以下の文章の端々に『ヒカルの碁』を読んだ痕跡が見られる(笑)…。
ところで、いい機会なので、ここで一言はっきりさせておけば、私は別にポップカルチャーを蔑視しているわけではない。連ドラでも漫画でもJ-POPでも芸能ニュースでも、分け隔てなく楽しむことができる。ただし、ポップカルチャーはあくまでもポップカルチャーであって、これが大なり小なり普遍的な価値をもつ、などと主張することはできない。早い話が、ベビースターラーメンは好きだが、だからといって誰にでも「これほんとにおいしいから」と薦めようとは思わない、ということである。私が何らかの文化現象に「くだらない」という表現を使う場合、それは必ずしも個人的な趣味判断の問題ではない。普遍的には「素晴らしい」が個人的には「つまらない」場合と、普遍的には「くだらない」が個人的には「好きだ」という場合を分けて考えなければならない。
3月29日(水)
マシュレゼミ。友人fkのロバートソン=スミスに関する発表。やっぱり同世代の中では、彼の社会学・人類学に関する情報収集・整理能力はずば抜けている。しかし、私同様、アイデア先行の部分が目立つ。議論ではそこを突いてやる。議論はいつも真剣かつ楽しく。議論の仕方にちょっと八方美人的過ぎるところもある彼だが、彼となら真剣かつ楽しい議論ができる。
同日夜、鮨聖Mの「最後の晩餐」を味わうべく、親友gb&df、畏友cdmおよび共通の友人aら六人で集合。共通の知人で博論に苦しむpの話が出る。cdmの指摘はいつもながらとても鋭い。
「彼の問題はね、アリストテレス解釈の中で議論の余地があるとされている部分と、識者の間ですでに評価の定まっている部分との見分けがついていないってこと。彼にとってはすべてが重大な問題で、すべてが議論し直される必要があるっていう感じなのね。で、それはまずい。別に識者の意見に盲従しろっていってるんじゃないのよ。ただ、従来の「常識」を覆して自分の意見を言うにせよ、まずはそれが常識であるってことを踏まえてる必要がある。そうじゃないと、彼は単なる知的アナーキストになっちゃう。」
日本では哲学科の学生たちというのは男も女も「もさい」というのが定番になっているような気がする(そうでもないか?)。ヨーロッパのさまざまな国籍の哲学者を見てきたが、おしゃれのみならず知的洗練の度合いは平均的に高い(これは社会階層の問題が関係しているのだと思う)。男女を問わず、「知的な美しさ」というものがある。もちろん「知的」というのは「物知り」intellectuelということではない。「本物を知っている」intelligent ということだ。
『ヒカ碁』第18巻「番外編」の「奈瀬明日美」の回などはまったくその好例である(笑)。風俗ビルの囲碁サロンで、かなり胡散臭いおっさんに囲まれて、しかしひたむきに碁を打つ奈瀬。碁の院生・奈瀬のルックスに惹かれて彼女を口説こうとしていた若者は、自分の「常識」をはるかに超えた世界にただただ恐怖を覚えて逃げていく。彼女の真剣さに打たれたわけですらない。ただ、彼女と彼女の生きる世界が「ちょっとヘン」だから怖くなったのだ。こういう人には「知的な美しさ」は一生分からない。ひたむきに本物であろうとする人の美しさが。
共訳者の翻訳チェック。コメントを書くのは翻訳の直しより時間がかかる。
3月30日(木)
たまにメールを見ない夜に限って重要なメールが入っていたりする。どうして私の指導教官は、ぎりぎりまで重要なことを言わないのだろうか?「緊急にカッシーラー論文&解説をPUFの担当者に送れ」って。日程を知ってれば、あらかじめ間に合うように最後の微調整(語句をいじるなど)をしておくのに…。豪友gcに頼んでおいた添削を慌てて取り入れて送信。
「明日(木)15-16時に会えるから、よかったら大学に来たら?」って…。はじめてバリケードと妙に威張った学生検問をかいくぐり、指導教官と会談。博論に関していろいろ収穫あり。
前々から懸念されていたカッシーラー論文の「問題」が最終的に浮上。カッシーラー全集の著作権を握っているのはイェール大学なのだが、著作権料がかなり高いらしい。で、それをPUFが買ってくれるかどうか。それから、仏語版全集を出しているCerfがすでに翻訳権を取得してしまっていないか。…って、もっと前から調べといてくれよ(笑)。
翻訳チェックで徹夜。徹夜しないとまとまった時間が取れないのである。
3月31日(金)
アレルギー科の医者に診てもらう。最近の疲れは、もしかすると花粉のせいかも、という仮説も捨てきれない。
共訳者と会合。彼に叱られるのは精神的な滝に打たれているようで痛いが心地よい。私はひそかにexercice spirituelle と呼んでいる(笑)。
4月1日(土)
awからメールあり。来週月曜日にバディウと一緒にラジオ番組をやることが急遽決まったので、私がバディウをどう思っているか聞きたい、とのこと。急遽決まったとはいえ、なんで急ぎで「私のバディウ観」を言わなきゃいけないの?調子のいい甘えん坊だなあ。しょうがないので、ごく基本的な視座を与え、去年edがやったバディウ&ダヴィド=メナールとのセッションでの私の「質問」(という名の批判)のtranscriptionを添付ファイルで送付。
同日、日仏哲学会から公募論文の査読結果が到着。「採用」とのこと。条件付きだから完全に問題のない論文として認められたとは言えないが、「再査読なしの採用」だから論文全体のクオリティは認めてもらえたらしい。査読の論評は、これまで読んだどんな論評よりも私の論文の特性と問題点を捉えていて、素直に嬉しかった。こんな論評を自分も書けるようになりたいものだ。
夜、6年来の戦友およびラトビアなyy嬢にそれぞれの「愛と哀しみの青春」を語りつくしていただく会。この歳で夜更かしはもう無理だ。二三日引きずってしまう。「絶対面白いから!!」と『ヒカルの碁』を手渡された。悪魔の贈り物
4月2日(日)
を一日半廃人のように読み耽り、最終第23巻まで読了。
夜、fkよりメールあり。次の水曜日のマシュレゼミでの発表(二回連続)の前に会いたい由。彼とは、2000年に私がリールに来て以来の仲。今はボルタンスキーのところで研究員をやっている。ノルマリアンたちが抜け、今やずいぶん発言者のレベルが下がってしまったマシュレゼミでは、残念ながら私の発言くらいしかまともな質問がないので、彼は私の前回の質問の続きを聞きたいのだろう。少しずつfkにも実力を認められつつあるのだなと素直に嬉しい。実力は論文や講演、発表、質疑応答の中ではかられる。それ以外のところで、いかに友達ぶろうが、私的な会話の中で知識をひけらかそうが、駄目である。
『ヒカルの碁』は、前半三分の一くらいは、『月下の棋士』路線(強烈な個性同士がぶつかり合い「神の一手」を追求する路線)で行くか、もう少し現実に近い「切磋琢磨」路線で行くかに揺れがあった。『月下の棋士』の棋士たちの多くは研究会を開かなさそうだが(一手一手に命がこもっているので、下手に練習できない(笑))、『ヒカルの碁』の棋士たちは実に精力的にいろんな研究会を飛び回っている。
しかしまた、あまりにリアルになると(毎日シコシコと棋譜の読解・整理に励む院生、プロの間の低俗な感情のもつれ…)、これはこれでドラマ性に欠けるし。際立ったカリスマであるアキラや野生の天才をもつヒカルといった「選ばれし者たち」も、普通に研究会や碁会所で切磋琢磨し、最善手を検討する。その「天才」と「リアル」のバランスがよかったのであろう。
「切磋琢磨」のリアリティがよく出ているのが伊角(イスミ)くんのエピソードである。筋はいいのだが、優しい性格が災いしているのか精神的に脆く、日本棋院院生からなかなかプロに上がれない彼(第10巻)。ついに四つ年下の主人公ヒカルたちにまで先を越され院生をやめてしまう(第12巻)。立ち直りのきっかけをつかもうとやってきた中国での特訓中に「感情のコントロールは、習得できる技術」と教えられ、少しずつ復調していく(第16巻)。実際のプロ棋士の間で伊角くんの人気が高い(最終第23巻)というのも、あながちルックス面や性格的な面での評価ばかりではあるまい。我々別種の「院生」から見ても、なかなかリアルな悩みを抱えた人物だからではあるまいか。しかし、彼が主人公であれば、ずいぶん地味なドラマしかできない。
4月3日(月)
畏友lfが予告どおり最新の論文を送ってくれる。Cahiers Gaston bachelard に載った奴。「君にも興味ある主題だと思って」なんて言いつつ、「○○や××にも渡してくれ」なんてちゃっかりしてる。それぞれへの献辞が関係を表していて面白い。一番世話になった人には「友愛と最良の記憶とともに」、親しくないけど関係を大事にしておきたい人には「amicalement」、友達には「amitiés」(後二者はわずかな程度の差で、ほとんど同じ)。
夜は、独立系書店Meuraの集い。
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