Sunday, November 22, 2009

ジャネのために(pour Janet)

シンポは無事に終わった。バタブラ研(と一部で呼ばれているらしい)と同じ日にぶつかってしまうというアクシデントを差し引けば、むしろ予想以上の集客だったと言える。来ていただいた皆様、本当にどうもありがとうございました。

フロイト-ラカン愛好者でない者を見つける方が難しいフランス現代思想業界で、「死んだ犬」扱いされているピエール・ジャネからアンリ・エーへと至る流れ――ごく広い意味での「ネオ・ジャクソニスム」の系譜――に光を当てた、このような反時代的シンポの重要性はもっと強調されていい。

ちなみに、このシンポのために、俊英と評判の高い立木康介氏の「シャルコー/ジャネ」(中央公論新社版『哲学の歴史』第9巻所収、2007年)も読んだが、かなりがっかりした。
《実際、ジャック・ラカンによるフロイトの再解釈は、このエレンベルガーの見方に真っ向から対立している。「無意識は一つの言語として構造化されている」というラカンのテーゼは、エレンベルガーによってもっぱら「パトスの復権」として読まれたフロイト的無意識を、徹底的に理性の側に取り戻すことに成功した。逆に、この点でもベルクソンと通じ合う知的雰囲気をもつジャネが、しばしば宗教的なものへの関心の強さを窺わせているところを見れば、むしろ彼のほうがロマン主義的な感性への親和性をもっていたのではないかと疑わずにはいられない。》
俊英と評判の高い人がこんな凡庸なことを書いてはいけない。三つある。

まず、エレンベルガーの『無意識の発見』のように、あえて挑発的図式化を意識的に引き受けた史的著作に対して、実に無邪気にそれを再転倒してみせる感性を疑ってしまう。フロイトはロマン主義者でなく、啓蒙主義者である?事実誤認だと言っているのではない。フロイトが啓蒙主義者なのだとすれば、彼の啓蒙主義はいかなる特徴をもつのか、大切なのはそれを簡潔にであれ言うことであり、さらに大切なのは、仮にジャネがロマン主義者なのだとすれば、いかなるロマン主義者であるのかを言うことではないのか。教科書的な腑分けを単純にひっくり返してみせること自体に大した意味はない。理論的な争点だけがそのような操作に意味を与えうるのである。むしろ違う形で形成されたフロイトとジャネの「科学主義」の共通点と差異にこそ焦点を当てるべきだったのではないのか。

フロイトの啓蒙主義自体が問題となっているのに、「実際、ジャック・ラカンによるフロイトの再解釈は」とほとんどオートマティスムのようにラカンを引き合いに出してしまう初歩的な論理的ミスもさることながら、フロイト主義隆盛への単純なカウンター(エレンベルガー)に対して単純に流行を(しかも、よりにもよって最も凡庸なラカン像を)対置してみせる批判的=批評的意識のなさは痛々しい。「徹底的に理性の側に取り戻すことに成功した」などと書くようでは、ラカン派はやはりドグマティックと言われても仕方がない。繰り返すが、重要なのはいかなる理性の側に取り戻したのか、である。

次に、ロマン主義/啓蒙主義の図式にのっとったまま、単にフロイトを擁護するだけでなく、返す刀でジャネをばっさりと斬り、しかもその凶刃で、付近にいたベルクソンまで手にかけてしまう無思慮さも法外である。「ベルクソンと通じ合う知的雰囲気をもつジャネが、しばしば宗教的なものへの関心の強さを窺わせている」ことをジャネのロマン主義とフロイトの啓蒙主義の分岐点に据えたいらしい立木氏は、フロイトの数多くの宗教論・オカルトへの言及を完全に忘れているように見える。仮に、ジャネもフロイトもともに「しばしば宗教的なものへの関心の強さを窺わせている」が、両者の関心のもち方、方向性は完全に異なる、といった論旨が展開されるのであれば、まだしも百歩譲ってこの一節を好意的に解釈しようとできるが、後続の文章の中にそういった記述は残念ながら見出されない。

理性と非理性の単純な境界線、単純な価値評価を踏み越えたところにこそ、まずそのごく基本的な理論的意義が認められるべきフロイトを、是が非でも単純な「理性の側」に奪取しようとするその姿勢がまさにフロイト的でない。ドゥルーズの論文集のタイトルをもじって言えば、「批判的かつ臨床的」な視点からフロイト(およびラカン)とジャネ(およびベルクソン)の関係が論じられる中で、ジャネの可能性の中心が簡潔にであれ示唆されることを期待していた読者が目にするのは、ジャネとベルクソンの微妙な関係というごく基本的な事柄すらわきまえない、セカンドハンドの資料から書きあげられた匂いの濃厚な文章である。

最後に、この文章の最大の問題点は、シャルコーやジャネへの愛がほとんど感じられないことである。「本当はフロイトかラカンについて書きたかったのに…」という感じが全編に溢れていて、読む者を辛くさせる。不憫なシャルコーやジャネのためのみならず、立木氏自身のためにも辛くなるのである。まさか誤解もあるまいが、シャルコーやジャネを絶賛する文章でなければ、と言っているのではない。ただ、「そんなに魅力のない対象だと思っているなら、なぜ執筆を引き受けたのか」と読者に思わせるような文章を立木氏ほどの人物が書くべきでないと言っているのである。幾ら才能があっても、いや才能ある人だからこそ、こういうものを書いてはいけない。死者のためにも、読者のためにも、自分自身のためにも。いかに歪んだ愛でもいい、愛ある対象について人は書くべきだ。

「歪んだ愛」ということで言いたいのは、例えば、ドゥルーズが「敵について書いた唯一の著作」と認めるカント論のように、明白な理論的争点を上品な形で(死者が悲しまないような仕方で)提出するのならばそれはよい、ということである。日本の思想業界は論争を好まない。特に、亡くなった先生や友人などの著作やテーゼでも反駁されようものなら、大変な騒ぎである。だが、それでは思想は発展しないだろう。愛は媚を売る「やさしさ」とは違う。

「ジャネのために」書かれたものを読みたい方は、上記シンポの報告書が公刊されるはずですので、そちらをご覧ください。

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