Monday, September 27, 2004

哲学の「重み」

 加藤周一は、『読書術』(初版光文社1962年、再版岩波同時代ライブラリー1993年)のなかで「抄録」の危険性についてこう言っている。

「絶えず抄録ばかりを読んでいると、物事をはじめから終わりまで考える習慣がなくなるかもしれません。 要領らしきものだけがわかって、全体がわからない。いや、要領がわかればよいほうで、そういうことを繰り返しているうちに、与えられた全体から自分で要領 を取り出すという、おそらく人間の知的な能力のなかで、もっとも大切な能力がにぶくなってくる可能性さえあります」(115頁)。

この「抄録」を、「チャート式思考法」と置き換えたら、どうなるだろうか。「抄録だけで出来上がっている人間の頭」にとって、物事に「浅薄にしか触れないという習いの性となるのを避けがたいでしょう」(同上)。別に浅田彰だけではないし、柄谷行人、東浩紀、山城むつみ、などなどだけではない。日本の思想界全体に蔓延する傾向である。

  チャート式に頼るということが問題なのではない。その意味では、上に挙げた人々は皆、自分で自分なりの要領を取り出すという「人間の知的な能力のなかで最 も大切な能力」を失ってはいない。問題は、思考のなかにはあたかもチャート式しか存在しないかのように見なす、情報量の圧縮と思考の密度を取り違える、「要するにカントというのは」と三言で片づけられることが評価されるべきことであるかのような雰囲気こそが問題なのだ。そして、このチャート式の態度は、実に旧制高校的遺制の生き残りである加藤周一ら旧「岩波文化人」から現在の最も「クール」な現代思想のスターたちに至るまで、見事に一貫している。「物事をはじめから終わりまで考える習慣」、執拗に徹底的に思考する態度こそが「哲学」の根幹を成すものであってみれば、日本の思想界に蔓延するきわめてアメリカ的な、プラグマティスト的な、効率のよい「思考術」と見事な親和性を示して見せた日本の「掘立小屋の思想」(柄谷)こそ、その対極にあるはずのものであり、柄谷が「建築への意志」を語りたいならば、まず彼の論述スタイル=思考スタイルから変えねばならないはずではないか。この意味で、福田和也の指摘はきわめて正鵠を射ている。

「柄谷行人氏の批評の力は、抽象化による徹底性にある。(…)この批評文の魅力は、一つの概念や通念を単純に否定するだけでなく、連鎖的に論理の足場を崩していくスリルと徹底性にある。だが論理の徹底性が、そのまま柄谷氏の批評の魅力となっているわけではない。論理が縦横無尽に活動する様子を、あたかも現在、 眼前で展開されているかのように叙述してみせる文章の仕掛けにこそ魅力がある。(…)この効果を生み出すために柄谷氏は、文章から余計な装飾やエピソードを剥ぎ取って、あたかも裸形の思考がそこにあるかのように装った。(…)その工夫の中核をなすのが、文章の抽象性であることは言うまでもない。(…)柄谷氏の批評文は、観念と概念、一般性と普遍性、単独性と個別性、社会と共同体といった語彙を併置して、その差異を批評意識の立脚点にし、ドラマトゥルギィを作り出している。批評文は、並置された言葉の差異を様々な角度から論じ、またその差異の視点から多様な通念を分析するという形で構成されており、二項対立の内在的エネルギーによって批評文は動いていくために、読者は批評文の「外部」を忘れて、叙述に身を預けることができる。二つの言葉は、単に批評というドラマを作り出すために並べられたのであるから、並置される語に柄谷氏が付与した意味は、批評の文脈を離れればほとんど意味がない。ただ氏の批評文の中での、今一つの語との差異にのみ批評性があり、またその差異にのみ拘ることで柄谷氏の批評は卓越した抽象力を獲得した」(福田和也、「柄谷行人氏と日本の批 評」、『甘美な人生』所収、初版1995年、新潮社。ちくま学芸文庫版、2000年、25-27頁)。

し たがって柄谷を「形而上学的エッセイスト」、あるいは彼自身が望むように「批評家」と称することはできる。しかし、彼を「思想家」、ましてや「哲学者」と呼ぶことはできない。そこには真の思考がもつある種の「重さ」が欠けているからだ。penserはpeserと同じ語源を持つ。彼が過去の自分の議論を否定しながら軽やかに移動するのは、単に、同じ場所に居続けることを可能にする確固とした議論が展開できなかったからにすぎない。

こう言えば、おそらくすぐにニーチェやドゥルーズを持ち出してくるであろう反論が予想される。柄谷の思考は「軽やか」な思考の「舞踏」なのだ。重苦しい「形而上学」とは縁を切った新たな「思考」なのだ、と。しかし、フランス現代思想の精華たる「ドゥルーズ・フーコー・デリダ」と「ヌーヴォー・フィロゾーフ」たちが異なるように、やはり思考の質の違いというものがある。「日本の土俵のなかで考えるならば、相対的に柄谷は優れている」といった言い訳は止めるべきなのだろう。問題は、その土俵そのものの「傾き」なのだから。

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