Monday, January 16, 2006

1.『二源泉』の位置(1)新たな論理の探求

慌しく一週間が過ぎた。さぞ集中して勉強に励んでいることだろうと思われるかもしれないが、まったくさにあらず。相変わらずの事務処理に加え、思いがけない事件に巻き込まれ、2,3日潰れてしまった。

卑俗な、物悲しい、救いのない話で、精神的に疲弊した。私なりの「大リーグ挑戦」を励ましてくれる方もいれば、こうしてものの見事に脚を引っ張ってくれる人もいる。安心して背中を見せていたらいきなり撃たれたという感じである。疑念を抱くということは誰しもあるものだが、その疑念を客観的に相対化し、最低限度コントロールできるかどうかは知性、すなわち学者に必要不可欠な能力の枢要である、ということだけは付言しておきたいと思う。そもそも私の精神の単純率直さが分からないとは!

これから留学される私の友人たちには、この先きっと色んなことがあるだろうけど、nervous breakdownしないよう精神的なタフさを身につけることをお奨めしておきたい。一人で、海外で、博論準備の重圧に耐えるのはそう簡単なことではない。



さて、リズム論文の校閲も終了し、残るは『二源泉』読解である。もう残り一カ月をきってしまった。

以下は、いずれフランス語で書かれる講演の素描である。ベルクソンの『二源泉』をまったく(あるいはほとんど)読んだことがない、しかしベルクソンについて一応の予備知識を持っているという哲学科の学生を聴衆として念頭においている。



あまりscolaireな形で、protocoleにのっとって皆さんを眠くさせるのは本意ではないので、一気に主題に入らせていただきます。

ベルクソンの『道徳と宗教の二源泉』の主題とは何か?この一見きわめて容易に見える問いが、実は、『二源泉』をめぐる問いのうちで最も難しいものの一つなのです。

はたして『二源泉』は哲学書なのか?道徳と宗教の歴史的起源を探る歴史書なのか?社会学的・人類学的著作なのか?誰がこれらの問いに完全な答えを与ええたでしょうか?

実はこの諸科学を横断しているところから来る曖昧さこそ、ベルクソン哲学の独創性をなす構成要素の一つなのです。その独創性は、ベルクソン哲学が諸科学と特殊な関係を結んでいるところに由来します。その関係とは一言で言えば、それら諸科学の絶えざる再鋳造の試みとでも言えるでしょうか?

実際、『試論』とは何でしょうか?人間の意識を抽象化して取り出すことに反対し、生のままの具体的な意識を持続の中に見出すことを主眼とする著作だと考えられています。しかし、実際には、人間の意識を粗雑な抽象化によってその本質を毀損することなしには捉えられなかった当時の実験心理学(精神物理学)に対する批判であり、持続概念を用いることによって、意識をより正確に、より繊細に把捉しようとする新たな論理を提出しようとした著作ではなかったでしょうか?

『物質と記憶』とは、記憶を大脳の物理化学的機能によって説明しようとするいわゆる局在化理論に反対し、記憶の真の精神的性質を見出すことを主眼とする著作だと考えられています。しかし、実際には、記憶を粗雑な一対一対応によってその本質を毀損することなしには捉えられなかった当時の大脳生理学に対する批判であり、記憶概念の洗練(運動記憶と想起記憶の区別)によって、心身問題をより正確に把握しようとする新たな論理を提出しようとした著作ではなかったでしょうか?

『創造的進化』についても同じことが言えます。生命進化の過程をすでに進化し終えたものの総体から説明しようとする従来の進化論に反対し、ありのままの生命の流れの原理を「エラン・ヴィタル」の中に
見出すことを主眼とする著作だと考えられています。しかし、実際には、生命進化を粗雑な網の目にかけることでその本質自体を毀損することなしには捉えられなかった当時の進化論に対する批判であり、新たな生命進化の概念である「エラン・ヴィタル」を用いることによって、生命進化の問題をより正確に把握するための新たな論理を提出しようとした著作ではなかったでしょうか?

要するに、ベルクソンとは、合理的説明に非合理的現実をつきつけることで対抗しようとした非合理的・神秘的な哲学者ではなく、粗い網の目しか持たない不十分な合理性に対して、より繊細な網の目をもった計測装置、概念装置の必要性を説く哲学者、したがって当時の合理性の観点からすれば非合理と捉えられるとしても、単に新たな、より広く、より柔軟な合理性を探し求めた哲学者であったということができます。

むろん、すぐに付け加えておかねばなりませんが、彼の試みが成功したかどうかというのはまた別の話です。もし我々がベルクソンは上記の諸分野において新たな「科学」を確立したと言えば、それは言い過ぎということになるでしょう。

しかし少なくとも、彼は新たな「論理」を提出しようとしたということはできるし、またそこにこそ彼の哲学探究の真価を見て取らねばならない。では、ベルクソンの四大著作のうち、前三作の探求した論理が以上にごく簡単に素描したようなものであったとして、最後の大著『二源泉』の探し求めた論理とは、いったいどのようなものであったのでしょうか?(続く)

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