Sunday, January 10, 2021

【WS発表要約(ロング・バージョン)】分身(double)と分人(dividuel) 文学と哲学のあいだで

WSの記録としては1000字の要約になるので(3月くらいに仏文学会cahierの中に公開予定)、ここにロング・バージョンを公開。


分身(double)と分人(dividuel

文学と哲学のあいだで

藤田尚志(九州産業大学)

本発表では、とりわけ19世紀の文学や絵画、音楽において大きく取り上げられた「分身」を根本的に近代的な形象として捉え、「分人」という現代的な形象との対比のうちにその本質を浮き彫りにすることを試みた。

「分身」の読解格子としておそらく最も有名なのは、精神分析的観点であろう。フロイトは、ドッペルゲンガーとは死(自我の消滅)への恐れという原初的な自己愛(ナルシシズム)から生じた防衛機制であるとするランクの見解を拡張し、心的な検閲を遂行する「超自我」的機能(良心の声)や、抑圧された無意識の欲望を回帰させる「エス」的機能まで分身に負わせていた(cf. 中山元『分身小説論』)。自我・超自我による上方・側面からの検閲・抑圧であれ、エスによる下方からの突き上げ・沸騰・横溢であれ、いわゆる「局所論」として名高い精神分析的図式は、「分身」を精神の垂直的分裂の帰結として捉えている。

精神分析に代表される近代的な読解格子では、分身は、同一の自分であるはずの個人が何らかの形で二重化した姿として捉えられていたが、ポスト構造主義的読解は「私こそが他者の分身である」と主張する。ドゥルーズは『フーコー』(1986年)において、「フーコーに常に執り憑いていた主題は、分身(double)の主題である」と喝破した。「他者」といっても、絶対的な超越性が問題となるのではない。一見断絶と見えたものも襞の折り畳みにすぎず、垂直的分裂と見えたものも、実際には水平的折り畳みにすぎない。「分身」は他者の内在化として新たな姿を現したのである。

しかしながら、20世紀後半以降、分身は、大衆文化・サブカルにおいては依然として根強い人気を誇るものの、もはや哲学的・理論的な関心を引かなくなっているようにも思われる。ドゥルーズは、1990613日の日付をもつジャンクレ・マルタンへの手紙の中で「私はシミュラークルという概念を完全に捨て去ったように思います。この概念には大した価値がないからです」と述べていた。これは、シミュラークルという概念が実効性を失ったからではなく、むしろそれが現代社会を覆いつくしたからではないか。オリジナルが模造に対して圧倒的な価値をもっていた前近代、複製技術の到来によりオリジナルと複製の差異が曖昧になっていく近代、そして私たちが現実世界で見ているものよりも、バーチャルリアリティの世界のほうがリアルな力をもつ現代――例えば、カーナビは現実の道路を見ているわけではないが、現実への介入力という意味では、実際の道路を目視で確認していくよりはるかに強力だ――というボードリヤール的図式はよく知られていよう。

近代的な産業社会の成立を通じて人間精神は本格的に個人として共同体と対峙することになり、その緊張・葛藤・対立・矛盾の“効果”として「分身」が生じてきたのだとすれば、現代社会とそこに生きる自我や人間関係の変質とともに、「分身」の形象自体もその読解格子とともに変化を見せることになるだろう。ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』(1972年)は、巨視的なマクロの視点から「パパ-ママ-私」の三角形の中に幼児の精神形成やその後の心理的諸問題を押し込める「家族主義」を批判し、微視的なミクロの視点から人間の欲望の多様な流れとそれを織りなす諸々の微細な特異点の動きを規定する「部分対象の論理」の解明を主張した。

このような時代状況の変化とともに、私たちの「自我」の存在様態自体もまた大きな変化を蒙らざるを得ない。ドゥルーズは1990年の「追伸――管理社会について」と題された小論において、その変化の特徴を「分人」という単位の出現に見ていた。「いま目の前にあるのは、もはや群れと個人の対ではありません。分割不可能だった個人(individus)は、分割によってその性質を変化させる「分人」(dividuels)になったのです」。自我の垂直的分裂から他者の水平的折り畳みへという「分身」の読解格子の変化は、「分人」概念の登場と軌を一にしていたのではないか。

だが、「個人から分人へ」あるいは「分身から分人へ」という単線的で不可逆的な図式を思い描くとすれば、それはいささかナイーヴにすぎるだろう。個人/分人は、シミュラークルの三つのフェーズ同様、消滅・交代の通時的関係ではなく、並行・包含の共時的関係にあるのではないか。18世紀の異形の作家レチフ・ド・ラ・ブルトンヌは、私たちの考えでは、分人主義的な作家であり、分人的な思考・文体が現代以前にも存在していたことを証明する格好の存在である。ル・ボルニュは、ルソーとレチフの自伝作品を「『告白』あるいは特異な自我(moi singulier)の対象化」「『ムッシュー・ニコラ』あるいは範例的自我(moi exemplaire)の対象化」として実に興味深い比較を行なっているが、私たちとしては、この対比のうちに「個人」と「分人」の概念的差異を明確にできるのではないかと考えている。発表では、1)「凝縮表現」(raccourcis)か「見せびらかし」(étalage)か、2「感情が入り乱れて作り出す無秩序な状態を解きほぐす(débrouiller)」か「自然と目の前にある事物によって心や頭に反して引き回される存在として、あるがままに描く」か、3)パースペクティヴが個別化・特殊化particularisant)の傾向をもつか一般化・全般化généralisant)の傾向をもつか、4)見事なジャンルの書き分けかラディカルなまでに混淆的な創作物か、といった点について個人主義と分人主義の比較を試みた。