Tuesday, March 08, 2005

倫理を発明することはできない?

 デュットマンの『かくあり』のエピグラフ。

„Man kann eine Ethik nicht erfinden.“ Theodor W. Adorno

人は倫理を発明することはできない。

 ベルクソンはこれにとてもよく似た発言をしている。ジャック・シュヴァリエの『ベルクソンとの対話』、1928312日の会話より。

シュヴァリエ「先生、道徳についてのお仕事はどこまで進んでいるか伺えましょうか。この問題に大変興味をもっている生徒たちに、先生の道徳は新しいものかと尋ねられたのですが、私は、違うと答えました。間違っていたでしょうか。」

ベ ルクソン「いや、違わない。君の答えにまったく賛成だ。人間の行動を規定するために必要なものは、人間はいつの世でも知っていた。したがって、この問題について新しいことを言うことはできまい。新しいというのはむしろよくない印だ。デュルケムが言ったと言われている次の言葉もそうだ。「あなたの道徳は? ――私に道徳はない。しかし二週間待ってほしい。一つ持って来よう」。せいぜい言えることは、根本から革新し、論拠を確実、的確にし、幾つかの輪郭をはっきりするということだ。しかし、きわめて慎重にするべきだ。哲学者の責任は大きい。」(原書98-99頁)

19311031日の会話。

「もっとも、この著書[『二源泉』]の中で私が言うことは、道徳の起源と根拠とについて考えて到達したことであって、なすべきことではない。人はすぐに、私の道徳と言うが、私には一つの道徳を与えようという意向はない。ニーチェのように道徳を一つ作り上げる能力が自分にあるとは思わない」

D’ailleurs, ce que je dirai dans ce travail, c’est ce que j’ai été amené à penser de l’origine et des fondements de la morale, et non pas ce qui est à faire : on parle toujours de ma morale ; mais je n’ai pas la prétention de donner une morale : je ne me sens pas capable d’en inventer une, comme Nietzsche... 原書145

しかし、実際には事はもう少し複雑である。ベルクソンにあっては、「道徳の発明」を可能にする要因があるからだ。1935319日の会話を見てみよう。

「神秘愛(amour mystique)は、『雅歌』におけるように、しばしば愛の表現(expressions amoureuses)で表明される。しかし、それは、まさにこれらの愛の表現が、それ自体、神秘愛によって支えられていたからだ。古代の人々は、ある種の献身と結びついた自然愛しか知らず、いわば、神による愛の反映とも言うべき完全で、全的な愛は知らなかった。男の自分の妻に対する愛は、まことに奇妙なものだ。真の愛は、もはやほとんど何も官能に負うことなく、まさに官能を排除することによって養われる。そこで、我々は新しい感情の誕生のようなものを見るのだが、今までにない 感情が魂の中に生まれうることを承諾するのはむずかしい。しかし、音楽においては、これは毎日起こっている。ベートーベンの第九交響曲を聴くと、私は他には描写しようのない独特な感動を覚える。したがって、幾つかの感情が生まれる。愛が生まれた。愛が発見、あるいは、もっと正確に言うなら、発明されたの だ。感動の発明というものがあるL’amour est né, il a été découvert, ou mieux encore inventé : il y a des inventions d’émotion.。このような愛による変貌、新しい感情の誕生は、キリスト教において、キリスト教によってのみ[この部分はシュヴァリエの改変臭い]実現された」。(原書221頁)

また、193564日の会話。

「実践道徳(morale pratique)を教えようというのはかなり空しいことと私は思う。本質的なことは、生徒の魂を向上させ、各人が自分自身で解決を見つけられるような高さまで持っていくことだ。私はそのように心がけたのだが、例証や実話によって、魂が道徳分野で創意することができるようにすることが必要だ。(L’essentiel est d’élever l’âme et de la placer à un niveau où elle soit capable de trouver d’elle-même la solution. Il faut, par des exemples, par des histoires, ainsi que je l’entendais, mettre l’âme à même d’inventer en matière morale.)」(原書229頁)

 専門家には言うまでもないことだが、ベルクソンの「情動の理論」の詳細は、『二源泉』第一章・第三章で展開されている。

おそらくプラトン(善のイデアの想起・帰還)=デカルト(仮の道徳)=カント(定言命法)=アドルノ(かくある)路線と、ニーチェ(道徳の系譜学)=ベルクソン(道徳の発明)=ドゥルーズ(超越論的倫理の内在化)という対立なのだろう。単純に言ってしまえば、création、événementということがありうるかどうか、ということだ。

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