Thursday, October 24, 2002

"Le toucher, Jean-Luc Nancy"(2000)

 デリダの350頁近い大著"Le toucher, Jean-Luc Nancy"(2000)は、ナンシー
のほぼ全ての著作を"Le toucher"という言葉で読み解いてみせる。

 "Le toucher"というのは、フランス語の特性を活かした言葉で、leを定冠
詞、toucherを名詞ととれば、the touch(触覚)となるが、leを人称代名詞、
toucherを動詞原形ととれば、touch him/it(彼・それに触れること)となる。

 デリダは、ナンシーの思想における触覚(le toucher)の概念の重要性、と
同時にその危うさ、曖昧さを、彼にそっと触れる(le toucher)ような形で、つ
まり距離をとりすぎるのでも、同一化してしまうのでもない紙一重のところに
留まりつつ、指摘してみせる。

 この微妙な距離どりをどうやって実現するのか。十歳年上のデリダが後輩に
して友人のナンシーに、愛情に満ちた厳しさで、彼の哲学史理解(とりわけア
リストテレスについて)の不十分と、そこから来る彼の哲学の問題点をたしな
めつつ(第一部)、触覚概念の系譜(とりわけ1.メーヌ・ド・ビランからメ
ルロに至るフランス・スピリチュアリスムの流れ、2.ドイツにおけるハイデ
ガー、フッサールの現象学、3.マリオン、マルディネらのフランス現象学
派)を自ら辿りなおしてみせることで、それらの伝統からナンシーの独自性を
切り離そうと試みる(第二部)ことによって、である。

 "Le toucher"は、デリダの他のモノグラフィー同様、Gift(英語で言えば贈
り物、独語で言えば毒)、友人の哲学者への毒入りの贈り物である。 hf

Tuesday, October 22, 2002

ボチュル、『カントの性生活』(6)

 京都朝日シネマ、みなみ会館、懐かしいですね。オールナイト徹夜もう体力的に無理かも(笑)。

***

 理由のないことではない。このテクストを手にした幾人かの大学人たちは驚きと不満を隠さなかったし、ソルボンヌ大学教授にして(今なお)高名なカント研究者たるヴィクトル・デルボー(1862-1916。この没年に注意!)は、「人類が持ちえた最も偉大な天才の名声を汚す」者としてかつての弟子を非難
する絶縁状をボチュルに送り、彼とのすべての関係を断ったのであった。

 実際、当時のフランス新カント派は、ソルボンヌで絶大な権勢を誇っていた(時期が特定されていないことに注意!たとえば二十年代後半、すでに学生の間では、サルトル、ニザンなどが講壇哲学の破産を宣告していた)。未だかつてマルクス主義も、実存主義も、ハイデガーも、精神分析も、このソルボンヌの哲学部に市民権を得たことはない(これは事実である。ただしフッサールの現象学は、現在、かつての新カント派と同じ隆盛を誇っていることを付け加えておこう)。カントだけが、共和主義的・非宗教的合理主義のありとあらゆる流派をまとめあげる収束点の役割を果たしえた(権勢を誇るのにもそれなりの理由があると言うことである。「厳密な学」ぶりたいマリオンのパリIV系(つまり神学系)現象学やバルバラスのパリI系(つまり世俗系)現象学然り)。



 だが、そうであるからこそ、「フランス新カント派」とでも呼ぶべき人々による伝記的事実のまったき無視は、再考される必要があった。「僕は思想の巨人に触れてしまいました。すべてをひっくり返す彼の思想の重みに押しつぶされそうです」と恋人に愚痴をこぼしながらも、ボチュルは、自分の研究の重要
性を確信していた。「僕にとって、カントの性生活は、西洋形而上学の最も重大な問題の一つなのです」。さらに数年後にはこう断言するまでに病気が進行している。「カントのセクシュアリティは、カント哲学の理解に至る王道なのです」(笑)。

 このボチュリスム的アプローチによって、『純粋理性批判』を「自伝的ドラマ」として読むことが可能になるにもかかわらず、カント哲学のありきたりのヴィジョンをことごとく覆そうとするこの新たな読解、まったくもって「徴候的な読解」は、残念ながらアカデミズムでは軽蔑的に黙殺されてしまった、と
パジェスは慨嘆し続ける。私はそこまでボチュリスムに肩入れするつもりはないが、それでもソルボナールたちに問題の真の争点=賭け金が見えていなかったことは確かである。

 以上に見られるとおり、論争の場はカントの性生活。論争に真に賭けられたものは哲学研究と自伝的事実の関係である。

Sunday, October 20, 2002

精神分析における理論と実践

 こんにちは。別に続編が続々登場というわけではないので、ご安心ください(笑)。

***

 人がその影と縁を切ることができないように、いかなる科学もその辺縁に位置する両義的な領域をあますところなく切除してしまうことができない。

 たしかに化学(chimie)は今や、錬金術(alchimie)とは何の関係もない。しかし、たとえば遺伝子工学の領域で現在行われているすべての仕事が将来、嘲笑の種にならないという保証もまたどこにもない。

 精神分析とは何か。医療活動の一種なのか、それとも人文科学なのか。そもそも「科学」と呼ぶべきものなのか、それとも動物磁気説や交霊術のような、いずれは「似非科学」(para-science)と呼ばれるようになるものなのか。こうした一連の問いは、その誕生以来、精神分析につきまとい続け、今なおその影の中に潜んでいる。

 「理論と実践」の問題は、明らかにこれらの問いの中心に位置している。これから数回にわたって紹介するのは、この問題を考えるうえで欠かせないと思われる「思考の素材」である。



 まず最初に全体のプランを示しておく。

1)「理論と実践」という問題構成の一般的な広がりを抑えておくために、カントの有名な論文「理論では正しいかもしれないが実践の役には立たない、という通説について」(1793)、いわゆる「理論と実践」の序論的な部分を要約する。

2)「理論と実践」という問題構成の現代的な射程を抑えておくために、アルチュセールの『マルクスのために』(1965)、とりわけその一章「唯物弁証法について-さまざまな起源の不均等性について」から、「理論的実践」に関する部分を要約する。

(ここで「科学の科学性そのもの」を考えることが実は不可欠なのであるが、科学哲学の文献が手元にない・・・thoery-ladenness of observation.)

3)「精神分析の科学性」という問題構成の一般的な広がりを抑えておくために、著名な女流精神分析史家であるルーディネスコの『なぜ精神分析か?』(1999)、とりわけその第三部第一章「科学と精神分析」を要約する。

4)「精神分析の科学性」という問題構成を「精神分析と人文科学」という観点から考察している、死後出版されたアルチュセールの講演速記録『精神分析と人文諸科学』、とりわけ同題の第一講演を要約する。

5)「精神分析の科学性」という問題構成を最も深く探究したラカンのアプローチを、すでに公刊されているセミネール、とりわけセミネールXI「精神分析の四基本概念」(1964/1973)から該当部分を要約する。

もちろんこれ以外にも読むべきものは多々あります。皆さんからも「これ読まないと」とご提案いただければ幸いです。hf

Friday, October 18, 2002

ボチュル、『カントの性生活』(5)

 カントは哲学の著作を仕事の前や後に、あるいは情熱に焦がれて、あるいは癒しのように書いたのです。彼は大学界のお偉方たちからは長い間、アマチュア哲学者と見なされていました。非常に遅くにではありますが、栄光が訪れた後も、カントは生き字引の役を演じ続けました。

  75歳まで、すなわち力の尽き果てるまで、彼は講義を続けたのです。退職年金がなかったからです。なんという骨折り仕事でしょうか!生きていくのも楽では ありません。平然と謝礼を払わなかった学生もいましたし、払いたくともお金がなく、友達に薦められたからやって来たという者たちは無料で迎え入れられたこ とでしょう。

 農民が一年中畑と作物に縛られているように、カントは長期休暇を取ることができなかったのです。子沢山の一家に生まれた、つましい職人の息子、この知識人の生涯はそれだけでもすでに一つの成功とは言えないでしょうか。

  パリやヴェニスへぶらつきにでも行ければ、それはさぞかし良かったことでしょう。結婚していればさぞ良かったかもしれません。子供たちを養うために講義の 数を増やし、その子供たちが廊下をはしゃいで飛び跳ねている間、講義室ではロシア人客やプロイセン人客やを手放さぬよう努めながら、よく聞き取れないか細 い声で講義を続けるカント…

***

 しばし脱線的考察。ボチュルの講演自体はその真偽を疑わせ る要素はないにしても、フレデリック・パジェス(友の会代表)の解説文を読んでいると、このボチュルなる人物は本当に実在するのか、ヌエヴァ・ケーニヒス ベルクも、カント原理主義者の超越論的共同体も、すべてはボルヘス的欲望に取り憑かれたフレデリック・パジェスの倒錯的創作ではないのかという疑念が、ど うしても頭をかすめてしまう。以下、怪しい点には注意を喚起する。しかしそういった点をすべて考慮に入れたとしても、この小冊子は取り上げるに値する試み を行なっていると思う。



 私は先に「あらゆる危険を承知で」と言った。敗戦直後のドイツ人移 民共同体の前で、フランス人がドイツの哲学者について語るという現実的・政治的な危険だけではない。「カント原理主義者と呼ばれもしたあの奇妙な移民た ち」の前でカントについて語るという思想的・イデオロギー的な危険(笑)だけでもない。その両方をあわせた政治的かつ思想的な危険があった。

  カント哲学の愛好者(専門家も含めて)にとっておそらくは最も触れられたくない、と同時にいくらか誇るべき点でもあるような問題を前面に押し出すボチュル が最も不安に思っていたのは、辺鄙な土地に住み着いたドイツ人移民共同体であるというよりは、フランス本国の思想的=政治的権威、とりわけソル
ボンヌの動向であった(ボチュルの具体的な伝記的事実について何も分からない以上、ソルボンヌが最大の脅威であったと断定することはできないはずだが)。(続く)

Tuesday, October 15, 2002

ボチュル、『カントの性生活』(4)

*カント商店

 これまでほとんど言われたことがありませんけれども、カントがまったくケーニヒスベルクを離れたがらなかったことには、ごく単純な理由があります。彼はそこで「店」を営んでいたのです。

 人々はカントが大学教員 だったからといって、とかく彼のことを、大学から給料をもらい、日々の必要に迫られて汲々とすることのなかった、ほとんど官吏のように思い描きがちです。 これはまったく誤ったパースペクティヴのとり方であり、歴然たる時代錯誤であると言わざるをえません。

 確かにカントは、王立図 書館副司書として俸給を得ていましたが、それは微々たる物でした。大学教員としてのカントは、自営業者として、独立事業者として、この職種の者に科される あらゆる制約に縛られながら生きていたのです。彼の主要な収入源は、講義に出席している学生たちの支払う謝礼でした。客が入らなければ金も入らない、とい うわけです。

 言ってみればカントは、聴衆が大学教員たちに金を払う中世的な古いシステムの支配下に生きていたようなものです。20世紀の我々の近代的な大学や、1830年代にヘーゲル教授の職と生活の安定を保証していたベルリン大学とはまったく違うシステムのもとに。

 カントは、医者や弁護士 のように、自由業者として哲学という商売を営んでいました。客を迎えるには、そのための部屋が必要です。だからこそカントは、その一階に講義室(家の中で 最も広い部屋であり、カントの生活の中心の一つ)を設えるために、絶えず自分の家を持ったのです。まあこの仕事道具は借りるだけでも良かったはずではない かと言われそうですけれども

 カントが隣人たちのたて る音に(とりわけ隣人たちが歌い始めたときには)口喧しかったことをからかう者もいます。隣人の歌と言っても、独房の開け放たれた窓から厭でも聞こえてく る、必ずしも聞いて心地よいとは言えない、囚人たちが大音量で歌うように命じられていた単調な旋律のことですがカントはこのような状況が改善されるよう市庁に手紙を書き送ったのでした、歌う囚人たちについて。

 しかし私たちは、カント にとって自宅が仕事場であったということを思い起こす必要があります。彼はそこで講義を準備し、そこで講義を行なわねばならなかったのです。静寂が求めら れるのは当然のことであり、騒音などとんでもないことです。カントの家は、二人の労働者、すなわちカントと下男のランペ

を抱える零細企業だったのですから。

 客は学生や社会人、プロ グラムには地理、詩、砲術、天文学など、どんな科目でもありましたが、カントは哲学を主に教えていたわけではないということがしばしば忘れられています。 彼を近代的な制度のもとでの初の哲学教授と考えるのは間違いです。カントは近代の最初の哲学者ではなく、旧制度(アンシャン・レジーム)の最後の哲学者 だったのです。(続く)

Monday, October 14, 2002

ボチュル、『カントの性生活』(3)

(今年はじめに書いたもので、ML01075,01081の続きです。)

 皆さん、こんにちは。リールでも(当たり前のことですが)始まりました、ユーロ。まあどうしてもふだんよりは混雑するけれど、思ったほど混乱はなくて、ほっとしています。

 前回から提示しているのは「翻案」であって「翻訳」はありません、念のため。

***閑談の壱(承前)

 カントは時代から、都市生活から離れて、隠遁生活を送ったわけではありません。彼のことを象牙の塔に独り引きこもった、社交的な生活の敵として思い浮かべるなどとはとんでもないことです。

 私はカントの伝記作者たちが、彼の生涯のざらつきやシミをぼかしてしまうために「艶出し」し、人柄を「透化」することによって、歴史の中に老いさらばえ強迫観念に取り憑かれたカントというイメージを定着させようとしたのではないか、と疑っています。

 しかしカントにしたところで、有名になるまでは、つまり六十歳になるまでは、人並みの生涯を送ってきたのです。一介のMagisterにすぎなかった頃は、居酒屋に出入りし、ビリヤードをたしなみ、時には深夜に帰宅したのです。

 正教授になり、家を購入し、下男を独り雇うようになると、カントは好んで昼食に人々を招き、この昼食はしばしば午後遅くまで続いたものでした。

 カントはケーニヒスベルクの上流社会からの招きにも自ら好んで応じました。この「感じのいい仲間」について、あるものは次のように証言しています(興味のある方のために申しあげておけば、J.H.L.Meierottoという人物です)。

 「彼は老人たちの中でも最も軽快で、最も愉快な老人であり、言葉の最も高貴な意味でbon vivant(享楽主義者、美食家)です。彼が読むようにと与えてくれる哲学を人々がうまく消化できないのとは見事に対照的に、彼はどんなに重い食事でもぺろりと平らげ消化してしまうのです」。

 青年時代に家庭教師とし て勤めたカイザーリンク伯爵夫妻の晩餐会では、貴賓席が与えられていました。というのも、ある証言によれば、「ほとんどいつも会話の鍵を握っていた」から です。カントは、あらゆる話題について話をすることができました。そして人々も彼に何でも相談したのです。

 例えば1774年、ケーニヒスベルクで最初の避雷針をハーベルベルガー教会の上に設置するよう、市当局から依頼を受けた物理学者は、我らの哲学者に意見を求める手紙を書き送りました。雷カウンセラー・カントというわけです。

(続く)

Wednesday, October 09, 2002

対立の共同体(4)

こんにちは。

例えば、イスラエルの市民運動に関する今回の田中ニュース(最後の民族性に
関するくだりを除けば、素晴らしい!)を次のニュースと併せ読むこと。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20021007-00000069-mai-soci

3*『明かしえぬ』以後

 『無為』刊行後、『明かしえぬ』が現われたのをはじめとして「共同体」のモチーフは徐々に注目を集め、共産主義的ないし共同体主義的ないかなる計画ももはや支えることのできなくなっていたこの領域に新たな地位を与えることが緊急の課題である、と認知された。

 新たな地位を与える、別の呼び名で呼ぶということは、もはやその名では呼ばないということ、共同体が自らの実質となり自らの価値となるというトートロジーから抜け出すこと、さらには使徒たちの原始共同体、教会、修道会、聖体拝領(コミュニオン)などのキリスト教的な含意(バタイユの来歴はこの点
では疑いの余地はない)の拘束から自由になることである。

 こうして『無為』と『明かしえぬ』の刊行後、共同体を主題化し規定しようとする一連の試みが現れてきたわけである(アガンベン、ランシエール、ラクラウとムフ、やや遅れてフェッラーリ、次いでエスポージトらによる、これらの試みは今なお米国を中心として継続されているが、それは新たに鋳直された「共同体主義」が問題となる、まったく異なる文脈においてのことである)。



 だがこれまでのところナンシーは、「共同体」という語と真正面から取り組むどころか、むしろ逆に、徐々に「一緒に-いること」「共同-で-あること」そして最終的には「共に-いること」といった無愛想(disgracieuses)な表現によって「共同体」という語を置き換えようとしてきた。この移動、諦め(一時
的なものにすぎないとしても)無愛想な語には無論、理由があった。

 「共同体」という語を用いることによって様々な危険が惹起されることは目に見えていた。どうしようもなく実質と内面性に満ち満ちた響き、避けることが困難なキリスト教的ニュアンス(精神的、同胞的、霊的な共同体)、あるいはもっと広く宗教的なニュアンス(ユダヤ人共同体、ウンマ)、「民族」を裏付けにしたと称して「共同体」という語を用いる、などなど。必要ではあるが、未だほとんど解明されていないこの概念を強調することは明らかに、共同体主義的な、ファッショ的ですらある衝動を蘇生させてしまう惧れがあった。ナンシーが最終的に「共にavec」の概念に仕事を収束させていくことを選んだ
のは、そのためであった。

 共同体の「共co-」とほとんど識別不可能であるとしても、この「共に」は、近さと親密さの核心において「共」よりはっきりとした隔たりがあることを示している。「共に」は乾いていて(sec)、中立的である。聖体拝領的な融合でもなく、微粒子化的な分裂でもない、ただある場所を共有=分割するだけ、せいぜいのところ接触。ブレンドなしに一緒にいること(この意味で、ハイデガーにおいてペンディングにされている「共存在」の分析をさらに推し進める必要がある)。



 今日(2001年10月という日付を強調しておこう)、荒れ狂う情念のあらゆる特性を備えた出来事が、世界中に、とりわけ西洋世界とその周縁、その内的・外的な境界(まだ外的なほうが残っているとしての話だが)に広がりつつある。全能の神であれ「自由」であれ(こちらも劣らず神憑り的である)、情念
の様々な形象が、対立的な身振りで、現在の世界の動向が示している周知のあらゆる恐喝・搾取・人心操作を覆い隠すと同時に暴露してもいる。だが仮面を剥ぎ取ることはまず必要な作業ではあっても、それだけでは十分ではない。情念的な諸形象がただ偶然に空いた場所を占めに来たわけではないということをも考えねばならない。この空いた場所こそ共同体の真理の場所に他ならない。

 荒れ狂う神への呼びかけと、"In God we trust"といった表明は、「一緒に-いること」の必要・欲望・不安を、対称的な形で道具化している。つまり英雄的な身振り、壮大なスペクタクル、飽くことを知らぬ怪しげな企みに再び利用しているのである。その一方で、どちらも秘密を暴くとしながら、その欠片す
らも隠し通そうとする。実際、どちらも、まさに「神」というあまりに明かしすぎている名のもとに、この秘密を隠しているのである。我々としては、ここから考え始めなければならない。神も支配者もなく、共同的な実体もなしに、共同体の、「共に-あること」の秘密をどう考えるか。

 共同体の無為(ある秘密を洩らすことなく共有=分割する可能性、まさに我々に漏らすことなしに、我々の間である秘密を共有=分割する可能性はそこにある)について、これまでのところさして考えを推し進めてきたとは言えない。だが、権力や利潤といった化け物じみた争点のために相対立している、これまた化け物じみた思想(ないしイデオロギー)に直面して、一つの仕事があることは疑いえない。いかなる実体にも頼ることなく、「共に-あること」という考ええぬもの、定めえぬもの、論じえぬものを敢えて考えること、である。この仕事は、経済的なものでもなければ政治的なものでもなく、いずれは経済的なものと政治的なものとを共に作動させるものである。

 我々が現在目にしているのは、「文明間の戦争」などではない。

(ひとまず完)

Tuesday, October 08, 2002

対立の共同体(3)

ナンシーの『対立の共同体』翻案(ML1076、1197)の続きです。



 では、「我々」は何を共有=分割しているというのか?おそらくは「明かしえぬもの」を、すなわちブランショが『明かしえぬ』の第二部によって、そして『無為』という理論的なテクストに関する考察とデュラスの『死の病』という愛と死の物語に関する考察を合わせて『明かしえぬ』を構成することによって示そうとしているものを共有=分割しているのであろう。

 かつてのナンシーには、ブランショがこの二つのテクストを対照的なものとして区別しているように思われた。『無為』が否定的な考察に、あるいは虚ろな「無為」に留まっているテクストであるのに対して、『死の病』は「有為の」ではないにしても、限界の経験(愛と死の経験、限界において開示される)を共有することで密やかに操作される(明かしえぬ)共同体に道を開くテクストである、と。

 だがおそらくは、「共同体」の本質なき本質に至るこの二つの道はどこかで、『明かしえぬ』の一部と二部の間のどこかで、社会的-政治的な領域と情念的-私的(intime)な領域の間のどこかで出会うはずだ、とブランショは言っているのではないか。複数的な実存(誕生、分離、対立)と単独性(死、愛)を同時に可能にする強度の、奔出の、喪失・放棄の謎をその「どこか」で考え抜かねばならない。たとえ誕生と死、愛と戦争には常に「明かしえぬもの」が含まれているとしても。



 「明かしえぬもの」とは恥ずべき秘密を指す。「明かしえぬもの」が恥ずべきものであるのは、それがsouverainte(主権/至高性)とintimite(親密さ/私生活)という二つの可能な形象のもとで、「明かしえぬもの」一般としてしか開示されえないpassion(情念/受苦)を関与させているからである。「明かしえぬもの」の情念が正体を告げるとすれば、その告白は耐えがたいものとなろうが、同時にそのような告白は、この情念のもつ力をも破壊してしまうことになるであろう。

 「明かしえぬもの」の情念とは、それがなければ私たちはいかなる「一緒に-いること」、つまりは「存在すること」そのものをもすでに断念してしまっていたであろうものである。この情念がなければ、底なしの慎み深さのうちに引きこもった至高性と親密さに従って、我々を世界の中に生み出すものを断念
したであろう。なぜなら我々を世界の中に生み出すものとはまた、我々を分離、有限性、無限の出会い(そこで各々が他者と、したがってまた自己と、他者の世界としての世界と、気の遠くなるような接触を続ける)の極へと一挙に運び去るものでもあるからである。我々を世界の中に生み出すものは、すぐさま世界からあらゆる根本的あるいは最終的な単一性を奪い去って、世界を共有=分割する。

 「明かしえぬもの」とはしたがって、羞恥心のなさと羞恥心とを見分けられなくなるほどまでに混交した語である。羞恥心がないというのは、ある秘密を告げ知らせてしまうからであり羞恥心があるというのは、その秘密は秘密のままに留まるであろうと確言するからである。

 押し黙った者のみが、このような仕方で押し殺されるものを知っている。だがこのような知は、それ自身交通の知であるにもかかわらず、伝えあうべきものではない。交通の知の法とは、互いに伝え合わないということであるに違いない。なぜならこの法は伝達可能なものの領域に属してはいないのだから。しかし、にもかかわらず、交通の知の法は、言葉で言い尽くせぬものではない。それはあらゆる言葉を開く。

Sunday, October 06, 2002

対立の共同体(2)

 これまた今年一月初旬に「翻案」したものですが、共同体の問題を考える時
に、欠かせない本の一つだと思います。
 
***

2*『無為』から『明かしえぬ』へ(pp.36-43.)

 ナンシーが『無為』において、社会の「死刑」としての共同体の「作動」(oeuvre)を明らかにし、それと相関的な仕方で、無限の交通(コミュニケーション)の本質を保存しつつも、作動するのを拒むような共同体、すなわち無為の共同体の必要性=必然性を確立する、と主張していたまさにその地点にこそ、明かしうるものではない秘密、「明かしえぬもの」がある、とブランショは警告しているのではないか。

 「無為」に対抗して置かれた「明かしえぬ」という形容詞が考えるように促しているのは、無為(désoeuvrement)の下になお作動(oeuvre)が、明かしえぬ作動が存在しているということである。無為の共同体、つまり共同体なしに存在する者たちの共同体(我々すべて)は、「共同-で-あること」の秘密をベールを脱いだ姿で曝け出すことは決してなく、したがって(無為の共同体が「共同的なもの」そのものであるにもかかわらず、それだからこそ)交通することもない。 

 無為の共同体はむしろこの秘密を激化させ、秘密へと接近することの不可能性ないしは禁止、さらには制止、羞恥心(これらはすべてブランショのテクストに表れているモチーフである)を強調する。「明かしえぬもの」とは「言語を絶するもの」ではない。まったく逆に、「明かしえぬもの」は、明かすこともできそうでいて決してできない者たちの親密な沈黙のうちに絶えず語られ、自らを語るものである。ブランショは、この沈黙のことを、この沈黙が言わんとするところを告げようとしたのではないか。

 親密さそのものに他ならない交通や共同体の親密さ、いかなる無為よりも深く隠された親密な「作動」のような親密さは、沈黙を可能にし必然的なものにする。と同時に、この親密さが沈黙の中に溶け去ってしまうことは決してない。神秘的な交流の共同体を否定するだけに留まっていたナンシーに、ブランショが再考を促したのは、共同的なものの秘密(共同の秘密ではない)のほうに向かって、この否定性よりさらに先を考えることではなかったか。



 だが、伊語版序文は共同体の問題を考え直す機会をナンシーに与えた。あたかもブランショ自身が「『明かしえぬもの』に用心なさい」「共同体のあらゆる前提に、たとえそれが『無為』という名のものであっても、気をつけなさい」と言っているかのように、あるいは「『無為』という語の示唆するところをもっと深く追究なさい」と言っているかのように、この無為は作動の後に、けれど作動からやってくる。

国民国家や政党国家、普遍的教会(カト+プロ)や自治独立教会(東方正教会)、議会や閣議、人民や会社組織や同胞団体が望むような方向で、社会が自ら作動するのを制止するだけでは十分ではない。常に、常にすでに、共同体の「作動」があるということを同時に考えるのでなくてはならない。個的であれ、種的であれ、あらゆる実存に常に先立っていたということになるであろう共有=分割の操作が常にすでに存在しているということ、それなしにはいかなる現前もいかなる世界も決して存在しえないような交通・伝染が常にすでに存在しているということを考えねばならない。

 というのも「現前」も「世界」も共-存在ないし共-帰属(たとえこの「帰属」が共同-で-あることへの「帰属」にすぎないとしても)という含意を伴っているからである。我々(我々すべて一緒に、そして一緒でありながら区別された)の間にはすでに、ある共同的なものの共有=分割があったのである。共有=分割と言っても、それ以前に共同的なもの自体が存在していたわけではない。共有=分割することによって共同的なものが存在するようになるのであり、実存が自らの固有の限界への開示であるという意味で実存そのものに触れるようになるのである。

 このような共同的なものの共有=分割こそが、我々を分かちつつ、我々を近づけつつ、決定的な未決定のうちにいる「我々の間に」隔たりによって近接性をつくり出しながら、我々を「我々」たらしめたのである。「我々」というこの集団的・複数的な主体は、決して「自分の固有な」声を見出さぬよう宣告されているが、それこそがこの主体の偉大さの証しである。(続く)

Saturday, October 05, 2002

ブルーメンベルク補遺(下)

 ブルーメンベルクの代表作『近代の正統性』については、村上陽一郎の好意的だけれど内容のない書評以外に書評を見かけませんでしたが、まああれだけの大作ですからね・・・

 というわけで、幾つか読んだ中からJean-Claude Dussaultという人の平均的な「否定的」書評を一つだけ紹介しておきます。



 思想の発展というのは、ずいぶんと騒がしい代物である。『近代の正統性』の中で、ハンス・ブルーメンベルクは、哲学的思索の二千年の歴史を取り上げて、ヘーゲルやシュペングラーの壮大な歴史哲学的総括を思わせる一つのテーゼに押し込めてみせる。
 その長い論証過程は確かに恐るべき文献渉猟に裏打ちされてはいるが、配列・構成はどことなく行き当たりばったりに思われ、あたかも本書の最終形態は、著者ではなく他の誰かが決定したかのようである。
 例えば、「理論的好奇心」を扱う第三部は、「西洋人は真理の探究において自己主張を獲得しようとしているのだ」という主要なテーゼから脇に逸れているように見える。
 それにそもそも、本書冒頭では、歴史の時間の流れに沿ってこのテーゼを論証していくと予告されており、読者は当然それを期待するのだが、実際の論証はむしろ幾つかのテーマに沿って展開されていくので、この見かけのズレをきちんと理解しようと思えば、読者には西洋思想史についての百科全書的な知識が要求されることになる。
 なぜ第二部で、デカルトによってなされた理性革命を見届けた後で、第三部で、アウグスティヌスやテルトゥリアヌスやその他の教父たちのあまりに微細な神学論議に戻っていき、場合によっては古代哲学へ乱入していかねばならないのか?
 ブルーメンベルクは、二百頁以上にわたって、幾度もさまざまな形で西洋文化を揺り動かしてきた議論、すなわち好奇心についての議論を検討する。諸対象と外部世界に関する研究は、どこまで推し進めるのが「正当」なのか?科学的探究の限界とは何か?
 本書は、中世の思考から近代の思考への移行を画するエンブレマティックな二人の人物を扱って終わる。ニコラウス・クザーヌスとジョルダーノ・ブルーノである。一方は、スコラ学に新たな思考の可能性を認めることでそれを救おうと試みる最後の人物として、他方は、この移行過程において、神的な内在性をあらゆる存在に広げ、火刑台の上でなおキリスト教的な贖いの神から目を背けることで、すべてを転倒した人物として。
 本書はときにきわめて面白い、しかし多少éreintantな本であり、哲学に対する興味と時間的な余裕をもつ読者にしかお薦めできない。

***

 最後に、ブルーメンベルクで検索しているうちに非常に興味深いサイトに出会ったので、すでにご存知かもしれませんが、ご紹介しておきます(ssさんの本の書評もありましたよ。ちょっと辛辣ですが…)。彼らの掲示板でのやりとりの幾つかも必見。誰が主催してるんでしょうね?
http://members.tripod.co.jp/studia_humanitatis/newbooks.html

 ヴァッティモの『信仰』を取り上げての「最近は、哲学の中に神学の用語や着想を導入する傾向が比較的多く見受けられるようになってきた。」といった発言の的確さや、「ブルーメンベルクは哲学の側よりは神学の側からのほうがアプローチしやすい側面もあるかもしれない。古代・中世・近代という垣根を作ってその枠の中で安閑としているような哲学研究者には、所詮手の出せない相手なのだ。」といった発言に垣間見える主催者の指向には共感を覚えます。

Thursday, October 03, 2002

ブルーメンベルク補遺(中)

『マタイによる受難』(仏訳1996)

 世界の至る所で、かつてなく多様な形で、かつてなく多様な条件のもとで、何万もの人々が、ヨハン=セバスチャン・バッハの「マタイ受難曲」に耳を傾ける時代にあって、ブルーメンベルクは、今日の聴衆がそこに何を聴き取り理解することができるのかを問いかける。

 この傑作がつくられてから250年という時が流れ、その間、世界は決定的な変化を見た。だが、広義の意味での「技術」の変化以外にも、キリストの受難、バッハの「神の受難」、アウグスティヌスやルターの神を理解することには困難が立ちはだかっている。

 今日の聴衆とバッハの属していた共同体を隔てる距離を測るために、ブルーメンベルクは、現象学の方法論に立脚し、精神分析や解釈学を縦横に駆使しつつ、福音書やバッハのリブレット、神学の様々なテクストを読み解いていく。(まあ要は、ノルベルト・エリアスばりの音楽の社会学の一ヴァリアントじゃないかとも言えるでしょうが。)


『トラキアの下女の哄笑』

 「理論」の誕生について「歴史」はその正確な時点を詳らかにはしていないが、「理論」の誕生を物語るある逸話は一つだけ存在し、幾世紀を越えて我々にまで伝えられている。

 それによれば、ある夜、星を観察していたタレスは、井戸に落ち、彼を助けに駆けつけたトラキア出身の下女の哄笑を浴びたという。世界の起源をたった一つの要素すなわち水から説明する理論を打ち立てた偉大な哲学者にして、人類史上初めて日食を予言した天文学者は、下女の笑いを誘った。というのも彼は自分の足元に何があるのかを見ていなかったからである。

 この逸話は実に様々な問題を提起している。トラキアの下婢の哄笑が哲学のイメージに与えた衝撃は、ポリスにおける哲学者の位置、近いもの(井戸、生活)と遠いもの(星、観念)の関係、生の世界と観念の世界の(あるいは理論家の自由と召使の不自由の)関係に関わっているのである。

 ブルーメンベルクは、数世紀にわたるこの逸話の変遷を分析する。あの天文学者は名が知られている場合もあれば名もなき人であったり、彼を馬鹿にした下婢も若かったり年老いていたり、彼が落ちた穴も貯水池だったり堀だったりと様々である。だが、下婢の哄笑だけは、理論の奇妙さに直面したときに日常生活が洩らす無理解の徴として留まり続けたのである。

 ブルーメンベルクは、イソップの寓話からハイデガーまで、この逸話の受容史を跡づけた後で、この逸話の前例のない成功を、哲学が自分に対して抱いている意識の一形態と捉える。

「実際、哲学者を笑えるのは、自分は彼らとは違うと思っている人たちだけであるはずだが、どう見てもこの哲学という領域にいる者たちは、自分だけは例外だと思い込んでいるようである。」
(続く)

Wednesday, October 02, 2002

ブルーメンベルク補遺(上)

 こんにちは。ML01096の続きです。



 今年(2002年)の6月、ようやくハンス・ブルーメンベルクの大著「近代の正統性」(ウニベルシタス)の邦訳が4年がかりで完結した。フランスでは1999年に一巻本で仏訳が出たから、まあほぼ同時期といっていい。

 それにしても、1966年に初版の出たこの本の翻訳がなぜここまで遅れたのか、翻訳が出た今となっては全く理解しがたい現象なのだが、まあ思想の歴史はこういった例に事欠かない。ヘーゲルの『精神現象学』の完訳版がフランス語で出たのは1941年、原書出版(1807)から優に一世紀以上経っているのである。



 フランスにおける受容の遅さについては前回チラッと触れましたが、ブルーメンベルクの『憂い事は川をも渡る』(仏訳1990)についての次のような「書評」(これを書評と呼べるとすればですが)が端的にそれを物語っています。

「密やかさを愛し、意図的に大衆から遠ざかった哲学者、ハンス・ブルーメンベルクは、彼の諸著作を未だ読んだことはないが、彼の名を聞いたことはあるという人々の好感という富をかちえている。「世評」では、彼は現代ドイツの重要な思想家の一人であり、「世評」では、彼の哲学的な思索には彼の慎ましさと共に並々ならぬものがあり、「世評」は彼について様々なことを語っている…だがこの『憂い事は川をも渡る』と共に、「世評」は確信に変わる。」(チエリー・パコ、『キャンゼーヌ・リテレール』誌)

 ドイツ語を読めないに違いない評者の苦心ぶりがうかがわれるこの一文から、90年代当初までのフランスにおける受容の様子を想像することはさほど困難ではないでしょう。

 さて、著者やこの著作自体についての紹介は邦訳を参照していただくことにして、ブルーメンベルクの膨大な著作の中から仏訳されている他の幾つかの著作を紹介しておきましょう。(あらかじめ元ネタをばらしておきますと)
http://www.arche-editeur.com/Catalogue/B/blumenberg2.htm

『観衆のいる難破』(仏訳1994、邦訳)

 驚くべき博識と、それでいて反体系的な意表を突く方法論を用いるハンス・ブルーメンベルクは、すでに数多くの著作を発表している。本書は、ブルーメンベルクの独創的な研究手法の一つである「隠喩学」(メタフォロロジー)、すなわち形象をあらゆる概念的な思考の根として読み解いてみせる手法によって、様々なテクストに登場する「難破」を人間存在とその危機、その限界の比喩として再解釈する。難破は、遠くにいるのであれ、巻き込まれているのであれ、それを見ている者にとってしか意味をもたない。人間という冒険の失敗、歴史の無秩序という見世物に魅せられているのであれ、思いをめぐらせているのであれ、それを見ているものにとってしか意味をもたない。ブルーメンベルクは比類のない鮮やかな手つきで、難破について考察し、意味をずらし、また回帰させた者たちを召喚しつつ、難破の形象の歴史とその豊かさを描き出す。ルクレチウスから、ヴォルテール、ゲーテを経てニーチェに至るまで、ある形象の意味の軌跡へと私たちを誘ってくれる。(この説明だけ読むと、比較文学系なんかに割にありがちなアプローチという気がしますけどね。)
(続く)

対立の共同体(リール版)

 駄乱長文に予めご容赦を願います。

***

 2002年8月12日付の田中ニュースに「パレスチナの検問所に並ぶ」という記
事があった。パレスチナの「自治区」(今や名目化した)とイスラエルの占領
地区との間を隔てる検問所をくぐった体験を記したものである。この記事を読
んだ時、まさかその後自分が同じ体験をしようとは思ってもいなかった。

 2002年9月30日、午前十時半ごろ、軽い気持ちで滞在許可証の更新にリール
の県庁別館へ出かけた。百人ほど並んでいた。ちなみに「並んでいた」という
のは、別館の中ではなく、寒風吹きすさぶ外である。我々は建物の中で待つ権
利すら与えられていないのだ。その後一時間で三メートルほど進んだだけで、
十一時半に入り口は閉ざされた。再開は一時半、大半の人々はそれまで待つ気
であったが、私は諦めて帰ることにした。

 翌10月1日、午前八時、開館の三十分前、この時間なら大丈夫だろうと気合
十分で同じ場所に行ってみると、二百人!ほど並んでいる。昨日より早い時間
なので、本当に寒い。それでも当初私は楽観的であった。

 というのも、一昨年、昨年とリールで滞在許可証を取ったときには、8時20
分にくれば、8時50分には中に入れたからだ(並んでいる人数は30人ほどだっ
た)。しかし甘かった。

 入り口の前には、滞在許可証などを取りにくる外国人用に、仏語・英語・ア
ラビア語で書かれた大きなポスターが張ってある。その一番上に、「内務省・
外国人課」と書かれている。内務省と言えば、今年春先の選挙で右派が大勝し
た後、ラファラン政権が政策の目玉として掲げた「治安強化」を取り仕切る部
署であり、その長たるニコラ・サルコジーが「断固たる姿勢で」望むと大見得
を切って次々と強行策を打ち出しているところである。

 その後、列に並んでいる人々と情報交換をしているうちに分かってきたのだ
が、昨年までは県庁の外国人課だけでやっていた滞在許可証交付作業に、今年
から内務省が加わったのだと言う。何をかいわんやである。我々外国人は、
「断固たる姿勢で」取り締まられるべき対象であるらしい。その証拠に、去年
まで中に入って待つことができたのに、今年は建物の中に入る人数が制限され
ている。30分に10人入ればいいほうである。

 並んでいる間に、色々と「事件」が起きる。列の最前列にいる人などは、朝
5時から並んでいると言う。5時ですよ!好きな歌手のチケットでも取るために
並んでいると言うなら話は分かるが、我々はとらなくていいんならとりたくも
ない滞在許可証のために並んでいるのである。彼らは腰掛椅子・毛布・食糧持
参である。つまり彼らはすでに少なくとも一度は痛い目を見たわけだ。

 彼らは数人で来ているので、何人かが休憩に抜ける。後ろのほうに並んでい
る人たちは事情が分からないから、抜けていた何人かが人々の間を掻き分けて
元の位置に戻ろうとすると、ズルをされたような気がして気に食わない。その
うち、その場で知り合った数人のためにマックに買出しに出かけていた女の子
が帰ってくると、一人の大男が「もう後ろからきた奴を通さない。彼女を通す
んなら、俺だって前に行きたい」と喚き始めた。女の子は泣きそうになり、周
りが文句を言って、女の子を先に行かせたが、彼も数メートル強引に進んできた。

 私も懸命に彼に説明したが、埒があかない。人々が、後ろから割って入って
くる人(たとえばA)を黙って先に行かせるのは、Aが以前、前のほうにいた
のだろうと思うからだ。もちろん直接的な証拠はない。後ろのほうにいる人た
ちはそれを疑うことができる。しかし少なくともAの周りにいた人たち(たと
えばB)は彼がいたことを証言できる。Bの存在はCが、Cの存在はDが証言
してくれる。

 むろんミニマルに見れば、隣同士で少しでも前に行こうという小競り合いな
どはあるわけで、「人類愛に満ちたタイトな共同体」などは望むべくもない
が、巨視的に見れば、こうして我々は間接的な信頼によってルースな秩序を保
ちつつ、一つの「共同体」を構成しているわけだ。

 カントの永遠平和の理論を思い出させる状況だ。我々は麗しい人類愛によっ
て、戦争のない永遠平和を達成するのではない。幾度も際限なく続く戦争に徐
々にうんざりして、ルースながら大波乱のない無戦争状態へと巨視的に見れば
至るはずだ、と。

 さらに快い驚きだったのは、大男が突然、それまで口論していた人々に謝っ
てその人々を前に行かせ、自分は後ろへ下がったことだった。統制的理念の勝
利だね、と件の女の子に言いたかったけれど、「うまく片がついてよかった
ね」とだけ言っておいた。

 こうしてカメルーン人、インド人、中国人、あらゆる国のアラブ人、スロ
ヴァキア人などと喋りまくって、4時まで待つ間に、へとへとになってしま
う。ようやく扉まで数メートル、僕の前には三十人、入れるか入れないか微妙
なところだ。

 ようやく中の様子が見えてくる、と思いきや何も見えない。ガラス扉の中に
もうひとつ鉄の扉があって、ぴったり閉められている。カフカの「法の門番」
を思わせるな、と思っていると、本当に数人の警官が数十分に一度出てくる。

 威圧的な態度と、いかなる懇願も受け付けない冷酷無比もそっくりだ。入り
口までもうすぐのところにいるというのに、時間は無慈悲に過ぎて行く。我々
はますます焦り、後ろの人々はますます強く我々を押してくる。扉を開けるた
めに、警官は人々に「下がれ」と怒号するが、人々はわずかに開いた隙間から
中に飛び込もうとする。扉をはさんで奇妙なおしくら饅頭が続く。人々も警官
も考えていることは同じなはずなのに、やっていることはそれぞれ正反対なのだ。

 そのうち、キレた警官の一人が警棒を振りかざし、扉はまた閉じられた。ま
だ4時10分。あと二十分ある。かなりの人々が諦めて帰り始めたおかげで、4時
20分には私は列の先頭、扉の真ん前にいた。扉の前には諦め切れずに残ったニ
十数人。すぐ後ろの人なつっこそうなアジア人のおばさんが「あんた、ラオス
語喋れる?」と聞いてくる。私はアジア人だけど、残念ながらラオス語は喋れ
ない、とフランス語で答える。

 彼女がなおも私の隣にいる巨漢太っちょアラブ人を指して「リアン、リア
ン」と言うので、「困ったな、ラオス語分からないんだけど。rien(何に
もない)って言いたいのかな」と太っちょに言うと、太っちょが「彼女は、僕
の髭を指してlion(ライオン)って言ってるんだよ。僕はアジア人じゃないの
に、君よりラオス語が分かるよ、きっと」と皆を笑わせる。

 あと五分というところで、また別の思いがけない青年と出会う。去年の年末
の火事のとき僕たちを助けてくれた同じアパートの住人だった男だ。彼も私た
ちも、その後、神経症的につらくあたるようになった大家さんにうんざりして
アパートを出たのだった。「お互い大変だったね」「今もね」と慰めあってい
ると、4時半になる。

 県庁に書類を取りにきたのに、したことと言えば見知らぬ異国の友たちとの
おしくら饅頭だけであり、見たものといえば紅潮した警官たちの怒りの形相だ
けだ。書類には指一本触れることもなく、役人の顔すら見ていない。

 こうして人々は肩をすくめて散り散りに散っていく。数時間だけの名もなき
共同体は、跡形もなく掻き消えていく。そして明日も同じ事が繰り返される。

 共同体とはそもそも本質的に、このような形であるものではないか。
 ちなみにブルシエやら交換留学できている人たちには優遇措置があるよう
で、彼らはこの貧しい共同体には参画していない。Tant mieux pour eux !
 私は明日、5時に家を出る。そういうわけでこのメールが皆さんのもとに今
届くわけです。

Tuesday, October 01, 2002

Communitas (2)

isさん、

 エスポージト、ご指摘どうもありがとうございました。生年は、参照したサイト(末尾に付記)に書いてあったので信じてしまったのですが、おそらくおっしゃる通りなのでしょう。やっぱりもっとちゃんと確認しないといけませんでしたね。

 名前の問題(より正確に言えばカタカナ表記)はいつも厄介です。実はついさっきまで、とあるsoutenanceを見物するためにパスカルの生地、ベルクソンの第二の故郷、クレルモン・フェランに行ってたんですが、主査である気鋭の現象学者Renaut Barbarasの名前なんか、「バルバラ」「バルバラス」(こっちが主流)と審査員たちの間ですら呼び方が違ってたくらいですからね。


(ちなみにこのバルバラス、要チェック人物です。)

 日本語でも「コージン」なのか「ユキヒト」なのか分からないことはありますが、最近の本は著者紹介や奥付などでほとんどの場合発音は確認できますからねえ。

 アガンベン、来年12月にパリのEPHEで、宗教と政治に関するセミナーを開くそうですから、よろしかったらどうぞ。

***

 ところで、まさにこの接触・「汚染」の危険に対して、近代哲学は防衛的な免疫機制(immunity)を作動させてきた。

 immunityは現在ではまず医学用語として定着しているが、その語源Immunitasは、「munusを免れた」という意味で、元々は、貴族や聖職者などの免責特権・義務免除などに用いられた法律用語であったのであり、それが後に医学用語に転用されたのである。

 immunityは、 例えば我々が他者と予期せぬ接触をしたとき、見知らぬものから突然触られた時に覚える動揺のようなものかもしれない。我々の個人としての同一性を確保する ことで我々を守っている、他者に免疫をつける境界線が危険な形で踏み越えられた、と感じるからだろうか。核削減の後、移民問題が我々の社会にとって最大の 危険の一つとみなされているという事実は、我々が「共同体」のもともとの考えからいかに隔たったところにいるかということをよく示している。

  このような漠然とした 「免疫」感覚は、さらに、最新の医学的な知識で身を固めることで、強固な似非科学的イデオロギーに変貌する。免疫学が医学的にのみならず、社会的・法的・ 倫理的果たしている役割を考えてみるとよい。延命をめぐる近代の戦いはすべて、「免疫」というこの象徴的かつ現実的な最前線で交わされているのである。

 communityが同一性の防護的な障壁の破断であるとすれば、immunityは、危険をもたらしうるあらゆる外的要素に抗する防御的かつ攻撃的な形で、それらの障壁をたえず再建しようとする試みである。我々が住んでいる社会を

communityと呼ぶのであれば、immunized communityとでも呼ばねばならないだろう。現在政治哲学における最大の課題は、あらゆる領域で進行しているこのimmunizationに抗して、いかにcommunityを考えるかにある。

(最後に、やはりこの似非語源学的手法の致命的欠陥を簡単に確認しておく。まず、この議論は、印欧語族系以外には通用しない。次に、印欧語族系でも、旧来持っていたcum munusという意味が「なぜ」回復されるべきなのかは、必ずしも自明ではない。)

 以上、"Communitas"序論を要約したエスポジートの講演

http://www.geocities.com/joaojosefonseca/filosofia.htmを、大雑把に要約してみました。いずれ、バタイユとハイデガーを論じた本書最終章などを別個に取り上げて、ご紹介するつもりです。