土曜日は日仏哲学会@雨の東京。いろいろな方に「大変みたいだね、がんばってね」と声をかけられる。哲学研究や生きることそのものにおいて「遠くへ」行くのは好きだが、最近、哲学研究、つまり生きること自体から「遠ざかっている」なあ、と憂鬱になっていた。諸先輩方、友人たちに励まされるというのは本当に大きい。ありがとうございました。
発表についての所感。行なった質問をざっと書きつけておこう。
午前一つ目:ベルクソン『試論』における空間と延長について。まず時間内に発表を終わらせるということが大前提。別に一分や二分、と思うかもしれないが、一般発表というのは若手研究者の鍛錬の場なので、一分超えてもいけない。少なくとも私はそう思ってやってきた。内容の批評はそのあとの問題。
午前二つ目:ベルクソンにおける「習慣」概念は各著作から表面的に拾い上げてくるとネガティブなものが多いが、生産的・創造的といえる「新しい習慣をつける習慣」がある、というもの。しかし、真に新しい習慣をつけさせるのは、「動的図式」をはらむ「(知的)努力」である。「習慣」はそれに引きずられつつ、それを具現化する「物質」のような側面に着目して研究してみると面白いのではないか。
午前三つ目:ベルクソンにおける「individu個体・個人」概念は、『進化』と『二源泉』の断絶を画するものであって、人間の創造的な側面を表す、というもの。しかし、『進化』の「個体」と『二源泉』の「特権的個人」を同一レベルで論じることができるのか。『二源泉』は「特権的個人」というより、特権的個人を超え出ていこうとする力とその横溢としてのpersonnalité(人格性)を称揚しているのであって、これはindividualité(個体性)と分けて考えるべきではないか。『二源泉』における「個人」はむしろ閉じた社会に見られる「社会―個人」のサーキットの中に見いだされる。「人間種という停滞」こそ、種とは停滞であると言いながら、人間種の勝利をほぼ手放しで謳歌していた『進化』において、きちんと見いだされていなかった次元といえる。
午後シンポジウム:現象学以後のイメージ問題をめぐって、加國さんがメルロ=ポンティ、宇野さんがドゥルーズ、澤田さんがナンシーを論じた。
17世紀以降プラトンのミメーシス批判のミメーシスが続いたが、20世紀に入って、イメージを「本質/仮象」「オリジナル/コピー」の二分法で考えるのをやめ、イメージそのものの持つ力を見いだそうという方向が表れてきた。これはドゥルーズの言葉を借りれば「偽の力」(puissance du faux)というべきもので、今回の三つの発表はいずれも、この力とそれ以前的な問題構成との間の切断線を強調するものであったと言える。
ドゥルーズは最も現代的で、最も映画的な映画の本質として、「偽の運動」ともいうべき「つなぎ間違い」や「非合理的切断」(coupure irrationnelle)によってつくりあげられた「偽の力」を考えており、これは非有機的生気論(vitalisme non-organique)に支えられている。しかし、主体の問題を棚上げにしながら、本当に純粋な「非有機的」生気論を貫徹でき、非人称的で前主体的な超越論的領野を維持できるのだろうか。
加國さんの発表は、「自然的知覚」の優位を説いてきたとみなされるメルロが、実は映画論において技術性(人工的知覚)、とりわけ「モンタージュ」を積極的に取り入れており、ここに現象学的映画論の可能性があるのではないか、というもの。「偽の力」が「モンタージュ」に見いだされている。しかし、メルロの映画論には、「映画の現象学」を可能にするものというよりは、「現象学を映画の用語で語ったもの」という意味で、「現象学の映画」という印象を受ける。現象学は「偽の力」を受け止めることができるのだろうか。真理との関係を完全に断つことができるのだろうか(この点で、ベルクソンが真と偽のはざまにある「デジャヴ」を取り上げたのに対し、メルロが主体的知覚の「真」を支える「幻影肢」を取り上げたのは興味深いことである)。
ナンシーは「偽の力」を、イメージの裸形、イメージそのものの露呈というほとんど唯物論的な語り口で、イメージの眼差し、何も眼差してはいない眼差しが、にもかかわらず、主体を成立させる、といわんばかりである。ここで登場してくる主体は、近代的な主体とどう違うのだろうか。
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