Thursday, August 16, 2007

打率

問題というのは本当に思わぬところから起こってくるものだ。自分ではずいぶんいろんなことに注意もし、できるかぎり問題の起こらないよう配慮してやっているつもりだが(それを感じ取ってくれている人々もいることでしょう)、それでもやはり問題は生じてくる。というか、こういうことにきりはないのだ。いつでも、どこにでも問題は突如生じうる。

そして、問題が起こったからといって、研究のほうが待ってくれるわけでもない。プロの世界では結果がすべてだ。

最近、打率ということをよく思う。研究は日々の積み重ねだ。一打席、あるいは一試合、素晴らしい打撃をしたからといって、それが何だろう。コンスタントに打つ、トータルでいい成績を残すこと。それがまずは一軍に定着し、スタメンに名を連ねる条件だろう。

「打率」、日々の積み重ねとは、試合のことだけではない。日々の練習をより効果の高いものにし、より効率よくこなすことも意味している。若いうちは体をいじめ抜け、それが最終的に長くプロ選手をやっていくうえで土台、貴重な財産になる、とスポーツでは言われる。高校野球のスターのうち、何人がプロ野球の一流選手になっただろうか。研究も同じだと思う。

(体をいじめ抜く、とはもちろん、過剰な練習で体を壊すことを意味しない。しかし、自分がこれまで限界としてきたことを超えようとする作業ではある。どのみち、私は、研究のやり過ぎで体を壊すほど真面目な人間ではないので、これはあまり関係ないが。)

日々の練習は、実は、ベテランになっても続く。若手の練習は実力を伸ばすためのものだが、ベテランの練習は、実力を維持するためのものだ。今の体力、それに支えられた技術を維持するために、体をいじめ抜くのである。



今、自分は二流選手だと思っている。今まで論文掲載を拒否されたことは一度もないし、奨学金やプロジェクトの申請もまずまず受かっているので、まったく無能、三流だということではないのだろう。

ポカもあるが、要所要所ではそこそこのバッティングをする。けれど、それでは駄目だ。日々の努力が足りない。もっと努力できるし、もっと自分を追いつめることができるはずだ。ところが、それが出来ていない。

一流と二流を分かつ差は、才能ではなく、努力だと思う。いや正確に言えば、できうる限りの努力をできる才能だ。今のところそれが足りない。欠けているとは思わないが、まったく不十分だ。

これはとても歯がゆい。長距離走のときの歯がゆさに似ている。力尽きた、もう駄目だと思って、歩くようなスピードで走っていたのに、ゴール近くで待っている人たちの声援を受けると、自然とラスト・スパートができる。問題はおそらく、経験不足から来るペース配分ミス、そして何より意志の弱さだったのだ。



けれど、そこで終わりではない。一軍に定着し、活躍することのさらに上がある。

三割打者はすでに一流の証である。試合に勝てばそれでいい、自分の打率は二の次だ、そういう考えもある。けれど、そこに安住しない選手もいる。

勝とうが勝つまいが、一打席一打席ベストを尽くす。三割に満足しない、試合に勝つことに満足しない、それこそが超一流と呼ばれる選手だろう。そこに到達するには、まだまだ何もかもが足りない。

今は自分をもっともっと伸ばす時期。がむしゃらにやればいいというのではない。若さで押し切る時期は終わってしまった。決然とした意志と、明確な目標を持って日々の練習に取り組むことだ。

いずれは、自分の研究時間を確保し、現在の実力を保つだけで精いっぱいという時期がやってくるのだろう。しかし、それはベテランと呼ばれる選手たちの問題だ…。ベテランにも「打率」の問題はやはりつきまとうのである。

No comments: