Friday, April 06, 2007

「戯作者文学論」について(3)切ない鼻息

こういうところで私の仕事の進展とか、外国人研究者との付き合いなどを報告していると、自分にも他人にも必ず幻想、幻覚が生じるので、それには気をつけている。

あまりグループを作りたくない。特にグルーピーとかファンとか弟子とかを持ちたくない。そんなレベルではないのだから。後輩にもなるべくくだけた調子で近づき、あるいは突き放し、脱神話化するよう努めている。

***

安吾は大言壮語の人と思い込んでいる人がいるとすれば、その人は真実の半分しか見ていない。7月14日の項。

≪親類の人の紹介状をもって、浅草向きの軽喜劇の脚本を書きたいから世話をしてくれ、という人が来た。北支から引き揚げてきた人だ。全然素人で、浅草の芝居を見て、こんなものなら自分も作れると思ったというのだが、自分で書きたいという脚本の筋をきくと、愚劣千万なもので話にならない。こういう素人は、自分で見てつまらないと思うことと、自分で書くことは別物だということを知らない。つまらないと思ったって、それ以上のものが書ける証拠ではないのだが、恐れを知らない。自分を知らない。

 夏目漱石を大いにケナして小説を書いている私は、我が身のことに思い至って、まことに暗澹とした。まったく、人を笑うわけに行かないよ。それでも、この人よりマシなのは、私は人の作品を学び、争い、格闘することを多少知っていたが、この人は、そういうことも知らない。何を読んだか、誰の作品に感心したかと訊くと、まだ感心したものはないという。

 名前すら知らない。無茶なんだ。いつまで経っても帰らず、自分の脚本を朗読と同じように精密に語る。私はまったく疲れてしまった。私はまったく、泣きたいような気持ちになってしまった。それは我が身の愚かさ、なんだか常に身の程を省みぬような私の鼻息が、せつなくなったせいでもあった≫(全集第15巻、20-21頁)。

私も学部生や院生と話していると、ときどき自分の「鼻息」が切なくなる。他人との共闘が意味を持つのは、まず自分がいっぱしの仕事をしてからのことである。幾重にも自戒を。

2 comments:

giuseppebianco said...

isashi sei tu?

hf said...

Si! Quel voyeurisme! Ne surfes pas trop...

A propos, je cherche tjrs des infos concernant la réception du bergsonisme en Italie. Tu m'as donné des noms suivants:

***d'après ton manuscrit que j'ai déchiffré.

Enzo Paci (1960's)
Rovatti (1980's)
Mathieu: Il Profondo e la sua espressione.

-consommation-

1990's: toutes introductives
(Pessina, Migliaccio, Ronchi)

2000's
Baricci, Bergson, filosofo del software, Milano, 2005 (texte moyen mais qui témoigne d'une sortie de Bergson du spiritualisme).

On commence à voir une actualisation de Bergson dans le domaine des études sur la "complexité" (après Stengers, Prigogine).

***fin de citation

Dans "Bergson et nous", il y a une bibliographie intitulée "Quelques études bergsoniennes en Italie" de Lucette Vigone qui suit leur évolution jusqu'à 1959.

Y a-t-il des articles là-dessus ou une bibliographie après 1959? hf