Wednesday, September 08, 2021

9/11 日仏哲学会秋季大会シンポジウム「哲学者の講義録を読む」@東京都立大学+ZOOM

学会員でなくても、どなたでもご参加いただけるとのことですので、ご関心のある方はぜひお越しください。

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日仏哲学会秋季大会シンポジウム

2021/9/11 15時~18時半。 東京都立大学+ZOOM(要事前登録)
https://zoom.us/meeting/register/tJEkcOyorT4sH92faZfagL3xH0W5mLC2Of5f

「哲学者の講義読む」 

近年、哲学者の講義が続々と刊行されており、日本でも翻訳が出揃っている。現代の哲学者は教育者でもあった。彼らは公刊された著作とは異なる、いかなる教育実践をおこなっていたのだろうか。教育と研究の相違、話すことと聴くことの教育法、教育的語りのリズムや調性、ソクラテス的産婆術を範とする真理の教示法、研究教育制度への哲学的な問い・・・・・・。本シンポジウムでは、ベルクソン、メルロ=ポンティ、フーコー、ドゥルーズ、デリダの講義をもとに、教育の現場に立つ哲学者の姿に着目し、互いに比較・考察をおこなってみたい。

発表者:藤田尚志(ベルクソン)、酒井麻依子(メルロ=ポンティ)、八幡恵一(フーコー)、西川耕平(ドゥルーズ)、西山雄二(デリダ)

企画責任者:西山雄二

いただきもの(2021年4月‐6月)

伊達聖伸さんより2021年4月5日にいただきました。

ラファエル・リオジエ『男性性の探究』(伊達聖伸訳)、講談社、2021年3月29日。

伊達さんの逡巡は、私も含め、「無関心ではいられないはずなのに
傍目には無関心な人間と大きく異なるところのない時間を過ごしてきてしまった」、
多くの「ジェンダーやフェミニズムが専門とは言えない日本の男性研究者」(145頁)
の強い共感を得るものだと思います。

私が、宮野真生子さんと共に行なった試みも、
https://keisobiblio.com/2020/01/08/gendertalk09/
まさにオリジエの眼差しと重なる問題関心から始めたものでした。

理論的な関心としては、伊達さんの言う「地獄くだり」――
「男性研究者として行なうことは、
自分の痛い経験を振り返ることにもなるし、ときに吐き気を催す男性性を
男性として目撃することになる辛い作業」(152頁)――
とは、少し違う「地獄」へ私も降りねばならないと考えています。

それは、リオジエが「問題の核心」と考える
「女性を客体化し、ものとして所有すること、資本として蓄積すること」(150頁)です。
これについては、以前にお送りした岩野卓司先生編『共にあることの哲学と現実』所収の
拙論(特に60‐64頁)をご笑覧いただければ幸いです。


村上靖彦さんより2021年4月23日にいただきました。
村上靖彦『子どもたちがつくる町――大阪・西成の子育て支援』、世界思想社、2021年5月5日。

『母親の孤独から回復する』を数年前にゼミ生たちと一緒に読みましたが、今回はその続編とも言うべきものでしょうか。また、学生たちと一緒に「哲学すること」を学ばせていただければと思います。

村上靖彦さんより2021年6月21日にいただきました。
村上靖彦『ケアとは何か 看護・福祉で大事なこと』、中公新書、2021年6月25日。

村上靖彦さんより2021年6月28日にいただきました。
村上靖彦『交わらないリズム――出会いとすれ違いの現象学』、青土社、2021年6月30日。

リズム本は、私にとっても大事なテーマです。昨年、日仏哲学会のシンポ「リズムの哲学」で私もベルクソンのリズム論で発表しました。「交わらないリズム」と「ポリリズム」の違いを考えつつ、村上さんのリズム論にも言及しています)。

ケア本は、今までの村上さんの軌跡の集大成のように感じつつ、ゆっくり読み進めております。また学生と読みたい本が増えましたうれしい悩みです。

Wednesday, September 01, 2021

いただきもの(2021年4月)森本淳生「イマージュ・アニマルーー哲学的動物論と環世界」

森本淳生さんより2021年4月23日にいただきました。

石井美保ほか編『環世界の人文学』、人文書院、2021年3月20日。
森本淳生「イマージュ・アニマル――哲学的動物論と環世界」、61‐80頁。

森本さんのご論考「イマージュ・アニマルーー哲学的動物論と環世界」(61‐80頁)は、哲学者たちの厳密な読解としての「正否を問うよりは、彼らの思索を自由に組み合わせて展開し、そこから哲学的動物論に対する有益な示唆を引き出す」(71頁)という仕方で、「動物論の困難、あるいは、混乱」(62頁)を解きほぐす試みとして、大変興味深く拝読しました。

とりわけ、『物質と記憶』第一章のイマージュ論を、「私たちの方が動物に近づく努力」という意味での「動物への生成変化」(68頁)として読み解くというのはとても面白い発想ですね。

個人的な興味関心としては、『創造的進化』を入れて考えるとどうなるのかが気になるところです。というのも、そこでベルクソンは、人間・動物そして「植物」を区別して論じているからです。今回のご論考の核心的な問題として気になったのはまさにその点、つまり「生物(イマージュ・アニマル)」(72頁)という表現に端的に表れるように、「生物=動物」と見なされているのではないかという点です。

もちろん、「大地や山、あるいは、川、海であっても、無生物ではあるが、イマージュ・アニマルとして現れる」という一節はありますが、「不動」や「ごく規則的な動き」に「潜在的運動イマージュ」を見出す際にも、「動物らしからぬ」(以上73頁)という形容が付されています。

つまり、「人間的秩序を理由としてイマージュ・アニマルを無視することは、人間中心主義的な視野狭窄を引き起こすことにもなる」(76頁)というのはその通りだとして、同じことは、「イマージュ・アニマルを論じる際に
植物を無視することは、動物中心主義的な視野狭窄を引き起こすことにならないか」という風にも言えるのではないでしょうか?

ですので、人間同様の「権利」を動物に認めようとして「人間中心主義をひそかに再導入する」(77頁)動物権利論とは異なる道行きとして、イマージュ・アニマルが倫理的な〈他者〉であるかもしれないという「虚像」「混線」として、「人間中心主義の限界=境界をはっきり見定める」(78頁)際に、

「大地や山、川、海などが神と認められてきたことを迷信と言ってすますことはできない」(73頁)という言葉と共に、論考冒頭でなされた「告白」(62頁)に登場する「猫へのささやかな生成変化」(63頁)のみならず、「ささやかな菜園」の「種や苗」も考慮に入れるならば、

「イマージュ・アニミスト」ないし「image vivante」という表現のもとに、擬人主義(anthropomorphisme)からの逃れがたさを強調すべきなのではないかと考えた次第です。