必ず(1)から読んでもらいたい。引き続き加藤氏の著作から。
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性格的な問題、という点について一言しておこう。神経質に仕事を進めていく人は往々にして、人から「仕事のできる人」と見なされやすく、またしばしば自分のことをそのようにナルシスティックに勘違いしている場合がある。だが、よく考えてみてほしい。彼らはそうしないと「生理的に落ち着かない」からそうしているに過ぎないのだ。小さい犬ほどせわしなく動き、よく吠え威嚇する。大きい犬ほどのんびりしている。だからといって、別に小さな犬が悪いわけでもなければ、大きな犬が悪いわけでもない。それは種族的な違いなのであって、そんなことは仕事の本質に関係しないことがほとんどである。私たちはよくよくこの事実を認識しておくべきだろう。
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燃え尽き症候群の人は、いつもにこにこして周りのあらゆる人にあわせようとして、嫌いな人にまで好かれようと絶望的な努力を繰り広げる人である。こういう人は、努力の仕方も、努力すべき場所も相手も間違っている。
この種の人が生きづらいのは決してその人が悪いのではないが、すべて周囲が悪いわけでもない。この種の人は、自分が何をしたらよいのか、本当は自分が何をしたいのか分かっていない人である。きずな喪失の人は、そういう人に吸い付いて骨まで、というか魂を、しゃぶり尽そうとする。
きずな喪失の人は、自分のしたいこと、なすべきことがはっきりしている人のところへは行かない。彼らは、自分が本当は不安でたまらず、からっぽな人間であることを見抜く人を本能的に嫌う。
燃え尽きの人は、きずな喪失の人が近くにいる場合、自分がその餌食になりやすい傾向をもっていることを意識すべきだし、きずな喪失の傾向をもつ人は、自分が相手を過剰にコントロールしようとしすぎていないか注意すべきである。蛇とカエルがもし一緒にいないといけないのなら、「蛇ににらまれたカエル」のような事態を招来しないよう、互いになるべく近寄らない、可能なかぎり接点を持たないことである。
それを認識していないと、燃え尽きの人は、生涯にわたって人からいいように扱われてしまう。
「生きるのがつらい」と言っている人は、「今の人間関係の中で生きるのがつらい」のである。「こんなに一生懸命やっているのに、どうしてこんなに苦しいことばかりなんだろう」と思ったら、ほぼ間違いなく、今の人間関係にどこか異常なところがあるのだ。
特に職場などでは、誰と付き合うかまでコントロールできるわけではない。嫌な上司や同僚とでも調子を合わせて付き合っていかざるを得ない。だが、「誰と付き合うか」は変えられなくても、「どう付き合うか」は変えられる。そしてこれは努力に値することである。
燃え尽き症候群の人にとって、きずな喪失症候群の人を見分けること、彼らの生態や性質をしっかり知っておくことは決定的に重要である。山に暮し山菜を食べて日々を送らざるを得ない人にとって、毒キノコを見分けること、その生態や性質をしっかり知っておくことが、命にかかわる重大事であるのと同じである。
きずな喪失の人は、自分のしたいこと、なすべきことがはっきりしている人のところへは行かない。彼らは、自分が本当は不安でたまらず、からっぽな人間であることを見抜く人を本能的に嫌う。
燃え尽きの人は、きずな喪失の人が近くにいる場合、自分がその餌食になりやすい傾向をもっていることを意識すべきだし、きずな喪失の傾向をもつ人は、自分が相手を過剰にコントロールしようとしすぎていないか注意すべきである。蛇とカエルがもし一緒にいないといけないのなら、「蛇ににらまれたカエル」のような事態を招来しないよう、互いになるべく近寄らない、可能なかぎり接点を持たないことである。
それを認識していないと、燃え尽きの人は、生涯にわたって人からいいように扱われてしまう。
「生きるのがつらい」と言っている人は、「今の人間関係の中で生きるのがつらい」のである。「こんなに一生懸命やっているのに、どうしてこんなに苦しいことばかりなんだろう」と思ったら、ほぼ間違いなく、今の人間関係にどこか異常なところがあるのだ。
特に職場などでは、誰と付き合うかまでコントロールできるわけではない。嫌な上司や同僚とでも調子を合わせて付き合っていかざるを得ない。だが、「誰と付き合うか」は変えられなくても、「どう付き合うか」は変えられる。そしてこれは努力に値することである。
燃え尽き症候群の人にとって、きずな喪失症候群の人を見分けること、彼らの生態や性質をしっかり知っておくことは決定的に重要である。山に暮し山菜を食べて日々を送らざるを得ない人にとって、毒キノコを見分けること、その生態や性質をしっかり知っておくことが、命にかかわる重大事であるのと同じである。
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