Wednesday, October 27, 2004

哲学の終焉?(Re: ルターとメディチ家)

ss: というわけで、先週のメールの話なのですが、

一般的なフランス人哲学者たちはもちろんのこと、いわゆる重要な現代思想家、バリバールは別だけれど、たとえばラクー=ラバルトなんかでさえも、日本人をせっせと自分の著作を自国に紹介してくれる気のいい翻訳者としてしか見ていない(もちろんお分かりのように、これは個人の性格の問題ではありません)。それも当然なんで、過去数十年来、そして未だに、私の同業者たちはフランス人と対等の位置に立とうとはしていない。彼らをスターか何かのように見ている。舞台に上がるのはいつも彼らで、自分たちは観客か、せいぜい舞台批評家。実際、ドイツ哲学はいざ知らず、少なくともフランス哲学の分野でフランスでも認められている日本人研究者(翻訳者として名前を知られている人、ではなくて)が何人いるでしょうか?客観的に見て、フランス人に勝てない。それは何故なのか。
大言壮語に響くのを承知の上で言えば、こういった理由を冷静に分析し、社会的なレベルでの底上げを図るにはどうすればいいかを模索することと平行して――私の「アグレグ」論文はこの文脈に位置しているわけです――、
私自身が個人のレベルで量的にも質的にもアウトプットを向上していかなければならない。そのこともあって(もっと本質的な諸理由もありますが)、仏語で思考し書くことにこだわっているんです。「世界に向かって開かれる」ということは、世界のさまざまな動向を知る(自国に翻訳紹介する)というだけではまった
く十分ではなく、その動向に自ら能動的に携わっていく(外に向かって発信していく)ということでなければならない。

私としては、hfさんの焦燥感もわかる気がするし、輸入超過の現状を何とか変えていかなければならないという至極当然の問題意識もある程度以上は共有しているつもりです(これはもちろん哲学に限ったことではありませんが)。

 が、それとは別の次元で、あらためて自分自身は「哲学者」だという意識が薄いのだなと思いました。これまで、文学でもなく、哲学でもなく、言語学でもない、という感じで、あっちに揺れ、こっちに揺れしながらやってきたので、特定のディシプリンに対する帰属感が希薄なのは、私の短所でもあり、いくぶんかは長所でもあるだろうと期待しているのですが、それだけではなくて、私にとってはどうも「哲学」というものがあまりはっきりとした像を結ばなくなっているのです。

 詳しく書き出すと長くなるし、結局、これまでも何度かhfさんにお話ししたことの繰り返しになりそうなので、大雑把に言いますと、この哲学像の希薄化は、私個人の資質の問題である以上に、哲学そのものの歴史的状況に由来するように思うのです。つまり、私にとって哲学がはっきりしなくなっているだけでなく、哲学自体がその輪郭を失いつつあって、しかも、そのことがほぼ歴史的・構造的に宿命づけられているのではないだろうか、と。

 他方で、少なくとも日本における知的言説の驚くべき衰退があります。これは、日本国籍の哲学研究者が海外でどの程度評価されているかという話より、私にとっては、はるかに深刻な問題に思えてなりません。「いや、そういうことを考えるのも哲学なんですよ」という答えが返ってきそうだし、それはある程度その通りなんでしょうけど。むしろ、私にとっては、輸入/輸出の関係より、いわば「内需拡大」のような形で、国内に向けての発信、国内での知的流通の活性化のほうが、より優先されるべき課題に思える。

昨日のarteの特集は、「ルターとメディチ家」でしたが、ご覧になりましたか?結構つぎはぎっぽい(無理やりくっつけたっぽい)構成でしたけど、ルターの生涯を描いても、「個人の解釈の自由を唱えつつも、後に権威主義に悪用される要素が彼の思想の中に存在するのだ」とちゃんと問題点を指摘しているあたりは、最低限の批判的視点を保持しててよかったです。

やってるのは知っていたのですが、帰ってきた後なので観られませんでした。そういえば、去年くらいにルターの生涯を描いた映画がありましたね。観てませんが。フランスでも公開されてたのかな?  映画といえば、「人間としてのヒトラー」を描いたということで話題になっている『滅亡(Der Untergang)』を観に行きたいと思っています。監督は、日本でも『エス』というタイトルで公開された『Das Experiment』のオリヴァー・ヒルシュビーゲル。ヒトラー役は、『ベルリン天使の詩』でおなじみのBruno Ganz。2時間半あるらしいです。

 ではまた。 ss

No comments: