パリENSで開催されますが、ZOOMでも開催予定ですので、お時間ある方はぜひ(発表はフランス語)。
5月14日(火)
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私たちはここで「Left bergsonians」という一風変わった概念を提唱したい。これは単に『暴力論』(1908年)のジョルジュ・ソレル(1847-1922年)をはじめとして、アンリ・ベルクソン(1859-1941年)を積極的に援用した「ベルクソン左派」だけに限らない。一見ベルクソンの政治的・社会的思考を見捨て、放棄した(left)ように見える思想家たちの中にも、その思考にとどまり、ひそかにその遺産と共鳴し、ある意味でそれを遺贈された(left)思考があるのではないか。本発表は、「暴力の世紀」でもある二十世紀を生き抜いたフランクフルト学派とその周辺の思想家たちにはそれを見出そうとする試みである。彼らとの対決を通して浮かび上がるのは、「暴力」概念の刷新に寄与するベルクソンという馴染みのないイメージである。
ベンヤミン(1892-1940年)は、ベルクソンの他の著作には言及しているものの、なぜか『二源泉』(1932年)にだけは言及していない。だが、ソレルの『暴力論』を独自の仕方で発展させた「暴力批判論」(1921年)や「運命と性格」(1921年)といった論文において彼は、神話・運命・法をめぐる問題圏を掘り下げ、共同体の在り方をめぐって、人間の非暴力的な結びつきの可能性を模索していた。彼における「神話的暴力/神的暴力」の峻別は、ベルクソンの「閉じたもの/開かれたもの」の政治的射程を逆照射するものである。
ハンナ・アーレント(1906-1975年)は、『暴力について』(1969年)の中で、「われわれが何よりも興味を覚えるのは、ソレル的な解釈を刻印されたベルクソンの生の哲学の奇妙な復興である」(邦訳161頁)と述べ、「暴力を生物学的に正当化しようとするこの一見新奇な動向」(同)に反対しつつ「権力も暴力も自然現象、すなわち生の過程の顕現ではない。それらは、人間の事柄のうちの政治的領域に属すのであって、人間の事柄のうちで本質的に人間的な性質は、人間の行為の能力、何か新しいことをはじめる能力によって保証されている」(邦訳170頁)と主張する。だが、そのアーレントが遺作となる『精神の生活』第一巻から第二巻への橋渡しとなる部分(「27. 補遺」)で、その新たなことをはじめる「精神の意志の力」(mind’s will power)に言及し、「その内的明証――ベルクソンの言葉では「意識の直接与件」――を真剣に扱うことを提案する」(247頁)時、彼女が引用するのは、ベルクソンの『試論』なのだ(邦訳246頁)。
テオドール・アドルノ(1903-1969年)は、代表作『否定弁証法』(1966年)の中で、ベルクソンに関して「彼が手探りで求めているものは、(…)ひたすら認識の道具でもって、つまり認識固有の手段を反省することによって裏書されるべきであって、はじめから無媒介に認識の手続きにされてしまっているような手続きにあっては恣意に堕してしまうだろう」(15頁)と批判している。ところで、『啓蒙の弁証法』(1944年)ですでに、人間を非合理性から解放すると同時に、画一化をもたらすことになる〈理性〉の両義的な力を告発していたこの反(アンチ)体系の哲学者は、一般理論を断念し、その都度「限定的な否定」を実践することで、言い表しえないもの、概念化からこぼれ落ちるものとしての非同一的なもの・個・特殊性を何とか言い表そうとする断片的な思索の努力を哲学そのものだとしていた。だとすれば、「直観とは反省に他ならない」(PM 95)と述べ、複数の限定的な視点から交会法(méthode de recoupement)的な仕方で真理に近似値的に迫ろうとするベルクソンは、否定弁証法とそれほど遠いところにいないのではないか。
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