Wednesday, January 09, 2002

ナンシー『対立の共同体』

 ジャン=リュック・ナンシーの近著『対立の共同体』(2001年)は、彼の共同体の理論に本質的な変化をもたらすものではない、と私は言った。この評価を撤回する理由は見当たらない。また、「インドや中国」についての大雑把な注記に対する不満も変わるところはない。

 しかし、いささか手早く通り過ぎてしまった感もなくはないので、ここであらためて『対立』の内容を丁寧に辿って紹介しておこう。



 『対立の共同体』は、モーリス・ブランショの『明かしえぬ共同体』の伊語改訳版への序文を本体とし、それに数頁の前文を加えてなった著作である。『明かしえぬ』が執筆・刊行された当時の状況説明を、という出版社の求めに応じて、ナンシーは、これまでその意味を厳密に考え抜くことなしに放置してきたあるエピソードに立ち戻る。

 1980年代に書かれた「共同体」に関する諸々の哲学的なテクスト(当時のヨーロッパの思想を深く規定していたものでもある)の歴史、より厳密に言えばその出発点となった『無為の共同体』(初版1986年、二版1990年、三版1999年)の歴史が、それである。したがって『対立』の狙いは、『無為』執筆に至った経緯と刊行後の反響、とりわけブランショの反応を素描することである。

 また、そもそもブランショの『明かしえぬ共同体』(1983年末)自体、『無為の共同体』(初版1986年)の元になった同名の論文への応答(1983年春)として書かれたものであることを考え合わせても、『対立』は『明かしえぬ』の序文というよりも、『無為』への15年後の後記であると言ったほうがより正確であるかもしれない。

(むろん、「無為」というモチーフ自体がブランショから、したがってバタイユにごく近い場所から、より正確に言えば、この両者の間の「友愛」あるいは「無限の対話」という名の共同体(コミュニティ)から、この非常に特異な、沈黙に満ちた、ある意味で密やかな交通(コミュニケーション)から、取られた概念であることを考慮に入れるなら、事態はさらに複雑になるのだが…。)

 ブランショは「共同体」のモチーフに、共産主義が強力に遮蔽もし、同じように強力に生ぜしめてもいたもの、すなわち「共同的なもの」の審級、のみならずその謎ないしアポリア、その定かならず統御しがたい性格にふたたび取り組むべき絶対的な、暴力的ですらある必要性を認めていたが、『明かしえぬ』における彼の応答は木霊であり、反響であるにとどまらず、同時に留保であり、そしてある意味では非難であった。

 この留保ないし非難の意味を正確に捉えること、ブランショが『明かしえぬ共同体』という表題によってはっきりと指示している(テクストの終わりの部分にも表れている)秘密、すなわち愛によって与えられる死の中の「明かしえぬもの」、死において与えられる愛の中の「明かしえぬもの」の解明に、十八年の時を経て今ようやく着手する(少なくともその決意を宣言する)こと、これが『対立』の中心的な課題である。

(以下いちいち断らないが、ほぼすべての文章の前に「ナンシーによれば」が付くと思っていただきたい。私の見解を述べる場合には明示する)。



1.バタイユ講義から『無為の共同体』へ(pp.30-36)

 1982-1983年度、ナンシーはストラスブール大学で、政治的な角度から見たバタイユについての講義を行なっていた。ファシズムや共産主義ばかりではなく、民主主義的ないし共和主義的な個人主義の論理からも逃れる未知の方途の可能性を探ることが目的であった。

(当時はまだ「市民」は論じられてはいなかった。いずれにせよこの概念は、ナンシーによれば、上述の議論をさほど進ませるものではない。)

このような目的のためにバタイユをとりあげたのは、彼の著作の至る所に「共同体」という語・モチーフが現れているからであったが、バタイユという選択は同時に、問題が単に政治的なものにはとどまらないこと、言い換えれば、政治的なものの手前あるいは背後に、「共通なるもの」「一緒のもの」「数多いもの」があるということをも示していた。と同時に、どのように現実的なものの領域を考えればよいのか、もはや全く分からなくなっていたということをも。

 だが研究の結果、バタイユは未知の政治学に接近する可能性を与えてはくれないことが明らかになった。彼の戦後のテクストでは、むしろ幾つもの点で、固有の意味での政治的な可能性はすでに消去されていた。自身の戦前の思考が持っていた政治的な雰囲気を退け、「科学」としての社会学への対抗心を失い、社会学コレージュを本格的に創設するという試みを放棄していた。バタイユがファシズムの原動力と見ていた行動主義的な欲動のエネルギーを、「聖なる社会学」がファシズムから取り上げる、などということはもはや問題にはならなかった。ヘテロロジックなアジテーションは失敗し、戦争はエクスタティックな力をまざまざと剥き出しにしてみせるどころか、民主主義の勝利によって終わり、バタイユの政治的な計画はうやむやのままに残されたのである。

 しかし固有の意味での政治的な可能性を与えてくれなかったということは、別の角度から政治的なものを考え直す可能性を与えてくれたということである。バタイユは、"souveraineté'"を「主権、統治権」という政治的な意味ではなく、「至高性、絶対的な力」という存在論的・美学的・倫理的な意味で捉え、共同体の強い(情熱的な、聖なる、親密な)結びつきの本質を「恋人たちの共同体」のうちに見出すに至った。

 「恋人たちの共同体」というものがあるとすれば、それはいわゆる社会的な絆といったものとはまったく対照的な、そのcontrevérité(反語・逆説)として現れるほかないものである。生と死の間を繋ぐあらゆる通路が社会的な絆による拘束を受けているとしても、恋だけはそこから派生してくるものではない。社会を構造化する(たとえ侵犯によって社会に裂け目を生じさせることによってであるにせよ)契機として、バタイユによって想定された「恋人たちの共同体」は、社会の外に、と同時に内に、政治の全く関与しない親密さ=私生活(intimité)の中に託される(déposé)。

 政治と「共同-で-あること」の分離、漠然とではあるが当時次第に姿を現わしつつあったこの現象にバタイユは気づいていた。だが、強い親密さの共同体について語るにせよ、均質的で外延的な絆の社会について語るにせよ、バタイユは、内面性における引き受け(assomption en intéroirité)としての、実現されたユニットの自己現前としての共同体という望ましい場所(恋においてそこに到達するのであれ、社会においてそれを断念するのであれ)を基準点に据えている。しかし、この基準点、共同体のこの前提こそが(たとえ、はっきりと不可能なものとして示され、それによって「共同体なき者たちの共同体」へと反転しているにしても)分析されねばならないのではないのか。

 ナンシー自身は、共同体という表象が、哲学の伝統を通じて、マルクスとバタイユによるこの伝統の超克ないしそこからの横溢に至るまで、維持され続けてきたことを再認識し、80年代初頭のありとあらゆる思考に刻印を押していた「全体主義」に関する考察を通じて、共同体の本質的な性格を「自身の営み(œuvre)として自己実現する」ことであると認識するに至っていたわけであるが、バタイユの難解な、絶えず揺れ動く、苦しげな(malheureuse)部分もないではない思考は、それとは異なる共同体の可能性を考えるように仕向けてくれた(たとえバタイユ自身の思想を越えて進むことによってであるにしても)。それが「無為の共同体」である。(続く)

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