(ちなみに、きりがないのでこれくらいにしておくが、ラテン語副論文に関して最後に三つ。
1)フランスの科学的心理学の祖といわれるテオデュール・リボー(Théodule Ribot, 1839-1916)の遺伝に関する1873年の博士論文(L'hérédité, étude psychologique sur ses phénomènes, ses lois, ses causes, ses conséquences.)の副論文は、
Quid David Hartley de associatione idearum senserit (1872).
2)リボーの弟子で、これまた重要なフランスの心理学者・医学者ジョルジュ・デュマ(Georges Dumas, 1866-1946)の博士論文は La Tristesse et la joie (1900) であるが、その副論文はオーギュスト・コントに関する
Quid Augustus Comte de suae aetatis psychologis senserit (1900).
3)現在忘れられがちだが重要な社会学者リュシアン・レヴィ=ブリュール(Lucien Lévy-Bruhl, 1857-1939)の主論文は L'idée de responsabilité (1884)であるが、その副論文はなんとセネカの神概念に関する
Quid de Deo Seneca senserit.
である。
ちなみに、ラテン語の動詞 sentire に関して、友人フレデリック・ケックの博論のnote 149にはこうある。
La thèse complémentaire latine de Lévy-Bruhl s'intitulait Quid de Deo Seneca senserit, qui jouait sur l'ambiguïté du verbe latin « sentire », signifiant à la fois "penser" et "sentir", pour défendre la thèse selon laquelle Sénèque a su donner des éléments pour une conception de la Providence divine réconciliant les voies de la nature et les exigences de la raison, mais sans en avoir réellement démontré les fondements. Cf. ibid., Paris, Hachette, 1884, p. 64 : "Humanior fit Deus, amicus, et semper in proximo. Providentia autem qualis sit, quoque modo se in rerum natura deprehendi sint, optimo Seneca sensit, male demonstravit." C'était déjà réfléchir aux rapports entre lois naturelles et exigences de la liberté à travers le sentiment, réflexion dont l'étude de la mentalité primitive prend le relais.
むろん、senseritを用いたタイトルはきわめてありふれたものであり、ベルクソンがこの語を用いることで言葉遊びをしているとは思えないが。)
というわけで、ベルクソンの博士号申請用副論文 Quid Aristoteles de loco senserit (1889). である。
このアリストテレス論は、最初、Les Etudes bergsoniennes, tome II, 1948, pp. 29-104.にRobert Mossé-Bastide (Rose-Marie Mossé-Bastide) に仏訳が掲載され、のちに全集第二巻ともいうべきMélanges (PUF, 1972) に収められた。
この『補巻』に寄せられたアンリ・グイエの序文によれば(以下、p. IXによる)、「この学則に縛られた業績 ce travail scolaire」をベルクソンは決して自分の仕事と認めず、この小論は博論審査用にわずかに印刷されただけで、その後は彼の著作リストに載せられることもなかったが、にもかかわらず次の二つの点で「意義深い significatif」ものである。
1)哲学的・教説的(doctrinal)・内容(contenu)的な関心:ベルクソン哲学の形成期および前期における、アリストテレスとの対話の重要性。ベルクソンは少なくとも次の年度において直接的かつかなり入念にアリストテレスに関する講義を行なっている。
1885-1886 クレルモン=フェラン大学文学部における講義
1886-1887 クレルモン=フェラン大学文学部における講義
1888-1889 クレルモン=フェラン大学文学部における講義
1902-1903 コレージュ・ド・フランスにおける『自然学』第2巻の注釈
1903-1904 コレージュ・ド・フランスにおける『形而上学』第11巻の注釈
このようなアリストテレスとの継続的な関わりの中で、1889年のアリストテレス論は、博士論文主論文との関連でとりわけ興味を惹くものである。なぜなら、「場所 lieu」に関するアリストテレスの諸テクストの分析の狭間から、彼自身の持続の哲学における「空間 espace」概念の位置づけが垣間見えるからである。
2)哲学史的・操作的(opératoire)・形式的な関心:ベルクソン哲学自体に興味のないものでも、ベルクソンのような大哲学者が他の大哲学者についてどのような読解を、どのような手続きを踏みつつ、提示するのか興味のあるところである。この点で、『アリストテレスにおける場所の観念』は、ベルクソンがどのように哲学史にとりくんでいたか、その所作について教えてくれるごく稀な好例である。
引用箇所の選択や、ギリシャ語の原文を採録している幾つかの長い註からは、彼の該博な知識や自分の解釈を正当化する際の繊細な配慮が、彼の他の著書よりもはるかによく見える。ベルクソンの読解は忍耐強いものである。一文一文に立ち止まり、その意味するところが究極的にはどこへ向かおうとしているのか、そこに立ち現れてくる困難はいかなるものであるのかを見定めようとする。
アリストテレス哲学の体系的な首尾一貫性を救おうとするために読むのではなく、そのような似非哲学的な配慮から離れて、そこに姿を現している問いをただひたすら鮮明な形で取り出そうと努めること、これがここでのベルクソンの目的に他ならない。(続く)
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