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Wednesday, September 08, 2021

いただきもの(2021年4月‐6月)

伊達聖伸さんより2021年4月5日にいただきました。

ラファエル・リオジエ『男性性の探究』(伊達聖伸訳)、講談社、2021年3月29日。

伊達さんの逡巡は、私も含め、「無関心ではいられないはずなのに
傍目には無関心な人間と大きく異なるところのない時間を過ごしてきてしまった」、
多くの「ジェンダーやフェミニズムが専門とは言えない日本の男性研究者」(145頁)
の強い共感を得るものだと思います。

私が、宮野真生子さんと共に行なった試みも、
https://keisobiblio.com/2020/01/08/gendertalk09/
まさにオリジエの眼差しと重なる問題関心から始めたものでした。

理論的な関心としては、伊達さんの言う「地獄くだり」――
「男性研究者として行なうことは、
自分の痛い経験を振り返ることにもなるし、ときに吐き気を催す男性性を
男性として目撃することになる辛い作業」(152頁)――
とは、少し違う「地獄」へ私も降りねばならないと考えています。

それは、リオジエが「問題の核心」と考える
「女性を客体化し、ものとして所有すること、資本として蓄積すること」(150頁)です。
これについては、以前にお送りした岩野卓司先生編『共にあることの哲学と現実』所収の
拙論(特に60‐64頁)をご笑覧いただければ幸いです。


村上靖彦さんより2021年4月23日にいただきました。
村上靖彦『子どもたちがつくる町――大阪・西成の子育て支援』、世界思想社、2021年5月5日。

『母親の孤独から回復する』を数年前にゼミ生たちと一緒に読みましたが、今回はその続編とも言うべきものでしょうか。また、学生たちと一緒に「哲学すること」を学ばせていただければと思います。

村上靖彦さんより2021年6月21日にいただきました。
村上靖彦『ケアとは何か 看護・福祉で大事なこと』、中公新書、2021年6月25日。

村上靖彦さんより2021年6月28日にいただきました。
村上靖彦『交わらないリズム――出会いとすれ違いの現象学』、青土社、2021年6月30日。

リズム本は、私にとっても大事なテーマです。昨年、日仏哲学会のシンポ「リズムの哲学」で私もベルクソンのリズム論で発表しました。「交わらないリズム」と「ポリリズム」の違いを考えつつ、村上さんのリズム論にも言及しています)。

ケア本は、今までの村上さんの軌跡の集大成のように感じつつ、ゆっくり読み進めております。また学生と読みたい本が増えましたうれしい悩みです。

Wednesday, September 01, 2021

いただきもの(2021年4月)森本淳生「イマージュ・アニマルーー哲学的動物論と環世界」

森本淳生さんより2021年4月23日にいただきました。

石井美保ほか編『環世界の人文学』、人文書院、2021年3月20日。
森本淳生「イマージュ・アニマル――哲学的動物論と環世界」、61‐80頁。

森本さんのご論考「イマージュ・アニマルーー哲学的動物論と環世界」(61‐80頁)は、哲学者たちの厳密な読解としての「正否を問うよりは、彼らの思索を自由に組み合わせて展開し、そこから哲学的動物論に対する有益な示唆を引き出す」(71頁)という仕方で、「動物論の困難、あるいは、混乱」(62頁)を解きほぐす試みとして、大変興味深く拝読しました。

とりわけ、『物質と記憶』第一章のイマージュ論を、「私たちの方が動物に近づく努力」という意味での「動物への生成変化」(68頁)として読み解くというのはとても面白い発想ですね。

個人的な興味関心としては、『創造的進化』を入れて考えるとどうなるのかが気になるところです。というのも、そこでベルクソンは、人間・動物そして「植物」を区別して論じているからです。今回のご論考の核心的な問題として気になったのはまさにその点、つまり「生物(イマージュ・アニマル)」(72頁)という表現に端的に表れるように、「生物=動物」と見なされているのではないかという点です。

もちろん、「大地や山、あるいは、川、海であっても、無生物ではあるが、イマージュ・アニマルとして現れる」という一節はありますが、「不動」や「ごく規則的な動き」に「潜在的運動イマージュ」を見出す際にも、「動物らしからぬ」(以上73頁)という形容が付されています。

つまり、「人間的秩序を理由としてイマージュ・アニマルを無視することは、人間中心主義的な視野狭窄を引き起こすことにもなる」(76頁)というのはその通りだとして、同じことは、「イマージュ・アニマルを論じる際に
植物を無視することは、動物中心主義的な視野狭窄を引き起こすことにならないか」という風にも言えるのではないでしょうか?

ですので、人間同様の「権利」を動物に認めようとして「人間中心主義をひそかに再導入する」(77頁)動物権利論とは異なる道行きとして、イマージュ・アニマルが倫理的な〈他者〉であるかもしれないという「虚像」「混線」として、「人間中心主義の限界=境界をはっきり見定める」(78頁)際に、

「大地や山、川、海などが神と認められてきたことを迷信と言ってすますことはできない」(73頁)という言葉と共に、論考冒頭でなされた「告白」(62頁)に登場する「猫へのささやかな生成変化」(63頁)のみならず、「ささやかな菜園」の「種や苗」も考慮に入れるならば、

「イマージュ・アニミスト」ないし「image vivante」という表現のもとに、擬人主義(anthropomorphisme)からの逃れがたさを強調すべきなのではないかと考えた次第です。

Saturday, June 06, 2020

ハイデガーのキェルケゴール評

メモとして。決して同意しているわけではありません。

《ニーチェをキルケゴールと組み合わせることは、茶飯事になりはしたが、だからといってその疑わしさが減じたわけではなく、ニーチェが形而上学的な思索者としてアリストテレスへの近さを護っているということを見誤っており、しかも思索の本質の誤認に基づいて見誤っているのである。キルケゴールはアリストテレスの名をしばしば挙げてはいるが、彼はアリストテレスに対して本質の上で遠い所に留まっている。なぜならば、キルケゴールはいかなる思索者でもなく、一個の宗教的文筆家であり、しかも数ある中の一人ではなく、彼の時代の命運に適った無双の文筆家であったからである。このような語り方がとにかく誤解というものではないとするならば、彼の偉大さはそこに安住しているのである。》「ニーチェの言葉「神は死せり」」、ハイデッガー全集第5巻『杣径』(茅野良男、ハンス・ブロッカルト訳)所収、創文社、1988年、278頁(GA5, 230)。

Wednesday, June 07, 2017

いただきもの(2017年4月-6月)

2017年6月
★加國尚志『沈黙の詩法――メルロ=ポンティと表現の哲学』(晃洋書房、2017年3月30日)
 『自然の現象学』(晃洋書房、2002年)に続く第二作目でしょうか。私はまだ単著を出していないので、先生の着実な歩みに賛嘆の念を覚えます。まだ読み始めたばかりですが、序言の言葉、「もしことばが日常のコミュニケーションで人々を行為に導くだけのものなら、本書に収められた文章は必要ではないだろう。しかしそれとは別種のことばと共に生きはじめるものと共にしか生きることのできないような人々が、やはり存在する」という言葉に惹かれました。
 「表現となる直前に身体で感じられるもの」とは、表現に至るまでの躊躇や澱みや滞り、加國先生の文章に頻出する「はじめる」という言葉は――「風に揺れはじめる」「立ち上がりはじめた波」「ふるえはじめた弦」「生きはじめ、生き直そうとしはじめる」――、ベルクソンの「持続は遅れる、いや持続とは遅れである」という言葉を思い出させます。

 言葉の重さとは、軽々しく言葉にしてしまうことで消えてしまうものに繊細であり続けようとする意志の強さでもあるのですね。言葉の軽い私の自戒にせねばと思いつつ、加國先生の哲学的営為のぶれない軸を垣間見た思いがいたしました

2017年05月
★L・A・ポール『今夜ヴァンパイアになる前に――分析的実存哲学入門』(奥田太郎・薄井直樹訳、名古屋大学出版会、2017年5月30日)
 まずタイトルにぐっとつかまれました。永井訳のネーゲル・コウモリ本へのオマージュである(202頁)ということですが、Transformative Experienceをこう訳せるセンスに脱帽です。また、帯は編集者かもしれませんが、短い言葉で端的に本書のポイントをまとめつつ、本文へと巧みにいざなう文章で、やはりつかまれました。

 まだはじめと最後を読んだにすぎませんが、とても面白く、とても読みやすいです(宮野さんのご助力もずいぶんあったと聞きました)。ぐいぐい引き込まれます。あとがきではジョジョに言及されていましたが、藤子不二雄の短編「流血鬼」を併読するとなおいっそう楽しめること、請け合いです(もしお知り合いなら、ポールさんに教えてあげると喜ばれるのでは・・・)。
 ともかく話題になりそうな本ですね。ご成功を心よりお祈りしております。


★中田光雄『デリダ 脱-構築の創造力』(水声社、2017年5月)

 早速ご著書を拝読するにつけ、帯に記された一連のお仕事を見るにつけ、先生のお仕事の常人ならぬ生産性、凝縮された内容の密度、可能な限り渉猟されている文献の博識さ、全体に漂う学的厳格さ、そのいずれにもただ圧倒されるばかりです。


★本郷均「「中間」における言葉について」(早稲田大学哲学会編『フィロソフィア』第104号、2017年3月)
 表現の可能性とその挫折もまた、その中間の見えないものによって与えられている」(p.132)。通常は無であり沈黙であり透明にとどまる「中間」を、「表現を促すもの」「見えるようにすることにおける見られるものの生起」と捉え、ベルクソンのイマージュ、ハイデガーの芸術作品、メルロ=ポンティの肉といった諸概念にその理解の手がかりを求めようとする非常に興味深い試みだとお見受けました。普段はなかなか結びつけて考えることのないテーマが「中間」というキーワードによって実際に結びついていくさまは刺激的でした。例えば、ドゥルーズのmilieu等も入れて、私も自分なりに考えてみたくなりました。

2017年04月
★納富信留『哲学の誕生――ソクラテスとは何者か』(ちくま学芸文庫、2017年4月10日)
 これは実は、ちくま新書版のときにもいただいていたのですが、今回もいただきました。自分の文章を少しでもましなものにしたいと考えて、先ごろ蓮見重彦の『監督・小津安二郎』の旧ちくま学芸文庫版と新版を首っ引きで一行一行読み比べておりましたが、今回もそれをやってみました。

★倉田剛『現代存在論講義』(新曜社、2017年4月7日)
 ついに出ましたね。数年前からお話だけはたびたび伺っておりましたが、こうして形になったものを見ると、本当に隅々までよく考え抜かれており、一つの「芸術作品」にも似た味わいがあります。「どうしたことか一昨年あたりから再び私の中に出版に対する意欲が湧いて」(i頁)、続編まで一気に書き上げられたとのことでしたが、これは愛息のご誕生と関係があるのでしょうか。
 ともあれ、まだ序論と第一章冒頭を読み終えたにすぎませんが、「哲学には固有の問いと方法および説明方式がある」という倉田さんの信念には私もまったく同感であり、特に、「哲学が科学の成果を一刀両断することができないのと同様、科学の側も哲学的議論を容易に一蹴できると考えてはならない。(それは)クラシックのピアニストが、ジャズピアニストに向かって「あなたの演奏法は誤っている」と述べるようなものである」(vii頁)というくだりには――倉田さんらしさを感じつつ――、快哉を叫びたくなりました(もちろん、ジャズとクラシックの間を自由に行き来するアンドレ・プレヴィンなどの例外もあるのでしょうが…)。私自身、専門外のこういった議論ではしばしば途中で挫折しがちですが、今回は(ユイとミノルのおかげで)最後まで読了できるのではないかと期待しています。

Wednesday, November 16, 2016

いただきもの(2016年11月)

11月30日 東洋大学国際哲学研究センター長の村上勝三先生より、最近のお仕事をお送りいただきました。感謝申し上げます。

東洋大学国際哲学研究センター編『国際哲学研究』別冊第8号『デカルトにおける形而上学と道徳――村上勝三の仕事を引き受けて』、東洋大学国際哲学研究センター、2016年2月28日。

村上勝三・東洋大学国際哲学研究センター編『越境する哲学――体系と方法を求めて』、春風社、2015年11月30日。

村上勝三『知の存在と創造性』、知泉書館、2014年11月10日。


11月16日 お茶の水女子大学名誉教授の中村弓子先生から、新たな論文を送っていただきました。感謝申し上げます。

中村弓子「≪野生状態の神秘家≫クローデル」、日本クローデル研究会編『L'Oiseau noir』第18号、2016年7月、1-36頁。


11月14日 九州大学名誉教授の末松壽先生と初めて少しお話しさせていただく機会を得、後日、これまでのお仕事のうち7編を送っていただきました。感謝申し上げます。

Hisashi Suematsu, "Voix dans le discours apologétiques des Pensées", dans Pascal, Port-Royal. Orient, Occident, Actes du colloque de l'Université de Tokyo, 27-29 septembre 1988, Klincksieck, 1991, pp. 293-302.

Hisashi Suematsu, "Le nom adjectif dans la Grammaire et la Logique de Port-Royal", dans Le Rayonnement de Port-Royal. Mélanges en l'honneur de Philippe Sellier, textes réunis par Dominique Descotes, Anthony McKenna et Laurent Thirouin, Paris: Champion, 2001, pp. 173-183.

Hisashi Suematsu, "Le travail de mots dans Les Immémoriaux - Eléments de la poétique exotique de Victor Segalen -", Thématique et rêve d'un éternel globe-trotter. Mélanges offerts à Shin-ichi Ichikawa, textes recueillis et publiés par Shiro Fujii, Yoichi Sumi et Sakaé Tada, Tokyo : 2003, pp. 275-285.

末松壽「『詩学』における悲劇の二重性」、九州大学哲学会編『哲学論文集』第28輯、1992年、21-38頁。

末松壽「ロゴスとミュートス――言語学から説話学へ――」、山口大学『哲学研究』第1巻、1992年12月、52-75頁。

末松壽「耳をふさいで劇を「聴く」?――ディドロが試みた俳優の演技評価の方法――」、山口大学『独仏文学』第34号、2012年12月、141-160頁。

末松壽「シモーヌ・ヴェイユの『根づき』――ある研究書の紹介から作品に接近する――」、『山口大学哲学研究』第22巻、2015年、43-75頁。

Tuesday, June 05, 2012

[本]のメルマガ

私は「[本]のメルマガ」の愛読者である。別に読書狂というわけでもない私が勧めたところで何のオーセンティシティもないわけであるが、みなさんにも購読を勧めたい。

今号(vol. 467)から二つほど抜粋を。

大島なえさんの「神戸発、本棚通信」の第七七回・「海鳴り」が聴こえる

***

編集工房ノアは、関西では知る人ぞ知る有名な小出版社だ。会社は大阪にあり、全国でささやかに本が配本されているが、根強いファンも多くいる。売れ筋無視したような「うちはこんな本しか出さない」オーラが出た本ばかり作っている。関西でもノアの本を置いている書店は、限られているし私は、いつも海文堂書店のノアの棚で新刊をさがすのだが、今回すこし意外な事件があった。

 それはノアのPR誌「海鳴り」が年一冊ぐらいで発行されるのだが、その「海鳴り」24号が出た、読んだ。とネットで紹介しているのを読んで、いそいそと元町へ出て〔…〕、いつも置いてある場所を見ても見あたらない。〔…〕すごく、がっかりした。この「海鳴り」は、他の大手出版社の「波」や「本」、「ちくま」と人気作家が名を連ねるPR誌も、勿論マメに手に入れて読むけれど、ノアのはおよそPR誌と言うよりもミニ文芸誌に近い。必ずある新刊の宣伝文などひとつも無い。社長もかなり頑固で変わっていると噂だが、「海鳴り」も同じくそんな香りがするミニ冊子なのは確かだろう。無いとなると、読みたくなるし、しばらく待っていても連絡が無い。他で手に入る書店と言えば、京都の三月書房しか思い浮かばない。

 そうしていると偶然、うまい具合に京都へ出かける用事ができた。これはやっぱ「海鳴り」が呼んでいる~と勝手に思い込んで、五月の終わり頃に三月書房へ一年ぶりに訪問し、どれも欲しくなる本の棚に目うつりしながら、選んだ一冊の本をレジに差し出して買い、出してくれなかったので「海鳴り」ありますか、と聞いてようやく最新号をゲットした。ああよかった。

***

売れ筋無視の出版社、いいですね。他方で、徹底して読者を意識して、好評を博しているウチタツについて、「忘れっぽい天使」さんの「声のはじまり」の第67回:「わかりやすさ」の秘密─内田樹『街場の読書論』より。
 
***
 
人文書の棚を担当している書店員なら、フランス文学者内田樹(1950年生まれ)の新刊の情報を掴んだ時点で、目立つ場所の平台を確保しておこうと考えるものである。それくらい彼の本は売れる。宮台真司や東浩紀と並んで、ビジネス書並みの売上げが期待できる数少ない人文系の著者と言えるだろう。
 
〔…原文を読んでいただきたいので、大幅に省略…〕
 
 「ウチダ棚」はその名の通り、自著に対してコメントした章である。『街場のアメリカ論』では、「素人にはできるが、玄人にはできないことがある」「それは『素人の素朴な疑問にとことん付き合う』ことである」と前置きした上で、この本を、19世紀に卓越したアメリカ論を書いたトクヴィル(つまり
今のアメリカに関しては素人)を「想定読者」として書いたと告白する。そして、何と、トクヴィルとの(もちろん仮想の)対話を展開していく。何とも芸達者。だが、単なるユーモアに終わらずに、彼独自のアメリカ論の骨子が簡明に説明し直されているのがさすがである。この「誰誰を読者として想定して書く」ことの意義は、他の箇所でも強調されている。相手がいて交通がある─読み書きの基本に立ち返らせてくれる啓蒙家・内田樹。
 
〔…原文を読んでいただきたいので、大幅に省略…〕
 
通読して感じることは、著者の主張は、どんな話題に触れようと、見事に一貫しているな、ということ。彼は常に、相手を問題にした言葉を書いている。ユーモアを交えながら(冗談ばかりの時もあるが)、実はひどく真剣に相手と対面した語りを連ねているのである。これは、彼が武道家であることとも関係しているのかもしれない。文字通りの「真剣」で読者に対しているのだ。〔…〕読者はもちろん不特定多数なのだが、その見えない一人一人の顔を、想像力でもって懸命に見ようとしている。〔…〕内田樹の「わかりやすさ」の秘密は、こうした態度に根ざすのだと思う。 

Tuesday, May 22, 2012

遠近法の歴史のために(ダニエル・アラス)

毎週の授業準備に追われて、研究に時間が割けない。

そんな中で今取り組んでいるのは、遠近法の問題。芸術学部向けの哲学の授業で、建築・絵画・写真・音楽・演劇・オペラ・映画の本質に迫るという趣旨の「芸術の哲学」をやっているのだが、建築から絵画へと移行する地点で取り上げている。

去年はパノフスキーの抜粋を配り、彼の説を紹介した。まあ常識的な線だと思うが、正直スノッブに感じた(もちろんパノフスキーをではなく、パノフスキーを知識としてしか伝えられない自分を)。

芸術学部の学生たちは、知識はないが知性や好奇心はかなりある。その彼らに、「絵画の思考」――絵画に関する思考、絵画を通した思考ではなく、絵画そのものが持つ思考――を感じてもらうには…。

それでいろいろと遠近法に関する著作を読んでみた。日本人の文献で面白かったのは、

中村雄二郎・小山清男・若桑みどりほか『遠近法の精神史――人間の眼は空間をどうとらえてきたか』、平凡社、1992年。

連続講座の講演記録なので読みやすいし、何よりいずれも話し上手な方がそろっている。

だが、一番しっくりきたのは、ダニエル・アラス。彼の著作はこれまで二冊邦訳されており、それらはいずれも素晴らしい邦訳である(コイレのことをコワレと訳したりしているのはご愛嬌だが)。

ダニエル・アラス『なにも見ていない――名画をめぐる六つの冒険』、白水社、2002年。
ダニエル・アラス『モナリザの秘密――絵画をめぐる25章』、白水社、2007年。

特に「遠近法とその潜在的な意味の歴史」について実に興味深く、また具体的な分析を示しているという意味で、この主題に関心のある方々にはぜひ『モナリザの秘密』をお勧めしておきたい。内容が刺激的であるのに加えて、「本書は、2003年夏に、ラジオのフランス・キュルチュールで25回にわたって放送され評判を呼んだシリーズ番組を、ほぼそのまま原稿に起こしたもの」なので、実に読みやすい。例えば、遠近法と受胎告知の密接な関連の必然性が明快に説かれる。

《多くの「受胎告知」の絵が15世紀に、とりわけ絵画における遠近法が定義される時期に描かれたこと〔…〕それは偶然ではありません。遠近法は、人間にとって測定可能な、人間が計測することのできる世界の像を構築するのに対して、「受胎告知」とは、フランシスコ会の説教僧であるシエナの聖ベルナルディーノによれば、無限が有限の中に、測定不可能なものが尺度の中にやってくる瞬間です。

「受胎告知」はしたがって、遠近法をその限界とその表象可能性に向き合わせる特権的な主題であり、15世紀において、何人かの画家やいくつかの知的集団は、それを十分に利用したのです。実際、「受胎告知」とは、天使が聖母マリアに挨拶をしにくるという眼に見える物語であるだけでなく、この可視的な物語の中に潜む「受肉」というキリスト教の根幹をなす〔不可視の〕神秘でもあるのです。》

彼の提唱する「近接絵画史」は、一般美術史、芸術の社会史など「遠くから見た歴史」と対をなす、近くから細部を眺める歴史である。「図像的細部」と「絵画的細部」、「パルチコラーレ」と「デッターリオ」といった対概念や、「観念連合の歴史的図像学」といった手法を駆使しつつ、彼はいわば美術史の放火魔、あるいは火事の通報者になろうとする。

《あらゆる美術史家は、とりわけ図像学に、したがって図像学的細部に興味をもつやいなや、細部を扱うことになります。しかし私は、通常の美術史の実践は、むしろ細部を消すことに意を用いていると思うのです。美術史家はやや消防士に似ています。気に障る細部があると、それを消さなければならない、ふたたびすべてがなめらかになるように、それを説明しに駆けつけなければならないのです。

細部の機能は、私たちを呼ぶこと、逸脱し、異常を作ることです。図像学(イコノグラフィー)の歴史は、すべての細部は正常であると考える傾向があります。ところが、ちょっとした偏執狂者である私の興味を引いたのは、その反対に、それは正常ではないと言うことであり、この異常の可能性を探しに行くことだったのです。

このときに近接的な歴史が開かれますが、それは遠くから見た歴史と同じくらいの、おそらくはもっと多くの資料を読む作業を含んでいるのです。》

Tuesday, March 27, 2012

岡本 源太『ジョルダーノ・ブルーノの哲学―生の多様性へ』

ジョルダーノ・ブルーノの哲学―生の多様性へ (シリーズ・古典転生) [単行本]

岡本 源太


トマス・アクィナスにの厳密さとルネ・デカルトの明晰さのはざまに生まれ落ちたジョルダーノ・ブルーノは、はたして近代科学の先駆か、それとも古代呪術の末裔か。ブルーノが開いた“近代”を生の多様性の発見として再評価し、たえず変化し続ける動的関係に充ち満ちた“無限宇宙”の哲学を読み解く。ジェイム ズ・ジョイスの二篇のエッセイ「ブルーノ哲学」「ルネサンスの世界文学的影響」の新訳を附す。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

岡本 源太
1981年生まれ。専門は哲学、美術史、思想文化論。現在は関西大学、京都造形芸術大学非常勤講師。京都大学博士(人間・環境学)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


  • 単行本: 227ページ
  • 出版社: 月曜社 (2012/03)

Sunday, March 25, 2012

高山裕二 『トクヴィルの憂鬱--フランス・ロマン主義と<世代>の誕生』

[本]のメルマガより

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■今月のこの一冊 グロバール化した世界を斜め読みする 小谷敏
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高山裕二
『トクヴィルの憂鬱--フランス・ロマン主義と<世代>の誕生』
白水社2600円

面白い本でした。本書は、『アメリカの民主主義』で知られるアレクシス・
トクヴィルを、フランス・ロマン主義の伝統の上に位置づけた野心作です。著
者はまだ30代前半。新進気鋭の政治思想史研究者です。原典でトクヴィルの
全著作を読破したその語学力と、19世紀前半フランスの文化と思想の状況を
俯瞰する博識には敬服脱帽する他ありません。トクヴィル、ロマン主義…。そ
う言われてもぴんとくる人は少ないでしょう。しかし、この本はフランス思想
史というジャンルを超えた普遍的な広がりをもつ問題を提起しています。

 トクヴィルは1805年生まれ。幼少時はナポレオンの全盛期でした。「世
紀病」と呼ばれた、何者かにならんと志す「大望」の病原菌を、ナポレオンは
トクヴィルと同年代の若者たちの間に撒いていたのです。しかし彼らが世に出
た頃のフランス社会では産業が発達し、私利の追求に熱心な俗物たちが支配し
ていました。大望を満たしてはくれぬ社会に失望した彼らが起こしたのが、ロ
マン主義の文化運動です。一つの<世代>としての自覚を共有した彼らは、詩
情を欠く機械文明と俗物の支配に呵責ない論難を加えていったのです。

 法律家となった若きトクヴィルは、監獄制度の視察のためにアメリカに渡り
ます。平等な人々が、徹底的な議論のなかで共同体の進むべき方向性を決定し
ていくアメリカの共和主義をトクヴィルは高く評価していました。しかしアメ
リカは、同時にトクヴィルの世代が忌み嫌った機械文明の先端を走る国でも
りました。『アメリカの民主主義』のなかでトクヴィルは、経済的活動におい
て過度に個人の利益を追求し孤独に陥ったアメリカ人たちが、精神の空洞を埋
めるために、カルトめいた宗教の門前に群がる有様を活写しています。

 豊かな社会のなかでは、労せずとも必要なものが手に入るので、人間の欲望
は小さくなります。欲望が小さくなると自分のなかには行為の導くものが希薄
になるので、他者が行動の基準になります。そうした人間は、他人のもってい
るものを自分がもっていないと不安に陥りやすい。だから小さな欲望しか持た
ない人は、羨望に支配されやすくなるとトクヴィルは言います。「草食系」と
呼ばれるいまの若者は、大きな欲をもっていませんが他者の目を気にする人た
ちでもあります。トクヴィルのこの洞察は、いまも古びてはいません。

 トクヴィルは、現実政治の世界にも身を投じています。2月革命の直後には
内務大臣の地位に就きました。しかし、当時のフランス政界では、鉄道敷設の
ような利益誘導に政治家たちが血道をあげていました。そして、読書から遠ざ
かり、理想を語ることのできない俗物に支配された政界に、トクヴィルは絶望
を覚えます。利益誘導の政治。教養を欠いた俗物政治家。政治の世界はいまも
昔も変わりません。深い憂鬱にとらわれ、精神を病んだトクヴィルは、「大望」
と並ぶ「世紀病」であった結核のために、この世を去っています。


◎小谷敏
大妻女子大学人間関係学部教授。「余命5年」の難病から生還し、こうしてモ
ノが書けることに感謝。
最新刊「若者は日本を変えるか-世代間断絶の社会学」世界思想社

Tuesday, December 05, 2006

グレゴリオ『純粋理性批判殺人事件』

旅の本。8月末日、羽田空港にて、機中読書・バカンス読書のため、マイケル・グレゴリオ作『純粋理性批判殺人事件』(角川文庫、2006年)の上巻を、巷で話題沸騰であるらしいdeath noteという漫画の最終巻とともに購入。原題は、Critique of Criminal Reason。『犯罪理性批判』とでも訳せば、サルトル『弁証法的理性批判』に始まり、ドゥブレ『政治的理性批判』を経て、スローターダイク『シニカル理性批判』に至るカント・パロディの系譜に(かすかに)連なることが容易に想起されるわけだが、一般読者向けにはたしかにこの邦題がいいだろう。

表題から察するに、名探偵カントか、天才的犯罪者カントが登場するのであろうという見込みであった。背表紙によれば、「世界中の出版エージェントの度肝を抜いた大型新人デビュー作、壮大な歴史ミステリ!」であるとのこと。遅読の私も、二三日で読了。

別にどうということのない本なので下巻を買わずにいたが、やはりなんとなく気持ちが悪いので、最近下巻を購入。堅忍の一字とともにやはり数日で読了した。「唯一の手掛かりが導くありえない真実」という帯の文字は先の触れ込みに比べれば食指をそそるが、しかし内容に適合したものとは必ずしも言えない。

カントの「根元悪」(radikale Böse)の概念を「あらゆるものの中で最も極悪非道なもの。冷酷な殺人。動機のない殺人」(下・139頁など)と結びつけるという発想自体は悪くない。カントが探偵なのか犯罪者なのか最後まで分からないというプロットも悪くないと思う。にもかかわらず、読後感を正直に言えば、本書を人に薦めようとは思わない。なぜか。

結局本書をつまらないものにしているのは、作者の皮相なカント理解である。カントが探偵なのか、犯罪者なのか、あるいはそれ以外なのかはここでは重要ではない。本書の舞台は1804年2月のケーニヒスベルク。したがって登場するカントは最晩年のカントである。問題は、従来のカントを「人間の肉体的および精神的世界を、論理という手段で定義するために一生を費やしてきた」(下・57頁)哲学者と捉え、晩年のカントを老衰や狂気によるそこからの逸脱ないし成熟と見る主人公のカント像がまったく魅力的でない、という点にある。
しかし、彼はおだてられなかった。癇癪を爆発させ、目をぎらつかせ、両手を激しく振り回した。「いかれたカント、と不埒な連中はわしのことを呼んでいる。精神と魂を堅苦しい理論体系と不変の法則の世界に閉じ込めたというのだ。大学での最後の日々は耐えがたかった。実に屈辱的だった。あんな処遇をされたことは、これまで一度もなかった。苦悶に耐えていたのだ!」感情が激して、カントの目はぎらついていた。声は怨念でかすれていた。彼の唇からもれた恨みのこもった笑い声には、ユーモアのかけらもなかった。「やつらは大馬鹿なのだ!非現実的な夢想者…わし一人で計画を立て、実行できるとは想像もできないのだ。連中にはわからんだろう、美しさが…」(下・134-135頁)。

グレゴリオ的カントの言う「美しさ」が探偵的なものであれ、犯罪者的なものであれ、このような取り乱した場面は必要なかったのではないか(カント時代の大学については、下記2002年10月14日の項参照)。性格の複雑さを見せるのはいいのだが、それを老齢や時代状況の変化のせいにするのは安易に過ぎるということだ。

晩年のカントが聖書的伝統に準じて弱い人間の魂を「曲がった木」(下・138,140頁)と見た、というのはよい。しかし、それを「人と人の関係では論理は通じない」(同上)などという凡庸な一言で片付けてしまっては、《道徳的カントから探偵的あるいは犯罪的カントへ》という移行の両側が―いわゆる批判期までのカントも晩年のカントも―色褪せて見える。

「いや、グレゴリオの描写はもう少し微妙だ」と言う人もあるだろう。実際、カントの発言が魅力的に見える場面も確かにある。だが、カント「最後の著作」を主人公が破いて川に捨てる場面を見る限り、作者がこの論文の「書き手」がカントでなかったという事実を最大限利用しなかったこと、ひいては哲学者カントの何も理解しなかったことは残念ながら明らかである。

翻訳は読みやすかったが、一点だけ。下巻285頁の《カント教授なら「至上命令」だといっただろう》というのは、原文を確かめたわけではないし、最近出た岩波版全集の訳語も知らないのだが、「定言命法」としたほうがよかったのではないだろうか。

道徳的カントから探偵的あるいは犯罪的カントへという移行に豹変を見るのではなく、むしろ、それまでのカントの思索の「論理的」帰結として、『実践的見地からする人間学』――これは1798年、カントが生前自らの手で刊行した最後の著作である――刊行と並行して、『犯罪的理性批判』の実践(執筆ではなく)が行われていた、といったストーリーのほうが少なくとも私には興味がもてるような気がする。要するに、pathologischという語のカント的用法に着目することで、リゴリズム道徳哲学の極北と見なされていた『実践理性批判』の只中に享楽の論理を見て取ったラカンの「サドとともにカントを」(Kant avec Sade)のほうが、はるかに『犯罪理性批判』の名にふさわしいのではないか、ということだ。

ちなみに、帯には「呪いと理性が同居する稀有な時代を精緻に描く、この夏のミステリ決定版」という文句もある。フリーメーソンや黒魔術、あるいは錬金術や動物磁気のことを念頭においての台詞だろうが、心理学や精神分析、社会学やシステム論、「マイナスイオン」や「トキソプラズマ」だって、百年後にどう言われているかは知れたものではあるまい(2002年10月19日の項)。細木某や江原某の流行る日本については何をかいわんや、である。呪いと理性は、 この意味では、あらゆる時代に同居しているのである。

カントについては、ドイツ語訳も出ているこちらのほうが圧倒的に面白いので、お勧めしておきたい。紹介はいつものごとく中途半端で終わってしまっている。
ボチュル『カントの性生活』(1)2002年1月2日の項
ボチュル『カントの性生活』(2)2002年1月12日の項
ボチュル『カントの性生活』(3)2002年10月13日の項
ボチュル『カントの性生活』(4)2002年10月14日の項
ボチュル『カントの性生活』(5)2002年10月17日の項
ボチュル『カントの性生活』(6)2002年10月21日の項

Monday, November 13, 2006

テクストの聴診-杉山直樹『ベルクソン 聴診する経験論』

ネットでフランス哲学に関するラジオが聞けるという話をした。朗読や講義のCDがあるという話もした。もちろん重要なのは有名人のお話(師のお声)を謹聴することではない(2005年3月2日の項「追っかけは追っかけ(『異邦人のまなざし』余談2)」)。聴くという体験を通じて思考を紡ぐことが何をおいても重要なのだ。

「聴く」と言えば、日本のベルクソン研究者一同が待望していた杉山直樹氏の著作がこの10月に刊行された。その名も『ベルクソン 聴診する経験論』(創文社)。カバーに印刷された仏語題名は、

Naoki SUGIYAMA, Bergson, auscultateur de l'expérience, Sobunsya, 2006.

となっている。いずれ仏訳していただきたいものだ。書評はまた別の機会にして、本書の印象を一言で言えば「王道を行く」という感じ。私はしばしば杉山氏を「日本のヴォルムス」と呼ぶのだが、そのような直感は間違っていなかった、と本書に目を通しながら思った。

王道にもいろいろあるので、守永直幹氏の著作『未知なるものへの生成 ベルクソン生命哲学』(春秋社、2006年)も、個人的には「王道」路線だと思っている。ファイティング・ポーズが勝っているので、分かりやすく言えばマイク・タイソン、より正確な比較対象を探せば輪島功一ということになろう。杉山氏は、一見より穏やかだが、舌鋒は鋭い。分かりやすく言えばモハメッド・アリ、より正確な比較対象を探せば具志堅用高ということになる。プロレスで分かりやすい例を探せば、猪木と馬場となる(ちなみに「猪木スタイル」必ずしも「ストロングスタイル」ならず、と言っている人がいるが卓見である)。

ちなみに、檜垣立哉氏の『ベルクソンの哲学 生成する実在の肯定』(勁草書房、2000年)は、入門書と研究書の中間くらいという位置づけだと思うが、チャーミングな魅力に満ちているので、『酔拳』のジャッキー・チェンといったところであろうか。千鳥足だからと打ちかかったらとんでもない目に遭う。彼の研究スタイル全般に言えることだが、やりたい放題に見えて、けっこう計算されているのだ。

話を元に戻せば、ベルクソンを「経験の聴診者」と定義する杉山氏自身のアプローチが実にベルクソニアンである、つまり「聴診的」である。
[ベルクソンの文体は]流麗なリズムをそなえた繊細な文体、などと言われはするし、確かに目の前の数行単位で読む限り、彼の言葉はそう言われもしよう心地よい滑らかさを有してはいると思うが、しかしそうしたフレーズたちが構成する全体はというと、それは私には、実に見通しの悪く、ぎこちない、今にも崩れそうな集塊のように映る。ノートを取り、用例集を作り、自前のレキシコンを作成し、つまりは「哲学書」を前にしての通常の読みの作業をするのだが、こんな難物はない。[…]このような哲学を「明晰」だの「端正」だの形容する人々が少なくないようだが、きっと彼らは、ベルクソンのテクストを本当に自分で読んだことがないのだ。

引用の仕方でその人がテクストを読むという行為をどう考えているのかは如実に分かる。explication de texteの伝統のない場所では、読むという行為にあまり注意が払われないようにも思える。引用とは添え物ではないし、偉大な哲学は論理の骨組みだけに解体されはしない。

というわけで、本書にはいくつかの偏りが生じている。本書は「ベルクソン哲学」というものの包括的な注釈書とはなっていない。参照される著作のページリストを作れば、どこが素通りされているかは明らかだと思う。私としてはまず、テクストとして前述の「異様さ」を強く孕むと感じられた箇所を中心に読解を試みたつもりである(ある意味、この取捨選択が本書の一番大きな主張だとも言える)。[…] このように一定のテクストの読解だけにこだわる態度がある種の顰蹙と嘲笑の対象になることは分かっているが、今の私は、騒がしい「アクチュアリティ」にとびつくよりもむしろその種の地味な作業を続けることにこそ意義があるように感じている。

テクストを前にすればごく当たり前の態度をこのように「偏り」と呼ばせ、いくつかの特権的テクストを執拗に読解し続ける態度が「ある種の顰蹙と嘲笑の対象になることは分かっているが」と予防線を張らせずにおかない場所において、哲学のテクストを「読む」とはいったい何でありうるのだろうか?

この「読む」ことに関する無関心はまた、「読みあげる」ということに関する無頓着と切り離せない関係にあるように思う。現在の哲学系(思想系ではない)の発表はたいがい原稿を事前に配布しそのまま読み上げる形式のものだが、形式としては実に退屈で工夫がない。原稿を配るのなら、わざわざ読み上げる必要はないではないか。

もちろん、目の前にテクストがあったほうが親切だという考えは分からないではないし、一字一句を点検できるという意味で可能性としては緻密な議論が展開できるようになっていることは認めるが、テンションが如実に下がることもまた事実だ。これでは、耳で話を追うという重要な思考の体験がまったく蔑ろにされていると思うのだが、どうだろうか。思考の刺激ということだけから言えば、いっそ「4分33秒」のケージよろしく発表時間中ずっと沈黙を守っていたほうがいいのではないかと思うくらいだ。

海外では数え切れないほど発表を聴いたが、読み上げ原稿を配布する場面に出会ったのは、外国人相手とか自分が慣れない外国語で話すとか、そういう例外的事態だけである。もちろん、何も配らないことが多いフランス流のやり方が完全だというのではない。おそらく両方の中間くらい、各項目のレジュメ+引用文がいいのではないか。

「読む」ことへの無関心、「読み上げる」ことへの無頓着は、結局のところ「聴く」ということに対する不感症に通ずる。何度でも言おう。耳からはじめること、哲学の歌を聴け。

Saturday, November 11, 2006

哲学の歌を聴け(追加情報)

あがるまさん、「ファンレター」(!)、ありがとうございました。読みやすいシンプルな外観さえ整えば、あとはあまりデザインにこだわらないという私のような機械音痴にとって――この怠惰があまり快いとは言えない事件を惹起したりもしましたが――、ブログは大変便利な道具です。

今のところ直接お顔とお考えを存じ上げない方とブログ上で交流させていただくことには消極的ですが(したがってこういった形でいつもお返事を差し上げられるか分かりませんが)、いただいた貴重な情報は皆で共有できればと思いますので、これからもぜひご教示くださいませ。

*あがるまさんのメールより一部抜粋
ウィーン大学の講義や講演(の一部)はhttp://audiothek.philo.at/modules.php?op=modload&name=Downloads&file=indexで聞くことが出来ることを知りました。大御所E.Tugendhatの2002年の動物と人間の違ひについての2つの講演などもあり、内容は余り面白くもなささうですが、話し方は明確で聞き易いですね。その他の大学はどうなつてゐるのか知りませんが、Toulouse大学の資料の頁は充実してゐました。ところでパリのF.Dasturの許で(10年くらい前に)九鬼周造についての論文を書かれた方の消息をご存知ですか?

こういった「耳」の情報、とてもありがたいです。最近はいろいろな音源がネット上にアップされていて、こういったものを「哲学耳」のトレーニングにどんどん活用していくべきだと思っています。九鬼の方は存じ上げません。DasturはパリⅠのあと、今は亡きジャニコーの誘いでニース大学に移り、近頃退官したはずです。私は彼女を見るといつも「やんちゃで憎めない精悍なドラ猫のようだ」と思います。彼女は私と会うといつも(たぶん日本人なら誰にでも)「デリダとヘーゲルについてすごい博論を書いた日本人がいるんだけど、知ってる?どこの出版社も出してくれないのよ」というのですが、そのたびに「名前なんだっけなあ」と言ってました。覚えといてよ、っていう(笑)。日本人の名前って彼らには難しいですからね。