Saturday, May 03, 2008

自分だけの部屋(a room of one's own)

「条件付きの大学」の発表を終えた。『条件なき大学』の批判的読解を展開した第一部にほとんどの時間を費やし、制度論の必要性を説く第二部にはごく簡単に触れることしかできず、現代フランスの幾人かの哲学者の著作に解決の糸口を見出す第三部には入ることもできなかった。

体調の悪さが聴衆に分からないほど「元気そう」だったというのは私のささやかな誇りでもあるのだが、体調は依然悪いまま推移しており、予定していた準備の三分の一程度しかできなかった。

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「条件付きの大学」第一部から第二部への移行部分にタイトルを与えるとするなら、「自分だけの部屋」ということになるだろう。ヴァージニア・ウルフの有名なエッセイの出だしをこんな風に借用しつつ。



《哲学と大学という題目は、哲学および大学とはどのようなものであるかという意味かもしれませんし、あなた方もその意味で考えていらしたのかもしれません。あるいは、それは、哲学と哲学が紡ぎ出す大学論という意味かもしれませんし、哲学と哲学をそのうちに構成要素として含む大学という意味かもしれません。もしくは、これら三つが入り混じっていることを意味していて、あなた方は私にこの題目をそのように考えることを望んでおられるのかもしれません。

でも、この題目をその一番最後の最も興味深い意味で考え始めた途端、それには致命的な欠点があることに私は気付きました。決して結論に到達できないだろうということです。私は、講演者の第一の義務と自分で了解していること――つまり、一時間の講演の後で、あなた方がノートの頁の間に包んで暖炉の上にずっと保存しておけるような一塊の純粋な真理をお渡しすること――は到底出来ないでしょう。

私がせいぜいできることは、一つの小さな点についてある意見――すなわち、哲学が大学について考えようとするなら、《お金と自分自身の部屋》を持たねばならないということ――を述べるだけなのです。ということは、言うまでもなく、哲学の本質および大学の本質という大きな問題を未解決のままにしておくことになりましょう。私はこれら二つの問題について結論を出すという義務を避けたわけで――哲学と大学とは、私に関する限り、未解決のままなのです。

しかし、いくらかでも埋め合わせをするために、私がどのようにして《部屋とお金》についてこうした意見を抱くに至ったかをできるかぎりお話ししてみましょう。私にこうした考えを抱かせた次第を、あなた方の前で、できるかぎり丹念に率直に辿ってみたいと思います。この声明の背後にある色々な考えや偏見を洗いざらいお見せすれば、きっとあなた方はそれらが哲学にも幾分関わりがあり、また大学にも幾分関わりのあることがお分かりになるでしょう。》

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