ばなかった。


 この低迷の原因を、あるテレビ局関係者は「中田英寿氏の引退が大きい」と語る。「今の代表の先発を言える人、どれだけいますか?普段スポーツを見ない人をひきつけるためにも、スターは不可欠です」。現代表にも中村俊、高原ら人気選手はいるが数字上は「スーパースター不在」を意味している。

■低い満足度 もっとも「個」を尊重したジーコ前監督と異なり、オシム監督は特定の選手に頼らずチームとしての機能性を重視する。このため、新たなスターが生まれにくい状況も生み出している。


 そんな“オシム” について間宮聰夫・順大大学院客員教授(スポーツマーケティング論)は「スポーツをビジネスとしてみた場合、観客満足度を高めていない」と断じる。「観客が見たいのは海外組。直前合流による肉体的負担や連係不足はわかるが、日本協会がクラブ側に金銭補償してでも海外組がチームに長くいられるような環境作りも必要」と提案する。



 当のオシム監督は「残念ながら日本には個人のスターしかいない。私はチームとしてスターになりたいし、いつかそういう時代がやってくる」。選手によって人気が上下する日本のサッカー文化の未成熟さに原因があると言いたげだ。

 

■動く協会 日本協会オシム監督のチーム作りを支持している。人気低下についても、オシム路線というより「ドイツW杯への期待と(惨敗という)結果のギャップが大きかった」と田嶋幸三専務理事はみる。それでも、ここまでの観客減は衝撃だった。



 田嶋専務理事は最近、現場とマーケティングの連携の重要性が身にしみるという。「レアル・マドリードスペイン)の成功も、その点を無視していないから」。代表戦というだけで黙っていてもチケットが売れた時代は終わったという。



 今年に入り日本協会はチケット券種に変更を加えた。代表戦の観戦者動向調査データを参考に一番値段の高い座席数を減らしファミリーシートを増やし、北京五輪アジア2次予選では自由席を1000円で販売するなど柔軟性をみせ始め殿様商売から一歩踏み出した。



 アジア杯も日本代表の活躍で低迷打破の起爆剤にと期待されたが、参院選の余波で視聴率への影響も考えられる。田嶋専務理事は「一番大事なのはみんなが応援に来てくれるような魅力あるチームを作り勝つこと。チケットの売り方などはその次」とオシムジャパンへの注文と期待を語るのだが…。(森本利優)

Monday, October 29, 2007

ゴールドクレスト

子供が生まれた時、記念に区役所からもらったゴールドクレストが遂に枯れ果て、捨てられてしまった。。私も連れ合いも、植物を育てるのにはとことん不向きな人間である。

赤ん坊を育てていると、対人関係について考えさせられることが多い。別に高尚なことや深遠なことではなく、ごく普通のこと。

袖を通してあげるときは、こちらで袖を折りたたみ、赤ん坊の腕を一気に通してしまう。こちらで全部準備して、相手には最小限の負担、最短の時間しかとらせない。でないと、ぐずってしまう。時間がなく焦っているとき、つい面倒くさくなったとき、袖をそのままに腕を通そうとして失敗する。

子育ては、赤ん坊の理不尽さと親の至らなさの間で揺れ動く。授業・教育でも、事務作業でも、シンポの準備でも(笑)、同じだとつくづく思う。



日曜は家庭サービスの日。ときどきレディングスを読む。



我々のベルクソン・プロジェクトもシンポまでは成功した。次は出版の段階である。が、研究者個人の研究書ならともかく、シンポジウムの出版はなかなか難しいのだそうだ。

今回のシンポは内容的にもきわめて充実していたと思うので、なんとか流通に乗る出版にこぎつけられればと思うが、果たしてどうなるか。



<学位商法>熊大教授が米国の非公認大学「博士号」を公表
8月30日9時1分配信 毎日新聞

 熊本大学教育学部の教授が、公的機関から学位として認められていない米国の非公認大学の「博士号(文学)」を、自らの最終学歴・学位として公表していたことが分かった。非公認大学の学位の多くは、数十万~百数十万円を支払うだけで簡単に取得できる「学位商法」として米国などで問題になっている。文部科学省は、海外の非公認大学で取得した学位で採用や昇進を認められた大学教員がいないか、全国1206大学を対象にした実態調査を進めている。

 関係者によると、この熊大教授は、大学の教育水準を評価・保証する全米高等教育機関基準認定協議会(CHEA)が、大学として認定していない、米パシフィック・ウエスタン大学(PWU)から学位を取得。独立行政法人・科学技術振興機構の研究者情報サイトには、PWU大学院の博士号を95年に取得と登録し、福祉教育に関する著書(02年)にも経歴欄に博士号を指す「Ph・D」と記載した。教授は佛教大などを経て99年に熊大に移籍したが、現在の同大サイトの研究者情報には「文学修士」のみ記載がある。

 取材に対して教授は、同大学広報室を通じ「論文提出などの審査を受けて、学位を受けた。当時は非認定の大学という認識は全くなかった。熊大採用時の履歴には記載していなかった」と回答した。文科省は国内の大学教員の一部が、国際的に無意味な学位を最終学歴に掲げていることを問題視。国内の全大学に、米国などの公的な認定リストに掲載がない機関が授与した学位名称の有無▽採用・昇進審査の判断材料にしたか――などについて回答を求めている。文科省は、こうしたやり方が横行すれば「大学教育の質の維持が危ぶまれ、国際的な信用低下につながる」として、今秋にも調査結果を公表する。【石田宗久】

Sunday, October 28, 2007

来場者数

子供を預けられない休日のほうが疲れる。。そして書類、書類、書類。

ynさんが誘ってくれたUTCPの「哲学と大学」の第一回が11月1日にある。
レディングスの著作をもとに哲学と大学の歴史的関係を概観し、グローバル状況下における人文学の現状を考察します。事前にテクストを読んできたり、購入して持参したりする必要はとくにありません。どなたでも御自由に手ぶらでご参加ください。

ご興味がおありの方は、誰でも参加してよいそうなので、ぜひどうぞ

第一回の分析対象であるビル・レディングスの『廃墟のなかの大学』(原書1996年、法政大学出版局、2000年)、少しずつ読んでます。今の私の年齢の時に亡くなったのですね。コスモポリタン的な大学歴はまた、英語圏の特権でもあるのではないでしょうか(フランス語圏から飛び出した人は、ごくわずか…)。

コレージュ篇ワークショップでの発表レジュメの締め切りも同じ日。『創造的進化』と『全体性と無限』の一節を取り上げて(以前このブログで取り上げた「踏切板と石板」である)、ベルクソンとレヴィナスにおける物質と記憶、自由と制度の問題を簡潔に論じてみたい。

***

来場者数

さて、『創造的進化』シンポ私的報告の続きである。

一週間のマラソン・シンポジウムは、フランス人にとっても、私たち迎える側にとっても、生易しいものではなかった(さらに、私を含め、数人の人々は、直後に韓国に行ったので、けっこう壮絶な極道ぶりではあった。。)。

しかし、参加者にかなりの無理を強いたこの企画は、観客動員において十分に報いられたと言っていいだろう。この種の催し(フランス語で行われたフランス哲学に関する専門的なシンポジウム)では、相当健闘した結果だったと思う。私の個人的な印象でしかないが、

第一日目(学習院大学):100~120名
第二日目(法政大学):70~90名
『二源泉』ワークショップ(東京大学):60~80名
第三日目(京都大学):60~80名

来て下さった皆様、本当にありがとうございました。

下の写真は、すべての日程を終え、京都を出発する直前に、京都大学裏の寺を散策した折に撮ったものである。疲れた、しかし充実したフランス人たちの雰囲気を伝えてはいないだろうか。



Saturday, October 27, 2007

撒種するとはどういうことか?

大作を何とか書き終え、激動の一週間を終え、トンネルを抜けると、そこは家事と事務書類の国だった。。共働き&赤ん坊持ちの同世代の若手研究者たちは、いったいどうやって研究したり、まめにブログを更新したりできているのだろうか。自分ではけっこう働いているつもりなのだが、まだまだ甘いということなのだろう。

さて、三日間の『創造的進化』百周年記念国際シンポジウム+『二源泉』ワークショップ+韓国篇である。

★以下に書き連ねることはあくまでも私の個人的な考えであって、他の主催者、主催団体や発表者の方々の意見を代表するものではありません。

企画の意図

一番大きな眼目は、「日本のベルクソン研究(ひいてはフランス思想・哲学研究)の活性化に少しでも寄与する」ということであった。

そのためには、一日か、せいぜい二日、数人の海外研究者を呼んで、こぢんまりと世界の最先端のお話を興味深く拝聴する、といった旧来の方式ではあまり意味がないと思われた。

やるなら三日、ベルクソン研究の先端を行く世界の研究者(フランスだけでなく、少なくとも英米系)と、世界に紹介して恥ずかしくない日本を代表するベルクソン研究者の真剣な議論を、日本の聴衆、とりわけ若手研究者に、ライヴで見てもらうことが最も重要であるように思われた。

今回のシンポを旧来の延長線の感覚で見てしまった人がいるとしたら、この企画は失敗である。

やれ「フランスの誰某は大したことがない」だの、「日本の誰某の新刊はイマイチ」だの、批評家気取りで、言いたいことを言う。それでは巨大掲示板に「言いっ放し」を書き込んで、いっぱし専門家気取りの素人とたいした違いはない。それでいて、自分は満足に英・仏・独語で論文一つ書けはしない。日本語でなら、単に業績づくりの口実でなく、単に訓詁学的でもない、問題提起的な論文を書けているのだろうか?

若いのだから、大きなことを言ってもいい。ただ同時に、もっと自分の足元を見つめ直すべきなのだ。そう痛感してくれた若手(要するに私と同世代の人たちのことである)が一人でも増えたとしたら、この企画は成功である。


発表者の陣容

かねてから、ベルクソン研究をきちんと多様化する必要がある、と感じていた。「何でもアリ」がいいというのではない。一定の水準を保ちつつ、しかし、過度に訓詁学的にならない、という警戒感は必要であるように思われた。また、純粋哲学的と言おうが、形而上学的ないし存在論的と言おうが、同じことだが、とにかくベルクソン哲学における重要なモーメントである「科学との接触」を失うことも避けねばならないと思われた。ここから、以下の三本柱が決定した。

1.哲学的・哲学史的研究
2.科学的・科学史的研究
3.現代思想との関わり

今回は、画期的な「事件」「出来事」としてこのプロジェクトが一定の認知を得る必要があった。そこで、著名な実力者のみにご登場いただいたわけだが、次年度以降は、できれば小さなセミナー形式であれ、若手に発表の場を与えられるような「プラス・アルファ」を可能な限り導入していきたい(財政的な問題も含め、クリアしなければならない問題が山積しているので、約束はできないが)。



中堅以上の研究者には、真摯に努力を続けている若手を「救う」義務がある。もちろん自助も大切だろう。だが、若手を取り巻く状況は、帝大時代とも、バブル期とも違う。業界自体が崩れようとしているのである。

私と共に立ち上がってくれた方々、手を差し伸べてくださった方々もいた。その方々には篤く感謝申し上げ、今後ともご協力をお願い致します。

だが、あるときは私をエリート主義者と呼び、あるときはポピュリストと呼ぶ、都合のいい態度を取っていらっしゃるだけの幾人かの人々もいた。「私は授業をちゃんとやっていますよ」とか、「大学の委員を積極的に引き受けていますよ」、というのは状況に対する何らの積極的な打開策ではない。その方々は、ならば、このような状況をどうお思いなのか、どう対処していくべきだと思っていらっしゃるのか。

Friday, October 26, 2007

共に、そして離れ離れに

とうとう激動の一週間が終わった。一週間にわたる『創造的進化』百周年日本篇を終え、その足でソウル国立大学で行われた韓国篇に向かったのが日曜日のこと。昨日、韓国から戻ってきた。これらの動きについては追々、少し詳しく報告していくつもりだ。

***

私の「大学と哲学」論はとても単純だ。一方で、左翼=現代思想系の人々は往々にして「自由」を称揚しすぎる気味がある。大衆を積極的に取り込んでいく、象牙の塔に閉じこもらない、という基本姿勢にはまったく同感である。しかし、次のような姿勢が彼らの思想のうちに(実際のCOEや科研費獲得競争においてではなく)ほとんど見られないように思うのだ。
≪研究を進めるためには研究費を獲得しなければならない。大学院生の分まで必要である。研究費を獲得するためには次々と成果を上げなければならない。出てきた成果をできるだけ早く論文に書いて、主要な部分は英語で公表しなければならない。書いた原稿は国際的な学術誌に投稿して、審査員からどんなにケチをつけられても繰り返ししっかりと書き直して最後はパスし、掲載されるところまで持っていかなければならない。世界の最先端でいまどんな研究が進められているか、いつも外国語で書かれた膨大な量の論文に目を通して把握していなければならない。そして、どうやって最先端を自分自身が作り出せるかという、厳しい競争にさらされていたことは確かだ。誰もが必死だった≫(杉山幸丸(すぎやま・ゆきまる)、『崖っぷち弱小大学物語』、中公新書ラクレ、2004年)。

つまり、「エリート教育」(これが悪しき「エリート主義」と峻別されるべきことは繰り返し述べてきた)の問題が考え抜かれていないように思うのである。だとすれば、彼らの姿勢は根底においてポピュリズムの危険を孕んではいまいか。

しかし、他方で、自分をノンポリだと思い込んでいる純粋学術系の人々は、えてして「哲学・教育・政治」の根本連関自体を軽視することによって、自分が悪しきエリート主義に陥っていることに気づいていない。そのような人々の紡ぐ思索は、いかに「現実との接触」を語ろうとも、大学という自らの思索の唯物論的な基盤、「場所」についての哲学的省察を欠いてるがゆえに、本質的に脆弱な思考である。
≪大学が危機に直面しているのは日本だけではない。先進国の大学は、第二次世界大戦後に拡張政策をとったために、それぞれ構造的な問題が生じている。古典的な高等教育を維持しようとするイギリス、平等な公立大学の限界から脱出しようとするドイツ、大学以外の高等教育機関との調整に苦慮するフランス、そして大学院化が一層進むアメリカ。それぞれに事情の異なる各国の対処法から日本の大学が学ぶべきことは何か≫(潮木守一(うしおぎ・もりかず)、『世界の大学危機 新しい大学像を求めて』、中公新書、2004年)。

「大学と哲学」をめぐるこのような二極分化の間で、いかに理念を失わない現実主義を貫けるか。私の関心はそこに尽きている。以上の問題関心から出発して、昨今、フランスで展開された「哲学の教育、教育の哲学」の議論の一端を垣間見てみたい、というのが私の願いである。

***

このブログを見てくださる方が増えているそうである。とてもありがたいことだ…とばかりは、しかし、言えない。

別に、思ったことが書けなくなるとか、そんなくだらないことを心配しているのではない。私はそういう人間ではない。

ただ、多くの人にとって時間の無駄じゃないだろうか、と思うだけだ。

私がここに書いていることが本当の意味で理解できるのは、それぞれの道において「極道=道を極める」ことに精進している人だけである。それ以外の人々は、高名な学者であれ、残念ながら私(のブログ)とは本質的に関係がない。

読んでいますよ、などという目配せも不要である。本当に読んでいるかどうかは、その人の行動で分かる。言葉によってではなく、行動によって人の価値は測られる。読んでいても、大半の人は読んでいない。

不遜な言い方だ、と言われるだろう。しかし、それが数年間ブログを書き綴ってきた私の正直な実感である。自分のたかの知れた哲学的な実力を過大評価しているわけではない。ただ、理念をもって現実に立ち向かう大学人の少なさを知っているというだけのことである。

山羊の熟れ乳の人よ、共に、そして離れ離れに、道を極めることに勤しもう。それ以外の世の毀誉褒貶など、すべて塵に等しい。昨日「君のやっていることは本当に素晴らしい」と言っていた人間が、明日は「前々から不遜な奴だと思っていた」と陰口を憚らない、そんな世界にあって、信念と行動を同じくする人はごく少数だ。

Friday, October 05, 2007

近況・展望(自分の仕事の)

仕事と言えば、やはり自分の研究が一番しっかりしていないといけない。華やかな仕事などは、理想をもった現実主義の「現実」の一部分にすぎない。

・2007年8月:日仏哲学会刊行の『フランス哲学・思想研究』第12号に「ベルクソンと目的論の問題―『創造的進化』百周年を迎えて―」。

・2007年9月:大学紀要に三部作の第二篇。

・2007年9月:日本フランス語フランス文学会刊行の『フランス語フランス文学研究』第91号に「唯心論(スピリチュアリスム)と心霊論(スピリティスム) ―ベルクソン哲学における催眠・テレパシー・心霊研究―」。

今年はこれで大論文一つ、論文6本掲載(日4、仏1、12月ごろに英1)、翻訳(独→仏)1本、檄文一つ。各種応募用に日本語論文を増やすという所期の目的は達したと言える。来年も、少しでも質の高い日本語論文を、2カ月に一本のペースで書き、少なくとも一本は「これぞ」というフランス語論文を書ければ、と思う。

で、論文の内容なのだが、従来の研究の核であるベルクソン研究に加えて、ひとまず三つの軸を持ちたいと考えている。

1)「旅行の哲学」というときわめて軽そうなのだが、実際には"Weltanschauung et perspectivisme"という哲学的な問題体系を裏に秘めている。

2)「結婚の形而上学とその脱構築」。これまた「宗教と聖性」「存在と所有」「fides概念」といった形而上学直球の問題系を現実問題と交錯させて論じたい、という意図がある。

3)「教育の哲学、哲学の教育」。これも長年やりたいと思っていたテーマ。その一部はすでにこのブログでも書き散らかしてきた。

お約束した関係もあるので、まずは3あたりから、研究論文の形で徐々に書いていきたい。

翻訳はお約束したものが幾つかありますが、これは何とかやり遂げたいと思っています。それ以後は、原則的にお引き受けしないと思います。

Wednesday, October 03, 2007

哲学と大学

一つ大きなヤマを越えようとしている。大規模な国際シンポの準備、複数の関連イヴェントとの調整、期限の迫った諸々の論文の校正、各種応募、そして子育て。。。周りから見てどうか分からないが、自分ではよくこんなコンディションに耐えて、それなりのものをつくりあげたとほっとしている。まだ完全には終わっていないけれど。

ここ数日、大量のメールを読み、書き、送るだけで一日の大半が潰れている。微妙な人間関係を含んでいるにもかかわらず、即時に返信しなければならない多数のやり取り。メールを書きすぎると、自分を消耗する。スイッチのオンオフが大切だと自分に言い聞かせる。というわけで、もう夜はメールを読まないことにしたので、返事が遅れても、苛立たずに(笑)お待ちください。



新たな運動に巻き込んでもらえて嬉しい限りだ。そうして巻き込まれつつ、他の人も巻き込んでいきたい。新たな出会いを準備していければと願っている。

UTCP「哲学と大学

正直、買い被られている気がするけれど、化けの皮が剝がれたら剥がれたでしょうがない。それが自分の今の実力なのだから。

Monday, September 10, 2007

場の論理

ある場所を立ち上げる時はいいのだけれど、既存の場所をいかによりよくしていくか、という問題は非常にデリケートだ。すでにatmosphèreがあるからである。

「よりよく」というのは必ずしも「今までが悪かった」ということを意味しはしないのだが、往々にしてそう受け取られてしまう危険性を孕んでいる。

そう受け取られたとき、誰か特定の人(々)を恨んでみても始まらない。それぞれの場の論理というものがあり、言ってみればそれぞれのgenius lociが働いている以上は。

変えること、進むことばかりが重要なのではない。引くこと、擱くことが必要なときもある。

引くこと、擱くことばかりが重要なのではない。変えること、進むことが必要なときもある。

正しい答えなどあるのだろうか?けれどそれを探す真摯な試行錯誤の道のりだけが、唯一信じられるものであるように思える。



とはいえ、「善意の押し売りほど有難迷惑なものはない」ということもしっかり胸に刻みつけておかないとね(笑)。

Thursday, August 23, 2007

マンモスの創造的進化

ヤフー・フランスのトップニュースのタイトルの付け方はいつも少しひねってある。例えばこんな感じ(今回はひねりが少ないけれど)。


Le mammouth comme cible
L’Éducation nationale attendait la nouvelle avec anxiété. C’est maintenant officiel : 11 000 postes ne seront pas remplacés en 2008.


日本だとこんなときに用いるのは「象」だろうか。この手のニュース解説を日本語で読みたい方は、penses-bêtesの友人Kiyonobu TedoさんのブログKiyonobumieからたどっていかれるといろいろな発見があることでしょう。

大学にかかわる限り、教育の問題を考えずに避けて通ることはできない。知的興奮を誘う新たな制度的創出によって、事態を少しずつ変えていこうとする努力もまた、真に哲学的な営為に属するとなぜ分からないのだろうか。人を鍛錬系、啓蒙主義者などと揶揄するだけでは一インチたりとも先に進んだことにはならない。



Environ 11.000 postes pas remplacés dans l'Education en 2008
Reuters - Mercredi 22 août, 20h13
PARIS (Reuters) - Environ 11.000 postes ne seront pas remplacés à l'Education nationale en 2008, annonce Xavier Darcos.


Le ministre de l'Education précise dans un entretien à paraître ce jeudi dans Paris Match que seul le second degré connaîtra une baisse de ses effectifs et que les non-enseignants seront, en proportion, les plus concernés.

"L'Education nationale, qui représente à peu près la moitié de la fonction publique, participera pour moitié à l'allègement de 22.700 suppressions d'emplois dans l'Etat l'an prochain."
"Donc environ 11.000 fonctionnaires partant à la retraite ne seront pas remplacés", dit-il.

Dans le premier degré, l'Etat compte créer environ mille postes chaque année.

"Dans le second degré, il y aura des départs à la retraite non remplacés: ce sont, en proportion, les fonctionnaires non enseignants -cadres, agents techniques ou administratifs-, qui représentent 20% des postes, qui seront le plus concernés", précise le ministre de l'Education.

Il attend 25.000 élèves de plus dans le premier degré et 25.000 de moins dans le second, soit au total 6,7 millions d'élèves en maternelle et en primaire et 5,4 millions dans les collèges et lycées.

Xavier Darcos estime qu'"on ne manque pas de professeurs", la France en comptant 83 pour 1.000 élèves dans le secondaire contre 66 en Allemagne et 60 au Royaume Uni.

"L'offre d'options est à revoir", ajoute-t-il, car "on compte sur le territoire 500 professeurs d'allemand sans élèves. Même situation pour le portugais. De même pour certaines options désertées dans certaines sections professionnelles".

Xavier Darcos déclare également qu'alléger les emplois du temps "est d'autant plus nécessaire qu'il n'y a pas de corrélation entre le temps passé et la réussite".

"Comme tous les pays du monde, la France doit rationaliser les études, avec plus de suivi individuel et moins d'options", dit-il.

"Attention, en particulier aux filières sans débouché évident. Je pense à 'ES' (économique et social). Elle attire beaucoup d'élèves qui occupent ensuite de grands amphis mais se retrouvent avec des diplômes de droit, psychologie, sociologie... sans toujours un emploi à la clef", poursuit-il.

Thursday, August 16, 2007

打率

問題というのは本当に思わぬところから起こってくるものだ。自分ではずいぶんいろんなことに注意もし、できるかぎり問題の起こらないよう配慮してやっているつもりだが(それを感じ取ってくれている人々もいることでしょう)、それでもやはり問題は生じてくる。というか、こういうことにきりはないのだ。いつでも、どこにでも問題は突如生じうる。

そして、問題が起こったからといって、研究のほうが待ってくれるわけでもない。プロの世界では結果がすべてだ。

最近、打率ということをよく思う。研究は日々の積み重ねだ。一打席、あるいは一試合、素晴らしい打撃をしたからといって、それが何だろう。コンスタントに打つ、トータルでいい成績を残すこと。それがまずは一軍に定着し、スタメンに名を連ねる条件だろう。

「打率」、日々の積み重ねとは、試合のことだけではない。日々の練習をより効果の高いものにし、より効率よくこなすことも意味している。若いうちは体をいじめ抜け、それが最終的に長くプロ選手をやっていくうえで土台、貴重な財産になる、とスポーツでは言われる。高校野球のスターのうち、何人がプロ野球の一流選手になっただろうか。研究も同じだと思う。

(体をいじめ抜く、とはもちろん、過剰な練習で体を壊すことを意味しない。しかし、自分がこれまで限界としてきたことを超えようとする作業ではある。どのみち、私は、研究のやり過ぎで体を壊すほど真面目な人間ではないので、これはあまり関係ないが。)

日々の練習は、実は、ベテランになっても続く。若手の練習は実力を伸ばすためのものだが、ベテランの練習は、実力を維持するためのものだ。今の体力、それに支えられた技術を維持するために、体をいじめ抜くのである。



今、自分は二流選手だと思っている。今まで論文掲載を拒否されたことは一度もないし、奨学金やプロジェクトの申請もまずまず受かっているので、まったく無能、三流だということではないのだろう。

ポカもあるが、要所要所ではそこそこのバッティングをする。けれど、それでは駄目だ。日々の努力が足りない。もっと努力できるし、もっと自分を追いつめることができるはずだ。ところが、それが出来ていない。

一流と二流を分かつ差は、才能ではなく、努力だと思う。いや正確に言えば、できうる限りの努力をできる才能だ。今のところそれが足りない。欠けているとは思わないが、まったく不十分だ。

これはとても歯がゆい。長距離走のときの歯がゆさに似ている。力尽きた、もう駄目だと思って、歩くようなスピードで走っていたのに、ゴール近くで待っている人たちの声援を受けると、自然とラスト・スパートができる。問題はおそらく、経験不足から来るペース配分ミス、そして何より意志の弱さだったのだ。



けれど、そこで終わりではない。一軍に定着し、活躍することのさらに上がある。

三割打者はすでに一流の証である。試合に勝てばそれでいい、自分の打率は二の次だ、そういう考えもある。けれど、そこに安住しない選手もいる。

勝とうが勝つまいが、一打席一打席ベストを尽くす。三割に満足しない、試合に勝つことに満足しない、それこそが超一流と呼ばれる選手だろう。そこに到達するには、まだまだ何もかもが足りない。

今は自分をもっともっと伸ばす時期。がむしゃらにやればいいというのではない。若さで押し切る時期は終わってしまった。決然とした意志と、明確な目標を持って日々の練習に取り組むことだ。

いずれは、自分の研究時間を確保し、現在の実力を保つだけで精いっぱいという時期がやってくるのだろう。しかし、それはベテランと呼ばれる選手たちの問題だ…。ベテランにも「打率」の問題はやはりつきまとうのである。

Wednesday, August 08, 2007

ベルクソン『創造的進化』研究HP

ようやく出来上がりました。

http://www.cms.k.hosei.ac.jp/project-Bergson-Japan/

まだ立ち上がったばかりの段階ですが、これから少しずつ充実させていく予定です。ご尽力いただいた(ている)nsさんに深謝。

また、Link欄から、ポスターにアクセスできます。

Thursday, July 19, 2007

頭痛のタネ、友情の種

もうメンバーも内容も会場も決まって、秋のシンポジウムは一段落した、と思われているかもしれないが、とんでもない。ここに来て急に問題が持ち上がっていた。

ここ数日、自分の研究をほっぽり出して(赤ん坊や家事は放置するわけにはいかないので)、純粋に不毛なやりくり算段に埋没していた。

問題を解決しようにも、フランス人は今まさにバカンスに出発する(した)時期である。なんでこんな時期に!

特に頭が痛いのは、近頃ユーロが強すぎるということ。どう処理すれば一番効率的なのか。こちらにもきちんと検討するゆとりが欲しかったが、緊急処置を要する問題でもあり、そういうわけにもいかない。

本当はある程度詳細を書いたほうが後進の人の参考になるだろうとは思うのだが、ちょっとデリケートすぎる。紆余曲折の末、事態はようやく今日になって、収束の方向に向かっている。

一言だけ言えば、誰が相手であれ、いかに耳の痛い真実であれ、言うべきは言う、そういう関係を世界の研究者とこれからも維持していきたいと思っている。

このconsternantな問題の中で唯一嬉しかったのは、アジア人の知的・財政的協力者がおとこ気を見せてくれたことだ。彼とはウマが合いそうな気がしている。長期的な視野に立って、より一層の連携を深めていきたい。


地下鉄初乗り1000円!=英ポンド、対円で高騰
7月18日6時1分配信 時事通信

 【ロンドン17日時事】ロンドン外国為替市場で17日、英ポンドの対円相場が上伸し、一時16年ぶりに1ポンド=250円を突破した。日英両国の金利差が、ポンド相場上昇の背景。ロンドンの地下鉄初乗り料金(4ポンド)は、円換算で1000円を超え、日本人観光客や円を基準に給料を受け取る駐在員からは、日本との価格差の広がりに、悲鳴も上がっている。

2007/07/13-11:44
円、対ユーロで最安値更新=一時、168円95銭

 13日午前の東京外国為替市場の円相場は、内外の金利差に着目した円売りが進み、対ユーロでは一時、1ユーロ=168円95銭を付け、169円台目前に迫るなど、9日に付けた史上最安値168円55銭を更新した。午前11時現在1ユーロ=168円78-79銭と前日比52銭の円安・ユーロ高。

 日銀の金融政策決定会合での政策金利据え置きを受け、改めて内外の金利差が意識され、金利の低い円で資金を調達しユーロなどの高金利通貨で運用する「円キャリー取引」が活発化。円は、英ポンドやオーストラリアドルに対しても売られる全面安の展開となった。

 円は対ドルでも続落。午前11時現在、1ドル=122円46-47銭と前日比41銭の円安・ドル高。ユーロ・ドル相場は、1ユーロ=1.3781-3782ドル(前日1.3785-3786ドル)。

Wednesday, July 18, 2007

現役復帰(学問における)

私自身、若い人だけでなく、少し年を取ってなんとなく元気がない、研究の動機を見失いかけている(ようにも思われる)人たちにも積極的に声をかけていくことで、もう一度奮い立ってもらえればと思っている。願っているだけでなく、実際そのために動いてもいる(そのうち明らかになるだろう)。

もちろん一度失いかけた情熱を取り戻し、その間に蓄積された情報量をキャッチアップすることは簡単なことではない。だが、また、不可能でもない。

また、もちろん一研究者としては、そういうプロモーター的な仕事でなく、自分自身の研究の中身が一番大事なわけだが、それだけに閉じこもりたくはない。どれほど忙しくても。


【HERO'S】船木誠勝「桜庭や田村の試合を見て現役復帰を決意した」
GBR 格闘技WEBマガジン - 2007/7/17 14:19

 7月17日(火)都内ホテルにて、TBS主催『OLYMPIA HERO'S 2007 ミドル級世界王者決定トーナメント開幕戦』の一夜明け記者会見が行われ、大晦日での現役復帰を発表した船木誠勝(ARMS)が心境を語った。

 会見はFEG谷川貞治代表による、復帰までの経緯説明から始まった。「船木さんはHERO'Sの旗揚げ戦から中継の解説の仕事をしてもらっていて、当時はパンクラスを離れてフリーとしてタレント活動されていました。格闘技から離れているということで、私から『また(格闘技を)やりたくないですか?』と軽くお願いしたことはありましたが、正式なオファーをしたことはありませんでした。

 ところが柴田選手の練習を見たり、試合を見ているうちに火が着いたんだと思いますが、半年ほど前に船木さんの方から『格闘技をもう一度やりたい』という話を受けました。そこで(現役復帰が)本気かどうかを確認して『明日の大会で発表してもいいですか?』と聞いたところ了承がありました。ですから前田さんに船木さんの復帰を話したのも大会前日でしたし、細かい話合いはこれからです。

 私も船木さんが練習されているという話を聞いて、ある現役の有名格闘家から『かなり強い』ということや、そういう選手たちも極めてしまうという話も聞きました。それだったら(現役復帰も)大丈夫だろうと。ただし7年間の空白がありますから、調整のためにも大晦日がいいということになりました。

 船木さん、桜庭選手、田村選手は、グレイシーと闘いながら、プロレスファンに夢を与えて、名勝負をやって、総合格闘技を日本でブレイクさせた世代です。そんな船木さんのために最高の舞台、場所や相手を一生懸命用意したいと思っています。

 船木さんたちの世代があり、それから宇野選手たちの世代につながっている。船木さんたちはメインイベンターとしての風格を持っていると思います。そして下の世代の人たちにもいい刺激になると思います。また選手としては大変だと思いますが、総合格闘技の現状に立ち向かって欲しいです

 谷川代表の言葉を受けて船木が挨拶。復帰を決意した理由を自らの口から語った。「桜庭選手がHERO'Sに参戦することになり、自分は解説席から見ていたのですが、選手としてはもう潮時だとうと思っていました。しかしそれでも桜庭選手は闘っていて、それを見て心が動きました。また今年の頭に柴田がデビューするということになって、柴田を通して現役の選手としてリングを見て、自分もやらきゃいけないと感じました。

 Dynamite!! USAで田村選手と会って、もし桜庭選手が欠場した場合にはホイスと闘うというオファーを受けていたと聞きました。同年代の選手たちが身を削ってやっているのに、それを解説席から批評するにはやりきれなかった。LAから帰ってきて、柴田と一緒に色んな選手たちとスパーリングをしても、まだ力が残っていると感じます。それで上がるリングがあるのであれば、もうやるしかないだろうと。それで現役復帰の話をしました。

 昨日もリングに上がって挨拶をしましたが、自分のことを知らない人もたくさんいると思います。でもリングの中は100%選手のものです。その選手の生活やすべてリングに出ます。ありのままの自分を出せば、損をさせない自信はあります。若い選手たちにも『何であんなヤツが』と思って、牙を向いてくれたらいい活性化にもなるでしょう。

 またアメリカにとられた日本の総合格闘技のいい部分を作り直したい。今は日本が作ったものを、アメリカでお金で持っていった。だったらもう1回自分たちで作り直せばいい。2,3年かかるかもしれませんが、不可能だとは思いません。これからは大晦日に向けて、100%選手としての生活に入りたいと思います」

 そして挨拶を終えた後は記者からの質疑応答に答え、今後の選手活動のビジョンを明かした船木。質疑応答の最後には前田日明HERO\'Sスーパーバイザーが船木の復帰についてコメントし、「色んな意味で期待している。思い入れのある選手なので、協力してやっていきたい」と激励している。

Sunday, July 01, 2007

謝罪

6月27日の本ブログで、「フッサール業界のある若手の人」のことを話した。ご本人から「訂正」を求めるコメントをいただいた(同日分コメント欄参照のこと)。要点は以下のとおりである。

・たしかに自分は「指導を受けたい人がいないので、行く必要は感じない」という趣旨のことを言ったが、続けて「しかし外国語で書いていく必要はある」と言おうとしたのである。

・実際、自分は英語で発表もし、書きつつもあるので、「外国語で書かない」大学院生と同一視されるのは不本意である。
 
おっしゃることは全面的にもっともです。

したがってここで明記しますが(また、同日分のブログに変更と分かる仕方で変更を加えますが)、

・「指導を受けたい人がいないので、行く必要は感じない」と言うことと、「世界に向けて発信する必要はない」「外国語で書く必要はない」と言うこととは必ずしも同じではないこと、

・今、真意を伺い、また英語で書こうと鋭意努力されていることを伺って、上記二項を同じだとしたのはあくまでも私の拙速な判断であったこと

を認め、私の認識・記述を訂正致します。また、せっかく努力されている矢先に、私の不用意な発言で精神的なご不快を被られたことに対しても、ここに深くお詫び申し上げます。

Friday, June 29, 2007

『創造的進化』百周年・日本篇詳細

「生の哲学の今―ベルクソン『創造的進化』刊行百周年記念国際シンポジウム」
(2007年10月16-20日)

ベルクソン『創造的進化』刊行百周年記念国際シンポジウム実行委員会主催,
在日フランス大使館・関西日仏学館・ベルクソン哲学研究会・法政大学・学習院大学後援

第1日:『創造的進化』の哲学
10月16日(火)学習院大学 創立百周年記念会館小講堂
開会式(10:00-10:30)
セッション1(10:30-12:10)
 フレデリック・ヴォルムス(リール第三大学)+杉山直樹(学習院大学)
セッション2(14:00-15:40)
 ジャン=クリストフ・ゴダール(ポワチエ大学)+藤田尚志(日本学術振興会)
セッション3(16:00-17:40)
 ピエール・モンテベロ(トゥールーズ第二大学)+平井靖史(福岡大学)
全体討議(17:40-18:30)

第2日:哲学史・科学史の中の『創造的進化』
10月17日(水)法政大学 スカイホール(ボアソナードタワー26F)
開会式(10:00-10:30)
セッション1(10:30-12:10)
 ジャン・ガイヨン(パリ第一大学)+安孫子信(法政大学)
セッション2(14:00-15:40)
 ポール=アントワーヌ・ミケル(ニース大学)+金森修(東京大学)
セッション3(16:00-17:40)
 アルノー・フランソワ(リール第三大学)+ミシェル・ダリシエ(パリ中国・日本・チベット文化研究所)
全体討議(17:40-18:30)

第3日:『創造的進化』と現代思想
10月20日(土)京都大学 文学部新館第3講義室
開会式(10:00-10:30)
セッション1(10:30-12:10)
 ジョン・マラーキー(英ダンディー大学)+檜垣立哉(大阪大学)
セッション2(14:00-15:40)
 マイケル・コルクマン&マイケル・ヴォーガン(英ウォーウィック大学)+合田正
人(明治大学)
セッション3(16:00-17:40)
 スザンヌ・ガーラック(米カリフォルニア大学バークレー校)+守永直幹(宇都宮
 大学)
全体討議(17:40-18:30)


■関連企画(東大グローバルCOE「死生学の展開と組織化との共催)
在日フランス大使館・ベルクソン哲学研究会後援
ワークショップ「生の哲学の彼方 ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』再読」
10月18日(木)東京大学 文学部教員談話室

開会式(10:00-10:30)
セッション1(10:30-12:10)
 岩田文昭(大阪教育大学)+杉村靖彦(京都大学)
 [レスポンス]フレデリック・ヴォルムス(リール第三大学)
セッション2(14:00-15:00)
瀧一郎(大阪教育大学)
 [レスポンス]アルノー・フランソワ(リール第三大学)
セッション3(15:20-17:00)
 鶴岡賀雄(東京大学)+中村弓子(お茶の水大学)
 [レスポンス]ジャン=クリストフ・ゴダール(ポワチエ大学)
全体討議(17:00-18:00)

Thursday, June 28, 2007

すしボールの憂鬱(それにもめげず)

何度でも繰り返し言わねばならないのは、それだけ病根が深いからでもある。

フッサール業界のある若手の人が「世界(ドイツ)に出ていく必要を感じない。ついて学びたい人も特にいない」と言っていた。こういう趣旨の発言は、ベルクソン業界でも、ついこの間まで聞かれた。

[以下に読まれることの中で、問題とされている「フッサール業界のある若手の人」に関する記述は、私が6月27日時点で下していた拙速な判断に基づいて書かれており、したがって事実認識の部分に誤りがあると判明した。必ず本項目コメント欄における氏の反論と、6月30日付の私の「謝罪」を併せ読んでいただきたい。重ねて氏にはお詫び申し上げる次第です。]

しかし、重要なのは、その人が世界のフッサール研究をいかに認識しているかではなく、その人を世界のフッサール研究がいかに認識しているか、なのだ[氏はすでに英語で発表され、英語論文も用意されているとのことである。]

いかに正確な世界のフッサール研究の見取り図を自分の頭の中に描くか、が問題なのではなく(それはそれでまずは素晴らしいことだが)、世界のフッサール研究がその人のことを知らなければ(評価していなければ)、そういう認識・発言はあまり意味を持たないということをもっと痛切に認識したほうがいいのではないか。[繰り返すが、氏はすでに英語で発表され、英語論文も用意されているとのことである。]

そういう評論家的態度は、これまでの日本の西洋哲学研究に相当程度染みついている(例外も、特にドイツ哲学研究には、多いけれど)。《世界水準は知っているがどうせ大したことはない》ので、《マーケットもどうでもいい》、ただ真理を追究できれば、と。そして、その「真理の探究」はもっぱら日本語で行われる。

だが、世界に向けて書くという姿勢が、哲学には根源的に要請されているのではないのか?そういった基本的な哲学的問いを自らに厳しく問いただすという姿勢が日本の平均的な哲学科大学院生には欠如しているように思われる。自分の語学能力の不足などという学問以前的な理由でその問いを回避し続ける。そのくせ、批評家的態度は保持する。自分に甘く、他人に厳しい。

世界ではまだまだ日本人の思想研究は知られていない。知られても最初のうちは、「色もの扱い」とは言わないまでも、好奇の目に晒されることは確実である。それほど、海外での日本人に対する愚かな(そう、愚かとしか言いようのない)先入観というのは抜きがたいものなのだ。海外で研究するということは、そういう偏見をはねのけながら戦うということも意味している。

一人や二人活躍したって全く不十分なので、野茂やイチローがあれだけ長期間、並みの大リーガー以上の活躍をし続けても、少し別のところで新たに活躍する選手が出てくれば、そいつは依然として「スシ」なのだ。

私がしばしば取り上げるスポーツの譬えがよく分からないという人に日本で研究している人が多く、いちいちよく分かるという人に海外で研究している人が多いというのは、示唆的である。日本で研究している人は、自分がどのような制度にどれほど守られて(規定されて)生きているのか、おそらくあまり意識したことがないのではないか。


米紙が桑田を特集 カーブは「すしボール」
2007年6月27日 (水) 9:51 共同通信社

 米大リーグ、パイレーツの地元紙、ピッツバーグ・ポスト・ガゼット(電子版)が26日付のスポーツ面のトップで桑田真澄投手の活躍を取り上げた。

 記事では、桑田のカーブを「SUSHI-BALL(すしボール)」と命名。のり巻きの具としてボールが挟まっているイラストも掲載された。のりに巻かれ、中身が分からないすしのように、打者に対して予測が不可能なカーブを投げると説明している。

 桑田のボールを一番多く受けているブルペン捕手のアンドラデさんは「ボールの動きはすごいよ」と驚き、同僚のラローシュ内野手も「僕にはチェンジアップのように見える」と話した。

 これまで6試合に登板し6奪三振。日米通算2000奪三振にもあと「14」と迫っている。中継ぎとして良い結果を残している桑田の存在感は地元でも高まっているようだ。(マイアミ共同)

Tuesday, June 26, 2007

Il naquit, travailla et mourut. 宇井純のために

23日土曜日は、午前中「実存思想協会」の発表を聴きに行き、午後「フランス哲学研究セミナー」に出席した。

そういうわけで、出られなかったのだが、東大安田講堂で、昨年十一月に亡くなられた環境学者の宇井純さんを偲ぶ催しが行われた。以下は、「日本環境会議」のHPから一部抜粋。

≪宇井純さんは、公害と環境の研究と運動において、常に「気になる人」だった。宇井さんの言葉と仕事は、ポジティブに、また人によってはネガティブにも、強いインパクトがあった。宇井さんはよく歩き、多くの人と語り、そして仕事をした。昨年11月に宇井さんは亡くなったが、彼のインパクトは多くの人たちの中に生きている。

「公害に第三者はいない」という科学の客観性と公平性に関わる問題提起、「分からなくなったら現場に出ろ」という現場主義、「矛盾している情報を掘り下げてゆくとそこに真実がある」という論理的思考と実証的データの重視、「複数の研究分野をもて」という学際的研究の実践、「どんな立場にいてもやることはある」という連帯への指向など、宇井さんの遺した言葉を、私たちは自分なりに咀嚼し、あるいは批判して、今後に活かす必要がある。そこで私たちは、学問や大学に対する批判も含めて、宇井さんの言葉と仕事が自分にとってどんな意味を持つのかを、宇井さんを直接知らない若い世代とともに考えるための場を企画した。≫

よく歩き、多くの人と語り、そして仕事をする。歩くといっても営業ではないし、語るといっても自己顕示ではないし、仕事といっても業績づくりではない。理念をもった現実主義者。

Friday, June 22, 2007

無様なautomatisme

これも何度も言っているのだが、日本の新聞のスポーツ欄、スポーツ新聞の記事は一般的に――例外もあることは言うまでもないし、これまでにも積極的に取り上げてきた――きわめてレベルが低い。勝った負けたと一喜一憂し、次のスターを仕立て上げることに血眼、まさに「朝三暮四」を地で行っている感がある。

フリーランスで書いている人のもののほうがはるかに世界を知っていて視野が広く、長期的な展望に立ち、技術論にも精通している(スポーツナビのコラム)。そんな高いレベルの話ではないが、一例だけ挙げよう。今回、相手チームの質・モチベーションに言及した記事が一般紙にどれくらいあっただろうか?毎回素晴しい記事を書いておられる宇都宮徹壱さんの記事はこんな感じである。

 昨今、日本で行われる親善試合(キリンカップを含めて)では、あまりにもモチベーションの低い、それこそ「試合後の秋葉原」が楽しみで仕方がないような、およそ「代表」とは名ばかりのチームも決して珍しくない。そんな中、このモンテネグロ代表は、久々に出会った、実にすがすがしく健全な(言葉は変だが)正真正銘の「代表」であった。

[…] ファイナルスコア「2-0」は、順当な結果だったと思う。かつてはサビチェビッチ、ミヤトビッチといったジェニオ(天才)を輩出してきたモンテネグロだが、少なくとも現時点では、モチベーションばかりが先行する新生国家でしかなかった。(宇都宮徹壱、「当てが外れたモンテネグロ戦」)

試合を客観的に「報道」するに際して、日本代表の他の試合、他の対戦チームと比較し、あるいはそのチームの過去のパフォーマンスと比較するのは「イロハ」である。それがなされない。あらゆる点で事前の勉強が不足している。だから、オシムは「どこまで貪欲に上を目指すのか」だの、高原は「さすがエース」だの、いかに感情的な「色」を付けるかに腐心することになる。

特に即座にやめてもらいたいのが次の三つ。
・精神論:「気合いで勝つ」「意地でも」「なんとしても乗り越える」
・スター主義:「神」「神様」「聖地に降臨」
・非合理的な断定:「~が~すれば~という不敗神話は継続中」

こういう無様なautomatismeを読んでいると、彼らは結局、他に書くことがなくて仕方なくマスを埋めているのだということが分かってくる。なぜなら広い視野も、長期的な展望も、解説するのに必要な技術論も持ち合わせていないからだ。

一般読者のレベルに合わせている?読者の知性を馬鹿にしている。こんなものを数十年読まされ続ければ、誰だってスポーツの鑑賞眼が落ちる。

ところが、mutatis mutandis、案外、こういったautomatismeは、私たちの業界とも無関係ではないのだ。

オシムの言葉(6.1会見抜粋)

■悪かった点を話す方が将来のためになる

勝った試合ではあるが、良かったことより悪かったことについて言葉を費やすことが明日のためになると思う。例えばパスミス、スキルの低さ、パスのタイミングが悪いこと、手間を掛けすぎること、ボールが私物であるかのように長い間キープしようとすること、などなど……。それらを直さないと、もっと良いチームにはならない。「今日は勝った、おめでとう」というのはお世辞にしか聞こえない。

■スター選手だけでは、サッカーは前進しない

――個人プレーということだが、個人でドリブルで勝負するときは、そうすべきだと思うか?

 そうしてもいいのだが、タイミング、時間帯、そして目的がよくなかったのだ。タイミングが選手のプライベートな要因で決められたことがあった。チームとして前進している時間帯に、チームのためでなく個人のためにボールを使う。例えばシュートして得点する、あるいはナイスパスを出す、あるいは競技場の大画面に自分がアップで映りたいとか、あるいは試合後に自分のユニホームを振り回しながら競技場を一周するとか――。それもサッカーの一部ではあるのだが、そういうことはチームのためにならないと選手には伝えてきた。日本はスター選手、個人で目立つ選手が人気を集める国だ。しかし、それではサッカーは前進しない。

■水野の才能が、潜在的な才能で終わってはいけない

――水野を入れたときに、相当長い指示をしていた。どういう指示をしたのか

私は水野だけでなく、交代選手にはかなり細かい指示を与えている。思うに、日本代表のフルメンバーとしては、まだ彼は子供だ。才能には恵まれているし、アイデアも溢れるほどある。ただし、そのアイデアに自分がとらわれてしまう。例えば、ここに牛がいるとしよう。ミルクが100リットル必要だ。そこで乳搾りをすればいいのに、牛にボールをぶつけてしまう。つまり、そんなことをしてもミルクが得られるわけがない。牛を見つける仕事までして、そこで成果を台無しにしてしまう。

彼には、効果的なプレーをしろと言いたい。サッカーのプレーをしているというよりも、ボール遊びが好きな選手だから。そういう選手がプロとして、職業としてサッカーをしている選手と混じって出場するわけだ。何に気をつけるべきか、指示したことについては、これ以上話すことはないだろう。彼の才能を、チームのために使わないのはもったいない。それくらいの才能を持っている。ただしその才能が、潜在的な才能で終わってはいけないと思う。

***

これは私たちの業界では何を意味しうるのだろうか。それを探すことが、私の言う「研究外在的な努力」の一つである。

≪欧州での経験が生きた。1メートル90前後のDFを常に相手にするドイツでプレーする中で、大型選手をいかに攻略するかで頭を悩ませた。そして得た答えが「縦への対応ではかなわないが、横の揺さぶりには弱い」だった。モンテネグロの先発DFラインの平均身長は1メートル85・5センチ。得点シーンは一度、相手DFの死角に入り、ファーからニアに流れる“横の動き”でマークを外したものだった。今季はリーグ30試合で11得点を記録し、欧州での日本人シーズン最多得点記録を樹立。ファン選定のチームMVPに選ばれた実力を発揮した。≫(『スポニチ』6月2日付記事より)

Tuesday, June 19, 2007

石板と踏切板(レヴィナスとベルクソン)

≪自由が現実に食い入ることが可能であるとすれば、それは制度によってだけである。自由は、さまざまな法が書き記された石板に刻み込まれる。自由が現実に存在するのは、制度的存在にはめこまれることによってなのである。自由は書かれたテクストに由来する。

テクストはたしかに破壊されうる。だがテクストは、他方では持続しうるのであって、そこで人間のための自由が人間の外で維持される。暴力と死とに曝された人間の自由が、ベルクソン的な飛躍によって一挙にその目標に到達することはない。人間的自由は、自分自身を裏切って諸制度のうちに逃げ込む。

歴史は一個の終末論ではない。道具をつくる動物が自らの動物的条件から解放されるのは、その飛躍が中断され、断ち切られるかに見える地点においてである。つまり、蹂躙されることのない意志として自ら目標に向かう代わりに、道具を製作し、自分の将来の行動の可能性を受け渡し、受け取ることができるもののうちで固定する場合なのである。

このようにして、政治的・技術的な現実存在によって、意志にその真理が保証される。≫(レヴィナス、『全体性と無限』



≪生命の跳躍は、生命に背く構造に到達する。自由は自由自体が見る影もなく変わり果てるある決定的な選択に到達する。なんと人を食った矛盾であることか。生命は自分自身を余すところなく実現するために知性に頼るのに、知性は生命の期待を裏切るのである。

私たちが「器官-障害の弁証法 dialectique de l'organe-obstacle」と呼んでいたものは、すでに受肉の必要性をしっかりと打ちたてている。物質が足かせであるばかりではなく、生命の不可欠な協力者でもあるということを理解する機会は繰り返し私たちに与えられている。

物質は、生命がそれに対抗して自分を主張しなければならない抵抗を毎瞬間表しているばかりではなく、その起源からして、次第に枝分かれしていく進化の道の上に生命的飛躍を自らたわむことによって放り出した踏み切り台でもある。これは、飛躍ないし飛翔のイメージそのものが表現していることである。

おそらくは、たとえ物質が存在しなくともなお生命は存在するであろうが、生命的飛躍は存在しないであろう。物質が存在しなければ、本来の意味での進化は、自由の価値的優越性を増大させるという自らの存在理由を失うことになろう。≫(ジャンケレヴィッチ、『アンリ・ベルクソン』

Thursday, June 14, 2007

デジャヴ

別に何王子の話でも構わない。似たことはどの業界でも起こっているのかもしれない。世界を知らずに、日本でしか通用しない言動を繰り返す。その場限りの空虚な「フィーバー」をつくりだそうと躍起になって。

長期的な展望に立った、実のある、持続的な業界の活性化には、そのような喧噪とうまく距離をとることが求められる。

雑誌の特集になると決定することが重要なのではない。どれくらい良質の特集にできるかが重要なのだ。しかし、今の私にはそこまでの実力はない。せいぜい自分の寄与が少しでも見苦しくないものになるよう努力するくらいのことしかできない。


ウッズに「ハニカミ王子知ってる?」

 男子ゴルフの全米オープン選手権を前にした記者会見が12日、米ペンシルベニア州オークモントCCで開かれたが、日本のテレビ局がタイガー・ウッズ、フィル・ミケルソン(ともに米国)に対し、「ハニカミ王子」こと石川遼(東京・杉並学院高)について質問。メジャー大会には全く場違いな問いに、世界中から集まった報道陣のひんしゅくを買った。 ウッズには「彼について知っているか」と聞き、ミケルソンに対しては「石川君にメッセージを」などと発言。大勢の記者であふれ返った会見場のあちこちで失笑が漏れ、質問者には冷たい視線が集まった。 (共同) [ 2007年06月13日 09:27 速報記事 ]


遼クン盗聴工作TBS不誠実に主催者激怒
日刊スポーツ - 2007/6/7 9:51

4番ホール第2打の前にはしゃがみ込み元気のない表情(撮影・小沢裕)

 TBSの不誠実な対応に、アマゴルファーとゴルフ団体が6日、怒りをあらわにした。同局の情報番組「ピンポン!」が、15歳ゴルファー石川遼のラウンド中の盗聴を試みようとした問題などで、同局は非を認めながらも井上弘社長(67)はギャグを交えて謝罪。4、5日と関東アマチュアゴルフ選手権で石川と同組で、TBSの非常識な依頼を断った広田文雄氏(43)に対しては、その名誉を棄損しかねない行為を働いていた。同大会を主催する関東ゴルフ連盟(KGA)は、同局に対する法的手段の検討を始めた。 TBSは表面的に謝罪しながらも、その内容はあいまいなものだった。

 午前8時ごろ、「ピンポン!」を管理する制作局情報センター情報一部長の藤原康延氏と番組チーフディレクターが、関東アマ開催会場の千葉CC梅郷Cを訪れた。同30分からKGA加藤重正事務局長らと話し合った。加藤氏によると、2人は広田氏を通じて石川の盗聴を仕掛けようとした行為については謝罪した。だが、番組ディレクターが広田氏に対して謝礼提供を口にしたことには「本人は『言っていない』と言っている。確認できていない」と主張した。

 ほぼ同時刻、番組プロデューサーは、長野県須坂市在住の広田氏の自宅に電話をかけていた。 広田氏 午前8時30分ごろに、プロデューサーと電話で話しました。最初に謝罪の言葉はありましたが、『本当にディレクターはそんなことを言ったんですか』という感じで、とても誠意ある対応とは思えませんでした。このままでは私がウソを言っていることになる。

 夜になって、広田氏は同プロデューサーからアポなしの訪問を受けた。約1時間話し合ったが「ディレクター本人の記憶があいまいで、事実関係を調査中です」と繰り返されたという。謝礼提供の件など広田氏の指摘を、潔く認める姿勢は感じられず、怒りは静まるはずはなかった。

 午後3時からの定例社長会見では、井上社長はこの問題についての感想を「まあ、一言で言えば、ばっかじゃないのかです。まあ大沢親分風でいえば、喝どころじゃない。喝、喝、喝、喝。それ以前のことですな。非常に腹立たしく、不愉快です」。石川に対しては「そりゃもう、ご迷惑を掛けたの一言です」と笑いながら話した。

 一方でTBSは、番組ディレクターが広田氏以外の同伴競技者2人にも接触を図ろうとしていたことを明かした。しかし、謝礼と石川への質問を用意したことは「今後調査します」と認めなかった。また、同局はゴルフ取材としては前代未聞のヘリコプターによるコース上空の取材を敢行し、石川ら選手に騒音被害をもたらした。その映像を使用した報道番組「イブニング5」は、この日夜までにKGA側に何の謝罪もしなかったという。

 これら一連の対応にKGAの加藤重正事務局長は激怒した。「正直、このままでは広田さんの名誉が棄損される」と、騒動に巻き込まれたアマゴルファーを心配した。そして「ヘリコプターの件も、TBSがこちらに許可を得たことは断じてない。8日の広報委員会であらためて抗議文を書きますが、場合によっては、はっきりするためにTBSに法的手段を取ることもある」と強い口調で話した。


福澤キャスター半泣き!遼ちゃんに謝罪…TBS「ピンポン!」盗聴未遂
スポーツ報知 - 2007/6/7 8:00

 男子プロゴルフで15歳8か月の史上最年少優勝を果たした石川遼選手が出場する関東アマチュアゴルフ選手権で、TBSの情報番組「ピンポン!」が、石川選手の同伴競技者に小型マイクの装着を依頼していたことが6日、明らかになった。同伴者に断られラウンド中の遼ちゃんの「生声」が放送されることはなかったが「非常識な取材」として、この日の番組で司会の福澤朗キャスター(43)が目に涙をためながら謝罪した。写真はコチラ

 いつもはハイテンションの福澤キャスターの目が、みるみるうちに赤くなった。「石川遼選手、同伴者の広田(文雄)選手、あまたいる関係者の皆様、心から、心からおわび申し上げます」。番組による競技そのものをないがしろにした“盗聴未遂”騒動。冒頭から神妙な顔つきで登場し、声を詰まらせながら謝罪した。

 「明らかにルールを逸脱しています。あまりにも非常識。当番組の暴挙」と全面的に非を認める。各メディアがこぞって取り上げる“ハニカミ・フィーバー”。盗聴未遂が発覚する前日の5日の同番組でも、冒頭から遼ちゃんの活躍を大々的に取り上げ、同時にファンのマナーの悪さも声高に指摘していた。

 「あれほどゴルフ場にいらっしゃるキャディーの皆様のマナーを訴えておきながら、このざまです。恥ずかしくて恥ずかしくて仕方ありません。一番信頼していた友人に裏切られた気持ち」と福澤キャスターも立つ瀬がない。「ギャラリー」を「キャディー」と間違えてしまうほどのろうばいぶりだった。

 この日、定例会見を行ったTBSの井上弘社長(67)も「一言でいえば、バカじゃないか。なんでそんなバカなこと考えるのか。大沢親分の『喝(かつ)』なら『喝、喝、喝、喝』ぐらい。腹立たしいし、不愉快です」と激怒。「石川選手には、ご迷惑をおかけしたの一言。足を引っ張っちゃって申し訳ない」と平謝りだった。

 福澤キャスターは「総合司会者は総合責任者。番組としての責任、今後の身の振りようを考えております」と沈痛な表情。最後は「石川遼君は日本ゴルフ界の宝です。皆さんで守らなければいけません。重ね重ね申し訳ありません」としめくくった。

 番組降板を示唆したかのような福澤キャスターの発言についてTBS側は「スタッフへの叱咤(しった)激励ととらえている」と進退や番組の存続については言及しなかったが、度重なるTBSの番組での騒動に、批判の声が上がるのは避けられないところだ。

Saturday, June 02, 2007

近況

今日ようやく『ベルクソン年鑑』第三巻が手元に届いた。カッシーラーの翻訳はすでに三年も前に始めたものだし、序論自体も二年前に書き終わったもので、なんだか遠い過去の出来事のような気さえする。一時期はカッシーラーばかり読んでいたっけ。その後刊行された本がà paraîtreのままになっていたり、時間さえあればもう少し手を入れたい表現も幾つかあるが、まあ出てしまったものは仕方がない。ああ、なんか疲れた。。

今年のpublication(掲載決定済みのもののみ)としては、

1)ベルクソンの人格性概念についての論文(3月既刊)

2)檄文的(笑)エッセイ(5月既刊)

3)上記のカッシーラー翻訳および序論(5月既刊)

4)論文「ベルクソンと目的論の問題」(ロングバージョン、仏語)、トゥールーズでの発表、サイト上で見られます。(5月既刊)

5)同内容の論文(ショートバージョン、日本語)、日仏哲学会誌次号(夏?)。

6)論文「唯心論(スピリチュアリスム)と心霊論(スピリティスム)」(ショートバージョン、日本語)、仏文学会誌次号(夏?)。

7)論文「ベルクソンの手」(英語バージョン)、米の思想雑誌SubStance(冬?)。


今年の発表を含むアカデミックな活動としては、

1)トゥールーズでの日欧シンポジウムの主催、およびそこでの発表。

2)仏文学会での発表(5月20日)は、ハプニングというかサプライズもあったが(来てた人には分かる(笑))、いつもどおり。内容的にも自分の力の平均くらいは出せたのではないかと思う。

3)『創造的進化』百周年日本篇の主催、およびそこでの発表。

4)百周年コレージュ・ド・フランス篇での発表。

5)ハクロン…。

最近の地道な活動。

1)二三日中に『物質と記憶』についてこれまで書いてきたものをまとめ上げる中心的な考えをひとまず完成させたい(ハクロン第2部)。というわけで、ここしばらく関連文献を読み漁っている。いろいろと関連づけはできつつあると思うのだが、なかなか最後のピースがはまらない。

2)その後、6月20日締め切りの紀要論文執筆。三部構成の第二部。前回は「声の射程。呼びかけと人格性」だったが、今回は「火の領分。情動と共同体」。7月上旬にとあるゼミで発表させてもらう予定。

3)ゴーシェの翻訳。というわけで、申し訳ないけれど、今はあまり力を割くことはできそうにありません。

Wednesday, May 30, 2007

恥知らずの天国(池田浩士を讃えて)

私は一度もお会いしたことはないのだが、池田浩士さんに対しては何となく親近感と尊敬の念を抱いている。フランス思想に野沢協先生ありとすれば、ドイツ思想に池田先生あり、という感じである。

池田先生の書かれている文章の若々しさには、故・野村修氏に通じるk大教養ドイツ系の最良の雰囲気(と私には思われるもの)がある。学生と真摯に、できるかぎり対等に向き合おうとするその姿勢。

「京都大学は日本でいちばん汚い大学である。なかでも群を抜いて汚いのが総合人間学部のキャンパスで、これは世界一の汚さを誇っている」という一文で始まる、彼の「恥知らずの天国」という一文を見つけた(『総合人間学部広報』No.33, 2003年2月)。

彼はこの汚さを排除すべきものとも(昨今の大学行政の推進する清潔ファシズム)、賛美すべきもの(単なる懐古趣味の大正教養主義的反動)とも考えない。

「このキャンパスが汚いのは、そこが生きているからだ。汗や糞やニキビや抜け毛や爪の垢やカサブタやフケや絶えざるナマ傷などが、すべて生命の証しであるように、立看板やビラや貼紙や落書や騒音や鍵の破壊は、この世界一のキャンパスが生きている証左である。」

だが、汚さを汚さと自覚し、一抹の恥や慎ましさ、良心の呵責を覚えることが急速になくなりつつある。それは、幼児化した学生社会が、ますます恥知らずになりつつある日本社会――慌ててホリエモンをバッシングし、「ナントカ」還元水を批判し、農相の自殺に驚いてみせたところで、自分たちの「会社=市場経済=資本主義」至上主義を覆い隠せるはずもない――の縮小再生産に他ならないからである。

≪廊下でビラ貼りをしている数人の人物に、「せめてそんなに糊を付けないで貼ってほしい」という感想を述べたところ、「ビラ剥がしをする小母さんたちに仕事を作ってやってるんだ!」という答えが返ってきたのだそうだ。

[…]カール・マルクスは、すべてを商品と化すことによって存立する資本主義の社会がいかに人間を恥知らずにするかを、くりかえし指摘した。ここでいう恥とは、いわゆる世間体を気にする感覚のことではない。人間が自省と自己批判を失うこと、対自的な視線を喪失し、したがって対他的な視線のリアリティを獲得しえないこと、それをマルクスは恥の意識の欠落として批判したのである。

恥知らずというものをマルクスが、すべてを商品と化してしまう社会構造との関連でとらえたことに、注目せざるをえない。商品は、それが自分に買えるものであるかぎり、自分の所有物であり、自分はそれの主人である。

だから、高い授業料を自分の親が支払っており、その親は将来できるだけ高く売るべき商品として自分に投資しているのである以上、商品たる自分も、自分の予定価格にふさわしいアルバイトの収入なり親からの送金なりで、たとえばビラを作るための紙を、どれだけ買い込もうが、どれだけ使おうが、自分の勝手なのだ。自転車整頓の老人たちも清掃の女性たちも、自分が払った授業料で大学が雇ってやっているのだ。

こうして、近ごろは、汚いキャンパスに新種のカサブタがごく普通のものとなった。同一サークルのまったく同一のビラが、同じ壁面のすべてを埋め尽くして、ズラーッと張り巡らされるのである。もちろん、別のビラが貼られる余地はまったくなくなる。エコロジストなら、地球資源をどうしてくれるのだ、と言うところだろう。

[…]わたしのこのたった一枚の表現こそが人びとの心をとらえるのだ、という誇りなど、この恥知らずな大量商品には、カケラもない。あるのは、ビラを見るものの感性にたいする限りない侮蔑であり、紙を大量に買ってやらなければ熱帯雨林だけしか売るものがない某国の人間は生きられないだろう、という恥知らずな驕りでしかない。

世界一汚いキャンパスは、死んではならない。だからこそ、生きかたを考えなければならない。≫

こんな文章を書ける人間がどんどん死滅しつつある。「軽妙」で「洒脱」なエッセイを売れ筋のジャーナリズムに書きまくること、あるいは学内のことにできるかぎり我関せずを決め込んでアカデミックな業績づくりに邁進することが「大人」の学者のスタイルなのだろう。それを悪いとは言わない。私だってそうするかもしれない。ただ、私はこんな痛快な文章を書ける人を敬慕し続ける。

Tuesday, May 29, 2007

製作の地政学

監督するのも大変だけど、製作するのも大事な仕事。ソクーロフの『太陽』の製作には日本の会社が一つも入っていなかった(はず)。製作の地政学というものがあり、その中で戦っているのだ。

我々の業界も同じ。外国人思想家・研究者を招いたシンポジウムや講演会を聴くとき、中身もさることながら、どんな風に「製作」されてるのかといったことにも注目する必要があるのかもしれない。

≪河瀬監督は「これまでカンヌで育てられて、フランスから世界配給してもらっていたから、最初から一緒にフランスと手を組んで映画を作ってみたかった。それで昨年、脚本を持って直談判。そこから、フランスで半分、私が日本で半分資金集めをする、という具合に話が進みました」と、製作の苦労を語ってくれたわ。多々超えてきた苦労が実を結んで、今夜の公式上映。感無量よね~。≫(Masamichi Yoshihiro, 【カンヌ映画祭レポートvol.37】『殯の森』河瀬監督の記者会見で感無量)

ちなみに、「制作」と「製作」の違いについて。演劇畑アニメ畑から一例ずつ。

Saturday, May 26, 2007

がんばる地方の国立大…しかし基準は金しかないのか

経済の論理に対抗するのに経済の論理をもってせねばならない時代風潮。


<地方国立大>経済効果は400億~700億円 文科省調査
5月24日8時56分配信 毎日新聞

 地方国立大学が地元に及ぼす経済効果は400億~700億円に上ることが文部科学省の調査で分かった。プロ野球・楽天イーグルス(97億円)よりも4~7倍の波及効果があり、同省は「地方国立大は、教育だけでなく、経済的にも地域に貢献している」と指摘している。

 調査は今年3月、地方国立大の役割を経済的な観点から実証するため、財団法人・日本経済研究所に委託して初めて実施した。

 当該県への経済効果は
▽山口大667億円(雇用創出数9007人)
▽群馬大597億円(同9114人)
▽三重大428億円(同6895人)
▽弘前大406億円(同6774人)。

鹿児島県での九州新幹線の部分開業(166億円)や九州地方のJ1チーム(24億円)よりも経済効果があるとしている。

 国立大をめぐっては、収入の約45%を占める運営費交付金の配分ルール見直しが検討され、研究実績に基づき配分した場合、全国87大学のうち74大学で交付金が減少するという財務省試算がある。文科省や国立大は地方国立大の統廃合につながると危機感を募らせており、経済効果をアピールしたとみられる。【高山純二】

がんばる地方の国立大 経済効果670億円 楽天の7倍にも
5月25日8時0分配信 産経新聞

 山口大や弘前大など地方の中堅国立大学が地元経済に与える経済効果は年間400億~700億円に上ることが、文部科学省の試算で分かった。プロ野球楽天イーグルスがもたらす経済効果をはるかにしのぐ数字といい、文科省は「国立大が地方経済に及ぼす影響は極めて大きい」と強調。交付金配分方法の見直しを進める財務省の方針に反発している。

 試算は、生産誘発や雇用創出などについて地方の国立大が地元の県経済に及ぼす影響を検証するもので、文科省が日本経済研究所に委託し、学生数が7000~1万人の弘前大(青森)、群馬大、三重大、山口大の4大学について分析した。

 山口大の県経済への経済効果は年間で総額667億円。内訳は学生らの地元スーパー利用など商業分野が115億円、賃貸アパート契約など不動産分野が90億円など。群馬大は597億円、三重大は428億円、弘前大も406億円の経済効果があった。

 文科省によれば、こうした経済効果は「楽天イーグルスが宮城県に及ぼす97億円の4~7倍、サッカーJ1大分トリニータが大分県に及ぼす24億円の17~28倍に達する計算」という。

Friday, May 25, 2007

信頼関係と完ぺき主義

海外の研究者と「交流」という名の表層的で儀式的、結局のところ非生産的なつきあいをしたくなければ、どうすればいいのか。「信頼関係構築に必要なのは?」(奥田秀樹、「野茂とは違う松坂の目指す道」、2007年5月21日)

≪バリテック自身は、捕手としての豊富な経験から、信頼関係は一朝一夕ではできないと分かっていて、キャンプ終了時点でこう言っていた。「大輔との信頼関係はできたのか?」 と質問したのだが、

「信頼関係は意味のある試合(公式戦)で初めてつくられるもの。キャンプの期間は一緒にいる時間が長いから、互いのことを知り合うチャンスだし、投手について学ぶ貴重な機会だ。でも、キャンプで信頼関係を構築することはできない」

 関係構築のプロセスについてはこう説明した。 「大切なのはAGREE TO DISAGREE(互いに意見が違うことを認め合うこと)なんだ。重要な試合で、どうやって打ち取るかで意見が食い違ったとき、互いの考えを説明し合うことで、より相手を理解できる」

 その上で、メジャーではバッテリーの主導権を握るのは投手だという。 「投手と捕手は違う角度から野球を見ている。意見が食い違うのは当然。私の役割は投手が打者を打ち取る手助けをすること。最終的に何を投げるか決めるのは投手なんだ」≫

「公式戦」とは何に当たるのか、なぜ私は執拗に英・独・仏語でpublicationすることを薦めるのか。

レセプションなどで有名な学者の周りでとにかく気の利いたことを喋ろうとする人がいる。有名人のHPやブログやら何やらに気の利いたことを書き込もうとする人がいる。感激にのぼせてしまった若手ならまだしも。そういったものは「オープン戦」「練習試合」ですらない。キャンプで信頼関係を構築することは出来ない。ましてや、見ず知らずのプロとうまいキャッチボール(会話とは言葉のキャッチボール)をしたからといって、何がどうなるというものでもない。

逆に、いたずらに有名人に噛み付く人がいる。自分の信じるところを述べるのはもちろん構わない。けれど、噛み付くために「信じるところ」を急造・乱造してしまう本末転倒の人も見かける。大切なのは、「重要な試合」で「勝負」に勝つことだ。この場合、勝敗が論戦相手に議論で「勝つ」ことを意味しないのは明らかである。勝つというのは、論戦相手と「AGREE TO DISAGREE」しつつ、議論の本質において共に前進することにほかならない。



完璧主義とは、完璧なものが書けるようになるまで発表をしないということではない。その都度、自分の置かれた状況の中で、前回よりもさらに高いパフォーマンスを発揮できるように絶えず工夫する姿勢のことを言うのである。教授や助教授になっても、同じことである。

≪松坂大輔が突如制球を乱し3連続四球などで自滅を繰り返していたとき、レッドソックスの監督、コーチ、捕手などは、「大輔は完ぺき主義過ぎるところがある、ボールに力があるんだから、自信を持ってストライクゾーンに投げ込めばいい」 と言っていた。正直、筆者もそう感じた。

 松坂はちょっと困ったように「別に自分のボールに自信を持てなくなっているわけではないんですけど」と話したものだった。

 そんな中で一人だけ違うことを言う人がいた、エースのカート・シリングである。完ぺき主義者であることがピッチングの妨げになっていないかと尋ねると、こう言い切ったのだ。

「徹底的に完ぺきを求めていくことで、偉大な選手と、普通の選手の違いが出てくる。偉大な選手は完ぺきにできないことにいら立つが、そういう考え方だからこそ、偉大な選手になれる。(松坂は)きょうは悔しくて眠れないだろうけど、次の登板にきっちり合わせてくると思う」≫

Thursday, May 24, 2007

脱構築とは制度の脱構築である

脱構築とは常にすでに制度の脱構築である、と以前述べた。デリダが以下の言葉を一言も語っていなかったとしても、やはり脱構築の本質は、枠組みの、パレルゴンの、限界=極限の脱構築にあるわけだが、ディディモと呼ばれるトマスは世に多くいるので。。

≪そのモデルも、概念も、問題も、空から降ってきたわけではなく、それらは、諸々の様態に従って、ある限定された瞬間に形成されたものである。

哲学の教授資格試験でさえも、一つの歴史と体系を形成している。

幾つかの特定的な中継地点、例えば、フランスにおけるいわゆる哲学教育の中継点、哲学のプログラムの、哲学の試験やコンクールの形態の、哲学の舞台や哲学のレトリックの制度の中における中継点を考慮に入れる必要がある。

ヴィクトル・クザンは、フランスにおける大学と、その哲学に関する制度、そして今も我々がその住人となっている教育の全構築物の構築にあたり、決定的な役割を果たし、少なくともそれを代表する人物となった。私は、ここでは諸々の導きの糸の一本としての固有名詞(クザン)によって、一つの脱構築の必然性を命名するにとどめる。

その脱構築の論理の帰結に従えば、それは、哲学素の、意味論的であると同時に形式的な、内在的構築のみならず、哲学に対し誤ってその外的な住居として割り当てられるであろうもの、哲学の訓練の外在的な諸条件をも攻撃するのである。つまり、哲学の教育の歴史的形態、この教育制度の社会的、経済的、あるいは政治的構造をもである。

脱構築が一つの分析や一個の「批判」と常に区別されるのは、それが言説やシニフィアン表象だけでなく、堅固な構築物、「物質的」な制度に関わるからである。そして、関与的であるために、それは、哲学的なるもののいわゆる「内的」な配列が、教育の制度的形態と条件と、(内的にして、しかも外的な)必然性によって、連接するその場所において、可能な限り厳密な仕方で、作用するのである。

制度の概念そのものが、同じ脱構築的な処理を蒙るところまで。≫(デリダ、『絵画における真理』)

Tuesday, May 15, 2007

熱視線

たぶん日本代表のサッカーを少しでも見ている人なら賛成してくれると思うのだが、監督がジーコからオシムにかわって最大の違いは、いわゆる「国内組」への熱視線だろう。

ジーコは国内組がいくら健闘しようが、海外組の調子が悪かろうが、後者に全幅の信頼を置き、その序列を頑として変えなかった。オシムは、積極的に国内視察を行ない、就任一年目の去年から今年にかけて、長らく一度も海外組を召集せず、国内組のみで代表戦を戦った(今は混合)。

これで、Jリーグ内での代表選抜への競争意識が活性化したことは疑い得ない。頑張れば自分にもチャンスが回ってくるかもしれない。名前ではなくプレーを見ているという基準が明確化すれば、選手の目の色も変わってくる。

研究者も同じである。頑張っている若手にチャンスを与えるとは、「鍛えてやる」というだけではなく、生き残りのために業績作りのチャンスを与えるということである。大学の紀要に書かせるという以上のチャンスを、である。それを見つけてくるのもまた、一定以上の年齢の研究者の任務なのだろう。

例えば、昨年のブランショ国際コロックは、優秀な若手研究者に、海外の研究者の前での発表の機会を与えていた。いずれ(今年はまだ無理だが)、我々の領域でもこういった機会を少しずつ増やしていければと思う。

ただ、「フランス語を勉強しろ」とお題目のように唱えても、駄目なのだ。実際に目の前で示して見せないと。海外リーグの試合が日本で見られるようになったこと、海外の選手と対等に渡り合う日本人選手の姿を見ることが、国内で頑張る若手選手の意識にどれほどの顕在的・潜在的な影響を与えたことか。

業績作りはたしかに目的化、「お仕事」化してはいけない。札束で頬をひっぱたくがごとき、悪弊の師弟関係も復活させるべきではない。だが、綺麗ごとで人は動かないというのもまた厳然たる事実だ。魅力あるチャンス・メイキングと連動させてこそ、「鍛錬系」は真に駆動しうるのではないか。

***

<サッカー日本代表>オシム監督、裾野拡大で近藤らに視線毎日新聞 - 2007/5/14 21:56

 サッカー日本代表候補の合宿が14日夜、千葉県習志野市内で始まった。4月に続き、強化目的の3日間の短期キャンプで、最終日には大学生チームとの練習試合も組まれている。オシム監督は裾野拡大をテーマに挙げ、23歳のDF近藤(柏)、左サイドのスペシャリストである村井(磐田)らに注意深い視線を注いだ。

Monday, May 14, 2007

昨日

昨日の第2回「フランス哲学セミナー」では、十年ぶりにdaさんとお会いすることが出来て、懐かしくも嬉しかった。ちょっとからかいすぎたかも。ごめんなさいね。

内容以外に良かった点。なるべく読み上げでなく、話し言葉でまとめるという方針の採用。私も以前述べた「聴診」ということの重要性が強調されたことはよかった。

8月の第4回、ハクロンの中間発表で手を挙げた。かなり逡巡したのだが、やれるだけのことをやって叩かれたほうがいい、と覚悟を決めた。なんとはなしに漂っている期待が幻想であったと判明するなら、それはそれで仕方がない。今の自分の実力を厳しく冷静に見つめ続けること。

私的な理由のほかに、博士課程以上の人、先生方も発表することが望ましい、といった組織上の理由もある。つまり、叩く人、叩かれる人の役割分担をフレキシブルにしておかないと、すぐに学会・研究会的なヒエラルキーが出来上がってしまうおそれがあるので。。



檄文、ちょっと顔をしかめる人もいれば、もっとやれと言ってくれる人もいたり。まあ、バランスに気をつけつつ、でも言うべきことは言う、という今までどおりのスタンスで続けていきたいと思っています。

蓄積疲労に苦しみつつも、来週の学会発表に向けて鋭意努力。

Wednesday, May 09, 2007

反響

このあいだのトゥールーズ篇の反響。きわめて好意的。でも問題点も鋭く指摘してくれてる。そうなんだよね、だから散々フランス側の主催者に言ったんだけど。「日本側が議論に少しでも積極的に参加できるよう、取り計らってくれ」って。何度かは聞いてくれて、フランス人研究者の原稿をコピーしてくれたけれど、そもそも完成原稿を持ってきてない人たちもいたし、こちらも皆多かれ少なかれよそ者としての気兼ねがあったり、長旅で疲れていたりと(トゥールーズは遠かった…)、積極的な攻めは出来なかった。この反省を次回、日本篇では少しでも活かしたい。

Tuesday, May 01, 2007

抵抗の核

近況。

1)MLに檄文的なことを書くのは控えなさい、と少し年上の方にたしなめられる。書き方に気をつけないといけないのは確かなのだが、他方で、不言実行の人と有言実行の人がいるのも事実なので。。私が苛立ち、打破したいと願っている停滞状況自体によって規定されている「抵抗の核」が問題なのであってみれば、私の言動に苛立つ人がいるのはむしろ当然ではないか、という気もするのだが。。

2)日仏哲学会用の論文、およびトゥールーズ篇の発表原稿、それぞれひとまずの完成稿を送る。トゥールーズ篇参加者の論文は随時掲載されているので、興味のある方はどうぞ。

3)あと三週間をきった仏文学会だが、隠喩論文、まだ何も書いていない。一応、骨子は頭にあるので、これを書いていけばいいのだが、早くやらないと。書いているうちにさらにいいアイデアが浮かぶのだが、残念ながら時間切れというのがいつもの悪いパターンなので、改善していかないと。

4)十月・日本篇の準備、着々と進んでいる。海外から9人(10人)、日本から9人のガチンコ対決。お客さんお呼びし、お話を謹聴して「フジヤマ、ゲイシャ、スキヤキ」(スター扱いで接待)はもういいよ。やりたいのは真剣勝負。

5)十一月にコレージュ・ド・フランス主催で行なわれる『創造的進化』シンポジウムのワークショップCFPが出た。関心のある方は、私まで。

6)ハクロンは??これが私にとって一番の「抵抗の核」なのだ。。

Friday, April 27, 2007

「ものすごく真っ当」な方策

トゥールーズにちなんで、というわけでもないが、興味深い記事。スポーツの例は多くを教えてくれる。

出村謙知(でむら・けんじ)さんの「ラグビーの街トゥールーズから起こった旋風」(4月26日)から一部抜粋。

しかも、トゥールーズFCはボー監督を迎えるにあたって、単にトップチームの指揮官に指名するだけではなく、年齢カテゴリー別に4個あるジュニアチームも含めたトゥールーズFC全体のコーチングスタッフを取り仕切るGMとして契約を結んでいる。

 つまり、ボー監督の立場は単純に現在のトップチームの成績を上げればいいというだけではなく、ジュニア強化を含め、長期的視野に立ってクラブを健全に発展させていく責任も負ってもいるのだ。

まずは選手それぞれの特徴をコーチが受け入れること。こちらから、こういうプレーをしろと押し付けることは指導者の仕事とは対極に位置するものだ。常に各選手の優れている点に着眼しながら、それが集積された時に全体として一番強くなりそうな部分を強調したチーム作りを進める必要がある

 そんなコーチ哲学を持つボー監督が、就任1年目にして早くもしっかりしたチーム作りに成功しているのは、前述してきた成績が示す通りだ。

「このチームの若い選手は素晴らしいポテンシャルを持っていて、その上しっかり組織プレーが植え付けられている。ただ、2位になるなんて考えもしなかったこと。今でも、まずは今季当初からの目標である20チーム中10位以内を確保することの方が優先であることに変わりはない」

 あくまでも控え目な態度を崩さないポー監督への若い選手たちからの信頼は抜群だ。「ボー監督は、若い自分たちが持っている可能性を最大限に引き出してくれている。彼の存在がなければ、今のチームの成功はなかった」(MFアシル・エマナ)

 現在のトゥールーズFCにチーム一丸となっている一体感があるのは、今季スタジアムに行ったことがあるファンなら間違いなく感じていることだろう。よそ者として、一度だけトゥールーズFCの試合を現地取材した者にも、それは十分に感じられた。

 圧倒的な存在であるメジャースポーツ、ラグビーに常に圧倒され、一時は経営破綻から3部落ちまで経験したトゥールーズFC。そんな苦境を脱するために取られた方策は、ものすごく真っ当なものだった。すなわち、ジュニア強化に力を注ぎ、自分たちに最もふさわしい実績ある指導者を招いてトップチームの指揮を執らせる一方で、ジュニアも含めたクラブ全体のコーチングシステムを整えるということだ。

Thursday, April 26, 2007

『創造的進化』百周年・日本篇正式決定!

疲れた。昨日帰ってきたのだが、トゥールーズ篇の前後一週間は毎日熱があり、体調が悪かった。しかし、いろんな人と喋り、飲み、食うのが「お仕事」だから強行軍。ほんと、コロックに出るたび思うのだが、ほとんどビジネスだよね。それをいかに生産的な思考のために用いるか。理想を持った現実主義者たれ、と自分に言い聞かせている。

まず、ビッグ・ニュース。実は前々から企画していた『創造的進化』日本篇が、この度本格的に始動することになった。様々な人にあたりをつけ、調整し、企画書を書き、とグランド・デザインを殆ど一人で行なったので、感慨もひとしお。10月15~20日に東京・京都にて(もう一つの地方は却下された。地元人士を恨むべし)。

次に、個人的なこと。

1)『現代思想』5月号のとある欄を執筆。フランス哲学研究の内弁慶的現状をちくり。

2)カッシーラー仏訳と序論、最終確認。三週間ほど遅れて、Annalesの第三巻が出る予定。

3)SubStanceというアメリカの雑誌の『創造的進化』特集に応募していた論文が通った。アングロ=サクソン系には受けるだろうという見通しを持っていたので(彼ら向けに書いたわけではないが)、気に入ってくれたそうで何より。

最後に、友人・知人からメールで報せを受けた新刊・雑誌を幾つか。

・ウェブ上の哲学雑誌としては小柄ながら本格的な部類に入る、P.-F. MoreauのKlêsis。最新号は、ズラヴィシュヴィリ追悼特集。ドゥルーズ解釈では必ずしも彼と一致を見たわけではないが、期待の若手だった。Autour de François Zourabichvili。この手の企画も日本の哲学界では見かけない。お互いを真剣に読み合い、議論し合い、尊敬し合うという当たり前の関係。

・éd. Beauschesneの雑誌 Revue Présentaineの新刊案内。
n°18/19 : Musique, Phénoménologies - Ontologies - interprétations

Abécédaire de Jacques Derrida, sous la direction de Manola Antonioli. Collection Abécédaire, n°3. Éditions Sils Maria/Éditions Vrin, coédition. マノラは最近、『ドゥルーズと政治』というデカイ論文集(actes)も出しましたね。

・François Azouvi, La Gloire de Bergson. Essai sur le magistère philosophique, Gallimard, coll. "nrf essais", avril 2007. 『デカルトとフランス』が出たときから、次はベルクソンだろうと思ってました。彼は完全にコレージュ狙いですね。

Thursday, April 12, 2007

大学の幼児、幼児の大学

正直、どこまで幼稚化すれば気が済むのかとも思う。「がんちゃん」(岩手大学)、「しずっぴー」(静岡大学)、「ビビット」(島根大学)、「ひょうちゃん」(兵庫教育大学)…。時勢に乗り遅れないため、ポピュリズムに迎合するため。

民間企業のように、「私大と同様に」(このことの帰結をじっくり考え抜いた者が果たしていたのか)、親しみやすく、学生に優しく、限りなく優しく、「学生さんはお客様で、お客様は神様です」…。目を開けて見よ、これが独法化の指し示す方向である。

≪戦前の日本の「大学の自治」対国家の闘争は、帝国大学の特権的基盤のうえに立ってはじめて可能であったのであり、それは帝大が日本においては例外的な、本当の意味の、保守主義の砦であったからである。早くから「大衆化」し、「国民化」した私大は、大衆を背景にしたファシズム反動の前に、帝国大学よりもはるかにもろかったし、むしろ便乗しさえした。≫(丸山真男、『自己内対話』、223頁)

一方で、望ましい改善の動きも見落としてはならないだろう。認識においては悲観主義者、意志においては楽観主義者たれ、とはルカーチ経由のロマン・ロランの言葉であっただろうか。


東大キャンパスに保育園オープン、女性研究者ら支援
4月4日11時31分配信 読売新聞

東大・本郷キャンパスにオープンした「東大病院いちょう保育園」で遊ぶ子どもたちを見守る小宮山東大総長(左)

 子供のいる教職員をサポートするため、東京大学の本郷キャンパス(東京都文京区)内に今月から開かれた「東大病院いちょう保育園」の開園式が4日行われた。

 東大の教員に占める女性の割合は9・3%(昨年5月1日現在)にとどまる。女性研究者を育成するには、女性が働きやすい環境整備が欠かせないとして、大学が直接運営する保育所を各キャンパスに設立することにした。

 いちょう保育園はその第1号。計6人のスタッフで運営され、一時保育も含めた定員は32人。当面は看護師ら病院職員を対象に小学校就学前までの子供を受け入れ、現在7人が入園している。将来は、本郷キャンパス内にもう1園を開設するなど3園を作り、教職員や大学院生や学部生の子供を受け入れる方針だ。


<広報合戦>10大学が広告代理店などと業務提携
4月4日3時3分配信 毎日新聞

 国立の全87大学のうち8大学が学外から広報担当者を受け入れ、10大学が広告代理店などと業務提携をしていることが、文部科学省の初の調査で分かった。07年は大学・短大への全志願者数と全入学者数が同じになる「大学全入時代」といわれる。中には「マスコット」を作成する大学も現れ、国立大の広報合戦が過熱している。

 文科省は06年3月以降、国立の87大学を対象に、広報活動の状況を聞いた。 外部から広報担当者を受け入れていたのは▽東京大▽東京外国語大▽東京海洋大▽静岡大▽神戸大▽熊本大▽北陸先端科学技術大学院大▽奈良先端科学技術大学院大の8大学で、広告代理店や私立大学、大手予備校などから招いた。

 また、北海道大や東北大、一橋大など10大学は広告代理店や情報誌、新聞社などと業務提携。大手広告代理店と提携した九州大は「大学のブランド戦略を検討するうえでのアドバイス、資料提供」を目的に挙げている。

 このほか▽岩手大▽静岡大▽兵庫教育大▽島根大は、大学独自のマスコットを作り、「がんちゃん」(岩手大)などの愛称をつけてPRしている。

 河合塾と旺文社から計2人の広報担当者を招いた静岡大は「(04年の)国立大法人化と大学全入時代を前に、入試や広報でさまざまな取り組みが必要になったが、今までの教職員は何をすべきか具体的なイメージが描けなかった。入試改革もマスコット作成も、大学のイメージアップ戦略の一つ」と話した。

 文科省は「これまで国立大は入学試験の広報が中心だった。しかし、法人化以後、私大と同様に大学全体の広報活動をするようになっている。イメージアップは、優秀な学生確保や産学官連携などの際のベースになる」と分析。文科省は各大学の参考となるよう、3月末に調査結果を各大学へ送付した。【高山純二】


<社会意識調査>「悪い方向に」教育がトップ 内閣府発表
3月31日19時31分配信 毎日新聞

 内閣府は3月31日、社会意識に関する世論調査結果を発表した。現在の日本の状況について「悪い方向に向かっている」と思う分野を複数回答で聞いたところ、教育が前回(06年)から12.3ポイント増え36.1%となり、98年にこの質問を盛り込んで以来最高で、初のトップとなった。高校の履修不足問題や、相次ぐいじめ自殺などが影響したとみられる。医療・福祉31.9%、地域格差26.5%も10ポイント以上の増加で過去最高を記録した。

 「政治や社会情勢の影響を受けやすい調査」(内閣府)だけに、安倍政権の課題を浮き彫りにした形だ。 調査は1~2月、全国の成人男女1万人を対象に面接方式で実施。5585人(回収率55.9%)から回答を得た。

 教育と答えた人を男女別にみると、男性36.7%、女性35.6%。年代別では男女とも30代がトップ(男性47%、女性47.8%)で、20~40代の男女がいずれも4割を超えるなど、子育て世代の教育不安を裏付けた。

 教育に、前回トップの治安35.6%(前回比2.7ポイント減)、雇用・労働条件33.5%(同4.6ポイント増)が続いた。急増した医療・福祉(31.9%)と地域格差(26.5%)はそれぞれ、5位と8位だった。

 小泉政権で増加の一途だった外交は前回比8.9ポイント減の22.4%で、日中、日韓首脳会談の再開といった安倍外交を国民が評価していることをうかがわせた。

 一方、「良い方向」(複数回答)は(1)科学技術19.7%(2)通信・運輸18.9%(3)医療・福祉16.5%――の順だった。【渡辺創】

Wednesday, April 11, 2007

基礎練と営業

こういう記事を精神主義的に読むなら(ひたすらシゴキ練習、みたいな)、大した価値はない。だが、細部・具体にこだわって読むなら、そこから何らかの示唆が得られる。

1)世界標準レベルにまだ達していないという冷静な自己認識(Jリーグの一流選手でも、世界で通用するかどうかは不明、という冷静な状況認識)。

2)追いつくために何かをしなければならないという意志(遅れていますがそれが何か?という意味不明の開き直りは、日本の人文科学でも、思想業界にしか存在しない。日本語で書き続ける自然科学者などありえないという自明の事実)。

3)個人の努力ではなく、集団で、制度的な対策を講じる必要性の認識。何を、どのように、具体的にアップさせるべきなのか、についての議論。体力と技術力。語学力、議論する力、哲学史の知識。

4)スター(「神様」ジーコ…)を呼ぶことの意義もあるが、もっと大事なのは自分のレベルをアップさせてくれる教育的資質を持った人材を呼ぶこと。日本のフランス哲学研究者は、観客なのか、批評家なのか、それとも、いかに「ヘタレ」であろうとも、同じ舞台に立つ役者たろうとしているのか。

5)営業ばかりでは困る、そんなのは当たり前のことだ。誰もまともな(自分本位の、営利目的でない)、教育的な営業をやっていない現状において、何もしていない人にしたり顔で指摘されても困るのだ。

6)思想はけっきょく孤独な営み、と自分に呟きつつ、けれど、自分一人で思想を始めたわけでもなければ、また、自分が育てられた教育環境を必ずしも瑕疵なきものと見ているわけでもないことは明白である以上、介入の必要と責務が生じるのではないか。


「いままでにない!」桜戦士初体験…これが世界基準トレ
サンケイスポーツ - 2007/4/10 8:01

 ラグビー日本代表強化合宿(9日、千葉・日本エアロビクスセンター)9月開幕のフランスW杯へ向け、日本代表が練習を開始した。ジョン・カーワン・ヘッドコーチ(42)は、自ら指名した豪州協会所属のマーチン・ヒューメ・フィットネスコンサルタント(50)と、ニュージーランド(NZ)協会から出向するマイケル・バーン・技術コーチ(45)が主導する練習メニューを導入。豪州、NZ両代表の強化メニューを桜の戦士に初日から課し、世界基準を体感させた。

 いきなりカーワン流が炸裂だ。世界に勝つために、世界を知れ。カーワン・ヘッドが日本代表に世界基準を体感させた。

 合宿練習初日。午前練習を指揮したのは、トレーニングのエキスパート、ヒューメ氏だ。NZやイングランドのプロチームなどでコーチ歴があり、03年W杯では日本を破ったスコットランド代表を指導した男。現在は豪州協会と契約し同国代表の体力強化にも携わる敏腕コーチは、豪州代表でも取り入れている7分間のインターバル・テスト(ダッシュとウオーキングと静止をおり交ぜた走力テスト)を課した。 結果は、世界との差を痛感させられることになった。トップは14.7という数値を記録したSH大東功一(NEC)。だが、ヒューメ氏によると「スコットランド代表のトップは16、17台」だという。走力が自慢の日本のBK陣の平均的数値は13前後で、世界の強豪チームのFW第1列と同程度という厳しすぎる現状を突き付けられた。

 午後練習に登場したのは、バーン氏。ヒューメ氏と同様にスコットランド代表を指導し、現在はスキル(技術)コーチとしてNZ協会と長期契約を結ぶ世界的指導者だ、ボールを蹴る時にひざをしっかり伸ばす技術をBK全員に指導し、「苦戦していたが、これを克服すればレベルは必ず上がる」。主将のNO・8箕内拓郎(NEC)は「いままで経験のないメニュー。いい刺激になる」と練習の手応えを語った。

 世界屈指の強豪国と契約を結ぶ2人の指導者を招いたのは、カーワン・ヘッドだ。NZの13人制ラグビーチームに所属していた時にコーチだったのがヒューメ氏。イタリア代表監督時に対戦したスコットランド代表のキック精度を高めた指導者がバーン氏。ツテをたどって招へいした指導者によって体力と技術の向上を目指すカーワン・ヘッドは「フィットネスの向上、そしてキックを使ってトライを取ることは日本にとって重要だから」と意義を説明した。

 肉体強化を託されたヒューメ氏は「初めて体験するメニューで、この結果は悪くない」とフォローした上で、「9月までには、世界レベルの数値にいくこともできる」と太鼓判を押した。W杯へ向けた初練習の場で世界基準を体感したカーワン・ジャパンは、世界を打倒するための一歩を踏み出した。


“走る営業部長”為末、人気回復目指しイベントを企画
サンケイスポーツ - 2007/4/10 8:01

 8月開幕の世界選手権大阪大会の前哨戦『国際グランプリ大阪大会』(5月5日、長居陸)に参戦する為末大(28)が9日、陸上競技の“走る営業部長”に名乗りを上げた。“ミリオネア資金”を元手に陸上イベントを企画するなど、世界陸上銅メダリストが人気回復にひと役買う。

 陸上をマイナーにはさせない。国際グランプリ出場選手の記者会見に出席した為末が「今年は陸上の浮沈が懸かっている。陸上がメジャーになるような仕掛けをしていきたいと思っています。今年はセ・リーグでもパ・リーグでもなくて、陸上界です」と宣言した。

 01年エドモントン、05年ヘルシンキと世界選手権で2枚の銅メダルを持つ男の訴えだ。女子マラソンを除けば、陸上の話題が取り上げられるのはわずか。人気低下が競技人口を減少させ、弱体化につながる。株のトレーダーとしても知られる為末にとって、将来が心配でならない。

 そこで、昨秋に人気テレビ番組「クイズ・ミリオネア」で獲得した1000万円を元手に、繁華街での陸上イベントを企画。8月の世界陸上までの実現を目指して調整している。100メートルの末続慎吾や走り幅跳びの池田久美子ら親しい仲間からもアイデアを募り、サプライズを演出していく。

 昨年は走る速さを高めるため、ハードル競技には出場せず脚力を鍛えた。今大会では、1年9カ月ぶりにハードルを“解禁”する。「スピードは速くなった」。16年ぶりに国内で世界選手権が開催される陸上イヤー。走る宣伝マンが、ファンの視線をトラックへ向けさせる。

Tuesday, April 10, 2007

ソフトからハードを動かす。

最近数ヶ月間にいただいた日本の本・論文をまとめて。

nsさん、三宅剛一の講義ノート、『ドイツ観念論に於ける人間存在の把握』(学習院大学、2006年)、ありがとうございました。「およそ哲学史研究というものが、テクストの厳密な読解や、論理の飛躍をそれと見抜くだけの批評眼を必要とすることは言うまでもない。しかしそのうえで、哲学史研究がわれわれの実存に対して開き示してくれる哲学そのものの『何のために』」こそ示唆に富むのだという解題に記された(kkさんの)言葉、そのとおりだと思います。

hhさん、『現象学を超えて』(Didier Franck, Dramatique des phénomènes, PUF, 2001.)、萌書房、2003年、どうもありがとうございました。フランクといえば有名な『肉と身体』『ハイデガーと空間の問題』くらいしか、しかもざっとしか読んだことがありませんでした。これを機会に勉強させていただきます。

mnさん、デリダ論ありがとうございます。読んで勉強させていただきます。

tmさん、ベルクソンの超レアもの、「アリストテレスの場所論」ラテン語版のコピー、どうもありがとうございます。いつか、ラテン語の辞書と首っ引きで読書会しましょう。

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 辛仁夏(Yinha Synn)さんのルポ 「フィギュア強国ニッポンの土台が揺らぐ?(2)爆発的ブームの中で何をすべきか」(スポーツナビ、2007年4月2日)は、言うべきことを言っている。一部抜粋させていただく。

人気が出てきた今こそ環境の整備を

注目が集まり、人気が出てきた今こそ、戦略的にフィギュアスケートを世間にアピールしていく必要がある。潤沢ではない強化費用や運営資金など、恵まれていない環境を整備する絶好の機会となるはずだからだ。[…]

伊東秀仁強化部長も「五輪後のこの人気の中で開催できることはタイミングとしてはすごく良かった。この大会でフィギュアスケートを始めたという選手が後に出てくると思う。これをブームに終わらせたくないし、ずっと人気を続けていくことが大事。今後の動きとしては、専用リンクを作ってほしいということが大きい。ナショナルトレーニングセンターにリンクが出来ればいい。将来につなげていくには必要。競技人口が増える中、ソフトからハードを動かしていきたい」と語った。今後はこの人気を活用してリンク減少を食い止め、イモ洗い状態に陥っている現在のリンク不足を一気に解消する動きが出てくればいいが……。


強化体制の練り直し、ジュニア勢の強化が課題

 日本には、海外のフィギュア関係者も注視している、毎夏に野辺山で行われる全国有望新人発掘合宿がある。これは豊富なタレントを輩出する「選手製造工場」だが、昨年新体制になったフィギュア部の強化方針がいまだ明確に定まっていないだけに、今後もきちんと稼動するかが心配される。今季はシニアの世界選手権で手放しの成績を残せたが、その一方でジュニア世界選手権では02年から男女を通じて続いていたメダル獲得ができず、女子の5位が最高だった。

 この1、2年の上げ潮の中で、いかに地道な強化体制を練り直すかに、今後の日本フィギュア界の行く末が懸かっているように思えてならない。来季、新採点システムで育ってくるジュニア勢の強化に本腰を入れないと、フィギュア強国ニッポンの土台が揺らぐことになりそうだ。

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フィギュアも一極集中 みんな名古屋出身の秘密
3月30日10時0分配信 日刊ゲンダイ

●「世界選手権」視聴率東海地区は最高56% 世界選手権で金・銀メダルを獲得した女子フィギュアの安藤美姫(19)と浅田真央(16)の共通項はズバリ、名古屋出身であること。中野友加里(21)、恩田美栄(24)など日本代表クラスの女子選手はみ~んな、名古屋育ちだ。

 世界選手権の平均視聴率も、名古屋地区は43.0%(ビデオリサーチ調べ)と関東38.1%、関西34.8と比べてダントツ。瞬間最高は56.6%にも達したというからオドロキだ。どうして名古屋人のフィギュア熱は、どえりゃあ高いのか。「名古屋は、お稽古事が盛んで子供より母親の方が熱心なくらい。フィギュアの教室でも、いつも最初から最後まで練習を見つめ、子供もサボれません」(愛知県スケート連盟フィギュア委員長・久野千嘉子氏)

 見た目にも華やかで、嫁入り道具に大金をかけたがる見えっ張りな名古屋人気質にもマッチしている。

 だが、とにかくフィギュアはカネがかかる。エッジを含めたスケート靴の相場は1足12万円!

 これを選手は年4、5足も履き潰し、衣装代やレッスン料だってバカにならない。誰でも手軽にできるスポーツではないが、名古屋の家庭事情にはこんな秘密があった。「都市部の核家族化が進む中、名古屋は大都市ながら3世代同居の世帯数が全国トップ。東京や大阪の倍近い数です。家族の絆を大事にする土地柄で、孫に使う金額もケタ違い。名古屋のフィギュア熱は、祖父母の支援があってこそです」(三菱UFJリサーチ&コンサルティングのエコノミスト・内田俊宏氏)

 スケートの練習にはリンクが不可欠。ほかの地域は夏はプール、冬だけ氷を張るところが多いが、名古屋は3つの通年営業リンクが稼働中だ。通年営業は全国23カ所のみ。うち3カ所ある自治体は名古屋と横浜だけだ。ミキティや真央ちゃんも練習に使う「名古屋スポーツセンター」の黒柳一男社長が言う。「アルベールビル五輪の銀メダリスト・伊藤みどりさんもウチのリンクで練習しました。一般客に交じって滑ることもあり、世界技術に間近で触れる機会が多かったのも人気の要因です。伊藤や浅田を育てた山田満知子コーチなど優秀な指導者も多く、ジュニア教室も活発。今回の金銀独占は底辺拡大の成果です

 真央ちゃんやミキティの活躍でフィギュア教室はさらに活況――。王国は今後も安泰だ。

Friday, April 06, 2007

「戯作者文学論」について(3)切ない鼻息

こういうところで私の仕事の進展とか、外国人研究者との付き合いなどを報告していると、自分にも他人にも必ず幻想、幻覚が生じるので、それには気をつけている。

あまりグループを作りたくない。特にグルーピーとかファンとか弟子とかを持ちたくない。そんなレベルではないのだから。後輩にもなるべくくだけた調子で近づき、あるいは突き放し、脱神話化するよう努めている。

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安吾は大言壮語の人と思い込んでいる人がいるとすれば、その人は真実の半分しか見ていない。7月14日の項。

≪親類の人の紹介状をもって、浅草向きの軽喜劇の脚本を書きたいから世話をしてくれ、という人が来た。北支から引き揚げてきた人だ。全然素人で、浅草の芝居を見て、こんなものなら自分も作れると思ったというのだが、自分で書きたいという脚本の筋をきくと、愚劣千万なもので話にならない。こういう素人は、自分で見てつまらないと思うことと、自分で書くことは別物だということを知らない。つまらないと思ったって、それ以上のものが書ける証拠ではないのだが、恐れを知らない。自分を知らない。

 夏目漱石を大いにケナして小説を書いている私は、我が身のことに思い至って、まことに暗澹とした。まったく、人を笑うわけに行かないよ。それでも、この人よりマシなのは、私は人の作品を学び、争い、格闘することを多少知っていたが、この人は、そういうことも知らない。何を読んだか、誰の作品に感心したかと訊くと、まだ感心したものはないという。

 名前すら知らない。無茶なんだ。いつまで経っても帰らず、自分の脚本を朗読と同じように精密に語る。私はまったく疲れてしまった。私はまったく、泣きたいような気持ちになってしまった。それは我が身の愚かさ、なんだか常に身の程を省みぬような私の鼻息が、せつなくなったせいでもあった≫(全集第15巻、20-21頁)。

私も学部生や院生と話していると、ときどき自分の「鼻息」が切なくなる。他人との共闘が意味を持つのは、まず自分がいっぱしの仕事をしてからのことである。幾重にも自戒を。

Thursday, April 05, 2007

戯作者文学論(2)心情的共感に抗する

ynさんより、都知事選に関する情報をいただいた。ぜひご覧いただきたい。私たち一人一人は微力であっても無力ではない。

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安吾は「戯作者文学論」という創作日記の第一日目、1946年7月8日に「女体」という小説の執筆動機をこう記している。

 私はこの春、漱石の長篇を一通り読んだ。ちょうど、同居している人が漱石全集を持っていたからである。私は漱石の作品が全然肉体を生活していないので驚いた。

すべてが男女の人間関係でありながら、肉体というものが全くない。痒いところへ手が届くとは漱石の知と理のことで、人間関係のあらゆる外部の枝葉末節に実にまんべんなく思惟が行き届いているのだが、肉体というものだけがないのである。

 そして、人間関係を人間関係自体において解決しようとせずに、自殺をしたり、宗教の門をたたいたりする。そして、宗教の門をたたいても別に悟りらしいものもなかったというので、人間関係自体をそれでうやむやにしている。漱石は、自殺だの、宗教の門をたたくことが、苦悩の誠実なる姿だと思い込んでいるのだ。

 私はこういう軽薄な知性のイミテーションが深きもの誠実なるものと信ぜられ、第一級の文学と目されて怪しまれぬことに、非常なる憤りをもった。しかし、怒ってみても始まらぬ。私自身が書くよりほかに仕方がない。漱石が軽薄な知性のイミテーションにすぎないことを、私自身の作品全体によって証し得ることができなければ、私は駄目な人間なのだ。それで私はある一組の夫婦の心のつながりを、心と肉体とその当然あるべき姿において歩ませるような小説を書いてみたいと考えた。

私は自分がベルクソンという唯心論者(通常、精神とか魂とか生命というものを重要視しているとされる潮流)の身体「概念」、というよりベルクソン哲学を通じて身体をめぐって漠然と形成されていくある「論理」の生成と構造を目下の中心的な研究対象としているので、この一文に何か非常に近いものを感じる。

おそらく常識的な知識人はこのような粗雑な漱石批判には眉を顰めるに違いない。漱石はなんと言っても日本近代文学の「天皇」である。漱石が好きだと言っておけばひとまず間違いはない。しかし、眉を顰めるということは常識以上の何物も示すものではない。

だが、他方で、安吾のこの一文に心情的な共感を示して興奮する人々に過度の期待をもってもならない。すべからく――68年の大学紛争における「心情三派」同様――心情的な共感などをあてにしてはならない。そういう人々は結局、風向きが変われば、昨日までとは逆のことに今度は「共感」を示し始めるのだから。

研究も同じである。盲目的に誰かや何かを崇拝してみても、嗤ってみても、怒ってみても始まらない。私自身が書くよりほかに仕方がない。私自身の作品全体によって証し得ることができなければ、私は駄目な人間なのだ、と呟き続ける必要がある。「自己内対話」を言うのは、自戒としてである。

Wednesday, April 04, 2007

「戯作者文学論」について(1)日記に抗する日記

ウェブ上には、ときどき「本当にすごいなあ」と手放しで賞賛したくなる偉業がある。

聖書と木材」というページがあり、聖書に登場する木や植物の種類、出典箇所が網羅されている。しかも作られているのはどうやら、大阪堺市の木材屋さん?凄すぎる!

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あまりにも低次元の話なので、ここで取り上げることもないのだが、最近自分のブログ観やら日記観を一応表明しておかざるをえないと感じるのは、結局どこかで心理的なプレッシャーがかかっているのかもと思うと、あながち無関係でもないのだろう。

≪自分の日記にあしあとやコメントが付くと、周囲から認められたという「認知欲求」、自分を受け入れて欲しいという「親和欲求」が満たされ、それが快感になるという。好意を持っていたり、尊敬している相手からあしあとやコメントが付くと、さらに高い快感が得られるため、快感を求めて日記を更新し続けるという“中毒”症状につながる。(…)

 友人同士をリンクで結ぶ機能「マイミクシィ」(マイミク)が、この応酬をさらにヒートアップさせる。ユーザーは、別のユーザーにリンク申請して承認されると、自分の「マイミクシィ一覧」上に相手が表示される。マイミクはいわば、友人である証だ。

 山崎さんは「マイミクは、社章のようなもの」と言う。社章を付けた人は、その会社の社員であることを強く意識し、社員としてのふるまいを強化する傾向があると考えられている。A社の社章を付けた人は、より「A社の社員らしくふるまおう」と意識するといい、社会心理学で言う「役割効果」が発揮される。≫(IT media News、≪「mixi疲れ」を心理学から考える≫、2006年7月21日より一部引用)

幼稚な心理である。ブログやHPというのは、murakamiさんのように淡々と、あるいは私のように「くどい」のでもいいが、ともかくクールにやるに限る(上方落語は、志ん朝同様、くどいがクールなのである)。

Cf. IT media News、≪「mixi読み逃げ」ってダメなの?≫、2007年3月20日より一部抜粋

≪読み逃げを気にするユーザーの日記などを詳細に読んでみると、リアルで会ったことがないマイミクとの関係に気を遣っているケースが多いことが見えてきた。

 見知らぬ人とマイミクとしてつながった場合、人間関係を保障してくれるのは、mixi日記へのコメントやメッセージ、足あとだけ。だから自分のページに足あとが付けば、必ず訪問してコメントやメッセージを残し、「あなたのことをマイミクと認めていますよ」とアピールするし、相手も同じようにコメントやメッセージを返してくれ、自分を認めてくれることを期待する。読み逃げされると「嫌われたのかな?」「マイミクと認めてくれてないのかな?」などと落胆するようだ。≫



坂口安吾「戯作者文学論」というエッセイがある。「文学論」と題され、私も仕方なく「エッセイ」と呼んだが、「女体」という小説を書き上げる行程を綴った二十日間ほどの創作日記――「私の小説がどういう風につくられていくかを意識的にしるした日録」――である。1947年の作品だから安吾は41歳ごろ。

なぜ創作日記を「文学論」と名づけるのか。あるいは、なぜ文学論の表題の下に創作日記を綴るのか。おそらく二つの理由がある。一つには、自らの文学を語るのに通常の文学論の形態で語ることに嫌悪感を覚えたということがあるだろう。自ら戯作者をもって任ずる彼に「戯作者文学論」を執筆するよう求めた平野謙に対して、安吾はこう答える。

≪私が自ら戯作者と称する戯作者は私自身のみの言葉であって、いわゆる戯作者とはいくらか意味が違うかもしれない。しかし、そう大して違わない。私はただの戯作者でも構わない。私はただの戯作者、物語作者にすぎないのだ。ただ、その戯作に私の生存が賭けられているだけのことで、そういう賭けの上で、私は戯作しているだけなのだ。

生存を賭ける、ということも、別段大したことではない。ただ、生きているだけだ。それだけのことだ。私はそれ以上の説明を好まない。それで私は、私の小説がどんな風にして出来上がるか、事実をお目にかける方が簡単だと思った≫(ちくま文庫版『坂口安吾全集』第15巻、14頁)。

かといって、日記を書くことで、真実の「作者の意図」が記されうると考えるほど、安吾はナイーヴではない。「それに私は、この日記に、必ずしも本当のことを語っているとは考えていない」(同上、15頁)という言葉から、では、安吾は嘘をついているのか、と早合点する人はよもやいまい。それによっては真実を描こうとしても描きえぬ方法というものがあるのである。これが「文学論」と名づけたもう一つの理由である。

≪私は今まで日記をつけたことがなく、この二十日間ほどの日記の後は再び日記をつけていない。私のようにその日その日でたとこまかせ、気まぐれに、まったく無計画に生きている人間は、特別の理由がなければ、とても日記をつける気持ちにならない。

日記などはずいぶん不自由なもので、自分の発見でなしに、自分の解説なのだから、解説というものは、絶対のものではないのだから。


小説家はその作品以外に自己を語りうるものではない。だから私は、この日記が、必ずしも作品でないということを、だからまた、作品であるかもしれぬということを、一言お断り致しておきます≫(同上、13、15頁)。

私のこの「創作日記」もまた、安吾に比べて思想的にいかに惰弱で貧相であろうとも、ささやかな「哲学論」「思想研究論」たろうとしており、それ以外にこのようなものを書く意味もない。思想研究者はその作品以外に自己を語りうるものではない。だから私は、このブログが、必ずしも作品でないということを、だからまた…。