Sunday, May 18, 2003

ソーカル論争と生活指導

 数年前、「ソーカル論争」というのがあり、分析哲学+社会学といった感じの人々がフランス現代思想一般の自然科学的概念の安易な比喩的濫用を攻撃し、インターネット上でも「魔女狩り」のようなことが行われていた。

 私はそのような是正はなされるべきであると思う。ただし、これが最重要問題だとは考えない。この手の魔女狩りは「間違っている」とは思わないが、「ちゃちい」とは思う。一方で、確
かに「現代思想家」の表現に行き過ぎはある。しかし他方で、比喩やアナロジーには哲学的に重要な意味があり、それは自然科学本来のコンテクストにおける妥当性には還元されえない。この点を踏まえたうえで、自然科学の過去の歴史をひもといて、行き過ぎた実験や思考実験なしに進歩がありえたか、考えてみればよい。錬金術の実験に熱をあげる科学者たちを嘲笑する宗教家たちはたしかにある意味で正しかった。しかし、そのような嘲笑を全的に生産的な行為だと言うことはできない。

 要するに、ドゥブレだの、ロジェポルだの、あるいは後期ボードリヤールや昨今のヴィリリオの比喩濫用をあげつらうのは、街角で人気の香具師(寅さん)の言葉の乱れを嘆く説教臭い自称「文化人」か、生徒たちの言葉の乱れを嘆く生活指導のおっさんの
ように見えるのだ。生活指導は確かに必要だ。確かに道につばを吐くのはみっともないし、スカートの丈が短すぎるのも日本の外から見ると馬鹿っぽく見えるだけだからやめたほうがいい。しかし、「道を誤ろうとしている」(本当に?)生徒にとって真に必要なものは何なのか。物事の本質を見誤ってはいけない。

 問題は、科学絶対主義の立場に立ち、文学主義による安易な(しかも間違った)比喩の濫用を戒めることでも(ソーカル&ブリックモン。ブーヴレスも大枠はこち ら)、文学絶対主義の立場に立ち、科学主義による介入に抗して、「比喩の権利」を守ることでもないのではないか。ドゥルーズの科学的(とりわけ数学的) 「比喩」の哲学的(科学的、でなく)正当性、デリダ的文体の哲学的=政治的正当性を問うことのほうが、もっと生産的かつ緊急の課題だろう。そして、それがなされたとは到底思えない。