固有である(être propre)とはどういうことか。
あるものに固有であるということは、あるものをしてそのものたらしめている、ということである。内角の総和が二直角に等しいという事実は三角形の本性から演繹されるものである以上、三角形に固有である(être propore)。つまり三角形の特性(propriété)である。
所有物(propriété)を所有(appropriation)するとはどういうことか。
所有の原理とは比喩的・アナロジカルなものであるのか。あるものとそれに固有なものの関係と、所有者とその所有物の関係は相似である、といったように?
何かを所有するという身振り、さらには何かに固有であるという存在様態の奥に潜む人間学、存在論とはいかなるものであるのか。
あらゆる身体の哲学は、実は、この驚くほど単純で、恐ろしいほど神秘的な問いへの応答の試みではないのか。なぜなら身体とは特性(propriété)と所有物(propriété)の間で揺れ動くものだからである。そもそも原理的に切り離しえないもの――だが、これはそれほど自明なことではなくなりつつある――を手に入れるとはどういうことか。
おそらく以上の言述はひどく抽象的なものに見えるかもしれない。サミュエル・バトラーの言葉を引いておこう。
「多様な人種を区分する主なものは、黒人諸部族、チェルケス人、マレー人、アメリカ原住民などの間に求めるべきではなく、むしろ、金持ちと貧乏人との間に求めるべきである。この二つの人種に見られる身体組織の差異は、いわゆる人種の類型間にある差異よりもはるかに大きい。金持ちの人間は、ここから英国へと、行きたくなればいつでも行ける。それに対し、もう一方の人間の脚は、目に見えぬ運命にしばられて、彼らを一定の狭い範囲を越えて運んでいくことができない。
…自分の身体に、いずれかの太平洋航路客船会社の一船室を付け加えられる人は、それができない人よりも、はるかに高度な身体組織にめぐまれているのである。
…見事にあつらえられた一揃いの手足をもつのは、大金持の人間でしかない。われわれは、このうえない科学的厳密さをもって断言することができるのだが、知られうる限り最も驚くべき身体組織となっているのは、かのロスチャイルド家の人々にほかならない。」
ここにベルクソンの身体=技術哲学の根本原理をなす一節を重ね合わせる。
「有機的に組織された(ほかならぬ直接の行動を目指して組織された)われわれの身体は、ひどくちっぽけなものだが、その表面がわれわれの現実運動の場所だとすれば、有機的ならぬわれわれの巨大な身体(宇宙)は、将来とられうる行動の、また理論的に可能な行動の場所だと言える。
…われわれの身体諸器官が自然の手になる道具と言えるとすれば、われわれの手になる道具は、当然人工の身体器官だということになる。職人の使う器具は、彼の腕の引き続きだと言えよう。してみれば、人類の道具制作は、自分の身体の延長である。」
ドゥルーズ+ガタリの『アンチ・オイディプス』や『ミル・プラトー』がこの延長線上に来るのはもはや明白である(ドゥルーズをきちんと勉強していない人のために言っておけば、先のバトラーの一節は、若きドゥルーズがつくった教科書的アンソロジーからの引用である)。この問題系に、表層的なレベルではなく、最も概念的なレベルで、しかし常に現実から離れることなくアプローチすることを可能にするもの、それが身体なのである。
いかに冗談ととられようとも(笑)、「結婚の形而上学」とその脱構築が位置するのも、まさにこのレベルにおいてである。愛する人を所有するということ、とはどういうことか。浅見さんの本は出発点として貴重である。私たちは哲学的な問題としてまだまだ展開できるし、西洋哲学史にはいくらでも扱うべきテクストがある。
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