Wednesday, November 17, 2004

「哲学的」課題(Re: 第二の両面作戦)

ss: さて、両面作戦の件ですが、

 前回、ssさんの考えは「英米型=日本型」に近いのではないかと言いました。それは、ローティらアメリカの新プラグマティストが脱構築に対して採る態度に近いのではないかということです。つまり、18世紀後半に形成された公共空間が社会の構造転換にともなって機能喪失しつつある今、高尚(形而上学的)ではあるかもしれないが現実に対して効力を持たない大陸哲学型の言説(いわゆる「哲学」ないし講談哲学)よりも、平凡(形而下的)かもしれないが現実の社会政治問題に介入しうる英米哲学型の言説(たとえば「批評」ないし大衆に訴える力を持った言説)のほうが好ましい、と(『脱構築とプラグマティスム』法政ウニベルシタス参照)。
なるほど。おっしゃりたいことはわかります。そしてある程度はローティの物言い(ないしhfさんによるパラフレーズ)に賛同できなくもありません。ただ、ちょっと私の言いたいこととは違うので、ローティとの対比という形で、もう少し私の意見を述べてみたいと思います。

  第一に、単にスタイルの問題(講壇向けの・秘教的なスタイルではなく大衆向けの・平易なスタイル)には還元できない。というのも、問題が公共空間の機能喪失であるとすれば、いわゆる「大衆向けの・平易なスタイル」による言説もこの公共空間<内>にある以上、スタイルを変えることはせいぜい限定的な意味しかもちえないのです。

 ハーバーマスの示した、
repräsentative Öffentlichkeit 体現的?公共性: 王侯・貴族などの「公人」が身をもって公共性を「体現している」段階から
litterarische Öffentlichkeit 文芸的公共性: 典型的には文芸批評などの場において貴族/市民などの身分差が宙吊り・中和され、来るべき政治的公共性の雛形・元型となる段階、ないし
politische Öffentlichkeit 政治的公共性:「öffentliche Meinung世論」として表象されるような公共性 への転換は、政治権力から自立しそれを抑制・チェックする公共性の成立を意味していました(あくまで理念上の話ですが)。

 とすれば、このような意味での公共空間の機能不全は、とりわけ、政治権力に対する自立的チェック機能の低下をもたらすことになるでしょう。公共空間の担い手の一つが大学であったわけですが、当然、公共空間の機能喪失とアカデミズムの凋落とは不可分の関係にあります。アカデミズム、とりわけ、カントの議論でいえば、神学部・法学部・医学部などの「上級学部」的なものに対する哲学部ないし「下級学部」的なものの凋落です。

 実際、上級学部的テクノロジーに対する政治権力の依存はむしろ高まっているのであって、「公共性の構造転換」が同時に(アカデミズム全体の凋落というより)アカデミズムの構造転換(政治権力への従属化―『諸学部の争い』!)をもたらしていることを見なければなりません(石原都知事が「人文学部」を攻撃目標にしているのは偶然ではないのです)。

 したがって、公共空間の機能喪失がもたらす問題は、単純化して言えば、スタイルを問わず、あらゆる「哲学的」言説がそもそも介入の場を喪失しつつある、ということなのです。

 第二に、「大陸哲学」と「英米哲学」という対比も少々割り引いて考えたほうがいいでしょう。現在のドイツ語圏を「英米哲学」が席巻しつつあるというような反証だけでなく、また、そもそも「英米哲学」の源流にはフレーゲやヴィトゲンシュタインやカルナップらの「大陸系」哲学者が決定的な影響を及ぼしていたこと、いわゆる「大陸哲学」の典型例のように見なされているヘーゲルやニーチェやハイデガーにしても、決して「大陸」を独占していたわけではないこど、むしろ、ヘーゲルに対抗した新カント派や(ポスト)歴史学派などによる「平易な」言説のほうが支配的であったこと、などという歴史的反証だけでなく、現在なぜ「英米哲学」的なものがこれほど優位を占めているのか、ということを考える必要があるのです。

 私の見るところ、現代のいわゆる「英米哲学」で進行しつつあることは、クーン風に言って、哲学の「通常科学化」なのだと思います。伝統的に「古典的」とされてきたテクストは次第に(Vor-Geschichteと して以外の)意味をもたなくなりつつあり、文献学的な訓練や研究が二義化・周縁化しています。それに代わって、ほとんどがせいぜい二、三十年のうちに書かれた、個別テーマごとに細分化した「関連文献」についての詳細な知識が要求され、それをクリアしない限り、議論のスタート地点にすら立てない。

 と同時に、原理ないしパラダイムそのものを疑問視するような「大(きな)哲学」が成立しなくなっていく。というのも、何を論ずるにせよ、「先行文献」への参照が徹底して要求される以上、パラダイム(範型)の外に立つことは、研究者集団に加われないことを意味するからです。言い換えれば、かつての「大哲学」があつかってきた「問題」も、近年の文献で論じられている限りにおいては、かつてないほど活発に論じられるし、最新の文献に「ついて行く」だけでも大変になる。一見すると、内容においては、大きな変動がないように見えても、形式において、研究の「経営」メカニズムが変わってきているのです。

 少し極端な書き方をしましたが、このような発展――原理そのものを「問い直す」、そのために、「古典」に立ち戻る、というようなプロセスが哲学研究から影を潜め、同時代の専門家間で進行している「アクチュアルな」議論の検討が前面に出る――は、「業績」の作りやすさ、ないし、「業績」を作らなければいけないという圧力と、互いに条件づけあっています。アカデミズムの再生産、ないし、アカデミズムをサブシステムとして含む政治システムの再生産の中で、「業績」というものの占めている位置は以前と変わらないとしても、「英米哲学」的な研究経営のほうがより「競争力をもつ」こと、また、アカデミズムのグローバリゼーションを背景としながら、各国のアカデミズム市場を席巻する可能性をもつこと、なども全般的傾向として十分言えるように思います。

 もし哲学の「通常科学化」という私の理解が正しいとすると、一方における、哲学のかつてないほどの「盛況」(予算や研究者市場の規模に依存する)、他方における、非専門家層と哲学の乖離(哲学の非特権化)は、まったく矛盾せず成り立つことになります。

しかしながら、宛先が「哲学の部外者」であるということは、必ずしも非哲学的な言語を用いねばならない、あるいはよりアクチュアルな主題を選ばねばならないということを意味しはしない、という点では賛成していただけるのではないでしょうか。大衆にあわせた言説で話そうとするのは危険であり、むしろドゥルーズやフーコーやデリダのように一見きわめて難解でありながら、国境を越えて広がっていく強靭な思考のスタイルは、哲学の外部でも内部でも壊乱的な作用を引き起こすという点でも。

わからなくもないのですが、ただ、では「大衆にあわせた言説」でない言説とはどのようなものなのか、私には今ひとつ明確にイメージできません。秘教的・黙示録的な言説?「俗受け」を狙って内容のともなわない言説がダメという話なら、もちろん同意しますが、それは自明のことですよね。

 先のメールで「知識人/大衆」という二項対立を維持してしまうという点に触れましたが、その最大の問題は、この対立自体が今日の状況によって無効化されていることにあります。つまり、私自身好むと好まざると 「大衆」の一人であること、これは卑下とかそういう意味ではまったくなく、仮に自分で「知識人」としてカテゴライズしようとも、そのような「知識人」のいるべき<場>そのもの――これはあの公共空間にほかならないわけですが――が崩壊しつつあり、それゆえ、知識人と大衆という対立そのものが意味を失っているということです。

 だとすれば、「大衆にあわせない」言説というものの危険は、単に「誰にも聞き届けられない」言説になりかねないという点です。ある意味で「大衆」しかいなくなっており、その中には自分が「知識人」だと思っている大衆も含まれる。あるいは、「大衆」のうちの誰でも、にわか知識人になりうる。

私は最も形而上学的な主題についてですらも、先鋭的な議論は、長期的に見て必ずや何らかの形而下的な影響を引き起こすと思っています。

私たちの「明確な相違点」ということでいえば、まさしく この点がそうですね。私は非常に懐疑的です。いやむしろ逆に、かつて柄谷さんが『批評とポストモダン』で自問したように、いわゆる脱構築やポストモダニズムが現代の資本主義にきわめて適合したイデオロギーだったのではないか、したがって、形而下的な影響も何も、そもそも形而下的な状況と一種の共犯関係にあったのではないか、という気がします。

 とはいえ、このようにペシミスティックな状況判断を述べることはいくらでもできるのですが、その後、どのような形で、あるいはそもそもまだ何らかの形で<介入>が可能なのかを考える段になると、ほとんど見当もつきません。さしあたり、私の課題は、上のような状況判断を可能な限り具体化すること、そして、なぜ、どの程度<介入>が困難ないし不可能になりつつあるのかについて信頼できる診断を下すこと、ということになるでしょうか。結局、そのような課題は「哲学的課題」と呼ぶほかないのでしょうが、もはや哲学として登場することはないように思います。

 何かまとまらない話になりましたが、今日のところはこの辺で。ss

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