Sunday, August 01, 2010

「計測」しえないものを「計測」すること――テストの採点にまつわる感慨

テストの採点の季節である。具体的な採点に関する感慨はさておいて、しかし、採点とは一体何をどのように計るものであるべきなのか?

例えば、答案の記述の中で、ソフィストについて「感情的に言葉を用いていた」という表現が用いられていたとする。この表現は間違っており、「感情に訴えるように言葉を用いていた」という表現が正しいとする。

このような文章表現能力は、ほとんどの場合、講義内で得られたものではない。それまでの蓄積であり、言ってみればどれだけの教育資本がその学生に投下されてきたかということを示している場合が多いのであろう。これで点数をつけることは、究極的には学生のそれまでの勉強歴全体を「採点」することではあっても、当該講義の理解度・習熟度だけを適正に計ることになりはしないのではないか?そんな疑念が頭をよぎらなくもない。

そこで、当該講義内で、このような文章表現の繊細さ、そして概念的区別に意識的に目を向けさせたとする。「感情的に言葉を用いる」のと「感情に訴えるように言葉を用いる」のは二つのかなり異なる事態なのだ、と。すると、今度は、この記述は、知識を問う問題になってしまう。要は聞いていたかどうか、知識としてこの区別を習得したかどうかになってしまう。すると、自分で考えて答案を練り上げてくるという、哲学の試験にとって本質的な作業に結びつかなくなってしまわないか。

つまり、講義内で試験対策をしなければ、講義以前の学生の「実力(テスト力)」が計られることになり、試験対策をすれば、講義の目的(自分で考えを練り上げてくること)が破壊されるような気がするのである。

ある講義の中で学生がどれだけ学び、どれだけ努力したかを正当に計るには、私たちはいったい何を測るべきなのか?「計測」しえないものを「計測」するにはどうすればいいのだろうか?

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