パワハラ上司はどんな人?
仕事に過剰適応な上司
自己中心型
- 「オレについてこい主義」で、他人の言うことに耳を貸そうとしない。
- 自分のやり方に自信をもっているのでそれを押しつける。
- 自分のやり方への批判を許さない。
過干渉型
- 完璧主義で、手抜きを許さない。(他人に厳しい)手取、足取り教えようとする。
- 自らの成功体験を語りがちで、相手の置かれた状況を無視して、おせっかいをする(説教が大好き)。
- 自分は面倒見がいいと思い込んでいて家族主義を振り回し、プライバシーにまで干渉する。
仕事に消極的な上司
事なかれ主義型
- 上の意向を気にして自らの判断をしようとしない。
- 失点を恐れて、新しいことにチャレンジしようとしない。
- 状況変化への適切な対応や突発的な危機管理ができない。
無責任型
- 部下に任せきりで、リーダーシップを発揮しない。
- 仕事への不満や処遇上の不満を募らせている(上層部や部下への不満、そしてポジションや処遇への不満)。
- 部下などに責任を押しつけて責任回避ばかりする。
この間もまた卒業生から相談を受けた。セクハラとパワハラの交錯ケースである。
《様々な「ハラスメント」が叫ばれるようになった昨今ですが、 一会社に浸透するのはまだまだ時間がかかりそうです。 セクハラやパワハラに関しては、すでに、「訴えたら勝てる」 くらいの経験をいたしました。
いつか機会がありましたら、後輩の皆さんの前でお話させていただけたらと思 います。特に、 女子学生の皆さんには身近な問題だと思いますので。》
やっているほうは無自覚なので、たちが悪い。「ボクはやってないよね?」などと言って、相手が「もちろんですよ」と答えたら、それでOKと思っている。おめでたいというほかない。ジャイアンがスネ夫に「おい、スネ夫。俺様はおまえのこと、いじめてなんかないよな?」と言ったとして、スネ夫は何と答えるだろうか。もちろん、このジャイアンは、ジャイアンな見かけをしている場合もあれば、出木杉君な見かけをしている場合もある。
ハラッサーが被害者に何度問い詰めても答えは同じであるし、そう問い詰め、自分はハラッサーでないことを証明しようとして、いよいよ距離を詰めようとすること自体、ハラスメントの上塗りでしかない。
このような場合、相手は決して本心を答えない。いや、答えないのではない。答えられないのである。したがって、「なんで嫌なら嫌と本当の気持ちを言ってくれないのか」などとその相手を問い詰めるのは、完全に問題の本質を逸している。
そんな本心が言えるくらいなら、そもそもハラスメントを耐えながら独り苦しんだりはしない。本心を言えない心理状況に追い込まれているから、ハラスメントをハラスメントだと言えないのである。
要は訊く相手を間違えているのだ。自分がハラスメントしているか聞く相手は、セクハラ・パワハラをしているかもしれない当の相手、ではない。静かに問いかけるべき真の相手は自分であり、自分の内面であるほかない。
注意深く見るべきは、相手が自分をハラッサーだとみているか否かではない。自分が相手を本当の意味で、つまり、もしかすると自分の「甘え」が原因で苦しんでいるかもしれない者として、尊重した言動をしているか否かである。
ちなみに、現在ハラスメントに苦しんでいる人たちのみならず、もしかして自分もハラッサー(予備軍)かもと思い始めた人たちにも、幅広くいろいろな本を読むことを強くお勧めしておきたい。「自分は関係ない。そんなもの読む必要はない」と言い張っている人ほど危ないのかもしれない。
被害者にとってはまったく物足りないかもしれないが、牟田和恵さんの『部長、その恋愛はセクハラです!』は、男性にとっては有意義であると思う。
牟田さんの本が物足りなかった女性には、『妄想(セクハラ)男は止まらない 勝利的和解・セクハラ裁判の記録』という壮絶な闘いの記録をお勧めしておく。「心理的監禁状態」、この話はアディクションや共依存の話と無縁ではない。私が、《結婚の脱構築》の一環として、ハラスメントに関心を寄せるゆえんである。
《様々な「ハラスメント」が叫ばれるようになった昨今ですが、
いつか機会がありましたら、後輩の皆さんの前でお話させていただけたらと思
やっているほうは無自覚なので、たちが悪い。「ボクはやってないよね?」などと言って、相手が「もちろんですよ」と答えたら、それでOKと思っている。おめでたいというほかない。ジャイアンがスネ夫に「おい、スネ夫。俺様はおまえのこと、いじめてなんかないよな?」と言ったとして、スネ夫は何と答えるだろうか。もちろん、このジャイアンは、ジャイアンな見かけをしている場合もあれば、出木杉君な見かけをしている場合もある。
ハラッサーが被害者に何度問い詰めても答えは同じであるし、そう問い詰め、自分はハラッサーでないことを証明しようとして、いよいよ距離を詰めようとすること自体、ハラスメントの上塗りでしかない。
このような場合、相手は決して本心を答えない。いや、答えないのではない。答えられないのである。したがって、「なんで嫌なら嫌と本当の気持ちを言ってくれないのか」などとその相手を問い詰めるのは、完全に問題の本質を逸している。
そんな本心が言えるくらいなら、そもそもハラスメントを耐えながら独り苦しんだりはしない。本心を言えない心理状況に追い込まれているから、ハラスメントをハラスメントだと言えないのである。
要は訊く相手を間違えているのだ。自分がハラスメントしているか聞く相手は、セクハラ・パワハラをしているかもしれない当の相手、ではない。静かに問いかけるべき真の相手は自分であり、自分の内面であるほかない。
注意深く見るべきは、相手が自分をハラッサーだとみているか否かではない。自分が相手を本当の意味で、つまり、もしかすると自分の「甘え」が原因で苦しんでいるかもしれない者として、尊重した言動をしているか否かである。
ちなみに、現在ハラスメントに苦しんでいる人たちのみならず、もしかして自分もハラッサー(予備軍)かもと思い始めた人たちにも、幅広くいろいろな本を読むことを強くお勧めしておきたい。「自分は関係ない。そんなもの読む必要はない」と言い張っている人ほど危ないのかもしれない。
被害者にとってはまったく物足りないかもしれないが、牟田和恵さんの『部長、その恋愛はセクハラです!』は、男性にとっては有意義であると思う。
牟田さんの本が物足りなかった女性には、『妄想(セクハラ)男は止まらない 勝利的和解・セクハラ裁判の記録』という壮絶な闘いの記録をお勧めしておく。「心理的監禁状態」、この話はアディクションや共依存の話と無縁ではない。私が、《結婚の脱構築》の一環として、ハラスメントに関心を寄せるゆえんである。
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