Tuesday, June 19, 2007

石板と踏切板(レヴィナスとベルクソン)

≪自由が現実に食い入ることが可能であるとすれば、それは制度によってだけである。自由は、さまざまな法が書き記された石板に刻み込まれる。自由が現実に存在するのは、制度的存在にはめこまれることによってなのである。自由は書かれたテクストに由来する。

テクストはたしかに破壊されうる。だがテクストは、他方では持続しうるのであって、そこで人間のための自由が人間の外で維持される。暴力と死とに曝された人間の自由が、ベルクソン的な飛躍によって一挙にその目標に到達することはない。人間的自由は、自分自身を裏切って諸制度のうちに逃げ込む。

歴史は一個の終末論ではない。道具をつくる動物が自らの動物的条件から解放されるのは、その飛躍が中断され、断ち切られるかに見える地点においてである。つまり、蹂躙されることのない意志として自ら目標に向かう代わりに、道具を製作し、自分の将来の行動の可能性を受け渡し、受け取ることができるもののうちで固定する場合なのである。

このようにして、政治的・技術的な現実存在によって、意志にその真理が保証される。≫(レヴィナス、『全体性と無限』



≪生命の跳躍は、生命に背く構造に到達する。自由は自由自体が見る影もなく変わり果てるある決定的な選択に到達する。なんと人を食った矛盾であることか。生命は自分自身を余すところなく実現するために知性に頼るのに、知性は生命の期待を裏切るのである。

私たちが「器官-障害の弁証法 dialectique de l'organe-obstacle」と呼んでいたものは、すでに受肉の必要性をしっかりと打ちたてている。物質が足かせであるばかりではなく、生命の不可欠な協力者でもあるということを理解する機会は繰り返し私たちに与えられている。

物質は、生命がそれに対抗して自分を主張しなければならない抵抗を毎瞬間表しているばかりではなく、その起源からして、次第に枝分かれしていく進化の道の上に生命的飛躍を自らたわむことによって放り出した踏み切り台でもある。これは、飛躍ないし飛翔のイメージそのものが表現していることである。

おそらくは、たとえ物質が存在しなくともなお生命は存在するであろうが、生命的飛躍は存在しないであろう。物質が存在しなければ、本来の意味での進化は、自由の価値的優越性を増大させるという自らの存在理由を失うことになろう。≫(ジャンケレヴィッチ、『アンリ・ベルクソン』

No comments: