Wednesday, September 08, 2021

9/11 日仏哲学会秋季大会シンポジウム「哲学者の講義録を読む」@東京都立大学+ZOOM

学会員でなくても、どなたでもご参加いただけるとのことですので、ご関心のある方はぜひお越しください。

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日仏哲学会秋季大会シンポジウム

2021/9/11 15時~18時半。 東京都立大学+ZOOM(要事前登録)
https://zoom.us/meeting/register/tJEkcOyorT4sH92faZfagL3xH0W5mLC2Of5f

「哲学者の講義読む」 

近年、哲学者の講義が続々と刊行されており、日本でも翻訳が出揃っている。現代の哲学者は教育者でもあった。彼らは公刊された著作とは異なる、いかなる教育実践をおこなっていたのだろうか。教育と研究の相違、話すことと聴くことの教育法、教育的語りのリズムや調性、ソクラテス的産婆術を範とする真理の教示法、研究教育制度への哲学的な問い・・・・・・。本シンポジウムでは、ベルクソン、メルロ=ポンティ、フーコー、ドゥルーズ、デリダの講義をもとに、教育の現場に立つ哲学者の姿に着目し、互いに比較・考察をおこなってみたい。

発表者:藤田尚志(ベルクソン)、酒井麻依子(メルロ=ポンティ)、八幡恵一(フーコー)、西川耕平(ドゥルーズ)、西山雄二(デリダ)

企画責任者:西山雄二

いただきもの(2021年4月‐6月)

伊達聖伸さんより2021年4月5日にいただきました。

ラファエル・リオジエ『男性性の探究』(伊達聖伸訳)、講談社、2021年3月29日。

伊達さんの逡巡は、私も含め、「無関心ではいられないはずなのに
傍目には無関心な人間と大きく異なるところのない時間を過ごしてきてしまった」、
多くの「ジェンダーやフェミニズムが専門とは言えない日本の男性研究者」(145頁)
の強い共感を得るものだと思います。

私が、宮野真生子さんと共に行なった試みも、
https://keisobiblio.com/2020/01/08/gendertalk09/
まさにオリジエの眼差しと重なる問題関心から始めたものでした。

理論的な関心としては、伊達さんの言う「地獄くだり」――
「男性研究者として行なうことは、
自分の痛い経験を振り返ることにもなるし、ときに吐き気を催す男性性を
男性として目撃することになる辛い作業」(152頁)――
とは、少し違う「地獄」へ私も降りねばならないと考えています。

それは、リオジエが「問題の核心」と考える
「女性を客体化し、ものとして所有すること、資本として蓄積すること」(150頁)です。
これについては、以前にお送りした岩野卓司先生編『共にあることの哲学と現実』所収の
拙論(特に60‐64頁)をご笑覧いただければ幸いです。


村上靖彦さんより2021年4月23日にいただきました。
村上靖彦『子どもたちがつくる町――大阪・西成の子育て支援』、世界思想社、2021年5月5日。

『母親の孤独から回復する』を数年前にゼミ生たちと一緒に読みましたが、今回はその続編とも言うべきものでしょうか。また、学生たちと一緒に「哲学すること」を学ばせていただければと思います。

村上靖彦さんより2021年6月21日にいただきました。
村上靖彦『ケアとは何か 看護・福祉で大事なこと』、中公新書、2021年6月25日。

村上靖彦さんより2021年6月28日にいただきました。
村上靖彦『交わらないリズム――出会いとすれ違いの現象学』、青土社、2021年6月30日。

リズム本は、私にとっても大事なテーマです。昨年、日仏哲学会のシンポ「リズムの哲学」で私もベルクソンのリズム論で発表しました。「交わらないリズム」と「ポリリズム」の違いを考えつつ、村上さんのリズム論にも言及しています)。

ケア本は、今までの村上さんの軌跡の集大成のように感じつつ、ゆっくり読み進めております。また学生と読みたい本が増えましたうれしい悩みです。

Wednesday, September 01, 2021

いただきもの(2021年4月)森本淳生「イマージュ・アニマルーー哲学的動物論と環世界」

森本淳生さんより2021年4月23日にいただきました。

石井美保ほか編『環世界の人文学』、人文書院、2021年3月20日。
森本淳生「イマージュ・アニマル――哲学的動物論と環世界」、61‐80頁。

森本さんのご論考「イマージュ・アニマルーー哲学的動物論と環世界」(61‐80頁)は、哲学者たちの厳密な読解としての「正否を問うよりは、彼らの思索を自由に組み合わせて展開し、そこから哲学的動物論に対する有益な示唆を引き出す」(71頁)という仕方で、「動物論の困難、あるいは、混乱」(62頁)を解きほぐす試みとして、大変興味深く拝読しました。

とりわけ、『物質と記憶』第一章のイマージュ論を、「私たちの方が動物に近づく努力」という意味での「動物への生成変化」(68頁)として読み解くというのはとても面白い発想ですね。

個人的な興味関心としては、『創造的進化』を入れて考えるとどうなるのかが気になるところです。というのも、そこでベルクソンは、人間・動物そして「植物」を区別して論じているからです。今回のご論考の核心的な問題として気になったのはまさにその点、つまり「生物(イマージュ・アニマル)」(72頁)という表現に端的に表れるように、「生物=動物」と見なされているのではないかという点です。

もちろん、「大地や山、あるいは、川、海であっても、無生物ではあるが、イマージュ・アニマルとして現れる」という一節はありますが、「不動」や「ごく規則的な動き」に「潜在的運動イマージュ」を見出す際にも、「動物らしからぬ」(以上73頁)という形容が付されています。

つまり、「人間的秩序を理由としてイマージュ・アニマルを無視することは、人間中心主義的な視野狭窄を引き起こすことにもなる」(76頁)というのはその通りだとして、同じことは、「イマージュ・アニマルを論じる際に
植物を無視することは、動物中心主義的な視野狭窄を引き起こすことにならないか」という風にも言えるのではないでしょうか?

ですので、人間同様の「権利」を動物に認めようとして「人間中心主義をひそかに再導入する」(77頁)動物権利論とは異なる道行きとして、イマージュ・アニマルが倫理的な〈他者〉であるかもしれないという「虚像」「混線」として、「人間中心主義の限界=境界をはっきり見定める」(78頁)際に、

「大地や山、川、海などが神と認められてきたことを迷信と言ってすますことはできない」(73頁)という言葉と共に、論考冒頭でなされた「告白」(62頁)に登場する「猫へのささやかな生成変化」(63頁)のみならず、「ささやかな菜園」の「種や苗」も考慮に入れるならば、

「イマージュ・アニミスト」ないし「image vivante」という表現のもとに、擬人主義(anthropomorphisme)からの逃れがたさを強調すべきなのではないかと考えた次第です。

Wednesday, August 25, 2021

vocationに悩む(その3)

 ところで、ベルクソン自身はvocationという語をどのように使っているのか。例えば、ギトンはこう述べている。

《ベルクソンは、彼の最後の著作〔『二源泉』〕で、通常の責務すなわち社会的義務を越えたところには、より高次の責務があると述べているが、それはつまるところvocationの責務に他ならない。ただし、ベルクソンはこのvocationという語を用いてはいない。彼はもっとシンプルな「呼びかけ」(appel)という語を好んだのだが、それらはまったく同じことである。》(p. 15)

ギトンは間違ってはいないが、厳密ではない。間違っていないというのは、『二源泉』第一章の道徳的責務をめぐる議論においてたしかにvocationという語は用いられていないからである。厳密でないというのは、『二源泉』第三章の、必ずしもappelと無関係とはいえない文脈において、vocationという語はただ一度だけ用いられているからだ(DS, 228)。

《平凡な教師でも、天才的な人たちの創造した科学を機械的に教えることによって、彼の生徒たちの誰かのうちに、彼自身は持たなかったような天分(vocation)を覚醒させ、知らず識らずのうちに、その生徒を彼の伝達する使命(message)のうちに不可見的に現存しているそれらの偉人たちの競争者に変えるだろう。》(1953年[1977年改訳]・平山高次訳、262‐263頁)

《平凡な教師でも、天才的な人間がつくり出した科学を機械的に教えることによって、その生徒の誰かのうちに、彼自身がもたなかった天分(vocation)を目覚めさせ、知らず知らずにその生徒を偉大な天才たちの――目には見えないが、彼の伝える使命(message)のうちに現存している天才たちの――競争相手にするだろう。》(1965年・中村雄二郎訳、259頁)

《凡庸な教師が、天才の創り出した学問を機械的に教えていても、この教師自身には与えられていない使命(vocation)へ呼び覚まされる者が、その生徒たちのうちから出てくることがある。教師は、この生徒を無自覚のうちに、そうした偉人の好敵手に変えつつあるのであって、そうした偉人は、教師が運び手でしかないこの使命(message)のうちへ――目に見えぬ形で――現前しているわけである。》(1969年・森口美都男訳、434頁)

《凡庸な教師も、天才的な人間の創造した学問をただ機械的に教えることで、彼のある生徒のうちに、彼が自分自身では持たなかった召命(vocation)を呼び起こし、無意識的にこの生徒を偉人たちに匹敵する者へと変容させるだろう。偉人たちは、この教師が伝達した音信(message)のなかに不可視のまま現前しているのである。》(2015年・合田・小野訳、296頁)

Tuesday, August 24, 2021

後期の教科書

 昔のようにデカルトやライプニッツを読んでいた時代は完全に過去のものになってしまった。

しかし、何とか踏みとどまりたいと思い、試行錯誤を繰り返している。

ゼミⅠの教科書:

岡本裕一朗『哲学の世界へようこそ。』、ポプラ社、2019年。

→佐藤岳詩『心とからだの倫理学 エンハンスメントから考える』、ちくまプリマ―新書、2021年。

ゼミⅡの教科書:

斎藤環『キャラクター精神分析』、ちくま文庫、2011年。

→佐藤岳詩『心とからだの倫理学 エンハンスメントから考える』、ちくまプリマ―新書、2021年。

ゼミⅢの教科書:

山口尚『日本哲学の最前線』、講談社現代新書、2021年。

→佐藤岳詩『心とからだの倫理学 エンハンスメントから考える』、ちくまプリマ―新書、2021年。


ハードカバーの専門書や、原書講読は叶わないが、せめて生きのいい哲学に学生たちが触れられる機会になれば。

Monday, August 23, 2021

vocationに悩む(その2)

実際、ギトンのこの著作もLa Jeunesse de Bergsonと名付けられてもよい著作である。目次を訳出しておこう。

序論

第一章:vocationに関する省察

第二章:イメージと名残(images et vestiges)要するに「ベルクソンの顔が写った写真と彼の筆跡」(des visages et des écritures de Bergson, p. 31)のこと。

第三章:平和な少年時代(Paisible adolescence)辞書には「青年期」とか「思春期」という訳語が載っているが、「男は14~20歳、女は12~18歳くらいを指す」という補足説明を見るかぎり、現代的感覚からすると「青年期」は20代のような気がする。「思春期」は別のニュアンスが入ってきそうだし。

第四章:オーヴェルニュでの修行時代(Les années d'apprentissage en Auvergne)

第五章:或る肖像画のための素描

第六章:ベルクソンにおけるvocation mystique

終章:ベルクソンの運命(Destinée de Bergson)

付録・若書き or 初期習作(Travaux de jeunesse):エコール・ノルマルでの二つの小論文

というわけで、この本のタイトルとしてのvocationを訳すには、第一章と終章をもう一度読んでみるほかない。(続く)

Saturday, August 21, 2021

vocationに悩む

よく出てくる研究書なのに、実のところタイトルをどう訳すべきなのかよく分からぬままにやり過ごしてしまっていることが多い。Jean GuittonのLa vocation de Bergson (Gallimard, 1960)もそんな一冊である。

まずこのvocationという語が、きわめて多義的であるうえに、一つ一つの意味も、煎じ詰めて考えてみると、よく分からない。試しに『小学館ロベール仏和大辞典』を引いてみると、「①(生来の)好み、性向、適性、②使命、天職、(本来の)目的、用途、③【神学】神のお召し、召命」などとなっている。

そういうわけで、『ベルクソンの召命』とか『ベルクソンの使命』などと「③寄りの②」の感じで訳されることが多く、それでなんとなく分かった気になって、やり過ごしてしまうのである。

がしかし、それは要するにどういう意味なのか?「召命」はあまりに「訳語」チックで、単独で意味が取れないうえに、そもそもキリスト教の文脈が強すぎる。「使命」は、意味は分かるのだが、何だか「行け、ベルクソンよ!」的な勇壮な感じがしてしまう(気がする)。ただし、ギトンはキリスト教的なニュアンスを濃厚に漂わせているので、そういう意味ではそれほど外してはいないのだが、、、

そもそもこの本は、アカデミー・フランセーズのHenri Mondorが手がけた叢書vocationsの9冊目として刊行された著作であって、それ以前のラインナップ(7タイトル、8冊)を見ると、どうやら有名な作家の青年時代に焦点を当てようとしているらしいことが分かる。

André Bellivier, Henri Poincaré ou la vocation souveraine.

Jean Dellay, La Jeunesse d'André Gide. (2 vol.)

Pierre Flottes, L'Eveil de Victor Hugo (1802-1822).

Henri Mondor, Mallarmé lycéen.

Edouard Rist, La jeunesse de Laënnec.

Géraud Venzac, Jeux d'ombre et de lumière sur la jeunesse d'André Chénier.

そうすると、意味的には「①寄りの②」で訳したいところだが、『ベルクソンの好み・性向』ではファンブックみたいだし、『ベルクソンの適性』ではキャリア教育の指南書のようだし、『ベルクソンの天職』も今一つ、である。(続く)


Wednesday, August 18, 2021

ピエール・アンドルー(Pierre Andreu, 1909-1987)

ピエール・アンドルー(Pierre Andreu, 1909-1987)

最近、彼の伝記?風の短い紹介を見つけた。カルカッソンヌの方のブログのようである。

http://musiqueetpatrimoinedecarcassonne.blogspirit.com/archive/2019/04/02/pierre-andreu-1909-1987-un-ecrivain-atypique-3136177.html

『ベルクソン研究』(Les Études bergsoniennes)の第二号(volume II, 1949)のNotes et documentsという欄に小文?研究ノート?「ベルクソンとソレル」が発表された(pp. 225-227)。半分以上の紙幅(pp. 226-227)は、ソレルの未刊行の遺稿「精神のトリロジー」――1910年にエドゥアール・ベルトに託されたが、その後ベルト夫人が発見し、アンドルーに刊行を託したとのこと――の抜粋に割かれている。一言で言うと、「ベルクソンの成功を作ったのは宗教だ」(p. 227)という趣旨。

第三号(volume III, 1952)に論文「ベルクソンとソレル」が掲載されている(pp. 41-78)。

Tuesday, June 29, 2021

いただきもの(2021年1月-3月)

2021年1月12日に福島勲先生よりいただきました。

吉田裕・福島勲編『洞窟の経験――ラスコー壁画とイメージの起源をめぐって』、水声文庫、2020年12月25日。

プラトン的な洞窟観に抗してラスコーが見せた、「誤謬の場所ではなく、むしろ太陽の下にあるのとは別の真実が開示される場所」「イメージという手段を介して人間が動物から身を引き離した場所すなわち人間と芸術とが誕生した場所」(8頁)としての洞窟、なるほど。

2020年1月に中富清和先生よりいただきました。

2021年1月12日に逆巻しとねさんからいただきました。
逆巻しとね「《書評》宮野真生子・磯野真穂『急に具合が悪くなる』(晶文社、2019年)」、南山大学社会倫理研究所編『社会と倫理』第35号、2020年12月、245‐247頁。

岡本裕一朗先生より2021年1月21日にいただきました。
岡本裕一朗『哲学と人類』、文藝春秋、2021年1月30日。

今年度は1年生と2年生のゼミで岡本先生の『哲学の世界へようこそ。』を使わせていただいたのですが、学生たちの評判も大変良いものでした。「コピペ」「個性(キャラ)」「友達」など、大学生に身近なテーマについて哲学していくのですが、具体的な思考の作業を四つほどに分け――①直感(違和感)で立場を決める、②歴史を洗い直す、③反対の概念を持ってくる、④具体的な結論を出す――、着実にステップを踏んで上がっていくので、学生たちも今どの段階で何をしているのかが分かりやすかったからだと思います。

2年ゼミの後半から岡本先生の『人工知能に哲学を教えたら』を使い始めたのですが、こちらは本学の学生には少し難しかったようです。来年度は続きを読んでいく予定ですが、、

ちなみに、愛・性・家族の哲学を考える3年ゼミでは、前期に久保田裕之先生の『他人と暮らす若者たち』を読み、後期にエリザベス・ブレイクの『最小の結婚 結婚をめぐる法と道徳』(久保田裕之監訳)に挑戦しました。学生たちからは「難しすぎる…」と怨嗟の声が聞こえてきましたが(笑)、しかし読ませて良かったと自信を持って言えます。

納富信留先生より2021年3月にいただきました。
納富信留『ギリシア哲学史』、筑摩書房、2021年3月20日。

また一つ大きなお仕事を成し遂げられました。「新型コロナ・ウィルス感染症への対応のため、全ての予定がキャンセルされ家で仕事に取り組む時間が与えられた」という状況は、多かれ少なかれ私も同じであったはずなのに――。感嘆しきりです。

「東京大学文学部哲学科では西洋哲学史を著すことが重要な仕事となってきた」という伝統を真正面から受け止め、「生涯の間に終わらせることがより重要」(697頁)としつつも、「資料の問題」と「方法論への反省」を哲学史の本質的な一部として強調したり、「学派でまとめて論じられる傾向にあった哲学者を個々独立に扱い、それぞれの独自性に焦点を当てる」(18頁)方針や、「ソクラテスをソフィスト思潮の中で扱う」など、これまで主張されてきた「納富史観」をも組み込んだ総括的なお仕事になっていると感じます。今年度はたまたま私も拙いながらギリシア哲学を講じようと思っておりましたので、興味深く拝読させていただきます。

Tuesday, June 22, 2021

2021年6月下旬

ロンドンWS発表準備の週

6月23日(水)朝:ゼミ、午後:ゼミ、その後、発表準備

6月24日(木)朝:翻訳、★本務校・対面授業再開。午後:授業、夜:その日のうちに火曜のミニレポ採点終わらせる。

6月25日(金)朝:翻訳、午後:授業、夜:発表準備

6月26日(土)朝:発表準備、午後:合同ゼミ、夜:発表準備

6月27日(日)朝:発表準備、午後:PBJ-DI研究会


自著完成の週

6月28日(月)朝:ゼミ、午後:授業、夜:木のミニレポ採点

6月29日(火)朝:ゼミ、午後:授業、夜:金のミニレポ採点

6月30日(水)朝:ゼミ、午後:ゼミ(+学内業務)、夜:査読1

7月1日(木)朝:翻訳、午後:授業、夜:査読2

7月2日(金)朝:病院➡翻訳、★佐大へ対面授業再開。午後:授業、夜:自著完成

7月3日(土)朝:10:00-西日本哲学会・編集委員会、(自著完成)15:00-理事会(代理出席)

7月4日(日)自著完成、火曜のミニレポ採点


ベルクソン、ソレル論完成の週

7月5日(月)朝:ゼミ、午後:授業、夜:木のミニレポ採点

7月6日(火)朝:ゼミ、午後:授業、夜:金のミニレポ採点

7月7日(水)朝:ゼミ、午後:ゼミ、B-S論完成

7月8日(木)朝:翻訳、午後:授業、B-S論完成

7月9日(金)朝:翻訳、★佐大へ。午後:授業

7月10日(土)火曜のミニレポ採点、B-S論完成

7月11日(日)木曜のミニレポ採点、B-S論完成


Sunday, June 20, 2021

ベルクソンにおける「正しく理解された自己利益(intérêt bien entendu)」

政治哲学や社会思想史の専門家にもご参加いただき、ベルクソンとソレル、ベンヤミンについての発表をした。その中でソレルの『創造的進化』評論を取り上げたのだが、ディスカッションで「ベルクソンはintérêt bien entenduについてどう考えていたのか」と質問を受けた。

intérêt bien entendu(正しく理解された自己利益)は、19世紀の政治思想史のなかではどちらかと言えば批判の対象となることの多かった概念だということであった。例えば、たまたまネット検索で目についた杉本竜也さんの「市民的主体性と地方自治」(法政論叢48巻2号)にはこうある。

《しかし、再三記しているように、問題は人々の積極的な関与が期待できないデモクラシーでは、そのような共同体は実現困難だということである。

そこでトクヴィルは「正しく理解された自己利益」(intérêt bien entendu)という考えを持ち出す。彼は、人々が私利を追求することをいったん容認するかわり、私利の追求を公益の実現〔と〕結び付けることで個人的欲求を適正化することによって、個人主義を克服し、公共性を実現することを企図した。この転換を可能にするのが共同体における公的実践であり、これこそが個人主義に陥った人々を公共性へと導くことができる、現実に採用しうる数少ない選択肢だとトクヴィルは考えた。

 ただ、トクヴィルにとって、正しく理解された自己利益を前提とした社会・政治理論は次善の策に過ぎない。というのも、彼の中には”経済”というものに対する拭い難い不信感・警戒感が存在していたと思われるからである。》 (123頁)

要するに功利主義的社会観・道徳観の中心に「経済」をどう評価するかということがあったわけである。

ソレルの『創造的進化』評論は、この点についてというわけではないが、ともかくもベルクソンの生命哲学のこの経済学的側面を鋭く指摘している。

「ベルクソン氏が自らの考えを明確にしようとするとき、しばしば経済学者たちから、利便性(commodité)や最小の努力(le moindre effort)、正しく理解された自己利益(intérêt bien entendu)に関する諸々の考察を借用している(例えばpp. 123-124p. 143)。道すがら膨大な数の失敗について語るとき、ベルクソン氏が経済学に負っているものに気づかなかった人はいないだろう(p. 141)」(第一論文p. 279)。

これは、ソレルの視点から『創造的進化』の論法が浮き立たせられたおかげで出てきた質問であり、普通に生物学的議論だけを追いかけているとほぼ見えてこない翻訳の問題である。

実際、原書Quadrige版p. 133に対するこれまでの訳はこうなっている。

つまり、動きやすくなることは動物にとりまぎれもなく利益(intérêt bien entendu)であった。さきに適応一般に関して述べたように、種の変形はその種特有な利益(leur intérêt particulier)というものからつねに説明されるはずである。変異の直接原因がそこから示されるにちがいない。けれどもそのようにして与えられるものはしばしば変異のごく皮相な原因にすぎないであろう。深い原因は生命を世界につき入れる衝力にある。(真方敬道訳、岩波文庫、1979年、164頁)

それゆえ、動きやすくすることは、動物の真っ当な利益になる。適応一般について述べたように、種の変化をそれぞれの個別的な利益によって説明することは常に可能だろう。このようにして人は変異の直接的な原因を与えることだろう。しかし、このようにして与えることになるのは、たいてい変異の最も表面的な原因だけだろう。深い原因は生命が世界に放った推進力である。(合田正人・松井久訳、ちくま学芸文庫、2010年、171頁)

動物の関心事は、だから言わずもがな、自らの運動能力をさらに際立たせることにあった。適応一般について先に述べたように、種の変化を、それぞれの種の個別の関心事によって説明することはできるだろう。それを形質変異の直接的原因と見なすことはできるだろう。しかし、こうして説明される直接的原因というものは、もっとも表層的な原因でしかない場合が多い。その奥に横たわる原因は、生命活動をわれわれの世界に出現させた衝撃力であり…(竹内信夫訳、白水社、2013年、157頁)

太字で強調した二つの語は、以上の経緯を踏まえれば、ほぼ同義語として捉えてよいということになるだろうか。いやはや、まだまだ修行が足りない、と反省するとともに、自分のフィールドの外に出て話を聞いていただくことの大切さを改めて実感した次第である。ディスカッションに参加いただいた方々、本当にありがとうございました!



Thursday, April 29, 2021

いただきもの(2019年-2020年)

寄川条路先生より2019年10月23日にいただきました。
寄川条路『教養としての思想文化』、晃洋書房、2019年10月10日。

高校生から読めるように間口を広くとった語り口ながら、特に、第4章第6節でヘーゲルと西田の弁証法を比較しているあたりでは、専門性もさりげなく披歴されてり、心地よいバランスだと感じました。


上枝美典先生より2020年にいただきました。
『現代認識論 ゲティア問題から徳認識論まで』(勁草書房、2020年8月20日)
ジョン・グレコ『達成としての知識――認識的規範性に対する徳理論的アプローチ』
(勁草書房、2020年9月20日)

「知ること」について知ることの重要性は、一方で「知識をあまりにも性急に欲するので、知識それ自体についての反省をおろそかにする傾向」(i頁)としての知的貪婪の罠(知の過剰)に抗うと同時に、他方で「何も知ることができないと答えることは驚くほど容易であり、いったんそのように答えてしまうと、そこから逃れることは意外なほどに難しい」という知的怠惰の罠(知の欠如)に抗うことにある。

私の教えている環境では、どちらの罠も切実な問題です。「無知の知」は「不知の自覚」であって「無知の開き直り」ではないと、常々教えています。

「ものすごくそれを必要としているのに正面からそれについて考えることを拒むもの、それが「知識」である。そういえば、哲学とは知への愛であった」(ii頁)。その意味で、
現代認識論は、正統的な哲学の嫡子ですね。


2020年11月に納富信留先生よりいただきました。
納富信留『対話の技法』、笠間書院、2020年11月30日。


2020年12月8日に石井有希子さんよりいただきました。
東雅夫・下楠昌哉編『幻想と怪奇の英文学Ⅳ変幻自在編』、春風社、2020年9月。

2020年12月8日に大野瀬津子さんよりいただきました。
大野瀬津子「大学とは何か――イェール報告とCharles William Eliotのハーヴァード大学長就任演説を読み直す――」、Kanazawa English Studies 第31号(2020)49-63頁。

2020年12月15日に馬場智一先生よりいただきました。
バルバラ・カッサン『ノスタルジー 我が家にいるとはどういうことか?オデュッセウス、アエネアス、アーレント』(馬場智一訳)、花伝社、2020年12月25日。

カッサンはもう訳書の数冊も出ているのだろうと思っていたのですが、
もしかしてこれが初めてですか!?びっくりしてしまいました。

私にとっては、まずはバディウとともに叢書Ordre philosophiqueの責任者を長らく務めていたこと、次に150名近くの執筆者を束ねた記念碑的なVocabulaire européen des philosophies. Le dictionnaire des intraduisibles (2004)の編者であったこと、そして最後にもちろん本業の古代哲学・ソフィスト研究の専門的な仕事から、現代思想(アーレントやラカン)までの縦横無尽の活躍が想起されます。個人的に好きなのは、Jacques le Sophisteです。他のさまざまな仕事も日本に紹介されていくとよいですよね。

このテーマ(ノスタルジー)は、いつもどこかで心にかかっています。2009年にUTCP(懐かしいですね、まさに)にエッセイを書いたことがあります。
https://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/blog/2009/04/post-199/

「旅の哲学」もいつか考えてみたいと思っています。

2020年12月17日に大石和久先生よりいただきました。
大石和久「映画を語るベルクソン――「アンリ・ベルクソンが映画について語る」翻訳と注釈」、『北海学園大学人文論集』第61号、2016年8月、1‐22頁。

2020年12月19日に平井靖史さんよりいただきました。
平井靖史「ベルクソンの意識概念」、九州大学哲学会編『哲学論文集』第56輯(しゅう)、2020年12月15日、77‐107頁。

2020年12月25日に森一郎先生よりいただきました。
森一郎『ポリスへの愛 アーレントと政治哲学の可能性』、風行社、2020年11月30日。

一昨年の夏、友人の遺品を整理していて、森先生のご著書が何冊かあるのを目にし、ハイデガーやアーレントのいわゆる専門的な研究だけでなく、それこそ実存的な問いを胸に、生きた哲学を実践されているのだなと感じておりました。今回のご著書、またそこに付された県美移転問題への関わりを記したお手紙をいただき、その思いを深くしました。

Friday, April 16, 2021

【動画】2016年ワークショップ「レチフ・ド・ラ・ブルトンヌを読む」

日本フランス語フランス文学会2016年度秋季大会のときのものです。音声のみですが、よろしければどうぞ。

 https://www.youtube.com/watch?v=bEiDDlmnsQw

【動画】2020年3月シンポジウム「ベルクソンとハイデガー」

実存思想協会・2021年3月春の研究会のものです。よろしければご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=0D5DhydUHZg

Wednesday, March 10, 2021

2020‐2021年度の業績

刊行物としては実にごく短い報告文が一つと情けない限り。他方で、研究発表は7つ:ベルクソン研究が4つ、結婚の脱構築が2つ。「かゆみの哲学」という新たな方向性が1つ。英語やフランス語での発表がなかったことも反省点の一つ。

単著【報告】「知的冒険とは何か――講演会へのイントロダクション」(第29回国際文化学会報告:久保田裕之「未来の結婚を哲学する――『最小の結婚』監訳者にきく結婚の脱道徳化と民主化」への導入として)、『九州産業大学国際文化学部紀要』第77号、20213月、35-36頁。


①単独発表「ベルクソンとリズムの問題」(日仏哲学会春季・秋季合同大会シンポジウム(秋季)「リズムの哲学:ソヴァネ、ベルクソン、マルディネ」、オンライン会議(zoom)、2020913日)

②単独発表「声の肌理をどう翻訳するか――ベルクソンのコレージュ・ド・フランス講義『時間観念の歴史』翻訳について」( 46 回ベルクソン哲学研究会:『時間観念の歴史』&『物質と記憶』刊行記念ワークショップ「ベルクソンの翻訳をめぐって」、ZOOM会議、2020104日)

③単独発表「分身と分人――哲学と文学のあいだで」(日本フランス語フランス文学会2020年度秋季大会ワークショップ「分身――その増殖のプロセス」 ZOOM会議20201025日)

④単独発表「ベルクソンCdF講義を導入する」(PBJProject Bergson in Japan)主催「ベルクソンと現代時間哲学『コレージュ・ド・フランス講義1902−1903年度 時間観念の歴史』合評会」、ZOOM会議、20201121日)

⑤単独発表「結婚の脱構築――ヘーゲル、キルケゴール、マルクス」(明治大学大学院・教養デザイン研究科での特別講演、動画配信、202012月)

⑥単独発表「触覚をめぐる最近の哲学的考察(デリダ、伊藤亜紗)――痒さの哲学に向けて」(科研費・基盤(B)《「ポスト身体社会」における芸術・文化経験の皮膚感覚についての横断的研究》(課題番号19H01207)研究会、ZOOM会議、2021311日)

⑦単独発表「図式論と生――ベルクソンとハイデガーにおけるカント解釈をめぐって」(実存思想協会 20213月春の研究会講演会「ベルクソンとハイデガー――「時間観念の歴史」をめぐって」、ZOOM会議、2021314日)

⑧単独発表「ベルクソン人格概念と英米哲学接合の試み(仮)」(PBJ-DI分析系分科会、ZOOM会議、2021329日)

3/11 平芳幸浩科研での発表「触覚をめぐる最近の哲学的考察(デリダ、伊藤亜紗)ーー痒さの哲学に向けて」(クローズド)

 私の発表では、①デリダの『触覚』を使って伝統的な哲学的触覚論のまとめ、②この伊藤さんの本の簡単なご紹介を通じて最近の動き、③デイヴィッド・J・リンデンや傳田光洋をはじめ何人かの仕事に依拠しつつ、「かゆさの哲学」へのイントロダクションといったお話をする予定です。いずれ何らかの形でまとめられればと願っています。

3/14 実存思想協会シンポジウム「ベルクソンとハイデガー —「時間観念の歴史」をめぐって」@ZOOM

実存思想協会2021年3月春の研究会

日時:2021年3月14日(日)
場所:オンライン(Zoom)

 

シンポジウム(15:00~17:00)

「ベルクソンとハイデガー —「時間観念の歴史」をめぐって」
提題者
藤田尚志氏(九州産業大学)
「図式論と生――ベルクソンとハイデガーのカント読解をめぐって」(仮)
峰尾公也氏(早稲田大学)
「「時間」の根源へ――ハイデガーとベルクソン」
司会
村山達也氏(東北大学)
趣旨:
 ベルクソンの講義録『時間観念の歴史』(書肆心水、2019年)の訳者の一人で、現代日本のベルクソン研究を牽引する藤田尚志氏をお呼びして、伝説のコレージュ・ド・フランス講義録の魅力に迫ります。藤田氏は、「ベルクソンからハイデガーへ――リズムと場所」というご論文も書かれており、ベルクソンとハイデガーのカント読解が図式論に関して交差する、という見通しをお持ちです。藤田氏の提題に呼応する形で、ハイデガーとフランス哲学の関係に詳しい気鋭の峰尾公也氏に、ご著書『ハイデガーと時間性の哲学』(渓水社、2019年)も踏まえて、ご提題いただき、両氏を中心にディスカッションを交わします。司会は、ベルクソンをはじめとするフランス哲学がご専門の村山達也氏です。コロナ禍で開催が一年遅れた分、満を持しての「ベルクソンとハイデガー」シンポジウム開催となります。皆様、奮ってご参加ください。

 

 ご参加希望の方は、事務局のアドレス(jitsuzonshisou@gmail.com)までご連絡ください。参加費はどちらも無料になります。非会員の皆様もご参加可能でございます。
 またシンポジウム終了後、Zoomでの懇親会(17:30~18:30)を予定しております。ご参加希望の方は、シンポジウム終了後、待機していただければ幸いです。なお、Zoomの仕様上、参加人数に上限がありますので、ご参加できない場合もございます。何卒ご理解ご了承のほど、よろしくお願いいたします。

Sunday, January 10, 2021

【WS発表要約(ロング・バージョン)】分身(double)と分人(dividuel) 文学と哲学のあいだで

WSの記録としては1000字の要約になるので(3月くらいに仏文学会cahierの中に公開予定)、ここにロング・バージョンを公開。


分身(double)と分人(dividuel

文学と哲学のあいだで

藤田尚志(九州産業大学)

本発表では、とりわけ19世紀の文学や絵画、音楽において大きく取り上げられた「分身」を根本的に近代的な形象として捉え、「分人」という現代的な形象との対比のうちにその本質を浮き彫りにすることを試みた。

「分身」の読解格子としておそらく最も有名なのは、精神分析的観点であろう。フロイトは、ドッペルゲンガーとは死(自我の消滅)への恐れという原初的な自己愛(ナルシシズム)から生じた防衛機制であるとするランクの見解を拡張し、心的な検閲を遂行する「超自我」的機能(良心の声)や、抑圧された無意識の欲望を回帰させる「エス」的機能まで分身に負わせていた(cf. 中山元『分身小説論』)。自我・超自我による上方・側面からの検閲・抑圧であれ、エスによる下方からの突き上げ・沸騰・横溢であれ、いわゆる「局所論」として名高い精神分析的図式は、「分身」を精神の垂直的分裂の帰結として捉えている。

精神分析に代表される近代的な読解格子では、分身は、同一の自分であるはずの個人が何らかの形で二重化した姿として捉えられていたが、ポスト構造主義的読解は「私こそが他者の分身である」と主張する。ドゥルーズは『フーコー』(1986年)において、「フーコーに常に執り憑いていた主題は、分身(double)の主題である」と喝破した。「他者」といっても、絶対的な超越性が問題となるのではない。一見断絶と見えたものも襞の折り畳みにすぎず、垂直的分裂と見えたものも、実際には水平的折り畳みにすぎない。「分身」は他者の内在化として新たな姿を現したのである。

しかしながら、20世紀後半以降、分身は、大衆文化・サブカルにおいては依然として根強い人気を誇るものの、もはや哲学的・理論的な関心を引かなくなっているようにも思われる。ドゥルーズは、1990613日の日付をもつジャンクレ・マルタンへの手紙の中で「私はシミュラークルという概念を完全に捨て去ったように思います。この概念には大した価値がないからです」と述べていた。これは、シミュラークルという概念が実効性を失ったからではなく、むしろそれが現代社会を覆いつくしたからではないか。オリジナルが模造に対して圧倒的な価値をもっていた前近代、複製技術の到来によりオリジナルと複製の差異が曖昧になっていく近代、そして私たちが現実世界で見ているものよりも、バーチャルリアリティの世界のほうがリアルな力をもつ現代――例えば、カーナビは現実の道路を見ているわけではないが、現実への介入力という意味では、実際の道路を目視で確認していくよりはるかに強力だ――というボードリヤール的図式はよく知られていよう。

近代的な産業社会の成立を通じて人間精神は本格的に個人として共同体と対峙することになり、その緊張・葛藤・対立・矛盾の“効果”として「分身」が生じてきたのだとすれば、現代社会とそこに生きる自我や人間関係の変質とともに、「分身」の形象自体もその読解格子とともに変化を見せることになるだろう。ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』(1972年)は、巨視的なマクロの視点から「パパ-ママ-私」の三角形の中に幼児の精神形成やその後の心理的諸問題を押し込める「家族主義」を批判し、微視的なミクロの視点から人間の欲望の多様な流れとそれを織りなす諸々の微細な特異点の動きを規定する「部分対象の論理」の解明を主張した。

このような時代状況の変化とともに、私たちの「自我」の存在様態自体もまた大きな変化を蒙らざるを得ない。ドゥルーズは1990年の「追伸――管理社会について」と題された小論において、その変化の特徴を「分人」という単位の出現に見ていた。「いま目の前にあるのは、もはや群れと個人の対ではありません。分割不可能だった個人(individus)は、分割によってその性質を変化させる「分人」(dividuels)になったのです」。自我の垂直的分裂から他者の水平的折り畳みへという「分身」の読解格子の変化は、「分人」概念の登場と軌を一にしていたのではないか。

だが、「個人から分人へ」あるいは「分身から分人へ」という単線的で不可逆的な図式を思い描くとすれば、それはいささかナイーヴにすぎるだろう。個人/分人は、シミュラークルの三つのフェーズ同様、消滅・交代の通時的関係ではなく、並行・包含の共時的関係にあるのではないか。18世紀の異形の作家レチフ・ド・ラ・ブルトンヌは、私たちの考えでは、分人主義的な作家であり、分人的な思考・文体が現代以前にも存在していたことを証明する格好の存在である。ル・ボルニュは、ルソーとレチフの自伝作品を「『告白』あるいは特異な自我(moi singulier)の対象化」「『ムッシュー・ニコラ』あるいは範例的自我(moi exemplaire)の対象化」として実に興味深い比較を行なっているが、私たちとしては、この対比のうちに「個人」と「分人」の概念的差異を明確にできるのではないかと考えている。発表では、1)「凝縮表現」(raccourcis)か「見せびらかし」(étalage)か、2「感情が入り乱れて作り出す無秩序な状態を解きほぐす(débrouiller)」か「自然と目の前にある事物によって心や頭に反して引き回される存在として、あるがままに描く」か、3)パースペクティヴが個別化・特殊化particularisant)の傾向をもつか一般化・全般化généralisant)の傾向をもつか、4)見事なジャンルの書き分けかラディカルなまでに混淆的な創作物か、といった点について個人主義と分人主義の比較を試みた。