Tuesday, October 01, 2002

Communitas (2)

isさん、

 エスポージト、ご指摘どうもありがとうございました。生年は、参照したサイト(末尾に付記)に書いてあったので信じてしまったのですが、おそらくおっしゃる通りなのでしょう。やっぱりもっとちゃんと確認しないといけませんでしたね。

 名前の問題(より正確に言えばカタカナ表記)はいつも厄介です。実はついさっきまで、とあるsoutenanceを見物するためにパスカルの生地、ベルクソンの第二の故郷、クレルモン・フェランに行ってたんですが、主査である気鋭の現象学者Renaut Barbarasの名前なんか、「バルバラ」「バルバラス」(こっちが主流)と審査員たちの間ですら呼び方が違ってたくらいですからね。


(ちなみにこのバルバラス、要チェック人物です。)

 日本語でも「コージン」なのか「ユキヒト」なのか分からないことはありますが、最近の本は著者紹介や奥付などでほとんどの場合発音は確認できますからねえ。

 アガンベン、来年12月にパリのEPHEで、宗教と政治に関するセミナーを開くそうですから、よろしかったらどうぞ。

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 ところで、まさにこの接触・「汚染」の危険に対して、近代哲学は防衛的な免疫機制(immunity)を作動させてきた。

 immunityは現在ではまず医学用語として定着しているが、その語源Immunitasは、「munusを免れた」という意味で、元々は、貴族や聖職者などの免責特権・義務免除などに用いられた法律用語であったのであり、それが後に医学用語に転用されたのである。

 immunityは、 例えば我々が他者と予期せぬ接触をしたとき、見知らぬものから突然触られた時に覚える動揺のようなものかもしれない。我々の個人としての同一性を確保する ことで我々を守っている、他者に免疫をつける境界線が危険な形で踏み越えられた、と感じるからだろうか。核削減の後、移民問題が我々の社会にとって最大の 危険の一つとみなされているという事実は、我々が「共同体」のもともとの考えからいかに隔たったところにいるかということをよく示している。

  このような漠然とした 「免疫」感覚は、さらに、最新の医学的な知識で身を固めることで、強固な似非科学的イデオロギーに変貌する。免疫学が医学的にのみならず、社会的・法的・ 倫理的果たしている役割を考えてみるとよい。延命をめぐる近代の戦いはすべて、「免疫」というこの象徴的かつ現実的な最前線で交わされているのである。

 communityが同一性の防護的な障壁の破断であるとすれば、immunityは、危険をもたらしうるあらゆる外的要素に抗する防御的かつ攻撃的な形で、それらの障壁をたえず再建しようとする試みである。我々が住んでいる社会を

communityと呼ぶのであれば、immunized communityとでも呼ばねばならないだろう。現在政治哲学における最大の課題は、あらゆる領域で進行しているこのimmunizationに抗して、いかにcommunityを考えるかにある。

(最後に、やはりこの似非語源学的手法の致命的欠陥を簡単に確認しておく。まず、この議論は、印欧語族系以外には通用しない。次に、印欧語族系でも、旧来持っていたcum munusという意味が「なぜ」回復されるべきなのかは、必ずしも自明ではない。)

 以上、"Communitas"序論を要約したエスポジートの講演

http://www.geocities.com/joaojosefonseca/filosofia.htmを、大雑把に要約してみました。いずれ、バタイユとハイデガーを論じた本書最終章などを別個に取り上げて、ご紹介するつもりです。

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