Saturday, November 13, 2004

理論=実践のAdressat

ss: さて、お返事できなかった前回のメールについてですが、

しかし、世界中で通用する一般的な哲学像などはなく、あるのは常にローカルな個々の国ないし地域の哲学像なのだとすれば、私の描いた哲学像がきわめて「フランス的例外」であるのと同様に、ssさんの持つ哲学像もまたアングロ=サクソ
ン的(=日本的)なものではないでしょうか。これは制度としての哲学ないし人文科学がそれぞれの場所で置かれた位置に由来する差異だと思います。フランスでは哲学が、アグレグで常に筆頭に上げられるといったミニマルなことだけではなく、公共空間・知識人社会においてすら、特権的な地位を有している。

哲学像の相対性の問題はわかります(私の場合、日本的・アングロ=サクソン的というより、むしろ個人的なのかもしれませんが)。そして、それぞれの地域的文脈を考慮する必要があり、それゆえ、少なくともフランスの文脈においては、哲学の地位を重視しなければならない、という話もわかります。

 ただ、おそらくフランスにおいても、程度の差こそあれ、「公共空間・知識人社会」そのものが機能低下・価値喪失を被っている、ということはないでしょうか? そしてそれは短期的な値動きというより、長期的なトレンドと見ることができるのではないでしょうか?

 「公共性の構造転換」(啓蒙時代への郷愁)であれ、「グーテンベルク銀河系の終焉」(デジタルメディア時代の福音)であれ、どのような形で語るにせよ、哲学がその位置を占めている「公共空間」なるものは、機能喪失を「歴史的・構造的に宿命づけられている」、というのが私の言いたかったことです。  もっとも、私自身がメディアの問題を考察するとすれば、 それにどのような名称をつけるにせよ、私の中ではほとんど「哲学」と呼びうるものになるでしょう。でも、「だからやはり哲学なんです」という話にはならず、(伝統的かつ理念化された)「公共空間」の外部に介入しうるような理論=実践が必要であって、その理論=実践の主要なAdressatは、哲学などに関心をもたない人々でなければならないと思うのです。(結局この考えは「知識人/大衆」というような二項対立を温存してしまうのですが、それはまた別の話)

もちろん私が唱えていたのは、内と外の両面作戦です。アグレグ論文はまさに「国内的な知的レベルの再活性化」という目的に向けられたものにほかなりません。

この点は完全に同意見です。(私の場合、外に向けて出すのは、言語学史・言語思想史についてのごくごく実証的な研究でしかありませんが)

 それはそうと、アグレグについての論文、紀要とかに出すのではほとんど意味がないように思います(読まれませんから)。ひょっとすると、今後の就職のことなどを考えてかもしれませんが、すでに建前上でも、アカ デミックな媒体とジャーナリスティックな媒体との区別は消滅しつつあるのです(「国際的な専門研究雑誌」への「手堅い」業績の存在が前提になるでしょう が)。むしろ、非アカデミックな媒体への露出があるほうが採用の見込みは大きいかもしれません。 ss

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