Sunday, November 06, 2005

Invasions barbares

以下のことは、特に、科学哲学や分析哲学など、科学性・厳密性・普遍性を標榜する学問に携わる若い研究者たちに向けて書かれている。

哲学が、あるいは一般的に言って学問が、真理を目指し、普遍性を目指す営為であるなら、それにより見合った手段でなされるべきである。現在、自然科学の分野で英語がスタンダードと化したのは、――愚かなファシストが言うように、英語が「数を数えるのに適している」からでないことは言うまでもない――、世界の歴史的・政治的・経済的な動向がもたらした必然的帰結である。

哲学では、現在、英・独・仏の三ヶ国語が他にぬきんでて、特権的な地位を占めている。もし私たち日本の哲学者が世界の哲学の動向に積極的にコミットしたいと思えば――それ以外に真理や普遍性の探究に参与する方法があるというなら、禅でも日本語でも「日本固有」のものを持ち出せばよい――、好むと好まざるとにかかわらず、これらの言語で読み、書き、話していかなければならない。

この厳然たる事実の哲学的な意味を理解している日本の哲学者はどれくらいいるのだろうか。逆に言えば、日本語でしか思考できないことを思考し、書けないものを書いている哲学者がどれくらいいるのだろうか。そうでなければ、普遍性の探求であり、世界に開かれてあるべきはずの哲学研究を、なぜ日本語という普遍性に開かれているとは言いがたい言語で書くのか(私はもちろんここで各言語の質的優劣を論じているのではない)。

≪ある個人が言語共同体の外にいるとき、その人は社会的な共同体一般からも脱落してしまうことになるのです。なじみのない言葉を話す人はそのままよそ者、すなわち、内的な人間的-道徳的な絆が成り立たない「野蛮人」と思われてしまうのです。

たとえその人が高度の精神文化を身につけていても、今所属している共同体の内部で言語的に理解されないならば、その人はすぐさま「野蛮人」になってしまうのです。オヴィディウスがTristia ex Pontoで、「この地では、わたしは野蛮人だ。というのは、何も分かってもらえないのだから」と述べているとおりなのです。

言語を越えた共同体という思想、すなわち特定の言語の使用により作り出され、まとめあげられるのではないhumanitasという思想が獲得されるまでには、きわめて大きな努力が費やされ、きわめて大きな精神的-道徳的な苦労が必要であったことを、人類の歴史は教えてくれます。

たしかに、この「人間性」という理念は言語を越え出ています。しかし観点を変えれば、言語はこの理念への不可欠の通過点であり、この理念に至るためにぜひとも必要な段階だということになるのです。≫
(カッシーラー、「言語と対象世界の構築」)

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