Monday, August 25, 2008

近況

昨年のベルクソン・シンポのアクト、とりあえず仏語版で出版予定なのだが、その編集作業。今年度シンポの準備。法政ベルクソンHPのバージョンアップ。来日するフランスの友人の講演会の設定。自分なりにテキパキこなしているつもりだが、あっという間に時間は過ぎていく。

・仏文学会で今春発表した原稿を論文にする作業。
・6月にブラジルでやった原稿のバージョンアップ。
・9月初旬にフランス政治哲学読書会でルフォール。
・9月中旬に「哲学と大学」ワークショップ。
・10月に仏語でベルクソンとデリダ、日本語で大学論と三つの締め切り。
・11月にフランス語で大学論。
・12月中旬、朝カルでベルクソンについて話させていただきます。

ベルクソンの発表はどの主題が今回のシンポに最もふさわしいかいろいろ迷っていたのだが、ベルクソンとドゥルーズとの関係に自分なりの答えを出すことにした。これに関連して、最近ふたたびドゥルーズ研究や関連書を読み始めた。
・鈴木泉、「ドゥルーズ」、中公新社版『哲学の歴史』所収、2008年。
・米虫正巳、「ドゥルーズ哲学のもう一つの系譜について」、『ドゥルーズ/ガタリの現在』所収、2008年。
・宇野邦一、『〈単なる生〉の哲学』、2005年。

ギリシャ語…続けることに意義がある。とりあえず近況でした。

Wednesday, August 06, 2008

子どもの今、大人の今(本当のアクチュアル)

もちろん昨日の『プロフェッショナル』宮崎駿スペシャルをご覧になった方は多いと思う。が、すみきちブログを見ている人はそこまで多くないかもしれないので、一部引用させていただく。

《そして、インタビューで、感動した話がある。宮崎さんが、世のこどもに対して、どういう大人でいたいか、という話だ。

「よく『子どもの未来は』と言う人がいるでしょう。子どもの未来はつまんない大人になることなんですよ、 決まってるじゃないですかねえ。どういう大人になるかとかいう問題じゃないんですよ。今の子どものこの期間に、何を見て、どういう体験ができるかがいちばん大事です。

 僕らはそういう場所を提供することはできる。一緒にやることはできないけど、時間と場所を提供することはできるはずだって。それしかないんです。それができるときは、その瞬間にやらなきゃいけないんですよ。それを逃すとね、もうできないんですよ。

 知り合いの子がこの映画の準備に入ったときに 1年生でここに遊びに来てた子が、今、もう3年生になっているんですよ。1年生から3年生の時間てものすごく長いでしょう。僕らにとってはあっという間に終わってしまった2年間だったのに。

 で、その子が一年生の時ここに遊びに来たときに、『帰るのがイヤだ』ってグズついたんですよ。『僕のボロ車に乗せて駅まで送ってあげるから』と言って、ちょっと遠回りして送っていったんですけど、それでもグズグズ言っているんですよね。でね、走るなり、バーッと屋根(車の幌)を開けてあげようかと思ったんです、そうすれば気分が一遍に変わりますから。でも、雨降ってきたんですよ、バラバラと。1回開けるのは簡単だけど、閉めるの面倒くさいんですよね。それで一瞬ためらっていたら、もう駅に着いちゃったんですよ。それで『しまった!』と思いました。

 そういう『しまった!』を、ずーっと持ってるんですね。あぁ、自分がエンタテイナーと言いながらね、あのチャンスに屋根を開けられなくて、『車の中、濡れるのがイヤだな』とかね、情けないことを考えた自分が情けないと。案の定ないですよ、もう。1年生の彼に屋根を開けてあげるチャンスは、あの瞬間しかなかったんですよ。

 そういうときにパッとやれる人間でなきゃだめなんです、大人が。そのときに濡れるとかね、ほんと瑣末なことにたぶんためらったためにね、『いや、またあるんじゃないですかチャンスは』とみんな言いますけど、ないんです。あとでわかるんですよね、『しまった』と(苦笑)。ほんとに悔しいですよね。パッと開けられなかった、その自分が。濡れたっていいじゃんというね。『うわっ濡れる』と大騒ぎしながら走りゃいいんですよね。なんでそれができなかったんだろうと」

続きはすみきちブログでどうぞ。

Sunday, August 03, 2008

Names of imagination

あっというまに8月である。事務作業をこなすだけで精一杯の日々が続き、自分の研究に取り掛かれないでいた。早めに立て直していかないと、8月もあっという間に終わってしまう。


最近は、宇野邦一、『「単なる生」の哲学』(平凡社、2004年)を読んでいる。これは秋のベルクソン・シンポのため。

少し前から読み返しているのが、サリスの幾つかの本。これはMM読解の深化のため。

《カントにとってもまた、imaginationは自然と自己の両方、外的・内的な表れの両方の側から、感覚を超えるものである。あるいはむしろ、感覚を超えるものが、カントによってEinbildungskraftと呼ばれているというべきか。正確を期すのであれば、Einbildungskraftはforce of imaginationと訳されるべきであって、あるいは少なくとも、単にimaginationと言われる場合には省略的に訳されているのだということが注意されている必要がある。EinbildungskraftやEinbildung(さらにはPhantasie)といった語と並んで、ドイツ語にはラテン語形のImaginationもあり、imaginationをめぐる様々な名の布置が(VorstellungsvermögenとかDarstellungskraftといった他の語との関係においても)展開されている以上、この事実を無視して、ラテン語系の諸言語や英語に単純にマッピングするわけにはいかない。》

想像力、構想力、イマジネーション、これらが同じ事態、同じ現象を指していることがあたかも自明であるかのように。

「事柄自体を議論する」、たしかにそれが最も大切なことだ。だが、事柄自体の議論に取り掛かるためには、「名」の問題、言語の問題に同時に取り組まねばならない。大哲学者の重要概念は皆、少なからずそのような知的格闘の痕跡を残しているのではないのか。