Sunday, August 03, 2008

Names of imagination

あっというまに8月である。事務作業をこなすだけで精一杯の日々が続き、自分の研究に取り掛かれないでいた。早めに立て直していかないと、8月もあっという間に終わってしまう。


最近は、宇野邦一、『「単なる生」の哲学』(平凡社、2004年)を読んでいる。これは秋のベルクソン・シンポのため。

少し前から読み返しているのが、サリスの幾つかの本。これはMM読解の深化のため。

《カントにとってもまた、imaginationは自然と自己の両方、外的・内的な表れの両方の側から、感覚を超えるものである。あるいはむしろ、感覚を超えるものが、カントによってEinbildungskraftと呼ばれているというべきか。正確を期すのであれば、Einbildungskraftはforce of imaginationと訳されるべきであって、あるいは少なくとも、単にimaginationと言われる場合には省略的に訳されているのだということが注意されている必要がある。EinbildungskraftやEinbildung(さらにはPhantasie)といった語と並んで、ドイツ語にはラテン語形のImaginationもあり、imaginationをめぐる様々な名の布置が(VorstellungsvermögenとかDarstellungskraftといった他の語との関係においても)展開されている以上、この事実を無視して、ラテン語系の諸言語や英語に単純にマッピングするわけにはいかない。》

想像力、構想力、イマジネーション、これらが同じ事態、同じ現象を指していることがあたかも自明であるかのように。

「事柄自体を議論する」、たしかにそれが最も大切なことだ。だが、事柄自体の議論に取り掛かるためには、「名」の問題、言語の問題に同時に取り組まねばならない。大哲学者の重要概念は皆、少なからずそのような知的格闘の痕跡を残しているのではないのか。

No comments: