Thursday, September 26, 2002

東浩紀と大学教育

2005年の註:いくら内輪でしゃべっていた軽い調子のメールであるとは言え(その事は冒頭の部分から十分に窺われる)、今ならもうこんな論の立て方はしないだろう。そもそも、人にない物ねだりをするより、自分にない物ねだりをすべきだと思うからだ。しかし、彼の状況論とそれに対する処方箋への不満、「エリート養成機関」に関する考えは今も変わっていない。

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kさん、どうもありがとうございます!

 kさんのお話にはきっと他の方々からもいろいろなレスポンスがあるでしょうから、それを待ちつつ、少し前に出た東浩紀さんの話をもう少し。



 東さんは「オタク」「批評家」の他に「哲学者」とも名乗ってますが、彼がそう名乗っていいんなら、私は「精神分析家」とでも名乗ろうかと思ってしまいます(笑)。「哲学者は教養ではない」と仰る方もいらっしゃるでしょう。たしかにピアニストであるためにコンセルヴァトワール出である必要は少しもありません。が、少なくとも(ジャズでもクラシックでも構いませんが、その領域の)レパートリー・奏法を一通り知っている必要はあります。

 駒場・表象の教官たちは、もっと哲学の勉強をするように東浩紀を真剣に引き止めるべきでしたよね。ほんと、エネルギーがあるだけにもったいない。ああいう逸材をまともな哲学者に育て上げられないのは、大学教育の怠慢であり、哲学界の損失ではないでしょうか。

 東さんが反逆者を気取りたいなら気取らせとけばいいんで、彼を「立派な」反逆者に育て上げるためにあらゆる策を講じて東大内に留めおいて学問的に鍛え抜く、という寛大な措置を取れる度量の広い人物が駒場にいなかったのかな。今の彼は、悪い意味で自由に逃げられる位置から好き放題を言っているにすぎない。

 私はこの点、「国家のイデオロギー装置」としてのエリート養成機関に多くを期待し要求しています。(詳しくはまた別の機会に)

 ここでは、とりわけ彼の状況認識を取り上げてみます。

 彼の書き方が十分に哲学的・コンスタティヴでない、と言われれば、東さんは「ジャーナリズムとの俗情の結託を怖れず、パフォーマティヴにやらねばならない」と言うでしょう。逆もしかり。しかしジャーナリスティックな書き方でもコンスタティヴでありうるはずだし、アカデミックな書き方をしていても(仲間内への目配せ程度の)パフォーマティヴな効果しかない、ということもある。

 結局、「面白いテクスト」が多く流通していかない日本(あるいはポストモダン社会)に特有の条件を探るための分析手段として、ジャーナリズム/アカデミズム、コンスタティヴ/パフォーマティヴといった二項対立は必要十分なのか、という当然吟味されるべき諸前提自体への懐疑が東さんには欠落しているように思えるのです。

 それだけではない。きわめて疑わしいそのような二項対立の設定自体に対して向けられるべき懐疑が欠如しているうえに、そのような二項対立を乗り越えて見せる(あるいは両方を駆使する)という仕草自体がきわめてパフォーマンスに乏しい。そんなことは「現代思想」関係者の誰もが言い、やっていることではないか。東さんの状況論は、コンスタティヴにもパフォーマティヴにも失敗しているのではないか、自分の事は棚に上げておいて言うならば、そんな風にすら思われます。

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