またまた待っている間に。
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ロベルト・エスポージトの"Communitas"(伊版1998年、仏訳2000年)を紹介してみたい。
Roberto Esposito (1960-)は、イタリアの政治哲学者。ナポリの東洋研究所の政治学部で政治哲学を、同じくナポリのスオル・オルスラ・ベニンカーサ研究所で道徳哲学を教えている。とりわけ数多くの雑誌や叢書の編集で活躍中。著書に『政治(学)の起源』(1996年)、『政治(学)を超えて。非政治学的思想アンソロジー』(1996年)など。
位置的にはアガンベンにきわめて近いように思われる。つまり、デリダ 派、とりわけナンシーから着想を得て、政治哲学の古典的なテクストを読み直すというスタイル。アガンベンが隠れハイデゲリアンだとすると、エスポジート は、彼の提唱する「非政治学」の頂点に位置するのがバタイユであることからも分かるように、はっきりとバタイイアン。
しかし、今回導入部としてご紹介する本書の序論「共通のものは何もない」は、手法的にはハイデガー的。つまり、表題"Communitas"が ラテン語であることからも予想されるように、似非語源学を駆使して、現在用いられている語にこびりついた近代的偏見を削ぎ落とし、その語本来の輝きを取り 戻すというものである(この手法にはある致命的な欠陥があるのであるが、それは以前指摘したと思うので、措くとしよう)。具体的にはどういうことか。
「共同体community」という言葉から連想されるのはふつう、「複数の個人によって共有される所有物property」(それが土地であれ、宗教であれ、民族であれ)といったものである。この観点からすると、「共通common」とは、「あるグループに固有のものであって、別のグループに属するのではない」ということであって、共同体は、所属・同一性・集団所有物というタームで考えられている。
語源的に見るともっとはっきりする。Communitasは、cum (=with) + munusである。munusと は、あるものが他者のために遂行せねばならない「贈与」「義務」「ミサ」などを意味する。つまり、共同体という考えの起源には、共通の所有や所属などと いったものがあるのではなく、我々を他者に対して拘束する何かがあるのである。所有するというよりは、収用されるのである。所有でなく負債。同一性でなく 変質。我々が自分というものの中に閉じこもるのでなく、自分固有の利益から抜け出すよう、我々を促すもの。したがって、共同体とは、諸個人が(国・宗教・ 民族といった)より大きくより強力な「個」へと溶け込んで出来上がるようなものとして考えられるべきではない。
(続く)
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