Tuesday, September 14, 2010

持続とは遅れである…

・ずいぶん遅れて出した英語論文は、途中から予算がついて仏語でいいことになり(翻訳してもらえる)、
そのため、前半は拙い英語で、後半は書き飛ばした仏語という代物。これからその直し作業。でもいつやるんだ…。

・その他、いろいろ遅れています。すみません…。

開始

今日(月曜)から後期が始まった。9月の13日から、である。「ええっ、もう?」と驚かれる方も、「そうだよね」という方もいらっしゃるでしょう。いずれにしても、また長丁場が始まる。息を整えて、ペースを乱さずに、走りきらないといけない。

Friday, September 10, 2010

サンデル教授の哲学講義は特別でもなんでもない

というタイトルの『ニューズウィーク』関連のコラムを見つけた。たしかに良質な教師、良質な学生であるとしても、あの手の授業、メソッドは、アメリカではありふれたもので、日本も一刻も早く取り入れるべきだ、と。

《ですが、改めて思うのは「世界観」を持ってしまった人間は、価値を共有できていない人間にもおなじ「世界観」を押し付けようとする、すると主張イ コール相手の人格否定になってしまう、その辺の問題が日本語の場合ですと対話にどうしても上下関係のニュアンスが持ち込まれてしまうために、スッと抜けて いけないという悩みがあります。結果的に、ディベートの勝敗イコール人格の優劣のような形になってしまうのです。例えば、キレイな負け方とか、相手を追い 詰めない勝ち方といったコミュニケーション上の様式が、日本語のディベートには余りないのです。学生運動の世代なども「ナンセンス」といった罵声を浴びせ て「自己否定」を強要するなどかなり粗っぽかったわけです。今でも議会のヤジとかにそうした野蛮さは残っていますし、今どきのネットでの炎上なども同じこ とだと思います。

そのあたりに、新しい「共存のコミュニケーション」を模索しつつ、まずはディベートによって価値判断を伴う、動的・相互的な頭の使い方の基礎訓練を行う場を公教育に導入してゆくこと、これは待ったなしであると言えるでしょう。》

まあ、それはそうなんだろうなあ。ただ、哲学の学会ですら、上記の意味でのきちんとした「議論」をするのがいかに難しいかを考えると…。

Thursday, September 09, 2010

『差異と反復』をエピステモロジーとして読む


行きたいなあ。私が書こうとしている論文(「哲学と科学――ドゥルーズか、ベルクソンかIV」)ともろに関係する主題なだけに…。

Tuesday, September 07, 2010

失敗

エピステモロジーの発表は正直に言ってあまり良くなかった。いろいろ言い訳しようと思えばできるかもしれないが、それは言い訳にすぎない。

研究は打率だと思っているので、切り替えて、また次に向かっていくしかない。

Saturday, September 04, 2010

雑務の一日

今日もほぼ一日、大学の業務。くたくた。それでも少しずつ読む。次はエピステモロジーの発表に向けて。

Valentine Moulard-Leonard, Bergson-Deleuze Encounters. Transcendental Experience and the Thought of the Virtual, Albany: State University of New York Press, SUNY Series in Contemporary French Thought, 2008.

Keith Ansell Pearson, Philosophy and the adventure of the virtual. Bergson and the time of life, Routledge, 2002.

Thursday, September 02, 2010

デカルトとパスカルの間で

哲学と社会学の覇権争いと書いたが、もちろん私の主観ではない――さらに断っておくが、この争いのどちらか一方に与する形で書こうというのでもない。私は両者の良いところを取りたいと考える。当事者の一人、ブルデューの『パスカル的省察』を引いておこう。

《同時代の社会科学に対する戦いでハイデガーが展開したこうした戦略、とりわけ社会科学の成果を社会科学と戦う武器にするという戦略は、1960年代のフランス哲学の「前衛」によって再び採用された。あるいは再び作り出された。

フランスの社会科学は、哲学の覇権主義的野心に対して自律性と固有性を確立するために、ときには哲学の地盤で、哲学と対決する必要があったために、デュルケム以来、哲学の伝統の中に深く根を下ろしていたが、60年代には、大学界において、また、知識界においてさえ、支配的な位置を占めるに至っていた。レヴィ=ストロース、デュメジル、ブローデル、あるいはラカンも含めて、「構造主義」というジャーナリスティックなレッテルで大雑把にくくられた人々の仕事がそのことを証している。

当時のすべての哲学者は併合主義的な敵対関係の中で社会科学との関連で自己定義を行なわなければならない状況に置かれた。彼らは意識的あるいは無意識的に二面作戦を取り、ときには二股をかける者もいた(「アルケオロジー」「グラマトロジー」などのような「―ロジー」効果や、その他の科学めかした手管に頼って)。こうして彼らは、それでハイデガーの弟子になったわけでもなく、その必要もなかったのだが、社会科学に対してハイデガーが使ったのとよく似た乗り越え戦略を見つけたのである。》(邦訳50-51頁)

もちろん、このようなブルデューのポストモダン批判をルノーやフェリー――「80年代の小論争家たち」――の粗雑なそれと混同してはならない。

《社会科学に対して距離を保とう、明確に画そうとする姿勢(これは社会科学が彼らのヘゲモニーを脅かしつつあっただけに、また、彼らが目立たない形で社会科学の成果を取りこんでいただけにより強く表明されたのだが)はおそらく、70年代の哲学者が進めつつあった、素朴でお人好しな人格主義ヒューマニズムとの断絶が、(デュルケム派)社会科学がすでに世紀初頭から提唱していた「主体なき哲学」に彼らを送り返したにすぎないことを、彼らと彼らの読者に見てとれなくする役割を果たした。

その結果、人間諸科学の客観主義的哲学の「全体主義的」派遣に対して30年代から戦後初期にかけて立ち上がった「実存主義者たち」(サルトルや『歴史哲学序説』の初期アロンのような)に対抗して、60年代に「主体なき哲学」を提唱した彼ら自身に対して、80年代の小論争家たちが「主体の回帰」を説いて流行の振り子を振り戻そうとするに至った、という次第である。》(68-69頁)

こうしてブルデューは、60年代の「主体なき哲学」と、「制度化した余暇(スコレー)」としての「エコール・ノルマル(と準備学級)」との関係について、制度論的な分析を行なうことになるのだが、ここまでは、私はブルデューに賛成である。

しかし、彼が「パスカル的」と呼ぶ次のような姿勢――「象徴権力」への眼差し、根拠づけの野心の拒否――に留まることは出来ないと感じる。

《「モダン派」にせよ「ポストモダン派」にせよ、わが哲学者たちがさまざまな対立を越えて共有しているものがあるとすれば、それはまさに言説の力に対する過度の信頼である。レクトールに典型的な幻想である。レクトールというのは、アカデミックな注釈を政治的な行為と、あるいはテクスト批判を抵抗の行動と取り違える、そしてコトバの次元の革命をモノの次元の革命として生きる輩である。

偉大な英雄的役割への恍惚とした自己同一化の衝動を掻き立てるこの全能という夢に陥らないようにするには、どうすればよいのだろうか。私は何よりまず、思考と思考の力の限界だけでなく、思考を行使する際の諸条件について考えをめぐらすことが大切だと思う。社会的経験は地理的にも社会的にも必然的に部分的かつローカルで、社会世界のいつも同じ小さな区域に局限された経験である。にもかかわらず、多くの思想家にそうした経験の限界を逸脱させてしまう諸条件について考えをめぐらすことが大切である。世界の流れを注意深く観察すれば、思想家はより謙虚になるはずである。》(10-11頁)

デリダとブルデューは、思われているほど遠くはない。超越論的な「可能性の条件」「枠」「パレルゴン」に執り憑かれた思想家たちである。経験の限界――「経験の転回点」(ベルクソン)――を逸脱させてしまう諸条件について考えをめぐらすことが、それらの諸条件そのものを変えることに役立つのか否か。役立つと信じるか否か。言葉の力を信じるか否か。どこまで信じるのか。どれ以上信じれば過度と見なされるのか。

これは実は、デカルトとパスカルの間にも見られる対立ではあるまいか。デリダとブルデューの対立とは、デカルト対パスカルの反復であろうか、それとも『パンセ』のパスカル対『プロヴァンシアル』のパスカルの反復だろうか。そうだとして、どちらがどちらなのだろうか。そのどちらかにつくのではなく、両者の緊張関係の中でものを考えることは可能だろうか。それは単なる2010年代の小論争家の一人の矮小な折衷主義にすぎないだろうか。

Wednesday, September 01, 2010

サイト・スペシフィックな哲学教育

大変なときに励ましてくれる友人たちがいるということは本当にありがたいことだ。
少しずつでも前に進まねば。

さて、ynさんからGREPhの精神を継ぐ、ACIREPhの情報をいただきました。彼らは「高校における哲学教育をどうするか」という問題関心からさまざまな提言を行なっている団体のようで、私のように、地方の小さな私立大学で哲学を教える者にとっては、なかなか興味深いものがあります。

再来月(10月23,24日)に研究会をやるようですが、そのテーマが「理科系(技術系)における哲学教育」です。要旨の一部を翻訳しておきましょう。

《問題は、技術系の生徒たちが哲学を「できる」かどうかというよりは、「なぜ」彼らが哲学せねばならず、「いかなる条件のもとでならば」哲学できるようになるのかを知ることである。

今日、哲学教育の目標は、文科系・理科系を問わず(時間数の違いにかかわらず)あらゆる系で同じ文言が用いられている。「判断の反省的な行使」である。だが、この文言は曖昧であり、生徒たちが何を学ばねばならないのか、一年間哲学を学んだ後でいったい彼らは何が出来るようにならねばならないのかを正確に把握させてはくれない。したがって問いを組み立て直す必要がある。

私たちが提案するのは、大文字の哲学(哲学「というもの」)から出発する代わりに、生徒たちから出発することである。彼らはいったいどういった存在なのか。彼らが教育に要求しているのは何なのか?どれほど、どのような点で、哲学は、他の分野とともに、それら以上でもそれら以下でもなく、生徒たちの職業的かつ個人的な生活のために、彼らを知的に武装させることに寄与しうるのか?2500年の哲学の遺産と同時に現代に生きる哲学の中で、彼らの教育にとって有益(bénéfique)なものとは何か?私たち哲学教師は、いかなる道具(いかなる概念や概念的区別、いかなる知と文化の要素)を彼らに伝えていると言えるのか?私たちの助けによって、彼らはいかなる知的な姿勢を我が物にすることを望みうるのか?彼らが何を理解し、何を出来るように助けてあげられるのか?》

重要であり、かつ非常に危うい問題提起だ。サイト・スペシフィックな哲学教育の必要性。高みからの一般論でなく、具体的な提案の模索。