Wednesday, September 01, 2010

サイト・スペシフィックな哲学教育

大変なときに励ましてくれる友人たちがいるということは本当にありがたいことだ。
少しずつでも前に進まねば。

さて、ynさんからGREPhの精神を継ぐ、ACIREPhの情報をいただきました。彼らは「高校における哲学教育をどうするか」という問題関心からさまざまな提言を行なっている団体のようで、私のように、地方の小さな私立大学で哲学を教える者にとっては、なかなか興味深いものがあります。

再来月(10月23,24日)に研究会をやるようですが、そのテーマが「理科系(技術系)における哲学教育」です。要旨の一部を翻訳しておきましょう。

《問題は、技術系の生徒たちが哲学を「できる」かどうかというよりは、「なぜ」彼らが哲学せねばならず、「いかなる条件のもとでならば」哲学できるようになるのかを知ることである。

今日、哲学教育の目標は、文科系・理科系を問わず(時間数の違いにかかわらず)あらゆる系で同じ文言が用いられている。「判断の反省的な行使」である。だが、この文言は曖昧であり、生徒たちが何を学ばねばならないのか、一年間哲学を学んだ後でいったい彼らは何が出来るようにならねばならないのかを正確に把握させてはくれない。したがって問いを組み立て直す必要がある。

私たちが提案するのは、大文字の哲学(哲学「というもの」)から出発する代わりに、生徒たちから出発することである。彼らはいったいどういった存在なのか。彼らが教育に要求しているのは何なのか?どれほど、どのような点で、哲学は、他の分野とともに、それら以上でもそれら以下でもなく、生徒たちの職業的かつ個人的な生活のために、彼らを知的に武装させることに寄与しうるのか?2500年の哲学の遺産と同時に現代に生きる哲学の中で、彼らの教育にとって有益(bénéfique)なものとは何か?私たち哲学教師は、いかなる道具(いかなる概念や概念的区別、いかなる知と文化の要素)を彼らに伝えていると言えるのか?私たちの助けによって、彼らはいかなる知的な姿勢を我が物にすることを望みうるのか?彼らが何を理解し、何を出来るように助けてあげられるのか?》

重要であり、かつ非常に危うい問題提起だ。サイト・スペシフィックな哲学教育の必要性。高みからの一般論でなく、具体的な提案の模索。

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