Tuesday, December 28, 2010

近況

1)事典項目日本語…(8月末締切)。
2)09シンポ原稿仏語…(9月末締切)。
3)11/17大阪・結婚論シンポ仏語原稿(なんとか終了)
4)11/20福岡・結婚論シンポ仏語原稿(なんとか終了)
5)英語ベルクソン論文集・原稿校正(終了。もっといじりたいけど、時間が…)
6)12/26「大学と哲学」研究会予習(なんとか終了)

7)田母神先生科研・論文英語化に向けて再検討(12月下旬)鋭意作業中…。
8)鈴木先生COE・デジャヴ原稿仏語論文化(12月下旬)鋭意作業中…。
9)仏語雑誌掲載論文の仏語校正(1/10締切)鋭意作業中…。
10)ライシテ・シンポ依頼論文(日本語)執筆(1/10締切)鋭意作業中…。
11)2/10パリ・シンポ「アジアにおける現代フランス哲学」原稿
12)2月中旬トゥールーズ・ベルクソン・シンポ原稿
13)3月仏語ベルクソン論文集のために論文バージョンアップ
14)3/28パリ・CIPhセミナー原稿
15)白水社・政教論文(2011年3月末締切)
16)デリダ翻訳(2011年3月末締切)
17)ベルクソン&ドゥルーズ科学論(2011年8月末締切)
18)英語雑誌・依頼論文執筆(2011年8月末締切)

Wednesday, December 22, 2010

ピエティスムスの祖シュペーナーに関する書誌断片

大学にいるときの数少ない楽しみの一つに、
他分野の研究者のお話を聴けるということがある。

ピエティスムスについて幾つか文献を伺ったので、メモしておこう。
いつか読んでみたい。

①シュペーナー、「ピア・デシデリア」Pia desideria(敬虔な望み)1675年、『キリスト教教育宝典5』玉川大学出版部、1969年。

②シュペーナー(堀孝彦訳)「敬虔なる願望」(PIA DESIDERIA, 1675の抄訳)、『福島大学教育学部論集』、18号の2(人文科学)、1966年10月25日。PDFはこちら

③堀孝彦「ドイツ敬虔派の思想と運動――シュペーナーのばあい」、『近代の社会倫理思想』(青木書店、1983年)に第2章として所収。

④伊藤利男『敬虔主義と自己証明の文学』、人文書院、1994年。

⑤芝田豊彦『ドイツにおける神秘的・敬虔的思想の諸相――神学的・言語的考察』、関西大学出版部、2007年。

Tuesday, December 21, 2010

わびさび

今日ようやく授業が終了。最近は本当にハードスケジュールだった。
例えば、今日はこんな感じ。

10:40-12:10ドゥルーズ講義
昼休み:留学生二人が試験の質問。次の授業のプリント印刷。昼ご飯を食べる暇なし…。
3限:ベルクソン講義
4~5限:事務作業(たまりにたまった書類の処理…)、
先の留学生の質問の続き(1時間強)。
言語レベルにかなり制約のある学生に哲学の記述試験対策をするのは本当に大変…。

その後、卒論指導の学生をかなり待たせつつ、試験対策は強制終了。
卒論指導、かなり熱心にやっているつもりだが、何度アドバイスしても理解されていないのは悲しい…。

こんな感じで、最近は、授業の合間を卒論指導と試験対策に埋め尽くされ、
明らかにオフィスアワーなぞという生ぬるい制約をはるかに超えて
学生対応をしているにもかかわらず、
学生たちの反応は今一つ。疲れるし、なんとなく侘しい…。

帰りに読み始めた本:
柳沼良太『プラグマティズムと教育――デューイからローティへ』、八千代出版、2002年。

Monday, December 20, 2010

停滞

ようやく英語論文集のための論文がひとまず終了。ほっとする間もなく、日本語論文の見直し。

卒論学生の指導のために、キェルケゴールの『人生行路の諸段階』、キェルケゴール関連の研究書を数冊読んでいる。

執筆中の論文関連の本。それ以外となると、今は来年度のシラバス作成の時期なので、読む本がどうしても、シラバスのネタになりそうなものに偏ってしまう(笑)。しかし、どのみち最近、ほとんど本が読めていない。

石井洋二郎『フランス的思考――野生の思考者たちの系譜』、中公新書、2010年12月20日。
春日キスヨ『変わる家族と介護』、講談社現代新書、2010年12月20日。
小川仁志『はじめての政治哲学――「正しさ」をめぐる23の問い』、講談社現代新書、2010年12月20日。
小林正弥『サンデルの政治哲学――〈正義〉とは何か』、平凡社新書、2010年12月10日。

Friday, December 17, 2010

12/26「哲学と大学」公開ワークショップ@一橋大学

12月26日(日)13.30-16.45
一橋大学 佐野書院(西キャンパス南側 JR国立駅から徒歩20分)
地図:http://www.hit-u.ac.jp/annai/campus/index.html(図中28番の建物)

「哲学と大学」公開ワークショップ
13.30-14.15
西山雄二(首都大学東京)「戦後フランスの哲学教育」 コメント:藤田尚志(九州産業大学)
14.15-15.00
宮崎裕助(新潟大学)「英米圏での人文学論」 コメント:大河内泰樹(一橋大学)
15.15-16.45
藤本夕衣(京都大学)「アメリカの大学における教養教育論争 ―「文化戦争」にみる政治哲学の問い」

主催:科研費基盤研究(B)「啓蒙期以後のドイツ・フランスから現代アメリカに至る、哲学・教育・大学の総合的研究」 入場無料、事前予約不要

Saturday, December 04, 2010

12/16ジャン=マルク・レヴィ=ルブロン講演会「文学が科学にもたらすもの」

文学が科学にもたらすもの

ジャン=マルク・レヴィ=ルブラン氏による講演会

Que peut la littérature pour la science ?

文学が科学にもたらすもの

科学がどのような機能を果たしているか、もしくはどのように科学がその機能を果たしているか、歴史、哲学、社会学、科学などの学問の他に、文学からも学ぶことが出来るのです。

  • 日時:12月16日(木)19:00
  • 会場:九州日仏学館5F多目的ホール
  • フランス語、日本語逐次通訳つき
  • 入場無料(要予約)
  • お問い合わせ・ご予約:092-712-0904(九州日仏学館)

ジャン=マルク・レヴィ=ルブラン氏は「文学が科学にもたらすもの」は何かを問います。というのも、ユゴーやフローベール、ブレヒトなどの良く知ら れた作品であっても、またそうでなくても、文学作品は科学的な活動やその本質、また現在は争点となっていることについて、私たちの理解を助けているからで す。
物理学者、理論家であるレヴィ=ルブラン氏の研究分野は、一般相対性と量子力学。また科学哲学者として、広く一般にも分かりやすく解説することを実践して います。彼はコレクション『シアンス・ウヴェルト』(スゥイユ社)や雑誌『アリアージュ』を指揮しており、それらは科学的な知識と非科学的な実践の橋渡し ともなっています。ニース大学名誉教授、2001年より国際哲学コレージュのプログラム・ディレクター。

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Monday, November 29, 2010

シンポ報告(続)

「ご来場いただいた方々」とさらりと書いてしまいましたが、大分や佐賀など九州各地から、さらに遠くは東京(oさん)、大阪(kさん)、神戸(hさん)から遠路はるばるお越しいただいた方々、本当にありがとうございました。全部で30人弱だったでしょうか。東京や京都でのシンポの規模には遠く及びませんが、それでも福岡でのシンポに(しかも私どものような手作りシンポに)ご参加いただけたこと、本当にうれしく思っております。今後ともよろしくお願い致します。

さて、第二セッションの主題は、セクシュアリティと所有でした。

パトリス・マニグリエは、藤田が大阪でした話を巧みに取り入れ、それに呼応する形で、しかも随所に昨今のフランスの結婚事情に関する数字や制度改革の話をちりばめながら、自分の話の外枠を形成した。結婚の歴史は、制度から契約化(contractualisation)へと移行しつつあるかのように語られるが、実際に必要とされているのは自由にして空虚な制度としての結婚なのではないか。性も、人数も、子どもを持つか持たないかも自由な、ただお互いの「約束」だけが――したがって国家や法制度を介した「契約」がではない――お互いを縛るような結びつき。それは何が性的であるかを国家に規定させない「ポスト・セクシュアリティ社会」においてはじめて実現されるのではないか。

藤田は、結婚の2000年の歴史を概観した後――これについては、結婚の自然誌を人類学的規模で考えるべきだというご指摘を大阪でいただいた。構造主義的な観点との兼ね合いでどう考えるか。いずれにしても考えてみる価値はある――、結婚の形而上学の根本諸概念のひとつとして「所有性」をとりあげ、アドルノにおけるその「脱構築」の模様をその一例として概観した。その後、デリダにおける「結婚の脱構築」の両義性を幾つかのテクストを用いて説明しようと試みた(が時間の関係でまたも宙吊りに…)。ただ、パトリスとの議論の中で、少しは私の所論が明らかにできたのではないかと思う。

Sunday, November 28, 2010

シンポ無事終了!



ご報告が遅れましたが、結婚論シンポ福岡篇は盛況のうちに終了致しました。ご来場いただいた皆様、宣伝・告知・開催にご協力いただいた方々には、厚く御礼申し上げます。今後ともご厚情を賜りたく、何とぞよろしくお願い致します。


当日のプログラムは、

第1部:交換とコミュニケーション

フレデリック・ケック氏は、まず、英国の人類学者タイラーの生物学的・進化論的・自生的結婚観――「外で殺されるか、外で結婚するか」というタイラーの言葉に集約されるこの結婚観は、インドとイギリスなど、大英帝国内における植民地主義的結婚政策に加担するものでもあった――に対して、レヴィ=ストロースが『親族の基本構造』において、象徴的-文化的・構造主義的・構築主義的結婚観を対置したことを強調する。また、ボーヴォワールが刊行直後に書いた書評で、後の多くのフェミニストたちとは異なり、「女性の交換」というレヴィ=ストロースのテーゼを評価し――ケック氏自身の言葉で言えば、レヴィ=ストロースとボーヴォワールの立場は「外で結婚するか、内で行き詰まるか」(インセスト・タブーの回避から生じる族外婚)――、彼女自身の小説群においては、このような構造主義的視点から現代社会における「男性の交換」が描き出されてはいないかと示唆した。

大森晋輔氏は、「侵犯の思想家」というクロソウスキーの通俗的なイメージと、そこから安易に生じうる彼の「逸脱的結婚」観を拒絶し、むしろクロソウスキーにおける言語の次元に注目することを提案する。二十年を隔てて書かれた二つのサド論の変遷――二つ目のサド論は、クロソウスキーの特異な結婚観が端的に表れている『歓待の掟』のすぐ後に刊行されたものである――に如実に見られる、このような思索の深化は、しかしながら、クロソウスキーにとって強迫的とさえ言える主題であった「結婚」との訣別を意味しない(『生きた貨幣』は1970年に刊行されている)。したがって、「結婚か言語か」の偽の二者択一を峻拒し、「結婚と言語」を同一地平において、「切り離しえない」ものとして扱う視点が要求されるのではないか、と大森氏の発表は示唆している。

二人の発表に(そしてもちろんレヴィ=ストロースとクロソウスキーに)共通する主題、それは結婚という現象を「交換とコミュニケーション」の視点から眺めるという姿勢である。レヴィ=ストロースが「未開」部族という「冷たい社会」の構造化要因として取り出した「女の交換」を、ボーヴォワールが、現代社会という「熱い社会」においては「男の交換」も存在するという形で変換してみせたのだ、というケック氏の指摘と、「非言語による言語の侵犯」という説から「古典的言語そのものの徹底による言語の侵犯」という説へのクロソウスキーのシフトには、『歓待の掟』における夫・男の「分身」の問題が関係しているのではないかという大森氏の発表に見られる示唆は、共鳴しているように思われる。

第二部は、セクシュアリティと所有の問題である。これについては、また改めて報告することにしたい。

Saturday, November 27, 2010

Colloque international : La déconstruction du mariage Lévi-Strauss, Beauvoir, Klossowski, Derrida

Le samedi 20 novembre 2010 à l'Institut Franco-Japonais du Kyushu (Fukuoka)
2e colloque international de La PFF (La Philosophie française à Fukuoka !)
La déconstruction du mariage
Lévi-Strauss, Beauvoir, Klossowski, Derrida

Programme (tous les titres de communication sont provisoires)

13h30- Discours du directeur & de l'oragnisateur

La 1re session : échange et communication

13h 45- Frédéric Keck : « Beauvoir lectrice de Lévi-Strauss »

14h 20- Shinsuke Omori : « Le mariage selon Klossowski – autour des Lois de l’hospitalité »

14h 55-15h 30 Discussion

15h 30-15h 45 Pause-café

La 2e session : sexualité et propriété

15h 45-16h 20 Patrice Maniglier : « Le mariage selon Lévi-Strauss »

16h 20-16h 55 Hisashi Fujita : « La déconstruction du mariage – à partir de Derrida »

16h 55-17h 30 Discussion

17h 30-18h Discussion générale et clôture

18h 30-20h Closing Party

Friday, November 19, 2010

リマインド:11/20結婚シンポ

阪大での結婚論シンポは盛況でした。パトリス・マニグリエの仕事のほんの一端でも日本で紹介できたこと、そしてそれを堂々と自分の問題関心の中に取り込みながら行ないえたことは、うれしいことでした。

「結婚の脱構築」というプロジェクトを少しは理解してもらえたかなと思っています。

次は福岡。大阪では「ドゥルーズを例に」とって喋りましたが、福岡では「デリダから出発して」
喋ります。

まず言っておくべきは、結婚の脱構築(déconstruction)は決して結婚の破壊(destruction)ではないということ。姦通・不倫など呼び方は何でもよいが、二人の人間を実体的存在、「主体」として捉えたうえでの「結婚からの逸脱」などが問題になるわけではないということ。その程度の「侵犯」なら、わざわざ20世紀思想・文学の到来を待つまでもない。

次に、私は「結婚の脱構築」を、「哲学と大学」という、もう一つのプロジェクトと同じ問題意識で進めているということ。すなわち、哲学・思想研究者が最も目をそむけている自らの「唯物論」的な基盤、自らの思考を枠づけているものの省察である。私は大した哲学研究者ではないが、自分が足を置いて考える「思考の場所」への意識だけは大学生のころから持ち続けてきた。個人的にいかなる選択肢をとるとしても、「結婚」が多くの人々にとってと同様、哲学者にとっても重要な問題の一つであるという自明の事実をその選択肢が覆い隠してはならない。

最後に、結婚は我々の手によって脱構築されるのではないということ。我々の手によってなされる「べき」という未来のプログラムというよりは、「結婚が常にすでに脱構築されつつある」そのプロセスを明らかにするのが我々のプログラムなのである。だからこそ、最近の諸々の徴候や、最低限の歴史はおさえておく必要がある。結婚の歴史を…。


à partir de とは「~から出発して」という意味ですが、「~から立ち去るべき」という意味をも持ちえます。

何度も言っているが、デリダやドゥルーズ、あるいはベルクソンでも同じことだが、哲学研究者にとって、彼らの「ファン」や「訓詁学者」になることが重要なのではない。彼らが言ったことをただ反復・パラフレーズしたり、彼らの価値基準を押し戴いたりすることが重要なのではない。

彼らの思想の可能性の中心を、彼ら自身に抗して掴み取ることが重要なのだと思っている。そして、いかに稚拙な形であれ、常にそれを実践しようとしているつもりである。

「結婚の脱構築」という名を付したから、このプロジェクト全体がデリダ思想の庇護のもとに置かれているに違いないと考える人は多いようだ。もしそうであるならば、それはマルクスの『資本論』の副題「経済学批判」がカント哲学の庇護のもとに置かれているのと同じ程度においてである。

Sunday, November 14, 2010

近況

1)事典項目…(8月末締め切り)。
2)09シンポ原稿…(9月末締め切り)。
3)11/17大阪・結婚論シンポ原稿
4)11/20福岡・結婚論シンポ原稿
5)田母神先生科研・論文英語化に向けて再検討(12月下旬)
6)鈴木先生COE・デジャヴ原稿論文化(12月下旬)
7)12/26「大学と哲学」研究会予習
8)ライシテ・シンポ原稿論文化(1/10締め切り)
9)2/10パリ・シンポ「アジアにおける現代フランス哲学」原稿
10)トゥールーズ・ベルクソン・シンポ原稿
11)3/28パリ・CIPhセミナー原稿
12)白水社・政教論文(2011年3月末)
13)デリダ翻訳(2011年3月末)
14)ベルクソン&ドゥルーズ科学論(2011年8月)

Saturday, November 13, 2010

ライシテ・シンポ

11月13日(土)、東洋英和女学院大学にて、日仏社会学会のライシテに関するシンポに登壇させていただいた。お招きいただいた菊谷先生、裏方としてさまざまなご配慮をいただいた事務局の方々にお礼申しあげます。他の登壇者の方々のご発表、議論にも大変刺激を受けました。ありがとうございました。

発表は、私が哲学、伊達さんが宗教学、鳥羽さんが社会学の観点から、それぞれライシテを考察。今までにない多角的な視点からのライシテ・シンポになったと多くの方々から喜んでいただけたようで、まずは一安心。三者の発表内容に関しては、次号の『日仏社会学会年報』に掲載されるので、ご関心がおありの方は、そちらをご覧ください。

私個人としては、「宗教的なもののゆくえ」が気になっている。信、信仰、信頼、社会的紐帯といった概念群を介して、この問題は、私の中では結婚論とつながっている。

というわけで、二つの結婚論シンポに突入…。

Thursday, November 11, 2010

11/17結婚の形而上学とその脱構築:フランス現代思想の視点から

第4回ときめき☆セミナー(大阪大学最先端ときめき推進事業 バイオサイエンスの時代における人間の未来 研究代表者 檜垣立哉)

「結婚の形而上学とその脱構築:フランス現代思想の視点から」

発表者:
パトリス・マニグリエ(エセックス大学・講師)
藤田尚志(九州産業大学・講師)

日時:2010年11月17日(水) 15:30-18:30
場所:人間科学研究科・東館303

【セミナーの概要】
ソクラテスと「悪妻」クサンチッペ。哲学と結婚は最初から折り合いが悪かったというべきだろうか。哲学は愛(エロスないしアガペー)について、性(セクシュアリティないしジェンダー)について、家族(共同体ないし市民社会)について語ること夥しいが、結婚という日常の中の日常を語りはしない。だが、愛・性・家族の結節点としての「結婚」という現象は、プラトンからパウロを経てルターまで、ルソーからヘーゲルやキェルケゴールを経てニーチェまで、ボーヴォワールからレヴィ=ストロースを経てクロソフスキーやデリダまで、常に「哲学」にとって厄介だが避けて通れない、永遠にして喫緊の分析対象であり続けた。おそらくは人類とともに誕生し、古代・中世と絶えず形を変えながら生き延び(イエのための結婚)、近代(モダン)の所産であると同時に(ロマンティック・ラブ・イデオロギーの帰結としての「恋愛結婚」)、すぐれて生権力、生政治の現代的な問題――未婚化・晩婚化・少子化、「パラサイトシングル」から「おひとりさま」まで、幼児虐待からDVまで――でもある「結婚」という制度は、脱構築されるべき一つの(あるいは複数の)形而上学を背後に隠し持っている。フランス現代思想は、結婚の問題に本質的な解明をもたらし、逆に、結婚は、フランス現代思想の臨界点を明らかにする。

Wednesday, November 10, 2010

BIOLOGIA E METAFISICA : IL FILOSOFO, IL MATEMATICO E IL BABBUINO

FORLÌ, 3 e 4 dicembre 2010

Prima sessione
Venerdì 3 Dicembre ore 9,00 – 13,00
Aula 3.1 - Facoltà Scienze Politichevia G. della Torre 1

Ore 9 Apertura dei lavori Saluto del Prof. Paolo Terenzi – Facoltà di ScienzePolitiche “Roberto Ruffilli”

Presiede : Arnaud François

Ore 9.30 Giuseppe Longo
Dalla psicologia del babbuino alla metafisicadell’infinito, l’unità fra biologia e conoscenza neifondamenti della matematica

Ore 10.30 Elena Gagliasso
Trasversalità nuove nell'alternativa Ambiente/Mondo

Ore 11.30 Paul-Antoine Miquel
Épistémologie non fondationnelle et métaphysique dela nature


Seconda sessione
Venerdì 3 Dicembre ore 15,00 – 18,30
Fabbrica delle Candele – Piazzetta Corbizzi, 9

Ore 15 Apertura dei lavori Saluto del Presidente dell’Associazione “NuovaCiviltà delle Macchine”, Prof. Pantaleo Palmieri

Presiede: Giuseppe Longo

Ore 15.30 Rossella Fabbrichesi
Coralli alberi e pennacchi. I filosofi nel giardino di Darwin

Ore 16.30 Arnaud François
Santé et irréversibilité

Ore 17.30 Federico Leoni
La vita come problema di ordine pubblico

Dibattito


Terza sessione
Sabato 4 Dicembre ore 9,00 – 13,00
Aula Multimediale - Liceo Scientifico“F.P. di Calboli”, via A. Moro 13

Ore 9 Apertura dei lavoriSaluto del Dirigente Scolastico del Liceo “Calboli”Dott.ssa Morena Mazzoni

Presiede: Federico Leoni

Ore 9.30 Frédéric Worms
La vie est polarité

Ore 10.30 Rocco Ronchi
Grammatica e pragmatica del vivente

Ore 11.30 Davide Tarizzo
La vita e l’ambiente. Metafisica, biometria edecologia


Quarta sessione – aperta al pubblico
Sabato 4 Dicembre ore 16,00 – 19,00
Fabbrica delle candele – Piazzetta Corbizzi, 9

Ore 16 Apertura dei lavoriSaluto del Sindaco di Forlì, Prof. Roberto Balzani

Presiede: Rocco Ronchi

Ore 16.30 Florinda Cambria
Metafisca e materia del vivente

Ore 17.30 Carlo Sini
La verità del babbuino

Dibattito

Monday, November 08, 2010

Deleuze et la musique - un séminaire nomade

ソヴァニヤルグからお知らせが来たので転載。

16 novembre 2010
Cdmc (Paris)
18 et 19 janvier 2011 – Paris 8 / INHA (Paris)
7 et 8 février 2011 Université Jean Monnet (Saint-Étienne )
8 et 9 mars 2011 – Paris 4 / ENS (Paris)
17 mai 2011 Université Panthéon-Sorbonne Paris I


Les enjeux d'une pensée-musique
Mardi 16 novembre

Centre de Documentation de la Musique Contemporaine (Cdmc)
16 place de la Fontaine-aux-Lions 75019
Métro Porte de Pantin


Programme - Informations pratiques:
Deleuze s’est intéressé à la musique en philosophe, et, si la musique n’a pas fait l’objet d’un ouvrage spécifique, celle-ci occupe néanmoins une place privilégiée dans sa pensée. Comme il s’est tourné vers le cinéma, la peinture ou la littérature pour élaborer sa philosophie, la musique est pour lui l’occasion d’une rencontre spécifique avec les champs opératoires propres au musical. On en repère les effets dans son œuvre avec, par exemple, les notions de multiplicités spatiales et temporelles, de codage et de transcodage, de pensée par diagrammes ou d’affects. Au cours de ces journées itinérantes, nous proposerons un état des lieux de l’approche du musical par Gilles Deleuze, domaine qui n’a pas encore fait l’objet d’une recherche approfondie en France. En effet, il a très souvent fait référence au corpus de la musique contemporaine, largement convoqué de Berg à Messiaen, de Boulez, Berio, Xenakis à Cage et Steve Reich.
C’est d’ailleurs à l’ensemble des signaux sonores et à leur expression dans l’espace et dans le temps qu’il porte une attention renouvelée.
Nous examinerons, dans un mouvement croisé, l’impact de ces outils de pensée sur la recherche et la création contemporaine en musique. Il s’agit, non seulement de se demander comment Deleuze s’inspire et s’instruit de la pratique musicale qui lui est contemporaine, mais aussi de montrer quelle incidence les lectures de ses textes ont sur la création, la musicologie, l’esthétique musicale, l’ethnomusicologie, les techniques et les technologies...
Le séminaire contribuera à établir le contexte historique, à explorer les références musicales, à élucider les rencontres avec la musique, dans l’œuvre du philosophe, mais aussi à parcourir ces interférences entre musique et philosophie, avec les inflexions et tensions qui s’en dégagent pour la musique aujourd’hui.
Vers le programme général:

Pascale Criton
Jean-Marc Chouvel
Anne Sauvagnargues

Saturday, November 06, 2010

リスク社会におけるベルクソン Bergson dans la société du risque

公開講演会

『危機の社会におけるベルクソン
Bergson dans la société du risque』

(フランス語・入場無料・通訳あり)

日時:2010 年 11 月 15 日(月) 18:30 20:00

場所:立教大学池袋キャンパス 5 号館 5301教室

講師:Frédéric Keck フレデリック・ケック氏

司会:澤田直(立教大学文学部教授) 通訳:平林通洋

略歴:フランス国立科学研究所 専任研究員

1974 年生。2003 年リール大学にて哲学博士号取得。

2010 年度 立教大学国際センター招聘研究員。

気 鋭の若手哲学研究者であり、特にレヴィ=ストロース研究を中心に行い、そのプレイアード版編者として世界的に高い評価を得ている。氏はレヴィ=ストロース のみならず、ベルクソン、バタイユ、レヴィ=ブリュールについても精力的に論考を発表。文化人類学、宗教学にも造詣が深く、哲学・思想を人類学や宗教との 関連において読み解く論考を多数発表している。

問い合わせ先:立教大学 文学部文学科仏文専修
澤田直 naosawada@rikkyo.ac.jp

Thursday, October 28, 2010

Francisco NAISHTAT, ACTION ET LANGAGE Des niveaux linguistiques de l'action aux forces illocutionnaires de la protestation

ACTION ET LANGAGE
Des niveaux linguistiques de l'action
aux forces illocutionnaires de la protestation

Francisco NAISHTAT

Collection La Philosophie en commun

24 €- 262 pages/ISBN : 978-2-296-12494-3

Dans cet ouvrage savant, mais parfaitement lisible, Francisco Naishtat explore une question philosophique majeure, qui est aussi l’une des « questions vives» de la pensée politique : celle des conditions de l’action collective et de la formation de ses acteurs, telle que permet de la repenser la pragmatique du discours. Mais il va au-delà d’une application, même créatrice, des catégories de “speech acts” et de « force illocutionnaire», pour déboucher sur un renversement du point de vue dominant quant aux rapports du performatif et de l’institution. Tirant parti de l’expérience des mouvements protestataires et utopiques liés à la « crise argentine » de la dernière décennie, il entreprend de refonder la pragmatique en lui incorporant la thèse (venue de Benjamin et d’Arendt) d’une force illocutionnaire non conventionnelle, qui déjoue les jeux de langage établis et institue l’horizon d’une “violence non violente”. Cette proposition forte et originale ne restera évidemment pas sans effets.

Etienne Balibar

L'AUTEUR

Après une thèse sur l'action et l'intentionnalité, Francisco Naishtat a été élu (2004-2010) directeur de programme au Collège International de Philosophie où il a dirigé des recherches sur la crise du politique dans le cadre de la mondialisation. Chercheur du CONICET, il enseigne la philosophie contemporaine aux Universités de Buenos Aires et de La Plata.

TABLE DES MATIERES


Présentation
Introduction
Première étude
LES APORIES DE L’ACTION ET LA PERSPECTIVE
PRAGMATIQUE
Introduction
Chapitre 1
L’ACTION DANS LA PERSPECTIVE DE LA
PILOSOPHIE MODERNE
1.1. Spectres de Descartes
1.2. La philosophie de l’action de Locke
1.3. La philosophie de l’action de Hume
Chapitre 2
L’ACTION DANS LA PERSPECTIVE DE LA
SÉMANTIQUE NATURELLE. LES IMPASSES DE LA
THÉORIE DAVIDSONIENNE
2.1. Rationalisations et explications causales d’après
Davidson
2.2. Les impasses de la théorie davidsonienne
2.3. L’ouverture pragmatique
Chapitre 3
LE TOURNANT WITTGENSTEINIEN DANS LA
PENSÉE DE L’ACTION ET LA CRITIQUE DE LA
SÉMANTIQUE RÉFÉRENTIELLE
3.1. Action et langage ordinaire
3.2. Wittgenstein Philosophische Untersuchungen
Deuxième étude
L’ACTION COLLECTIVE AU CRIBLE DE LA
PRAGMATIQUE
Introduction
Chapitre 4
SUJETS D’ACTION COLLECTIVE
4.1. Les foules dans la perspective de la
tradition positiviste
4.2. Max Weber : atomisme logique et agnosticisme
ontologique
4.3. Dialectique benjaminienne des collectifs dans les
Passagen-Werk
Chapitre 5
QUAND FAIRE C’EST DIRE ET AGIR. L’AGIR
COLLECTIF COMME FORCE ILLOCUTIONNAIRE

5.1. Performatif-causatif
5.2. Le caractère suspensif de l’agir collectif en tant que
disruption méta-communicationnelle
5.3. L’émergence Illocutionnaire du « nous »
5.4. L’agir collectif comme force illocutionnaire
RÉFÉRENCES BIBLIOGRAPHIQUES
TABLE DES MATIÈRES
NOTES

Saturday, October 23, 2010

制度と運動(ささやかなアイデア)

とあるシンポジウムの開催通知と同時に、若手の「参加者」を募集する告知もあった。

8名ほどの研究者が発表する生命倫理系のシンポに、「医療の現場で起こる倫理的な問題に対して人文学ならではの応答をしてもらいたい」との考えから、若手に対して、コメンテーターとしての発表の希望を募るという。

活躍する研究者の発表に若手がコメントをするという形式はあまり人文系では見ない気がして面白いし、発表者たちのアブストラクト集を公表し、「この人の発表にコメントしたい」という申し出を募るという手続きもいい( もちろん候補者多数の場合はなんらかの方法で選抜)。

さらにいいのは、このシンポは出版が予定されているらしいのだが、その際、若手のコメントについても優良なものを選抜して本に収録するそうだ。「制度」というとおおげさだが、こういった「システム」が一つの選択肢として広まっていけばいいと思う。

今、若手の研究者は、発表の場を必要としており、活字化の機会を欲している。これを単に業績主義だと笑うのはたやすい。だが、彼らの置かれた状況を踏まえつつ、良質なものを育成しようとしていくのなら、査読などの入口を厳格化するだけでは(あるいは逆に、就職前の若手を優先するだけでは)足りず、入口自体を多種多様化していくのでなければならないだろう。

やはり、〈制度〉と〈運動〉の問題である。

Monday, October 18, 2010

11/20国際シンポ「結婚の脱構築―レヴィ=ストロース、ボーヴォワール、クロソフスキー、デリダ」

九州日仏学館のHP上ではすでに告知されておりましたが、

ようやくポスターが出来上がりました。前回(3月27日)同様、伴野亜希子さんの作品。とてもポップな仕上がりで、大変満足しております。意味ありげな赤い糸…(笑)。

なにぶんにも地方でのフランス語の国際シンポ開催。負け戦は重々分かっていますが、やっていくしかない。

宣伝・告知をしていただけますと、大変助かります。
皆様のお手元での印刷用には、こちら(画面下にPDFが添付されているはずです)をお使いください。

なお、関連企画として、フレデリック・ケック氏の東京(立教大学)・京都(立命館大学)での講演、パトリス・マニグリエ氏の大阪(大阪大学)での講演が決定しております。ご関心がおありの方はぜひ足をお運びください。

よろしくお願い致します。

Sunday, October 17, 2010

11/13日仏社会学会シンポ「文化的経験の多角的照射――ライシテの多様性を巡って」

日仏社会学会の大会全体のプログラムはこちらをご覧ください。

14:20~17:20 シンポジウム
   テーマ:「文化的経験の多角的照射――ライシテの多様性を巡って」 
                          司会:菊谷 和宏(和歌山大学)
  1.ライシテの彼岸と此岸――フランス現代思想における宗教の問題  
                            藤田 尚志(九州産業大学)
  2.多面体としてのライシテ――政教関係の国際比較のために  
                            伊達 聖伸(東北福祉大学)
 3.フランス社会におけるムスリムの「脅威」   鳥羽 美鈴(横浜国立大学)

  討論者:長谷川 秀樹(横浜国立大学)、出口 雅敏(東京学芸大学)

場所:東洋英和女学院大学(東京都港区)
 東洋英和女学院大学六本木校地                 
 法人事務局・大学院棟地下1階フロアー                 
 〒106-8507 東京都港区六本木5-14-40


●東京メトロ日比谷線をご利用の場合六本木駅下車。3番出口から徒歩10分。
●東京メトロ南北線をご利用の場合麻布十番駅下車。5a番出口から徒歩7分。
●都営大江戸線をご利用の場合麻布十番駅下車。7番出口から徒歩5分。
http://www.toyoeiwa.ac.jp/daigakuin/index.htmll

Saturday, October 16, 2010

大学教員の「仕事」

silvalibrorumさんのブログにあった記事「日本の研究者、内向きに…海外派遣10年で半減」。先日のノーベル賞受賞者の対談などでも「学生が内向きに…」という話があったが、森本さんのおっしゃる通りである。

それは別に海外への挑戦云々もさることながら、大学が端的にギチギチな体制を敷くようになった──授業が増え、補講を強制し、会議だらけになった──とい うことと相関しているように思うのだけど、違うのだろうか。こんなに業務だらけで夏休みも浸食されてどうやって海外へ行けというのか。文科省も支援策など というのなら、こういう大学の体制自体について考えてもらってほしいものだと思う。正直、「分身の術」でも身につけないともはや教育と研究は両立しないよ うに思う。あるいは「影武者」か。
私の勤める大学では来年から一学期15週になる(ちなみに、補講は絶対に行なわれる)。四月第二週から始めると、七月最終週に授業が終わり、試験が八月第一週に終わる計算だ。採点に一週間程度。そして九月第二週から後期の授業が始まる。

夏休みが一カ月「も」ある、と友人のサラリーマンたちは言うだろう。だが、次の学期の授業準備もある(授業準備というものに相当の時間がかかり、まともな授業準備が学期中にできないことが、あまりにも理解されていない)。そして、大学の雑務は容赦なく一か月の「夏休み」にも食い込んでくる。

そのうえに、今年は前期も後期も8コマ(講義が4つ、ゼミが4つ。語学は一つもない)、来年はさらに増えるであろう授業の内容も充実させて(学期中の微調整)、大学の雑務もできるかぎり引き受けて、学生の履修(勉強)指導からキャリア(就職)指導、果てはメンタルケアまで引き受けて(学生に個別に電話をかけ、悩みを聞く)、さらに研究も発展させて…。

もちろん、ここでカフカの『法の門前』よろしく、こう付け加えておかねばならない。「それでも、わしなどはまだほんの下っ端で、中に入るとそれぞれの地位・役割に応じて、すごいことが待っている。このわしにしても、一つ上の世代の仕事量を見ただけで、すくみあがってしまうほどだ」。

文科省は、ひいては国民は、大学教員にいったい何を求めているのだろうか。

三年前、私は「膨大な量の事務作業は、大学教員の仕事なのか?サッカーにおける「ホペイロ」の役割を、日本で大学を論じる人々はもっと知るべきだ。」と書いた。そして、そこで、レディングズの次のような言葉を引いた。

「短絡的な考えがもたらす害の例の一つは、多くの教授たちは週六時間しか働かないという現在の認識である。

野球選手が、打者としてバッターボックスに立つ時間によって報酬が決まるとは誰も考えない。

他の選手が走るのに、キャッチャーはしゃがんでいるからといって、報酬が他の人より少なくて当然とは誰も思わない。

スポーツの世界からもう一つ例をとれば、例えば、冬季オリンピックのフィギュア・スケートの相対的人気は、速さを競う他の種目とは違った意味をもっている」(レディングズ、『廃墟のなかの大学』)

サッカー選手が自分の道具の最低限の手入れをするのは当たり前のことだし、ファンサービスをするのも当然だろう。だが、ファンは、サッカー選手が、自分でボールやユニフォームの発注作業をやり、事務書類を書き、靴の修繕をやることを望むのだろうか?単純に、試合で勝つことに専念し、ベストを尽くしてほしいと望むのではないだろうか。

大学教員の「仕事」とは何だろうか。何であるべきだろうか。それは、デリダの言うような、高貴な「profession」や「profession de foi」だけでは片付かない、日々のtravail、さらにはboulotの問題なのだ。

Friday, October 15, 2010

デリダの教育論

一連のラジオ番組が復活してますね。特に教育論・制度論は私の現在の関心を惹きます。
、mal aimé, mais aiméのあたりとか、日本語で読んだ気もするけれど。

Sunday, October 10, 2010

近況

もちろんこのブログにはまったく現れてこないが、
目に見えないところで自分なりの努力を続けているつもりである。

今日は土曜日、先週の韓国遠征の分、4コマ連続補講…。

土曜日という特別な感じを出すよう工夫しつつ、
しかし授業として妥協しない。

授業のための読書も可能な限り続けている。

ロック、ルソーにおける社会契約論のために、
Jean Terrel, Les théories du pacte social. Droit naturel, souveraineté et contrat de Bodin à Rousseau, éd. Seuil, coll. "Points Essais", février 2001.

デカルトにおける神の存在論証のために、
Emanuela Scribano, L'Existence de Dieu : Histoire de la preuve ontologique de Descartes à Kant, éd. Seuil, coll. "Points Essais", septembre 2002.

卒論指導のために、
東浩紀『動物化するポストモダン――オタクから見た日本社会』、講談社現代新書、2001年。
宇野重規『〈私〉時代のデモクラシー』、岩波新書、2010年。

可能な限りレベルを保ちつつ、学生のレベルにも合わせる。
ぎりぎりの努力を続けているつもりだ。哲学の魅力に目覚めてくれたらしい学生も何人かはいる。

研究のほうもいろいろやっているが、労多くして、報われること少なし。まあ、みんなそう思ってやっているんだろうけど…。
ライシテ・シンポのための読書…はネタばらしになるからやめとこ。

Tuesday, September 14, 2010

持続とは遅れである…

・ずいぶん遅れて出した英語論文は、途中から予算がついて仏語でいいことになり(翻訳してもらえる)、
そのため、前半は拙い英語で、後半は書き飛ばした仏語という代物。これからその直し作業。でもいつやるんだ…。

・その他、いろいろ遅れています。すみません…。

開始

今日(月曜)から後期が始まった。9月の13日から、である。「ええっ、もう?」と驚かれる方も、「そうだよね」という方もいらっしゃるでしょう。いずれにしても、また長丁場が始まる。息を整えて、ペースを乱さずに、走りきらないといけない。

Friday, September 10, 2010

サンデル教授の哲学講義は特別でもなんでもない

というタイトルの『ニューズウィーク』関連のコラムを見つけた。たしかに良質な教師、良質な学生であるとしても、あの手の授業、メソッドは、アメリカではありふれたもので、日本も一刻も早く取り入れるべきだ、と。

《ですが、改めて思うのは「世界観」を持ってしまった人間は、価値を共有できていない人間にもおなじ「世界観」を押し付けようとする、すると主張イ コール相手の人格否定になってしまう、その辺の問題が日本語の場合ですと対話にどうしても上下関係のニュアンスが持ち込まれてしまうために、スッと抜けて いけないという悩みがあります。結果的に、ディベートの勝敗イコール人格の優劣のような形になってしまうのです。例えば、キレイな負け方とか、相手を追い 詰めない勝ち方といったコミュニケーション上の様式が、日本語のディベートには余りないのです。学生運動の世代なども「ナンセンス」といった罵声を浴びせ て「自己否定」を強要するなどかなり粗っぽかったわけです。今でも議会のヤジとかにそうした野蛮さは残っていますし、今どきのネットでの炎上なども同じこ とだと思います。

そのあたりに、新しい「共存のコミュニケーション」を模索しつつ、まずはディベートによって価値判断を伴う、動的・相互的な頭の使い方の基礎訓練を行う場を公教育に導入してゆくこと、これは待ったなしであると言えるでしょう。》

まあ、それはそうなんだろうなあ。ただ、哲学の学会ですら、上記の意味でのきちんとした「議論」をするのがいかに難しいかを考えると…。

Thursday, September 09, 2010

『差異と反復』をエピステモロジーとして読む


行きたいなあ。私が書こうとしている論文(「哲学と科学――ドゥルーズか、ベルクソンかIV」)ともろに関係する主題なだけに…。

Tuesday, September 07, 2010

失敗

エピステモロジーの発表は正直に言ってあまり良くなかった。いろいろ言い訳しようと思えばできるかもしれないが、それは言い訳にすぎない。

研究は打率だと思っているので、切り替えて、また次に向かっていくしかない。

Saturday, September 04, 2010

雑務の一日

今日もほぼ一日、大学の業務。くたくた。それでも少しずつ読む。次はエピステモロジーの発表に向けて。

Valentine Moulard-Leonard, Bergson-Deleuze Encounters. Transcendental Experience and the Thought of the Virtual, Albany: State University of New York Press, SUNY Series in Contemporary French Thought, 2008.

Keith Ansell Pearson, Philosophy and the adventure of the virtual. Bergson and the time of life, Routledge, 2002.

Thursday, September 02, 2010

デカルトとパスカルの間で

哲学と社会学の覇権争いと書いたが、もちろん私の主観ではない――さらに断っておくが、この争いのどちらか一方に与する形で書こうというのでもない。私は両者の良いところを取りたいと考える。当事者の一人、ブルデューの『パスカル的省察』を引いておこう。

《同時代の社会科学に対する戦いでハイデガーが展開したこうした戦略、とりわけ社会科学の成果を社会科学と戦う武器にするという戦略は、1960年代のフランス哲学の「前衛」によって再び採用された。あるいは再び作り出された。

フランスの社会科学は、哲学の覇権主義的野心に対して自律性と固有性を確立するために、ときには哲学の地盤で、哲学と対決する必要があったために、デュルケム以来、哲学の伝統の中に深く根を下ろしていたが、60年代には、大学界において、また、知識界においてさえ、支配的な位置を占めるに至っていた。レヴィ=ストロース、デュメジル、ブローデル、あるいはラカンも含めて、「構造主義」というジャーナリスティックなレッテルで大雑把にくくられた人々の仕事がそのことを証している。

当時のすべての哲学者は併合主義的な敵対関係の中で社会科学との関連で自己定義を行なわなければならない状況に置かれた。彼らは意識的あるいは無意識的に二面作戦を取り、ときには二股をかける者もいた(「アルケオロジー」「グラマトロジー」などのような「―ロジー」効果や、その他の科学めかした手管に頼って)。こうして彼らは、それでハイデガーの弟子になったわけでもなく、その必要もなかったのだが、社会科学に対してハイデガーが使ったのとよく似た乗り越え戦略を見つけたのである。》(邦訳50-51頁)

もちろん、このようなブルデューのポストモダン批判をルノーやフェリー――「80年代の小論争家たち」――の粗雑なそれと混同してはならない。

《社会科学に対して距離を保とう、明確に画そうとする姿勢(これは社会科学が彼らのヘゲモニーを脅かしつつあっただけに、また、彼らが目立たない形で社会科学の成果を取りこんでいただけにより強く表明されたのだが)はおそらく、70年代の哲学者が進めつつあった、素朴でお人好しな人格主義ヒューマニズムとの断絶が、(デュルケム派)社会科学がすでに世紀初頭から提唱していた「主体なき哲学」に彼らを送り返したにすぎないことを、彼らと彼らの読者に見てとれなくする役割を果たした。

その結果、人間諸科学の客観主義的哲学の「全体主義的」派遣に対して30年代から戦後初期にかけて立ち上がった「実存主義者たち」(サルトルや『歴史哲学序説』の初期アロンのような)に対抗して、60年代に「主体なき哲学」を提唱した彼ら自身に対して、80年代の小論争家たちが「主体の回帰」を説いて流行の振り子を振り戻そうとするに至った、という次第である。》(68-69頁)

こうしてブルデューは、60年代の「主体なき哲学」と、「制度化した余暇(スコレー)」としての「エコール・ノルマル(と準備学級)」との関係について、制度論的な分析を行なうことになるのだが、ここまでは、私はブルデューに賛成である。

しかし、彼が「パスカル的」と呼ぶ次のような姿勢――「象徴権力」への眼差し、根拠づけの野心の拒否――に留まることは出来ないと感じる。

《「モダン派」にせよ「ポストモダン派」にせよ、わが哲学者たちがさまざまな対立を越えて共有しているものがあるとすれば、それはまさに言説の力に対する過度の信頼である。レクトールに典型的な幻想である。レクトールというのは、アカデミックな注釈を政治的な行為と、あるいはテクスト批判を抵抗の行動と取り違える、そしてコトバの次元の革命をモノの次元の革命として生きる輩である。

偉大な英雄的役割への恍惚とした自己同一化の衝動を掻き立てるこの全能という夢に陥らないようにするには、どうすればよいのだろうか。私は何よりまず、思考と思考の力の限界だけでなく、思考を行使する際の諸条件について考えをめぐらすことが大切だと思う。社会的経験は地理的にも社会的にも必然的に部分的かつローカルで、社会世界のいつも同じ小さな区域に局限された経験である。にもかかわらず、多くの思想家にそうした経験の限界を逸脱させてしまう諸条件について考えをめぐらすことが大切である。世界の流れを注意深く観察すれば、思想家はより謙虚になるはずである。》(10-11頁)

デリダとブルデューは、思われているほど遠くはない。超越論的な「可能性の条件」「枠」「パレルゴン」に執り憑かれた思想家たちである。経験の限界――「経験の転回点」(ベルクソン)――を逸脱させてしまう諸条件について考えをめぐらすことが、それらの諸条件そのものを変えることに役立つのか否か。役立つと信じるか否か。言葉の力を信じるか否か。どこまで信じるのか。どれ以上信じれば過度と見なされるのか。

これは実は、デカルトとパスカルの間にも見られる対立ではあるまいか。デリダとブルデューの対立とは、デカルト対パスカルの反復であろうか、それとも『パンセ』のパスカル対『プロヴァンシアル』のパスカルの反復だろうか。そうだとして、どちらがどちらなのだろうか。そのどちらかにつくのではなく、両者の緊張関係の中でものを考えることは可能だろうか。それは単なる2010年代の小論争家の一人の矮小な折衷主義にすぎないだろうか。

Wednesday, September 01, 2010

サイト・スペシフィックな哲学教育

大変なときに励ましてくれる友人たちがいるということは本当にありがたいことだ。
少しずつでも前に進まねば。

さて、ynさんからGREPhの精神を継ぐ、ACIREPhの情報をいただきました。彼らは「高校における哲学教育をどうするか」という問題関心からさまざまな提言を行なっている団体のようで、私のように、地方の小さな私立大学で哲学を教える者にとっては、なかなか興味深いものがあります。

再来月(10月23,24日)に研究会をやるようですが、そのテーマが「理科系(技術系)における哲学教育」です。要旨の一部を翻訳しておきましょう。

《問題は、技術系の生徒たちが哲学を「できる」かどうかというよりは、「なぜ」彼らが哲学せねばならず、「いかなる条件のもとでならば」哲学できるようになるのかを知ることである。

今日、哲学教育の目標は、文科系・理科系を問わず(時間数の違いにかかわらず)あらゆる系で同じ文言が用いられている。「判断の反省的な行使」である。だが、この文言は曖昧であり、生徒たちが何を学ばねばならないのか、一年間哲学を学んだ後でいったい彼らは何が出来るようにならねばならないのかを正確に把握させてはくれない。したがって問いを組み立て直す必要がある。

私たちが提案するのは、大文字の哲学(哲学「というもの」)から出発する代わりに、生徒たちから出発することである。彼らはいったいどういった存在なのか。彼らが教育に要求しているのは何なのか?どれほど、どのような点で、哲学は、他の分野とともに、それら以上でもそれら以下でもなく、生徒たちの職業的かつ個人的な生活のために、彼らを知的に武装させることに寄与しうるのか?2500年の哲学の遺産と同時に現代に生きる哲学の中で、彼らの教育にとって有益(bénéfique)なものとは何か?私たち哲学教師は、いかなる道具(いかなる概念や概念的区別、いかなる知と文化の要素)を彼らに伝えていると言えるのか?私たちの助けによって、彼らはいかなる知的な姿勢を我が物にすることを望みうるのか?彼らが何を理解し、何を出来るように助けてあげられるのか?》

重要であり、かつ非常に危うい問題提起だ。サイト・スペシフィックな哲学教育の必要性。高みからの一般論でなく、具体的な提案の模索。

Tuesday, August 31, 2010

新たなる旅立ち

数日後に福岡を発つという2歳年下の後輩とランチを食べた。
いろいろな事情が折り重なって、研究者の道を断念するのだという。
新たな道でのご成功を心から願っています。

これから研究者を目指すという学生の方々には、
あなたが進もうとしている途はとても険しいものだと
再度念を押しておきたい。

私だって決して他人事でない。気付けば息苦しいことばかり。
数年後、いや一年後どうなっているか。

昨日着いた本のうち、幾つかを「デカルトとパスカル」「哲学と哲学教育」執筆のために、ぱらぱらめくる(もちろんこれまでにもいろいろ読んでましたよ)。
Victor Cousin, Cours de philosophie. Introduction à l'histoire de la philosophie (1828), Fayard, coll. "Corpus des oeuvres de philosophie en langue française", 1991.

Bernard Bourgeois (éd.), La philosophie et la révolution française, Vrin, coll. "Bibliothèque d'histoire de la philosophie", 1993.

Jean-Marc Levent, Les ânes rouges. Généalogie des figures critiques de l'institution philosophique en France, L'Harmattan, coll. "Philosophie en commun", 2003.

最後の本は、19-20世紀に講壇哲学が確立してきた様子と、それを批判する思想家たち(表題の「赤いロバたち」とはアランの言葉である)が誕生してきた様子を同時発生的・構造的なものとして描き出していて興味深い。

さて、そろそろ今まで書き散らしたものを一気にまとめて、原稿に仕上げていかないといけない。

Monday, August 30, 2010

デカルトとパスカル

今日は引き続き大学の仕事で半日つぶれる。その他の時間にいろいろ少しずつ読む。
夜、amazon.frから配達。

Jean-Claude Brisville, L'entretien de M. Descartes avec M. Pascal le jeune, éd. Actes Sud, 1986.

これは1985年に初演された戯曲でつい2年ほど前にCD化もされたので、それも一緒に買ってみた(Le Livre Qui Parle, JC980)。

ごく短い文章なのだが、とある文化辞典に「デカルトとパスカル」という項目を書かないといけない。その一環である。CDも、戯曲自体も、二人のごく基本的な違いを分かりやすく見せてくれており、17世紀の思想家に対する現代人の今なお尽きせぬ関心を示している点で貴重である。

文化辞典なので、思想的な事柄に深入りするつもりはまったくない。二人のフランスにおける文化的受容をごく簡単に描き出せればと思っているのだが、それにしても字数が短い。

『デカルトとフランス』についてはアズーヴィの本があるのだが、あと問題は、「パスカルとフランス」である。こちらはどちらかというと伏流なので、ちょっと厄介。

Saturday, August 28, 2010

哲学教師の肖像(カニヴェ、パントー)

André Canivez, Jules Lagneau professeur de philosophie. Essai sur la condition du professeur de philosophie jusqu'à la fin du XIXe siècle, tome I : Les professeurs de philosophie d'autrefois, Publications de la Faculté des Lettres de l'Université de Strasbourg, 1965.

この本は、フランスの哲学教育論や哲学制度論、哲学教師論をやるときには必ず引かれる古典中の古典である。

それと現代の哲学教師像についての社会学を併せ読む。

Louis Pinto, La vocation et le métier de philosophie. Pour une sociologie de la philosophie dans la France contemporaine, éd. Seuil, coll. "Liber", octobre 2007.

まあ正直な感想を言うと、ここまで来ると、徴候的だと思う。哲学は純粋な観念からなる天上の王国から降ってきたわけではない、哲学者もまた、個人的な利害関心を持ち、ある理論的な場(業界)の中に位置を占めることで理論的生産を行なうのだという、それは別にいい。問題はその後だ。

パントーは、ブルデューの『パスカル的省察』の次のような一文を引いて、「哲学の社会学」の正当性を訴えるのだが…。

《哲学的な場に固有の論理と、その場の中で生み出され遂行される傾向や信仰が社会的に「哲学的」と認められるその論理を分析することほど[…]哲学的な行為はない》

まあ、そのとおりなのだが、ならば、哲学の社会学はやはり哲学に属するのであり、ことさら学問分野としての「社会学」と「哲学」を対立させる必要はない。

これは実は(少なくともフランスにおける)哲学と社会学の覇権争いの伝統を忠実に(不毛に)継いでいるのである。

Saturday, August 21, 2010

近況

まあ、いろいろと大変である。

8月23日まで、重要な雑務。
8月22日、大学論読書会。
8月末日まで、辞書項目執筆。
8月末日、ギリシャ語勉強会。
9月6日まで、エピステモロジ―発表の準備。
9月6日以降、後期授業準備。
9月17日まで、韓国遠征、発表原稿の準備。

Sunday, August 01, 2010

「計測」しえないものを「計測」すること――テストの採点にまつわる感慨

テストの採点の季節である。具体的な採点に関する感慨はさておいて、しかし、採点とは一体何をどのように計るものであるべきなのか?

例えば、答案の記述の中で、ソフィストについて「感情的に言葉を用いていた」という表現が用いられていたとする。この表現は間違っており、「感情に訴えるように言葉を用いていた」という表現が正しいとする。

このような文章表現能力は、ほとんどの場合、講義内で得られたものではない。それまでの蓄積であり、言ってみればどれだけの教育資本がその学生に投下されてきたかということを示している場合が多いのであろう。これで点数をつけることは、究極的には学生のそれまでの勉強歴全体を「採点」することではあっても、当該講義の理解度・習熟度だけを適正に計ることになりはしないのではないか?そんな疑念が頭をよぎらなくもない。

そこで、当該講義内で、このような文章表現の繊細さ、そして概念的区別に意識的に目を向けさせたとする。「感情的に言葉を用いる」のと「感情に訴えるように言葉を用いる」のは二つのかなり異なる事態なのだ、と。すると、今度は、この記述は、知識を問う問題になってしまう。要は聞いていたかどうか、知識としてこの区別を習得したかどうかになってしまう。すると、自分で考えて答案を練り上げてくるという、哲学の試験にとって本質的な作業に結びつかなくなってしまわないか。

つまり、講義内で試験対策をしなければ、講義以前の学生の「実力(テスト力)」が計られることになり、試験対策をすれば、講義の目的(自分で考えを練り上げてくること)が破壊されるような気がするのである。

ある講義の中で学生がどれだけ学び、どれだけ努力したかを正当に計るには、私たちはいったい何を測るべきなのか?「計測」しえないものを「計測」するにはどうすればいいのだろうか?

Tuesday, July 20, 2010

リストの思想

偶然聞いたのだが、現在、リール第三大学教授(美学・芸術哲学)である――知らなかった。ということは、カトリーヌ・キンズレールの後任ということになろうか――ベルナール・セーヴが、《さまざまなリスト:哲学・合理性・倫理》というタイトルで、「リストの哲学」について、ホスト(ホステス?)のモニック・カント=スペルベールと語っていた。リストと言っても、音楽家のリストではなく、一覧表の意味のリストである。

Bernard Sève, De haut en bas: philosophie des listes, éd. Seuil, coll. "Ordre philosophique", janvier 2010.

リスト以上に単純なものがあるだろうか?にもかかわらず、なんというパラドックスだろう。リストは散文的なものだが、詩人はリストを歌わせる術を知っていると見える(フロベールの『ブヴァールとペキュシェ』、サルトルの『嘔吐』)。リストは閉じたものであるかと思えば、開かれており、静的であるかと思えば動的であり、有限であると同時に無限であり、秩序立っていると同時に無秩序であり、それらすべてであると同時に、一瞬たりともリストであることをやめないのだ。ドン・ジュアンの収穫リストと、科学的ないし法的な用語リストとの間に何か共通のものがあるのだろうか?

リストは、何気ない買い物リストから厳かに読み上げられる死者のリストまで、人間の根本的な実践の一つであるにもかかわらず、それ自体が思考の対象とされることはほとんどない。誰かが、あるいは何かがリストの中で、リストの背後で語っているのだろうか?もしそのようなものがあるとして、どのような「リストの思想」がそこで語られていることになるのか?「リストで」行動し、思考するとは何を意味するのか?リストは美学的な価値を持つのか?それは何かを証しているのか?

『上から下まで――リストの哲学』は、リストという日常的なものを真剣に受け取る。作家や詩人、哲学者だけでなく、芸術や社会的な活動の中にも、リストの概念と用法を分析する。誰もが、必ずしもなぜ作るのか分からないままに、リストを作る。リストは、その多様な現れから見て、人間精神の機能の様々なる徴候として読まれうるのではないか。

Tuesday, June 29, 2010

7/3人文社会科学系若手研究者セミナー@日仏会館(恵比寿)

日時 2010年7月3日(土)13時30分

場所 日仏会館501会議室
参加費 無料

講師 伊達聖伸 (東北福祉大学)、藤田尚志(九州産業大学)、伊藤綾 (早稲田大学)

今回の若手研究者セミナーは、マルセル・ゴーシェの『民主主義と宗教』(トランス ビュー、2010年)を共訳されたライシテ研究者の伊達聖伸さんとベルグソン研究者の藤田尚志さん、フランソワ・アルトークの『「歴史」の体制:現在主義 と時間経験』(藤原書店、2009年)を訳されたボードレール研究者の伊藤綾さんに報告していただき、宗教学・政治思想・哲学・歴史・文学を横断する自由 な相互啓発の会にしたいと思います。ふるってご参加ください。それぞれの論者は発表が45分、討論15分を予定しています。

13:30 開会 三浦信孝・廣田功
13:45 伊達聖伸 (東北福祉大学)「ライシテ研究の現在:ジャン・ボベロ、マルセル・ゴーシェ、ルネ・レモンの著作の翻訳を通して」
14:45 休憩
15:00 藤田尚志(九州産業大学)「ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』を今どう読み直すか」
16:00 休憩

16:15 伊藤綾 (早稲田大学)「多文化世界における「いき」の用法:九鬼周造『いきの構造』再読」

詳細・アクセスはこちら

Tuesday, May 25, 2010

5/29『哲学への権利』をめぐる仏文学会ワークショップ@早稲田大学

西山雄二さんと水林章先生――ルソーの結婚論では『幸福への意志』(みすず書房、1994年)を勉強させていただきました――とご一緒させていただきます。私自身は大したことは言えないと思いますが、あとのお二人のお話を楽しみにお越しいただければ幸いです。

映画『哲学への権利』15.45-17.15
討論17.15-18.15

大会のプログラムに掲載された告知文

映画『哲学への権利――国際哲学コレージュの軌跡』は、1983年にジャック・デリダやフランソワ・シャトレらがパリに創設した半官半民の研究教育機関「国際哲学コレージュ」をめぐる初のドキュメンタリー映画である。映画は、歴代議長ミシェル・ドゥギー、フランソワ・ヌーデルマン、ブリュノ・クレマン、現副議長ボヤン・マンチェフ、新旧のプログラム・ディレクターであるカトリーヌ・マラブー、フランシスコ・ナイシュタット、ジゼル・ベルクマンへのインタヴューから構成される。この研究教育機関の独創性を例として、本作品では、収益性や効率性が追求される現在のグローバル資本主義下において、哲学や文学、芸術などの人文学的なものの可能性をいかなる現場として構想し実践すればよいのかが問われる。本作で提示されるのは、大学の余白に研究教育制度を創設することの可能性、知の無償性の原理、教員の民主的で平等な関係、カリキュラムやプログラムの理念、学際性と哲学の関係の問い、経済的価値観と人文学の関係、研究教育の場所の問い、デリダの脱構築思想と教育の関係といった多様な論点である。関係者7名へのインタヴューを通じて描き出され、問われるのは、大学、人文学、哲学の現在形と未来形である。上映後の討論は、上述した主題から出発して、フランスの共和制理念と教育の関係、人文学的教養の新たな形、哲学と制度の問いなどの討議に当てられる。哲学者デリダがパリに創設した国際哲学コレージュを主題とした映画上映ではあるが、しかし、本ワークショップの趣旨はあくまでも、現在の日本において大学や人文学の現状を診断し、討議を通じてその展望を切り開くことである。

Sunday, May 16, 2010

二丁拳銃

学内で講演を二つ。4月28日(水)に「異文化体験」ということで、北フランスでの生活体験を話し、大ヒット映画『ようこそ北国へ』を見せた(人口6000万のフランスで観客動員2000万以上というのだから、凄さが分かってもらえるだろう)。

昨日、5月15日(土)、今度は「留学体験」ということで、留学にまつわる話に中心を移して話した。同じ話にしようかとも思ったし、DVDを使うかどうかも最後まで迷った。というのも、半年留学してきた(しに行く)学生に話すのだが、同じ留学体験といっても、博士論文を執筆しに行くとのはもちろん相当異なるので、「重い」というか説教臭くなりすぎてはいけない、ということを懸念していたのである。

しかし、たとえ半年でも留学は留学であり、私がやってきたことをなるべくそのまま伝えることで、何か伝わることもあるだろう、と最終的に考え、留学中の勉強方法などを紹介した。当時メモ魔だった(小さな辞書とメモを二丁拳銃のように必ず携帯していた)ことを紹介し、実物を見せたりした。

「ショボそうなこの人はこの人なりに闘ってきたんだなあ」と何か感じてもらえればと。

Wednesday, May 05, 2010

オフの過ごし方

昨日は独仏勉強会。ドイツが専門のgさんとフランス系の私が、お互いに「今読みたい独仏語の哲学テクスト」を訳してきて、相手に正してもらうというもの。y君の勉強会も組み合わせて、全部で5時間の長丁場。切磋琢磨とはまさにこのこと。

事情なんて誰にでもある。大切なのは、いかに勉強の場を確保し続けられるか。
言い訳はいい。目指す場所がある。



とうとう阪神・金本選手の連続試合フルイニング出場がストップした。
チームのことを考えれば、もっと早くにストップさせるべきだったと思うが、
個人の成績としては本当に凄いことだ。

■マイナスのイメージを消して試合に臨む

豊富な練習量が金本の連続試合フルイニング出場を支えている
豊富な練習量が金本の連続試合フルイニング出場を支えている【写真は共同】

――連続試合フルイニング出場を続けられるのはなぜでしょうか

 見ていて思うのは、イチローも同じなんですけどルーティン(毎日繰り返す練習)を大事にしていますね。金本の場合は試合前にストレッチをしないんですよ。野球選手は体に不安があると試合前にトレーナーにマッサージをしてもらったり、ストレッチを入念にしたりするんですが、金本はどこかに不安がある状態で練習と試合に臨みたくないから、準備運動はしますけど、特別なことはしないんです。
 また、ベテランは試合前の練習を軽めにすることが多いんですが、そこでも金本はしっかり練習します。「不安があるから練習しない」ということがイヤなんです。とにかくマイナスのイメージを消して試合に臨む姿が印象的ですね。

 野球選手としては本当に独特だと思います。自分が決めて信じたことを、とことん頑張れる選手なんです。トレーニングでいい方法があると聞けば積極的に試しますし、ほかの人の意見も聞きますが、自分に合わないと思えばすぐにやめます。
 シーズンオフもほとんどの野球選手はリラックスして、心と体を休めるんですが、金本はトレーニング中心に日程を組みますからね。ゴルフもしませんし、自宅にいながらダラダラすることがないんですよ。休むと決めたら海外や温泉に行って、しっかり療養することに集中するんですけど、オフをなんとなく過ごして、誘われたからお酒を飲んで……という生活はしていないですね。

■努力を続ける精神力と、厳しい練習に耐えられる体力があった

――東北福祉大時代からの付き合いになりますが、当時の印象は

 大学に入ってきたときは線が細い選手でしたね。スピードやリストの強さは感じましたけど、特別なセンスがある選手ではありませんでした。
 僕は金本の2年先輩で同部屋だったんですけど、金本は当時からホームランにこだわりがあったので、そこに向けて一生懸命練習をしたり、ウェートトレーニ ングをしていましたね。下級生はいろいろ雑用もあるんですが、毎晩部屋でも筋トレをして、時間があると屋上で素振りをしていました。目標に向かって努力を続ける精神力と、厳しい練習に耐えられる体力がありましたね。

続きはこちら

Tuesday, April 27, 2010

ささやかな日々

いろいろ声を掛けていただいて、本当にありがたいと思っております。

四月に入り、授業準備をはじめ、大学関連のことに忙殺されています。



例えば、今日は結婚論に関する一般教養的な(哲学に特化しない)講義が1コマ。
先週が『アベラールとエロイーズ』で、今週は『トリスタンとイズー』。
今年度新しく始めたものなので、毎週準備が大変。

終わるとすぐにギリシア語の個人授業を学生y君と一緒に受けている。
それも三時間みっちり…。

明日は2コマゼミがありますが、その前に、特別講義としてある授業で、
自分の留学体験と国の紹介などを話すことになっているので、今はその準備。
"Bienvenue chez les Ch'tis"という
フランスの大ヒット映画を使おうと思っているのですが、場面を選ぶのに時間がかかる。
あと、留学時代の写真。適当に話せばすぐ時間は過ぎますが、
なるべく実のある話をしたいと思うと、なかなか難しい…。

五月半ばにも一つ話さねばならない。いわゆる「研究」以外のことを、それなりにうまくこなしていくこと。挑戦(ごくささやかな挑戦だけど)は続く。

Wednesday, April 21, 2010

【改訂最新版】ジャン・ボベロ教授講演会のお知らせ

三浦信孝先生よりお知らせが参りましたので、掲載しておきます。


ジャン・ボベロ教授講演会のお知らせ
中央大学が外国人研究員として招聘するパリ高等研究院EPHE名
誉学長Jean Baubérot教授の講義・講演会を以下のように開催します。それぞれの大学でお迎えいただく先生方に深く感謝いたします。
ボベロ教授の著作リストは膨大ですが(略歴添付参照)、邦訳で簡単に入手できるものに『フランスにおけるライシテの歴史』(三浦信孝・伊達聖伸訳、白水社文庫クセジュ、2009 )があります。
laïcitéは非宗教性・脱宗教性・世俗性・政教分離などと訳されてきましたが、いまやライシテが訳語として市民権を得つつあります。ライシテは憲法原理にもなっており、フランス共和国の成立とアクチュアリテを理解する鍵です。ボベロ教授はライシテを「フランス的例外」とせず、政教関係の国際比較(日本を含む)をなさっています。
時間の許す限り多数お出かけください。

5月19日(水)11時「西洋におけるキリスト教社会の成立(1世紀~15世紀)」中央大学八王子キャンパス3号館3454(三浦)
5月20日(木)11時「西洋におけるキリスト教社会の世俗化(
15世紀~21世紀)」中央大学八王子キャンパス3号館3455(三浦)
5月21日(金)13時「ケベックにおけるaccommodements raisonnables : ブシャール=テイラー報告をめぐって」

           明治大学和泉校舎第1校舎4階414教室(小畑精和教授)
5月24日(月)17時「死――宗教と医学のあいだ」

           東京大学本郷キャンパス法文1号館219番教室(島薗進教授)
5月27日(木)18時「第5共和政におけるライシテの変容(1958-2010)」
           日仏会館ホール(主催 フランス事務所Marc Humbert代表、協力 東北大学・辻村みよ子教授)
5月28日(金)14時「ナショナル・アイデンティティとライシテ」
           早稲田大学小野記念講堂、早稲田キャンパス27号館地下2階(フランス語教育学会講演・三浦)

中央大人文科学研究所「総合的フランス学の構築」チーム主査・三浦信孝

Sunday, April 11, 2010

ベルクソン技術論

少し前にカテリーナ・ザンフィのイタリア語のベルクソン技術論を紹介しましたが、
彼女がラファエル・エントーフェンと一緒にベルクソン、シモンドンについて語っています。
数日間、観ることができますので、よろしければどうぞ。

Saturday, April 10, 2010

チャレンジ

4月9日、現代フランス政治哲学読書会@本郷。東京にいた頃は毎回出席していたが、福岡に来てから初の参加(たぶん)。

宇野重規先生による、ピエール・マナン『政治哲学入門講義』(Pierre Manent, Cours familier de philosophie politique)紹介。はっきり言って、日本でこの手の話を聴けるほぼ唯一の場ではないかと思う。宇野重規先生が五月から研究留学でイギリスへ一年行かれるとのことで、読書会後は、歓送会。

ちなみに来年、このグループの何人かで、白水社から政治と宗教をめぐる論文集を出す予定。「19世紀フランス思想史における社会統合」をテーマにして宗教を扱うことが決まっている。

私はまったくの門前の小僧なのだが、終章で「宗教的なものの行方」と題して執筆するらしい。「できればそれまでの諸論文の内容を受けるかたちで19世紀宗教思想を簡単に(?)概観したうえで20世紀あるいは今後の「宗教的なもの」について論じていただくというかなり大胆なもの」を希望されている。うーむ、まあ自分に対するチャレンジですね…。

Thursday, April 08, 2010

先生稼業

今日本格的に大学の授業が始動。これからまた、長い一年が始まる。

今年の大きなテーマは「適度に抜く」。手を抜く、ということではもちろんない。

うまい寿司は固く握ってはダメで、適度に空気を含んでいなければならないという。フランス語で言うaéré(空気の流通のよい、構造が密でない、透いた、余白のある、空気のように軽い)、である。

いい授業とは、適度にaéréな授業なのだと思う。去年は、パスカルではないが、真空(空虚)を恐れて、90分間以上喋れる準備をして、授業に臨んでいた。

今年は、学生に考えさせるということ、学生が授業を完成する最後の一手を放つのだという気持ちで、学生に委ねる瞬間を少しでも多く持っていけたらと思っている。誤解のないように繰り返すが、これは手を抜くということとは似て非なる作業である。去年よりもう少し多く学生と面と向かう、ということでもある。

本当に学生と面と向かう、自分の言葉で、自分の考えで相対する、その難しさを理解し、それを恐れないこと。どんな学生の、どんな球種にも対応すること。先生稼業は、傍から見ているほど甘くはない。

Friday, April 02, 2010

その後

エラスムスの4コマも無事終了。

この三カ月で五本執筆は悪くない。かなり疲れたし、使い回しもあるけど…。
(1)1月:デジャヴ論文(日)
(2)2月:紀要記憶論文(日
(3)3月:シモンドン論文(仏)
(4・5)3月:福岡シンポ論文(日・仏)

その後、
4月エラスムス授業準備(終了)→シンポ07論文(仏)添削→新学期授業準備
5月仏文学会WS
6・7月金森科学論論文
8月デリダ翻訳+とある辞典項目(「哲学と哲学教育」「デカルトとパスカル」「リール」)
9月秋の国際シンポ準備
と続く…。

Sunday, March 28, 2010

The show must go on...

的確にステップを踏んでいく。一つ踏み間違えることも許されない状況。わくわくもしないし、びくびくもしない。不思議と穏やかな心境だ。

18日(木):27日シンポ・自分の日本語原稿ひとまず完成。
19日(金):『哲学の権利』上映会+ドゥギー&丸川先生講演会+懇親会。何よりの収穫は西山さん&ドゥギー&丸川先生と(再び)会えたこと、そして福岡の学生たち、東京や大阪から来てくれた人々がいたこと。西山さんや私たちを通じて、若い人たちが繋がっていってくれるのが嬉しい。
20日(土):27日シンポ・モンテベロ原稿の邦訳ひとまず完成。
21日(日):27日シンポ・自分のフランス語原稿半分完成。
22~23日(月):24日シンポ・フランス語原稿(+言い訳のような日本語要旨)ひとまず完成+エラスムスの授業準備。

24日(水)福岡は雨。朝、飛行機に乗り、昼、法政大学到着。東京も雨。エラスムスの一コマ目、お題は「現代的生気論とは何か」。夕方からシモンドン・シンポ@明治大学、よく知り合った仲なので、結構盛り上がる。シンポ後の懇親会も結構盛り上がる。エラスムスの学生を連れて二次会まで。

25日(木)東京は曇り時々雨。メールを片付けて、朝11時から昼1時までエラスムス2コマ目(ヨーロッパ人にフランス語でフランス哲学の授業)。2時の飛行機で福岡へ。4時過ぎに到着、その足で大学へ。事務作業。どしゃ降り。夜、27日シンポ・自分のフランス語原稿を完成。

26日(金)一転からりと晴れわたる。午前中、大学で会議と説明会。午後、フランス人三人を空港へ迎えに行く。心をこめたもてなしはするが、ステレオタイプなものはしない。ここらへんも実はセンスの見せどころ。

27日(土)すっきりと晴れ渡った一日。国際シンポ@九州日仏学館。朝10時から午後6時までの長丁場だったが、常時20~30人くらい(!福岡ですよ、ここは!)の聴衆の方々がいてくださって、非常に心強かった。先週の『哲学への権利』からのリピーターが何人もいてくださったこと、九大の院生たちやはるばる東京から来てくれたという学生、名古屋の方など、私の従来の知己でない方々が駆け付けてくださったことは、何にもまして嬉しい。ポスターはキャッチーだったが、中身は直球勝負。発表はどれも平均以上のクオリティ。議論も白熱した。アンケートでも「大変難しい」が「大変満足」が大半を占めた。私たちの情熱が伝わったということだろうか。懇親会・二次会は若い世代が新たな「出会い」――人と人の出会いだけでなく、哲学する新たな方法との出会いや、今まで見えていなかった自分の限界との出会い――を見つけてくれるためのもの。

28日(日)今日もまた快晴。疲れてはいるが、シンポ後のゲストの観光はお約束。ということで、フランス人三人を連れて、一日ぶらぶら大宰府と九博に行って、天満宮裏の山に登ったり、出店やフリーマーケットをひやかしたり。じわりじわりと疲れが押し寄せて来て、何度もこっくり。フランス人たちもおだやかな(疲れた)感じで、これはこれでよかった。

…まだ実はこれですべて終わりではない。

29日(月)シンポの後処理作業+学生指導。
30日(火)エラスムスの授業準備。
31日(水)~4月1日(木)朝、大学で会合、その後、東京へ。エラスムス3コマ目+4コマ目。終わったら、とんぼ返りで夕方から学部の集い。

Sunday, March 21, 2010

3/24国際シンポ「不均衡システムと個体化―ジルベール・シモンドン(1924-1989)の哲学をめぐって」

明治大学文学部フランス文学専攻主催、明治大学国際連携部;ユーロ・フィロゾフィー後援

不均衡システムと個体化―ジルベール・シモンドン(1924-1989)の哲学をめぐって

日時:2010年3月24日(水)15:00-21:10
場所:明治大学駿河台キャンパスリバティタワー19階119J室

第一部 15:00-16:30

15:00-16:00 合田正人(明治大学):ジルベール・シモンドン入門(日本語)

16:00-16:30 質疑応答

第二部 17:30-21:10(司会 藤田尚志、フランス語、通訳あり)

17:30-18:10 米虫正巳(関西学院大学):自然とその不均衡システム――シモンドン、ドゥルーズと共に自然を考える

18:15-18:55 藤田尚志(九州産業大学):ベルクソンとシモンドンにおける想像力と発明

19:00-19:40 ポール=アントワーヌ・ミケル(ニース大学):個体的なものから生命的なものへ

19:45-20:25 ピエール・モンテベロ(トゥルーズ大学):シモンドンと自然哲学

20:30-21:10 質疑応答ならびに全体討議

参加自由、無料(連絡先 合田正人 mg1957[atmark]kisc.meiji.ac.jp)

Saturday, March 20, 2010

Colloque international "Le système métastable et l'individuation - Autour de la philosophie de Gilbert Simondon"

Colloque international "Le système métastable et l'individuation - Autour de la philosophie de Gilbert Simondon"

Le 24 mars 2007 à la Salle de Conférence(119J), 18e étage de Liberty Tour de l’Université Meiji(Surugadai, Kanda, Yokyo)

Programme
Session1
15:00-16:00 Masato GODA (Université Meiji)
Introduction à la philosophie de Gilbert Simondon
16:00-16:30 Discussion

Pose-café(16:30-17:30)

Session 2 (présidence: Hisashi Fujita)
17:30-18:10 Masami Komemushi (Université Kansei-Gakuin)
La nature et son système métastable. Penser la nature acvec Simondon et Deleuze

18:15-18:55 Hisashi Fujita (Université Kyusyu Sangyo)
Imagination et invention chez Bergson et Simondon

19:00-19:40 Paul-Antoine Miquel(Université Nice)
De l'individuel au vital

19:45-20:25 Pierre Montebello (Université Toulouse)
Simondon et la philosophie de la nature

20:30-21:10 Discussion et Discussion générale

Wednesday, March 17, 2010

リマインド

各種イベントが近付いてまいりましたので、再告知です。

3月19日(金) ドゥギー講演会&『哲学の権利』上映会@福岡・九州日仏学館
http://www.ifj-kyushu.org/jp/event/2010/ev_jp100319164048.html

3月中旬~4月中旬 エラスムス・ムンドゥス
http://hitec.i.hosei.ac.jp/~ERASMUS/about/

関連のシンポジウムが幾つも開かれるのですが(全詳細は上記URLで)、自分の関わっているものとして、

3月24日(水) 国際シンポジウム「不均衡システムと個体化――ジルベール・シモンドン(1924-1989)の哲学をめぐって」@東京・明治大学
http://hitec.i.hosei.ac.jp/~ERASMUS/2010/03/15135000.php

3月27日(金)国際シンポジウム「思考と運動――アリストテレス、ベルクソン、メルロ=ポンティ、ドゥルーズ」@福岡・九州日仏学館
http://www.ifj-kyushu.org/jp/event/2010/ev_jp100327150000.html

Sunday, March 14, 2010

最近の読書

ゴーシェ書評会、学生との勉強会のためにいろいろ読んだ。

その他に、
ベルクソン研究:
Florence Caeymaex, Sartre, Merleau-Ponty, Bergson. Les phénoménologies existentialistes et leur héritage bergsonien, Olms, coll. "Europaea Memoria", 2005.
Gilbert Simondon, Imagination et Invention.
アガンベン「記憶の及ばない像」、『思考の潜勢力――論文と講演』、月曜社、2009年12月、406―418頁。

結婚論:

ゲーテ『親和力』、ワーグナー『タンホイザー』、モーツァルト『フィガロの結婚』

大学論:
自戒を込めて言うのだが、「大学」というものの在り方について、これまでなされてきた研究の蓄積を踏まえることなく、独断的な主観や幼稚な印象批評で議論はできない。私は私なりに、自分の知識・考えの欠落を補う努力をささやかながらしているつもりだし、これからも続けていこうと思っている。

猪木武徳『大学の反省』、NTT出版、2009年。特に、4章「産業社会における人文学」と5章「産業と学問」。

竹内洋『大学という病』(初版2001年)、中公文庫、2007年。


どちらもとても読みやすい。例えば、後者は、戦前の東大経済学部の「慢性派閥病」を「大学版・忠臣蔵」に見立てた社会学的ノンフィクションだが、「昔の大学に私語がなかったわけ」など、なるほどと思わされる説明も多い。

一つ違いを挙げるとすれば、後者が最終的には個人レベルでの自省を促すという視点に収束するのに対し、前者には労働経済学者ならではの政策提言的な指摘が目につくところだろうか。ただし、後者は、言ってみれば「直球勝負の教養必要論、これで打たれたら仕方ない」的なさわやか高校球児的提言。1)教養の必要性、2)私学への公費投入の必要性、3)先生という職業の再確立、とどれも「ご説ごもっとも」だが、果たしてどれくらいの政府関係者・財界人、そして何より世論が実現に向けて動いてくれるだろうか。

金子元久『大学の教育力』、ちくま新書。
天野郁夫『大学の誕生』(上)(下)、中公新書。
前者は無難にまとまっている(アメリカの大学を見倣いましょう的提言)。ただ、誤字・脱字・誤植散見される。
後者は明治初期から大正8年までの大学誕生の歴史のうねりを繊細かつダイナミックに描き出している。

Wednesday, March 10, 2010

誤解

『名ばかり大学生』に関して私が先日書いた読後感をお読みになった方から、「私が自分の大学を貶めている」といった評をいただきました。が、これはとても残念な誤解です。おそらく長いので、前半の「校内暴力」と「援助交際」の部分だけをお読みになり、その後の部分を誤って推測された(あるいは読み飛ばされた)のではないかと推測します。もしかすると、長さゆえのこういった誤解をされた方は他にもあるかもしれませんので、一言お答えしておきます。

後半の冒頭で、私は本書の私立大学観を批判し、こう述べています。
本書の欠点(であるように私に思われるもの)は、大学観の薄さである。特に、「偏差値下位の私立大学」(55頁)は問答無用で切り捨てられているように見えて仕方ない。
そして、こうも述べています。
「偏差値下位大学」では、《とにかく「箱」の維持のみが優先され、その中身はどうでもよい状態になってしまう》(38頁)というのもずいぶんと一般化が過ぎるように思う。我々の大学のように、我々なりに知恵を絞り、己を絞って努力しているところもずいぶんあるだろうに。私の印象では、「校内暴力」や「援助交際」に巻き込まれた少年少女への優しい眼差しと、大学教員への辛辣な眼差しは表裏一体のものである気がする。だが、評論であり、分析である以上、バランスはとってもらいたい。
したがって、お手数ですが、私の雑文(長いですが)をもう一度、特に後半部分だけでもお読みいただけますか。私の言葉に舌足らずな点があったかもしれません。そうであるならば、お詫びをするほかありません。ですが少なくとも、私が決して自分の大学を貶めようなどということだけはしていないことがお分かりいただければ幸いです。

Sunday, March 07, 2010

再校終了

1月に書いた論文の再校を終え(ここでも結構な修正)、仏人研究者の論文の翻訳に取り掛かる。

八木雄二の『天使はなぜ堕落するのか――中世哲学の興亡』(春秋社、2009年12月)をちらちら眺めている。600頁近い大著だが、すでに平凡社新書で発揮していた、読みやすく書く才能をいかんなく発揮しており、「中世哲学入門」講義の観あり(全16章だし、ちょうどいい)。一学期間かける予定の再来年・後期には種本の一つとして使わせていただくかもしれない。

Saturday, March 06, 2010

リプライ

書評会のリプライをひとまず書き上げた。遅いし、長い。

次は一月に仕上げた論文の再校。

三月の国際シンポのフランス人の原稿の翻訳(時間も体力もないのでやりたくないが、頼むお金がない)。

そして、これまでのシンポ原稿の添削。

最後に、三月末の二つのシンポの自分の原稿4本(日・仏二本づつ)。

とかいって、もう三月も第一週を終えたわけですが…。

Thursday, March 04, 2010

河本敏浩『名ばかり大学生――日本型教育制度の終焉』を読む

河本敏浩『名ばかり大学生――日本型教育制度の終焉』(光文社新書、2009年12月)を読んだ。

光文社新書にはもちろん読みごたえのあるものも存在するが、総じて書き方が汚い。読後感があまり後味のよいものでない。この本もその点は例外ではない。

ただし、著者の肩書きが予備校講師・「全国学力研究会理事長」であり、学研で教材開発をしていることもあるのだろう、本書の良さは、中高生に対する眼差しの柔らかさにある。

著者の出身地である愛知県の教育政策に関する激越な批判を含む分析は、1967年生まれの著者の個人的な体験を背景としており、最も読み応えがあった。

《80年代に中学校生活を送った者は、中学一年生の夏を経て、友人が急激に不良化していく姿は、本人の資質だけでなく、何か別の社会的要因があることを十分にうかがわせた。現在、かつて不良化した友人が、ごく普通の中年と化し、社会人として当たり前に働いている姿を見るにつけ、そこに何か独特な磁力が働いていたのではないかという思いを強くする。》(63-64頁)

著者の図式化は明快である。根本的な仮説はこうだ。「進学に関わる不公平な圧力や、環境の激変が子供を襲うと、子供は荒れる」(81頁)。より正確に言えば、

「日本の戦後教育においては、進学競争、学力競争の唐突な変化に見舞われると、その最も激しいインパクトを受ける世代の子供たちが必ず反社会的な行為に走るのだ。[…]大人の側が「競争」の設定を誤り、いきなり競争が激化すると、日本の子供は必ず暴れ出すのだ」(62頁)。

この図式をもとに著者は、中高生関連の二つの大きな社会現象の説明を試みる。80年代の「校内暴力」と、90年代の「援助交際」である。

(1)校内暴力

1970年代前半まで日本の各所に名門商業高校、名門工業高校が存在していたが、1970年から75年の間に大きな地殻変動が起きて、普通科進学熱が高まり、全国の実業系高校の「権威」が失墜した。これにより多孔的な構造――たとえば、中学を優秀な成績で卒業し、工業高校に進み、よい成績を修め、終身雇用の製造業の企業に入社するというライフコース――が選択肢を狭められ、「試験の成績が優秀だから普通科、そうでなければ工業か商業」という一つの物差しによる評価が確立する。

普通科高校への進学率が高まると、競争が激化し、当の普通科高校の格付けが微細化する。いわゆる「偏差値」は、この序列の細分化を背景に社会に浸透したのであり、競争の激化に対する社会的な防御反応として学校の外側に現われたのが「塾」である。そして、「偏差値」からも「塾」からも取り残されるという経験に初めて遭遇した世代の成績下位層において、「校内暴力」が劇的な形で噴出したのである。

(2)援助交際

1990年代前半まで日本には多くの短大が存在していたが、女性の社会進出が叫ばれ、女子も進学先を四年制大学にシフトした結果、女子の短大進学意欲が急降下し、定員割れが続出した。これにより多孔的な構造――「短大というのは女子にとって格好の緩衝地帯で、勉強ができる/できない、という単純な区分が通用しない不思議な場だった」(86頁)――が選択肢を狭められ、「試験の成績が優秀だから四大、そうでなければ短大」という一つの物差しに よる評価が確立する。

大学進学を目指す女子高生は、突然、偏差値ランキング表の世界、つまり男子と同じ受験競争の世界に放り込まれたのである。まさにルールの変更である。このとき、偏差値戦争の最も強烈なストレスをもろに、そしてはじめて食らったのが、私立女子高に通う高偏差値の子といっても、「伝統名門校」に通う女子ではなく、短大という逃げ場をなくした「リニューアルして商業科を廃止した新興名門校の進学科」であった。

間違えないようにしよう。十代の少女の売春なら昔から存在した。2010年現在行われているのも「単なる売春」にすぎない。「援助交際」と呼べるのは、「まさに第一期(1993~1995年)だけ、限定された時期に属した女子だけの「荒れ」」なのである。

《「援助交際」の特異さは、自分が将来は大学に行き、普通に就職するだろうと考えている高校生がいっせいに自らを「売った」ところにある。単なる売春とは異なる独特の感覚が、この1990年代の女子高生の「荒れ」にはあった。[…]近年の女子高生は、すでに自らが大学偏差値ランキング表に組み込まれる存在だということを幼い頃から自覚している。彼女たちは、上手くいくかどうかは別として、援助交際世代の女子とは異なり、「学歴」に対してある一定の覚悟を有しているのである。

逆に「援助交際」世代の女子高生は、心の準備がなされていない段階で、急激に高まった四年制共学大学への進学圧力に襲われた。[…]「援助交際」は、この短大の威信低下の時期に現われた特異な現象と言えるものだった。》(88-89頁)

「援助交際」は、《「団塊世代の親の規範の緩さ」にでもなく、「近代化の歪み」にでもなく、進学と学力形成の中で生じた、典型的な「子供の荒れ」と考えるべきである》(87-88頁)という宮台真司批判はなかなか説得力があるように思うが、どうだろうか。



他方で、本書の欠点(であるように私に思われるもの)は、大学観の薄さである。特に、「偏差値下位の私立大学」(55頁)は問答無用で切り捨てられているように見えて仕方ない。

《大学の教員には高校批判、中学校批判、小学校批判、家庭批判は許されない。そもそも何人中何番までが合格と定める試験を続けているのは当の大学である。こういった試験の下で定員を維持、あるいは拡充すれば、自らの教え子たる大学生のレベルは下がって当然である。大学の教員がため息まじりに嘆く、目の前の大学生の基礎学力の欠如については、少なくとも自業自得という他ない。》(36頁)

なるほど。では、企業のトップだけでなく、新人研修や人事の担当者だけでもなく、およそ会社員であるかぎり(その会社の在り方に原理的には介入できるはずだから)、新人社員の質の低さを嘆くことは許されない、ということになる。一見弱者(実はマジョリティ)の側に立つこの手の議論は、大向こう受けはするだろうが、他人の「愚痴」を無暗に咎める類のものだ。

また、「偏差値下位大学」では、《とにかく「箱」の維持のみが優先され、その中身はどうでもよい状態になってしまう》(38頁)というのもずいぶんと一般化が過ぎるように思う。我々の大学のように、我々なりに知恵を絞り、己を絞って努力しているところもずいぶんあるだろうに。私の印象では、「校内暴力」や「援助交際」に巻き込まれた少年少女への優しい眼差しと、大学教員への辛辣な眼差しは表裏一体のものである気がする。だが、評論であり、分析である以上、バランスはとってもらいたい。

「子供に対する罵倒や文句は耳目を集めるが、子供を思う地道な活動は、人知れず取り組まれている。私たちが見ようとしていないところに、可能性は宿っているものである」(192頁)。

この河本氏自身の言葉を借りて、こう言い返させてもらおう。

「大学(特に「偏差値下位の私立大学」)に対する罵倒や文句は耳目を集めるが、学生を思う地道な活動は、人知れず取り組まれている。私たちが見ようとしていないところに、可能性は宿っているものである」と。

間違った情報が右から左に流通しても、本が売れればそれでよいというセンセーショナリズムに則った書き方は、自分の批判している当の対象――勉強しないまま入学し卒業していく「名ばかり大学生」の「偏差値下位の私立大学」による縮小再生産――に驚くほどよく似ている。

Wednesday, March 03, 2010

「思考と運動」ポスター

 
©伴野亜希子(ばんのあきこ)

昨日HP上ではどうもうまく表示できていなかったようで(Googleの添付ファイル表示機能との相性の問題らしいですが)、目のないホラーチックな表示になっておりました。すみません。yhさんの寛大なご協力をいただき、ようやくここまでこぎつけました。メカ音痴は悲しい…。

Tuesday, March 02, 2010

3/27国際シンポジウム「思考と運動――アリストテレス、ベルクソン、メルロ=ポンティ、ドゥルーズ」@九州日仏学館

伴野亜希子(ばんのあきこ)氏による、実にポップなポスターをどうぞ

九州でフランス哲学を展開していくにはこれくらいしないと、と私たち三人はポスターに出来栄えに至極満足しています。あとは、もちろん内容が満足いくものであるかどうか。それは当日、ご来場の皆さまにご判断いただくしかありません。ぜひお誘い合わせのうえ、会場まで足をお運びくださいますよう、よろしくお願い申し上げます。

***

国際シンポジウム「思考と運動――アリストテレス、ベルクソン、メルロ=ポンティ、ドゥルーズ」

福岡でフランス哲学を!PFF (Philosophie Française à Fukuoka)
第一回国際シンポジウム
2010年3月27日(土)、九州日仏学館(福岡・赤坂)・5F多目的ホール

プログラム

セッション1――運動と知覚 (司会:藤田尚志)
10:00-10:30 ピエール・ロドリゴ(仏・ブルゴーニュ大学)
 アリストテレスとメルロ=ポンティにおける知覚・身体・肉
10:30-11:00 平井靖史(福岡大学)
 ブラインドサイトをベルクソン的に解釈する――運動の相のもとに見られた知覚、剥離か非決定か
11:00-12:00 討議

休憩(12 :00-14 :00)

セッション2――運動とシステム (司会:平井靖史)
14:00-14:30 ポール=アントワーヌ・ミケル(ニース大学)
 ベルクソン哲学におけるアリストテレス的カテゴリー(現勢態と潜勢態)の顛倒
14:30-15:00 永野拓也(熊本高等専門学校)
 数学的構成の内省的基礎――ブラウアーの直観主義とベルクソン
15:00-15:40 討議

休憩(15 :40-16 :00)

セッション3――運動とイマージュ (司会:永野拓也)
16:00-16:30 ピエール・モンテベロ(トゥールーズ大学)
 ドゥルーズにおける思考・イマージュ・信じること
16:30-17:00 藤田尚志(九州産業大学)
 デジャヴをめぐって:偽なるものの力と記憶の無為――ドゥルーズか、ベルクソンかIII
17:00-18:00 討議および全体討議

懇親会(18 :30-20 :30) ※どなたでもご参加いただけます(要参加費)。

Monday, March 01, 2010

Colloque international : La pensée et le mouvant – Aristote, Bergson, Merleau-Ponty, Deleuze (27 mars 2010)

La pensée et le mouvant – Aristote, Bergson, Merleau-Ponty, Deleuze

Le premier colloque de la PFF (Philosophie Française à Fukuoka)

Le 27 mars 2010 à la Salle de Conférence, 5e étage
de l’Institut Franco-Japonaise du Kyushu (Fukuoka)

Programme

Session 1 : Le mouvement et la perception (présidence : Hisashi Fujita)
10:00-10:30 Pierre Rodrigo (Université Bourgogne)
Perception, corps, chair chez Aristote et Merleau-Ponty
10:30-11:00 Yasushi Hirai (Université Fukuoka)
Interprétation bergsonienne de la vision aveugle :
Perception motrice, dissociation ou indétermination ?
11:00-12:00 Discussion
Pose-déjouner (12 :00-14 :00)

Session 2 : Le mouvement et le système (présidence : Yasushi Hirai)
14:00-14:30 Paul-Antoine Miquel (Université Nice)
L'inversion des catégories aristotéliciennes d'acte et de puissance
dans la pensée de Bergson
14:30-15:00 Takuya Nagano (Kumamoto National College of Technology)
Le fondement réflexif de la construction mathématique :
Bergson et l’intuitionisme de Brouwer
15:00-15:40 Discussion
Pose-café (15 :40-16 :00)

Session 3 : Le mouvement et l’image (présidence : Takuya Nagano)
16:00-16:30 Pierre Montebello (Université Toulouse)
Pensée, image, croyance chez Deleuze
16:30-17:00 Hisashi Fujita (Université Kyushu Sangyo)
Autour du déjà-vu : la puissance du faux et le désœuvrement de la mémoire
Deleuze ou Bergson III
17:00-18:00 Discussion et Discussion générale

Closing party (18 :30-20 :30)

Sunday, February 28, 2010

追突事故

もちろん家族サーヴィスも忘れてません。その合間にも絶えず飛び込んでくる大小様々の仕事を片付けつつ、少しずつリプライ準備。

明日・明後日はなんと、教○課の完全なる落ち度にもかかわらず、なぜか私が一人の学生相手に授業をやるはめに…。自分に何の手落ちもなくても、こういう事態で時間と体力を浪費する。追突事故に巻き込まれたみたいな感じ。それが専任の義務だと言われればそれまでだけれど。

Saturday, February 27, 2010

はじまりはいつも雨

25日(木)、雨のち曇り。書評会の準備。嬉しく悲しい一日を一睡もせずに過ごす。

26日(金)、曇り。名古屋に向かう飛行機で仮眠。名古屋に着き、飛行機から降りるとみぞれ。名鉄の特急→市営地下鉄「八事日赤」(やごとにっせき)駅で下車すると、雨。

書評会@南山宗教文化研究所。粟津先生の切れ味鋭いコメント、丸岡先生の的確なコメント、伊達さんの充実したリプライ。私のコメントは、専門でないゴーシェの宗教論ということを考えると、あんなもん。

懇親会(浜木綿)・二次会(「元山」に出て、D. Hammett)のときは、どしゃ降り。名古屋大学の脇にある南山宗教文化研究所のロッジ(通称「ハイム」というらしい)に泊めていただき、爆睡。

これらのイベント全体を通して、研究所の皆様、宗教学研究者の皆様に大変温かく接していただきました。感謝しております。

27日(土)、目が覚めると、すっかり晴れ。目覚ましがならなかったので、飛行機はぎりぎり。帰りの電車から始めた校正を飛行機の中で続ける。福岡は曇り時々雨。家に帰ると寝てしまう危険性があるので、喫茶店で校正をほぼ完成させ、家に帰って完成。クロネコを探すも、家の近くにクロネコのあるコンビニがない!結局、遠くの郵便局で速達を出す。

書評会の「リプライ」(というほど大したものではないが)も文章化しないといけないらしいので、忘れないうちにさっそく取り掛かり、今に至る。

Wednesday, February 24, 2010

二本目

学生との勉強会が突如休みになったかと思うと、不測の事態で急遽別のイベントのピンチヒッターに立ったり。本当に何が起こるか分からない。

さて、今年二本目の校正がようやく終わり。どうしようもない外部的な理由で、とんでもなく時間のない中で出さざるを得なくなった論文なので、最後のほうに不満が残るが、まあ言いたいことは言えたと思う。

金曜日の書評会に向けて、力不足は承知の上で、準備を続ける。書評会が終わったら、土曜日、帰りの飛行機で、今年一本目の論文の校正にとりかかるつもり。

走り続けるだけ。駆け抜けるだけ。

Saturday, February 20, 2010

ハイデガーの講義(2)

ハイデガーの『古代哲学の根本諸概念』の訳者で学習院大学教授・佐近司祥子さんは、後書きにこう書いておられる。

《ところで、この入門講義の受講生は何人で、単位取得に成功したものは何人だったのだろう。[…]ハイデガーがギリシア語に堪能だったことは当然だとしても、問題は受講生である。受講生の側にもかなりのギリシア語の素養が必要だったはずである。1926年ごろの、ドイツの大学生はラテン語ばかりでなく古代ギリシア語も習得していたのだろうか。[…]

この講義原稿は、その編者が編者後記で書くところによると、「初期学級の学生と全学部の聴講者を相手に行なわれた概説講義のものである」という。言ってみれば、今日、日本の大学でほとんど見られなくなった、あの一般教養科目の一種として行なわれた哲学入門の講義だったのだろう。

それもあって、これも編者後記によれば、この種の講義に関しては、当時のベルリンの文部省がかなり内容を指定していたものらしい。だからこそ、哲学者やその時代についての情報提供を無視したがっていたハイデガーも、結局最小限の情報提供を[…]行なわざるを得なかったのだ。

ところで現在、私たちの文部省は、哲学入門の内容に口を挟んできたりはしない。大学側が、自発的に、学生に評判が悪くて受講者が少ないとか、だから経済効率が落ちるなどの理由で、哲学の講義のみならず、哲学科という看板まで下ろしていくのである。

たとえ運よく哲学の講義が残ったとしても、他の学問のお役に立てる哲学入門を目指すことが、大学と講師の間の暗黙の了解事項となっている。これは、ハイデガーの講義から一世紀近く経った今、文部省が狡猾になり、大学人は、ハイデガーのような自由を目指す気骨をもてなくなった結果のように思える。》(『古代哲学の根本諸概念』、410頁)

佐近司氏同様、「ハイデガーが、こういった一般教養科目的な入門講義においてさえ、彼独自の哲学を展開してやまなかったという、その力量を感じてほしい」と私も思う。さて、私自身はどんな哲学入門をすることになるのだろうか。

Friday, February 19, 2010

無くて済ましうるもの(ハイデガーの講義について)

四月から始まる新学期に向けて、ハイデガーの講義録を読み漁っている。前期は古代哲学全般を扱うので、例えば『全集』第22巻の『古代哲学の根本諸概念』などが参考になる。

ハイデガーを読んだこともなく毛嫌いしている人のために申し上げるが――私はけっこう読み、評価も最大限にしたうえで、それでも好きでないのであるが――、ハイデガーの講義録は面白い。純粋に面白さということでいえば、ベルクソンやフッサールの講義録より面白い。なぜか。

個々の哲学者に関するハイデガーの知識が参考になるのではない。それは、私程度の者でも、大方すでに手に入れていたものである。そうではなく、それらのマテリアル(ひいては西洋哲学の全歴史)を自分独自の見取り図に従って曲がりなりにも読み切ってしまうという力業に感心してしまう。

講義という場を使って、自分の読みを実際に検証しようとしているところも凄い。こう言うと、「学生を自分の研究のために犠牲にしている」と思われるかもしれないが、まあ講義録を読んでみてほしい。そういう印象はまったく受けない。

ハイデガーをよく知っていたアーレントは、自分が罠にかかることを見世物にし、遂には自ら〈罠=神殿〉のご本尊になってしまった狐にハイデガーを譬えたことがある。哲学史の読み替え作業という「脱構築」の、パフォーマンスとしての側面をアイロニカルに指摘したわけだが、裏を返せば、見世物としては人を惹きつけてやまない何かを持っているということでもある。

もちろん、1926年当時の大学が(一般教養用の入門講義ということを差し引いても)このレベルの講義を許したということは当然ある。当時の大学は(いずれにしても我々の時代とは比べ物にならないほど)少数者に向けて開かれた「エリート大学」である。しかし、すべての教授がハイデガー・レベルの授業を行なっていたわけではないし、行ないえたわけでもない。

戦前の東大を例にとろう。竹内洋『大学という病――東大紛擾(ふんじょう)と教授群像』(初版2001年)、中公文庫、2007年、第2章「黄色いノートと退屈な授業」のとりわけ「一ノート二十年」「半分も休講」などの節を参照。

彼の読みの独創性以外に、魅力の一部は、学生を挑発的に巻き込んでいく仕方にもあるだろう。〈無くて済ましうるもの〉が〈本質的なものとして留まるもの〉であることを「示す」その仕方に。

***

《必要なのは、まず「学ぶこと」を学び、諸々の尺度について知ることから、再びやり始めることである。単に新しい、いっそう簡便な「教科書」を採り入れることによっては、精神的堕落は食い止められない。[…]

ときおりは「本も読む」、こう言って弁解するなどとは俗物的なことである。「教養」を往々にして「統計」や「雑誌」、「ラジオ・ルポルタージュ」や「映画館」だけから仕入れてくる当今の人間、そうした雑駁きわまる純然たるアメリカ風の人間が、はたして〈読む〉(lesen)ということが何を言うか、なお知っているのか、知りうるのか[…]。

〈自分の必要とするもの〉を拠り所とするというのであれば、それは諸君の今の場合であれば、職業教育をできるだけ楽に済ましてしまうのに必要なものを追っかけるということである。それに反して、今我々が、前線にある何人もの若き同胞の場合と同様、最悪の状態に直面した時、〈無くて済ましうるもの〉に注意を払いうるならば、そのとき、一に本質的なものとして留まるものは、ほとんどおのずからのごとく眼差しのうちに入っている。

さて、ここで我々がどのような決定を下すかを示す印は、一方の者は「哲学講義」をとるが、他方の者はそうしない、というような点に存するのではない。[…]これは誰も何らかの印とか証明書で直接に確かめることはできない。ここでは誰にせよ、自分自身と、見せかけの自分と、自分がそれに向けて心構えをしているその当のものとに、委ねられている。》(ハイデガー、『根本諸概念』、1941年夏学期講義)

Thursday, February 18, 2010

3/19西山雄二『哲学への権利』@九州日仏学館

福岡近在のみなさまにお知らせです。

来たる3月19日に九州日仏学館にて、詩人・思想家ミシェル・ドゥギー氏と訳者・丸川誠司氏による講演会が行われます。また、ドゥギー氏がCIPhに深く関与していたこともあり、ドゥギー氏の思想、それを取り巻くフランス現代思想の状況をより深く理解していただくべく、講演会に先立ち、西山雄二さんのドキュメンタリーフィルム『哲学への権利』が上映されます。

哲学と制度をめぐるきわめて興味深い考察でもある――すでにこのブログの昨年12月26日付のポストで映画評を書きました――本映画の上映会から始まり、詩作と思索の間を自由に行き来するドゥギー氏の講演会まで、ぜひ足をお運びいただけますよう、お願い申し上げます。

九州日仏学館上の情報(以下に貼り付けました)
西山さんのHP「哲学への権利」上の情報
UTCP上の情報


ミシェル・ドゥギーによる朗読会&講演会+『哲学の権利』上映会
Lecture publique et conférence par Michel Deguy

日時:3月19日(金)17時
会場:九州日仏学館5F多目的ホール
フランス語による講演会(日本語通訳つき)
入場無料(要予約)
ご予約・お問い合わせ:092-712-0904(九州日仏学館)

1960年から2007年までの代表作のアンソロジー、『愛着』(丸川誠司訳、書肆山田)の翻訳出版を機に、ミシェル・ドゥギー本人が九州日仏学館に来館。自身の詩作の朗読を通し、詩や哲学的思考の間でのためらい、人生、ことばの持つ力への深い愛着などについて語ります。現代フランス詩界で最も重要な人物の一人であるミシェル・ドゥギーは、40冊を超える著作を発表し、マラルメ賞、仏国家詩人賞ほか多くの賞を受賞しています。

また講演会に先立ち、17時から映画「哲学への権利」の上映会、18時30分からはミシェル・ドゥギーと映画監督の西山雄二氏のティーチインも行いますので、どうぞご参加下さい。

17時より映画「哲学への権利―国際哲学コレージュの軌跡」(フランス語・日本語字幕、93分)
18時30分~19時ミシェル・ドゥギー氏と映画監督・西山雄二氏のティーチイン(司会:藤田尚志氏)
19時よりアンソロジー『愛着』(書肆山田)邦訳出版記念ミシェル・ドゥギー氏と翻訳者・丸川誠司氏による講演会

ミシェル・ドゥギー 略歴1930年パリ生まれ。現代フランスを代表する詩人・哲学者で、パリ第八大学名誉教授。その一方でパリの国際哲学コレージュ、作家会館の代表などを歴任。詩と思想の雑誌、『Poésie』を1977年に創刊、以降編集長を務める。著書は1959年の「銃眼」から2007年の「作業再開」に至るまで約40冊を数える。邦訳された作品は、単著『愛着』(丸川誠司訳、書肆山田刊)、『尽きせぬ果てのものへ』(梅木達郎訳、松籟社刊)共著『崇高なるもの』、『ルネ・ジラールと悪の問題』(いずれも法政大学出版局刊)。

丸川誠司 略歴早稲田大学准教授。仏現代詩研究。今回出版されたミシェル・ドゥギー著『愛着』(2008年)の翻訳者である。主な著書にLa saisie de la matière dans la poésie d’André du Bouchet, Jacques Dupin et Philippe Jaccottet (Presses universitaires du Septentrion, 1999) 、主な論文に“Penser et traduire, figurer et transfigurer”, Michel Deguy : l’allégresse pensive (2007)などがある。

映画「哲学への権利」1983年にジャック・デリダがパリに創設した研究教育機関「国際哲学コレージュ(Le Collège international de Philosophie)」をめぐる初のドキュメンタリー映画。この研究教育機関の独創性を例として、本作品では、収益性や効率性が追求される現在のグローバル資本主義下において、哲学や文学、芸術などの人文学的なものの可能性をいかなる現場として構想し実践すればよいのかが問われる。監督・西山雄二が歴代議長ミシェル・ドゥギーを含む関係者7名へのインタヴューを通じて、大学、人文学、哲学の現在形と未来形を描き出す。

公式HP:「哲学への権利」

西山雄二監督招聘に関する協力:東京大学グローバルCOE「共生のための国際哲学教育研究センター」(UTCP)

Wednesday, February 17, 2010

アキレスと亀

うちの大学で哲学に目覚めてしまった奇特な学生と月に一二回、哲学の勉強会を続けている。これまでは学生に一人の思想家の概説をさせるということで、ヘーゲル、スピノザ、デカルト、ゼノン(エレアの)と続けてきたのだが、彼が元理学部で、数理的なものに興味があるということで、今度は少し深めようということになった。そこで山川偉也(ひでや 1938-)『ゼノン 四つの逆理』(講談社、1996年)を読むことにした。

私は自分の学生には語学を徹底してやってもらいたいと思っている。いずれ近いうちに
Alexandre Koyré, "Remarques sur les paradoxes de Zénon", in Etudes d'histoire de la pensée philosophique (1961), éd. Gallimard, 1971, pp. 9-35.
も読んでもらおう(彼はまだ一年生なのだ!)。私の亀の歩みに、アキレスが追いつき、追い抜くことを願いつつ…。

Friday, February 12, 2010

決め球

木曜・金曜は書類。

ここ最近(再び)読んだ本
潮木守一『フンボルト理念の終焉?』、東信堂。
潮木守一『世界の大学危機』、中公新書。
小泉義之『ドゥルーズの哲学』、講談社現代新書。
渡辺公三『戦うレヴィ=ストロース』、平凡社新書。
ゲーテ『親和力』、岩波文庫。

球種を増やすのも大事だが、それよりさらに大事なのは決め球を磨くこと。ずっと出来ずにいることかもしれない。

***どこかのスポーツ記事より。

久保とは98球の投球練習で球種と球筋を確認して“メス”を入れた。「球種が多いからといって、打者が困るとは一概には言えない。ウイニングショットを持っている方が、そうじゃない球を何球も持っているよりもいい」。決め球の重要性を説く。

Thursday, February 11, 2010

ホネット『自由であることの苦しみ』

大河内泰樹(おおこうち・たいじゅ)さんから、アクセル・ホネット『自由であることの苦しみ――ヘーゲル『法哲学』の再生』、未来社、ポイエーシス叢書 59、2009年11月をご恵贈いただいた。

私は私なりに前々から『法哲学』を結婚論の文脈で読んでいたので、さっそく少し読んでみた。

論理学と国家的視点を外して、客観的精神と人倫の概念を読み込めば、ヘーゲル『法哲学』は、相互承認論(コミュニケーション的自由)の規範的理論として、さらには社会的実践に寄り添い、時代の診断を下す病理学として、まだまだ利用価値があり、現在支配的なカント的理性法のパラダイムに十分対抗しうるものだ、ということらしい。お求めはこちらから

絶妙な距離感を保った解説を書いておられる大河内さんは私と同い年。励みになります。

2月8日(月) 自大学生との勉強会(エレアのゼノンについて)。
2月9日(火) 無事とあるイベントを終える(潮木氏の大学論二冊)。
2月10日(水) 学生相談(とうとうサークルの顧問にさせられてしまった…)・会議・打ち合わせでおしまい。

Sunday, February 07, 2010

にぎわう孤独の交錯

2月5日(金) レヴィ=ストロース@九州日仏。90人近くの方々に来ていただき、会場は超満員。お越しいただいた皆様、誠にありがとうございました。3月19日、3月27日に行なう予定の私たちのイベントのほうにも足をお運びいただければ幸いです。よろしくお願い致します。

2月6日(土) 福岡在住の若手研究者の方々との交流。お友達倶楽部や学派づくり、サロンには興味がない。空港や大学のように、「にぎわう孤独」(ドゥルーズ)に満ちた個人が行き交う関係をつくっていければいいと思う。

Thursday, February 04, 2010

夢の続き

若手研究者たちに競争させるというなら、早いうちである。三十代も半ばを過ぎた大量のオーバードクターに対して、不安定と背中合わせの「特別研究員」を少数用意することが決定的な解決策になるはずはない。若手研究者が安心して博士課程に残れるように、ただし「安心して残って当然」という実力を見極める制度を構築していくのは、今の中堅以上の学者の責任だと思う。「私たちも不安と闘ってやってきた」などというのは詭弁にすぎない。他方で、院生たちに当事者意識が薄いのも問題だ。文句ばかり言っていても何も始まらない。デモをせよとは言うまい。研究者なのだから、出来る範囲で、つまり理論的な取り組みにおいて、何かを始めたらどうか(大学問題に関する読書会だって、ささやかな理論的営為だ)。大学院の〈再〉改革のためには、まず制度への意識を研ぎ澄ますことから始めねばならない。私たち若手教員も、忙しいということを口実にしてはならないだろう。


高校指導者が1番人気=プロ野球引退後の仕事調査
1月22日5時5分配信 時事通信

 日本野球機構(NPB)が現役プロ野球選手に実施した引退後に関するアンケート結果がこのほど公表され、引退後に「最もやってみたい仕事」は高校野球指導者が24%で1位だった。「やってみたい」と「興味あり」を合わせると73%が関心を示した。
 対象は昨秋の教育リーグに参加した18~36歳の271人(平均年齢23.4歳)。引退後に不安がある選手は74%で、不安要素では「進路」が45%、「収入」が39%を占めた。
 NPBの調査によると、日本人の「引退選手」のうち、戦力外を告げられても他球団と契約できたのは07、08年は各10人。このほか、育成選手、コーチ契約、職員などでNPB内に残る割合は半分に上った。
 NPBキャリアサポート担当の手塚康二氏は「50%が残れるのは(NPBも)懐が深い」と感心しつつも、一般会社などに「なかなか選手を供給できない」 と語る。引退後の相談に来るのは2軍クラスの選手が大半だが、同氏は「一番の問題は給料。高校からプロに入るなど、社会の(給料の)相場を知らない」と話 す。
 「へこたれない力」を持つ人材が多いプロ野球経験者を「欲しい」と言う企業は多いが、引退後、一般会社への就職や自営業などの世界で再出発する元選手は、07、08年の調査では全体の約4分の1にとどまっている。


門奈が示したプロ野球選手の“引退後”

スポニチ九州[ 2007年06月27日 17:49]

 門奈哲寛(37)は現状に満足している。ソフトバンクの通訳兼打撃投手。それが彼の仕事だ。ヤンキー ス・松井秀喜(33)が1位だった93年の巨人ドラフト2位。戦力外通告後、00年の米大リーグ挑戦は不合格だったが、夢は弟分がかなえてくれた。打撃投手の時に左手にはめるのは巨人時代にかわいがったレッドソックス・岡島秀樹(31)のグラブだ。アメリカで成功する夢は後輩に託し、オランダなど6年間の 海外リーグ生活で語学力も身に付いた。珍しい“一人二役”は今や、欠かせない人材だ。

 やっぱり、野球が好きだった。門奈はそのことをかみしめながら、1球1球、ていねいに打者の打ちやすい球を投げ込んでいる。見た目以上に地味な仕事だ。だが、誇りを持ってやる。右手には海外で成功した後輩・岡島からもらった真新しいグラブが光っている。

 「みんな大変だって言うんだけど、こっちとしては一緒に行けばうまいものも食わせてもらえる。楽しんでいるよ」。

 遠征先で夕食のほとんどは“案内役”として外国人選手と一緒。メニューは決まって焼き肉。さらに彼らの気晴らしであるカラオケやダーツに深夜まで付き合うこともざらだ。だが、その環境を門奈は楽しんでいる。

  失意というより、あきらめに近い。99年オフに巨人から戦力外通告を受けた。93年ドラフト2位で日大から入団し、スクリューボールを操り1年目にはヤク ルト・伊藤智仁(現投手コーチ)と9回途中まで白熱した投手戦を演じるなど、登板33試合と活躍したが、その後は長い2軍暮らし。野球を続けることもため らったが、周囲の後押しもあり00年春、米大リーグ・パイレーツのテストを受けた。「英語が話せるようになれば仕事も困らない」。そう切り替えて前向きに なったが、結果は「不合格」だった。

 そして人生が一変する転機が訪れる。知人の紹介でオランダのプロ・リーグ入りの話が、持ち込まれ た。「英語が話せるようになるなら…」(門奈)と気軽に飛び込んだが、待っていたのはプロとは名ばかりの草野球レベルの世界だった。2年目には2ケタ勝 利、本塁打王まで獲得してしまった。その後、クロアチア・リーグも含めた6年間の海外生活で得たものは語学力だけではない。

 「家賃と食事が別で収入は15万円くらいだったけど、野球をやる楽しさはあった」。帰国後、一度は一般企業に内定ももらったが、再びわき上がる野球への情熱は抑えき れるものではない。知人からソフトバンクで打撃投手を探していると連絡が来たのは、ちょうどそんな時だった。「会社員をやるしかないかな、と思っていたけ ど、ここは1年契約でもやりたい仕事だね」。門奈は心の底からそう思っている。

 勇気をもらっている男がいる。レ軍の不動のセットアッ パーとなった岡島だ。巨人時代は94年入団だった岡島の“教育係”だった。先輩にいじめられる岡島をなぐさめたこともあった。今でもメールのやり取りをする間柄。裏方には道具の支給がないと言うと、ぽんとグラブをくれた。「正直、メジャーに行くとは思わなかった。活躍するとうれしいし、励みになるね。若い 時に飯をおごっておいて良かったよ(笑い)」。自らは果たせなかったメジャー・リーガーの夢。それを体現する後輩に自分を重ねる。

 日本 プロ野球OBクラブの調べによると、引退や自由契約になった選手が、最も身につけたい技能の1位は「語学力」で28・5%だった。太平洋を渡るだけのはずが、思いもよらず大西洋までも越えた。だが、得たものは大きい。栄光の影につきまとう“引退後”の問題。門奈の姿は一つの試金石と言えるだろう。

  ◆門奈 哲寛(もんな・てつひろ) 1970年(昭45)5月30日、浜松市生まれの37歳。天竜中―常葉菊川高―日大。93年ドラフト2位で巨人に指名 される。1年目の94年33試合に登板するが、2年目以降はふるわず99年に戦力外通告。00年春に米大リーグ・パイレーツの入団テストは不合格に終わ り、00年からはAODトルネーズ(オランダ)、ナダ・スプリット(クロアチア)に在籍した。06年からソフトバンク打撃投手、07年から通訳兼任。1 メートル78、80キロ。左投げ左打ち。プロ通算は44試合1勝3敗、防御率3・38。

 ≪母校はセンバツV≫門奈の母校・常葉菊川(静 岡)は今春のセンバツで見事、優勝を果たした。通訳兼打撃投手といっても、2倍の給料をもらえるわけではないが、ポケットマネーから20ダース(240 球)のボールを贈った。「OBは僕だけだからね。なにかしないといけないでしょう」。野球部は特待生問題など、頓挫はあったものの、先輩から贈られた白球を追い掛け、春夏連覇を目指している。

 ▼レッドソックス岡島秀樹投手 門奈さんには今年に入ってかな、道具の支給がないということで、 何かくれないかと言われたので、グラブを渡しました。使ってくれているんですか、うれしいですね。時々メールが来ているんで、やりとりはしています。同じ 左腕で、巨人時代は特に寮で一緒だったということもあり、特に気を遣っていただきました。僕が悩んだ時にもいろいろ相談に乗ってくれましたし、自分が今、 大リーグでやれている今でも感謝しています。打撃投手という仕事は大変ですし、私も裏方さんへの感謝の気持ちは忘れたくない。門奈さんの分まで頑張りま す。

Tuesday, February 02, 2010

一本目

今日ようやく一本目の論文が終了。一月末に終わる予定だったので、二日間のロス。かなり痛い。

年末年始に観たオペラDVD:「ホフマン物語」「バラの騎士」「トリスタンとイゾルデ」

最近読んでいる(読んだ)本

ノーマン・マルコム『ウィトゲンシュタイン』

大学論関係
金子元久『大学の教育力』、ちくま新書
内田樹『先生はえらい』読了

哲学史関係→授業準備の開始
内田樹『寝ながら学べる構造主義』←うちの学生には教科書としていいかもと思ったり。
内山勝利「総論――始まりとしてのギリシア」、中央公論新社版『哲学の歴史』第1巻
三浦要「エレア学派と多元論者たち」、同上。
ヘーゲル『キリスト教の精神とその運命』、白水社。
レヴィ=ストロース日本講演集、みすず書房。

記憶心理学関係→論文のため
ダウエ・ドラーイスマ『なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか』、講談社。
※これは面白い。記憶心理学に興味を持つ人にお勧めしたい。
菅原道哉「ジャン・ドレー〈記憶の階層構造論〉再考」、『imago』1991年7月号「特集:記憶――神経科学の最前線」※うーむ。まあ、ドレーを読むのが面倒くさいという人にはいいかも。読了

結婚論関係
堀越宏一『中世ヨーロッパ生活誌』、NHK出版。
上野千鶴子+信田さよ子『結婚帝国――女の岐れ道』、講談社。読了

その他、論文のためにジャネやらベルクソンやらドゥルーズやら再読。さあ次は二本目。

Sunday, January 31, 2010

ザンフィ『ベルクソン、技術、戦争。『二源泉』再読』

大学的に言えば、センター試験や後期試験の監督、試験答案(哲学は記述試験なので大変…)、論文やレポートの採点、成績評価がようやく終わると、今度は入学試験と来年度のシラバス入力(つまり授業準備の開始)。学生や教員、職員が絶え間なく相談や雑談に訪れる――大学教員は、平常業務の一端として、心理カウンセラー的役割を担わされつつある。

その間にも、
・3/27初めて自分の科研でやる国際シンポの準備。「準備」という、この何でもない一言に込められた大変さはたぶんまったく伝えられない。

・科研の予算執行(スタートアップは10月に下りるので開始が遅いのである。3月末にシンポをやるので、現在慎重かつ徹底的に事前準備しているところ)

・4/1エラスムスの準備

・3/24シモンドン・シンポ準備

・3/19『哲学の権利』@福岡(上映会の交渉・準備)

・2/26のゴーシェ合評会の準備

・締め切りに追われる論文7本以上…。他にも、義理立ての通訳とか、若手とのネットワーク作りとか、読書会とか、ちょっと忙しすぎ、気分が塞ぎます(もっと忙しい人々がいるのは分かっていますが…)。でも、やり抜かねばならない。

頂いた本のご紹介もできないまま…。12月中頃だったか、イタリアの友人が処女作を送ってくれた。博論かと思ったら、そうではないらしい。

Caterina Zanfi, Bergson, la tecnica, la guerra. Una rilettura delle Due fonti, Bologna : Bononia University Press, ottobre 2009.

Tuesday, January 26, 2010

2/26ゴーシェ『民主主義と宗教』書評会@南山大学


実に長い紆余曲折を経て、このたび、南山宗教文化研究所叢書として以下の書籍が刊行される運びとなりました。

『民主主義と宗教』 伊達聖伸・藤田尚志訳、トランスビュー、2010年(原著:Marcel Gauchet, La religion dans la démocratie, Gallimard, 1998) ※本の詳細情報、ご注文はこちらから

今回の訳業はひとえに伊達さんのご尽力によるものであり、私はほんのわずかばかりお手伝いをしたにすぎません(いや、むしろお邪魔ばかりしたような気も…)。伊達さんのますますのご活躍に皆様ぜひご注目くださいますよう。

これに併せまして、以下の日程で書評会を開催いたします。特に名古屋近在の皆様、ふるってご参加くださいますよう、よろしくお願い申し上げます。

日時 2010年2月26日(金) 17:00~19:00
場所 南山宗教文化研究所 1階会議室
名古屋市昭和区山里町18 南山大学内
    電話 052-832-3111

評者   南山大学外国語学部フランス学科教授 丸岡高弘
      南山宗教文化研究所研究員      粟津賢太

リプライ 東北福祉大学総合福祉学部専任講師  伊達聖伸
     九州産業大学国際文化学部専任講師  藤田尚志

マルセル・ゴーシェ(Marcel Gauchet)1946年生まれのフランスの哲学者。社会科学高等研究院(EHESS)教授で、レイモン・アロン政治研究センターに所属。『記憶の場』の編者ピエール・ノラとともに『デバ』誌を創刊、主筆を務める。著作は『世界の脱魔術化』(1985年)、『代表制の政治哲学』(原著1995年、富永茂樹他訳、みすず書房、2000年)ほか多数。

Sunday, January 24, 2010

2/5クロード・レヴィ=ストロースを偲んで@九州日仏学館

少し関わっているので、宣伝を。

追悼企画 Souvenir de Claude Lévi-Strauss
クロード・レヴィ=ストロースを偲んで

2009年10月30日に100歳で死去した、社会人類学者でありアカデミー・フランセーズ会員であったクロード・レヴィ=ストロース。「構造主義 の父」と呼ばれ、20世紀フランス思想界を牽引し、日本を始め世界的に影響を与え続けました。多くの著書を出版し、連綿と続く人類の歴史を研究したレ ヴィ=ストロースを偲んで、当館では2月5日(金)に追悼イベントを行います。

  • 日時:2月5日(金)17時より
  • 会場:九州日仏学館5F多目的ホール
  • 入場無料(要予約)
  • ご予約・お問い合わせ:092-712-0904(九州日仏学館)

レヴィ=ストロースは、文字を持たない南北アメリカ民族を研究した偉大なる人類学者でした。彼はまた、親族の構造についてや、私たちの思考と同じく 複雑な構造をもっている“野生”的な思考がどのように機能するかについて研究しました。その対象が日本にも及んだことはよく知られるところで、彼が日本文 化に対する情熱を温めていたことは、日本、特に九州を度々訪れていたことからも分かります。自身の著作や発言でも、日本の伝統的な思想に対して敬意を表し ていたことについて度々触れています。著作の多くが日本語に訳され、人類学研究にも大きな影響を与えました。

九州日仏学館では2009年10月30日に逝去したレヴィ=ストロースの追悼企画を行います。


①17時
ドキュメンタリー上映会「クロード・レヴィ=ストロース第1回 -自然・人間・構造-」

(日本語・フランス語二重音声、45分)

②18時
ドキュメンタリー上映会「クロード・レヴィ=ストロース第2回 -日本への眼差し-」

(日本語・フランス語二重音声、45分)

③19時
ラウンド・テーブル「レヴィ=ストロースと日本」
白川琢磨氏(日本語)とエルヴェ=ピエール・ランベール氏(フランス語、日本語通訳付き)によるラウンドテーブル
space

白川 琢磨 略歴
文化人類学・宗教人類学を専攻。カリフォルニア大学サンディエゴ校訪問研究員を経て現在、福岡大学人文学部教授。ミクロネシア、南西諸島、日本本土などを 対象に、現在は主に九州北部の宗教文化を研究しています。クロード・レヴィ=ストロースが1983年に沖縄に滞在した際、調査研究の一環として沖縄滞在の 案内役を務めたことから、今回はその時のエピソードを紹介します。

エルヴェ=ピエール・ランベール 略歴
サンジェ・ポリニャック財団の元受賞者。フランス、スイス、メキシコ、アンティル諸島、イスラエルなどを経て、現在九州大学で教鞭を執っています。専門分野は、比較文学、人類学、思想史、美学と現代のイマジネール、文明論、認識論批評、神経美学など。

Friday, January 22, 2010

ゴダール『暴力と主体性』をめぐって(ラジオ)

ジャン=クリストフ・ゴダールの近刊『暴力と主体性――デリダ、ドゥルーズ、マルディネ』について、CIPhで行なわれた合評会(Les Samedis du livre)が、今、ウェブ上で聴けます

村上さんの親友シュネルや、私の友人ギヨームら、実力派の若手をもってくる。自著の宣伝に有名な研究者に来てもらうのではなく、自分の本をだしにして若手にvisibilitéを与えるあたり――すでに有名なシュネルはともかく、PRAGであるギヨームにとっては貴重な機会でしょう――、さすがゴダールだと思います。

メール

諸々の仕事が重なり、ここ何カ月かずっと、メールへの返信が遅れております。たまにすぐレスポンスできることもありますが、平均二三日です。お急ぎの場合は、その旨お書き添えいただけると助かります。返事を要するメールを送って一週間以上経つ場合は、手違いやうっかりミスの可能性がありますので、大変恐縮ですが、メールを再送していただけますでしょうか。関係者の方々にはご迷惑をお掛けしておりますことを深くお詫び申し上げます。hf

Thursday, January 21, 2010

「気の弱さ」にどう対処するのか

試験の季節がめぐってきた。試験監督の合間に、自分の行なった試験の採点をする。一人一人の顔を出来るかぎり思い浮かべながら、過去の成績と比較して、「この子はこの先、大丈夫なんだろうか」と心配したり。

菅家さん冤罪事件の録音記録をざっと読んだ。気の弱い(あるいはあのような状況下では多かれ少なかれ誰でもあのような精神状況に陥るのかもしれない)中年男性が、最初は検事に対して「実はやってない」と言えそうな気がするのだが、警察によって「自白」に追い込まれた過去を否定できずに、「やっぱりやったのは自分です」と言ってしまうくだりを読んでいて、

我々教師は、相談に乗るとき、「履修指導」なるものを行なうとき、同じようなことをしてはいないだろうか、とふと不安になる。特にこういうくだり。

《菅家さんの記憶を探ろうとする森川検事。自分では「言わない」と言いながらも、意識的なのか無意識なのか、答えを想像させようとするキーワードが現れていく》

森川検事「その次だから分かるだろうけど、遊んでいるところを連れ出したという状況はないだろうか? 誰かと遊んでいたところを」

菅家さん「もしかしたら駐車場で女の人がいたような気がするんですけれども」

森川検事「もう一回考えてもらいたいのは、声のかけ方がね、今まで君が説明した通りだったのかどうかね。もうちょっと別のことがなかったのかな。いきなり自転車でそばに行って声かけたんだって言うけど、もうちょっと別のいきさつがなかったかどうか?」

菅家さん「はー…そこのとこはわかんないです」

森川検事「誰かと遊んでいなかったかなと聞いている。誰かというのが大人か子供か、あるいは男か女か、どんなことをしていたか。僕は一切言わない」

菅家さん「遊んでいたとすれば、女の子と思うんですけど」

森川検事「うん、どんな子か。遊んでいた情景っていうかねえ、それが少し記憶に残ってるかな?」

菅家さん「…」

森川検事「その女の人っていうのは少しイメージが残っているわけなのかな?」

菅家さん「はー…その人が駐車場の方へいた」

森川検事「うーん…。女の人は1人? 2人?」

菅家さん「1人のような気がしたんですけど」

森川検事「駐車場?」

菅家さん「はい」

森川検事「駐車場の方っていうのは、パチンコ店の建物の…この西側の方でしょう?」

菅家さん「はいそうです」

森川検事「うん。西側っていうのは、有美ちゃんがいたところ? 違うの?」

菅家さん「えっと、有美ちゃんがいたところだと思うんですけど」

森川検事「有美ちゃんがいたそばか」

菅家さん「はい」

 《必死に思いだそうとする菅家さんだが、その答えは森川検事の質問に何とか合わせようとしているようにも聞こえる。自ら答えているようだが、肝心のキーワードは森川検事の口から先に出ていることも

学校と病院と警察と監獄の「構造的相同性」を見るポストモダンは大雑把すぎる、とは思いつつも、細かいテクニックの部分では、このような資料も参考にしつつ、十分に気をつけないといけない。誤解を避けるべく念のために繰り返すが、ここでこういった記録を参照するのは、あくまでも「いかに誘導しないか」を考えるための参考資料としてである。

特にゼミだ。やる気がなくて、あるいは何らかの(心理的あるいは経済的な)問題などで、このまま大学を辞めてしまうかもしれないという子に対して、どうアプローチするべきなのか。私たちレベルの大学では、古き良き時代の放任主義をやっていたら、どんどん退学率が上昇してしまう。

どこまで介入すべきなのか。どう介入すべきなのか。

それでも、「役に立つ哲学」は絶対にやらない。生命倫理もケア哲学もやらない。そうではない仕方で、うちのレベルの大学生たちに「単なる哲学」の面白さが伝えられなくて、どうする。「単なる哲学」とはもちろん「旧来通りの哲学概論」でもないだろう。模索は続く。

***

森川検事「警察からなんか聞かれたわけ?」

菅家さん「はい。菅家じゃないかとかと」

森川検事「うーん」

菅家さん「でも自分は、違うと話したんですよね」

森川検事「あ、そう、うん」

菅家さん「それで、まあ、あの、何ですか警察は怖いですしね」

森川検事「何が」

菅家さん「やはりなんて言うんでしょうか、自分でもよく分からないんですけど」

森川検事「調べを受けてどのくらいしてから話した?有美ちゃんの事件を」

菅家さん「ちょっと分からないんですけど、…二、三十分じゃないかとは思うんですけど」

森川検事「なんて話したの?」

菅家さん「最初はやっていないと」

 《有美ちゃん事件について尋ねる検事に、「警察は怖い」との理由で「自白」したことを話す菅家さん。なぜうその自白をしたのか。検事はおだやかな口調で追及する。取り調べが事件の核心に迫ると、菅家さんは口数が少なくなり、沈黙も長くなる》

森川検事「こうだったって話したわけでしょ、後で」

菅家さん「はい」

森川検事「最初は否定したのに、その後でこうだったと話したきっかけがね。どういうところで、どんなことを考えてね、話したのかなって思ってるんだけど」

菅家さん「…やはり…自分で何だかもうわけが分からないんですけども」

森川検事「わけが分からない?」

菅家さん「はい、わけが分かんなく、まあ」

森川検事「まあ?」

菅家さん「やったとかなんとか、話したと思うんですけど」

森川検事「君がどんなことを考えてたかなと思うんだけどね。どうだったの」

菅家さん「うーん」

森川検事「違うって言ったのに、こういう事件でしたと話すんだから。何かきっかけがあって、向こうから何か言われたか、君のほうの気持ちが変わったのか。君の気持ちがね、どこか変わらなければ、いやこうですなんて話にはならないと思うんだよね」

菅家さん「はい、自分としては警察のほうで、強引なところもあるような感じでしたので」

森川検事「強引っていうのは」

菅家さん「分かってるんだとか。そういう風に言われまして」

森川検事「あの事件の当時、有美ちゃんの事件じゃなくてね。(福島)万弥ちゃんの事件(別の女児殺害事件)も話しなかった?」

菅家さん「しました」

森川検事「どっちを先に話したの」

菅家さん「やはり、その2つですよね。2つを一緒に言われたような気がするんですよね」

森川検事「一緒に言われたような気がする?」

菅家さん「はい」

森川検事「ほう。で、君のほうはどっちから話したんだ」

菅家さん「有美ちゃんのほうを先にやったと思うんですけども。その後、万弥ちゃんのほうをやったと思うんですよね」

森川検事「有美ちゃんの事件は実際にはどうなの」

菅家さん「…」

森川検事「目を伏せないで。実際にはどうなの。君がやった事件なの?そうではないの?本当のところは?」

菅家さん「本当のところはやってないです」

森川検事「やってない?」

菅家さん「はい」

森川検事「やってないならやってないで別に考えなくてもいいんじゃない」

菅家さん「…」

森川検事「やってないのにやったって話したの?」

菅家さん「…」

森川検事「なぜ?なぜそんな話をしたんだろう?」

菅家さん「やはり警察のほうで、(聞き取れず)」

森川検事「分かってるんだから話しちゃえって言われて?だけど、一番最初に捕まった真美ちゃんの事件は?これも違うのかな?これは、その通りなのかな?」

菅家さん「…」

森川検事「これはその通りなの?」

菅家さん「やってないです」

森川検事「どうしたの?」

菅家さん「…」

森川検事「どうしたんだよ」

森川検事「そしたらね、有美ちゃんの事件ね。やってないのに、やったと警察で話したのはなぜなんだろう」

 《ここまでテープが再生されたとき、突如、菅家さんは手を挙げて体調がすぐれないと申し出た。菅家さんは足早に退廷し、別室で休憩。約20分後に再開された》

 《取り調べは引き続き検事の執拗(しつよう)な追及が続いている》

菅家さん「すみません」

森川検事「うん」

菅家さん「ごめんなさい」

森川検事「どうしたんだ」

菅家さん「…」

森川検事「本当はやったのか君? うん、うん」

菅家さん「うー」

森川検事「本当は君がやったのか? 有美ちゃんの事件も」

菅家さん「(泣き声)」

森川検事「やっぱりそう。有美ちゃんの事件やったの? そうだね」

菅家さん「(泣き声)」

 《検事の問いに、すすり泣きの中、はっきりとした言葉では答えられず、沈黙する菅家さん。森川検事は諭すような口調で質問を続ける》

森川検事「なんか君を違うことを言うようにし向けたのかもしれないしね。僕の言葉に乗っちゃったのかもしれないからさ。あえてうそをつかしたんだったら、僕のほうが悪いんだけども。僕にも悪いところがあるんだけども」

菅家さん「…」

Monday, January 11, 2010

セカンド・エフォート

今から十数年前、まだ大学生だった頃、自大のアメフトが強く、応援に行ったりもした。そんなわけで、1月3日はテレビの前にいれば「ライスボウル」を観ることにしている。今年は関大vs鹿島。関大のQBは最初凄い緊張の中でもニコニコしていて感心したが、徐々に劣勢になって来て、笑顔が影を潜め、終わった後は泣いていた。三ヶ月後の春にはその鹿島に入社する(とテレビで言っていたように思う)というのに、である。一回一回の勝負に全力を傾けるすがすがしさ。なくなってきた気がする。

毎年、年初の目標は相も変わらず「今を悔いなく生きる」なのだが、自分のダメさ加減が身にしみてきた今年は「セカンド・エフォート」を目標にしたい。
セカンド・エフォート エフォートは努力の意。ボール・キャリアーがタックルをされた後、スピン(回転)や体を伸ばして1mmでもゲインしようと努力する行為を指す。スーパーや グレートと呼ばれている選手は、このセカンド・エフォートを大切に考えている。この行為によりチームの意気が盛り上がることはもちろんのこと、1stダウ ンの更新確率が上がることは間違いない。強豪と呼ばれているチームほど、セカンド・エフォートの大切さを知っている。アメフト用語辞典より
 
といっても、アメフトを観たことのない人には分からないと思うので、映像をどうぞ。簡単に言えば、何度ぶつかられても倒れず、身をかわしたり、回転しながら倒れたりしながら、1ミリでも前に進むこと、ですね。基本的な身体能力が低い(足が遅い)、味方のブロックが潰されている(援護射撃が期待できない)、あるいは相手のオフェンスがいい(自分を取り巻く環境に負けそう)場合、最初のランではヤードを稼げない。それでも前に進むためにはどうすればいいか。去年の終わりごろから考え始め、今少しずつ実行に移しています。

もう時期を完全に逸してしまいましたが、本年もよろしくお願い致します。