博論を書く傍ら、マラルメを読み、ドゥルーズを読む。友人との読書会や知り合いの先生のゼミに顔を出していたらお鉢が回ってきてしまったのである。しかし、これも何かの縁だろう。一人だとまず読まないものを読み、斜め読みしかしてこなかったものを多少詳しく読み直す機会を与えられたのだから、感謝している。
しかし、赤ん坊が泣くと思考が妨げられる。泣いても読める本を読み(柏倉康夫、『マラルメ探し』、青土社、1992年。読みやすい)、暇つぶしにブログを書く。これじゃ以前と変わらない。
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難解、晦渋、孤高の詩人、特異な言語観、『骰子一擲』において到達した独自の《書物》概念、などのイメージがあるマラルメ。先に読んでもらった「芸術の異端、萬人のための芸術」は、若者の傲慢で実態のない単なる強がりと嗤うこともできる。ロマン主義から派生した高踏派の典型、そう文学史的にくくることもできるかもしれない。
五歳で母を失い、妹とともに外祖父母のもとで育てられたが、十五歳でその妹も失い、父は時を同じくして脳を患って病床についた。三年後、大学入学試験に通ったものの、進学を諦め、公証人事務所の臨時雇いとして働き始める。二十歳のことである。彼には詩があった。詩しかなかったというべきか。
『悪の華』に深く感動し、ボードレールを介してポーの虜となったマラルメにとって、ポーをよりよく理解し訳したい、英語に磨きをかけ、将来英語教師となって、その傍らに文学をやりたい、という気持ちは半端なものではなかった。
登記所管理官を長く務めた祖父の意見も頷けるものである。せっかく得た安定した仕事を捨てて、なぜ不安定な道を好んで選ぶのか。英語教師となるにはマラルメの英語の知識は初歩のものでしかないこと、「リセにおける現代語の授業は、お前が考えるほど魅力のあるものではなく、ごく初歩的なものだ。文法の域を出ず、文学的な意義などありはしない」こと、そのうえ収入も低く、のべつ話していなければならず大変疲れるので、丈夫とはいえないマラルメには向かない、というのが反対理由であった。
だが、マラルメの決意もまた固かった。祖父母の同意を得られないまま、1862年2月、二十歳のマラルメは個人教授について英語の勉強を開始する。
「週に五日、木曜日を除いて一日一時間の授業で、作文、仏文への翻訳、文法、会話を習い、宿題も多かった。公証人事務所での仕事は、もちろんそのまま続けていた。その上で、これらの個人授業も受けたのである。」(柏倉、上掲、78頁)
そして1862年11月、すなわち勉強開始の9ヵ月後、職業からの逃避、恋の逃避行をも兼ねたロンドン行きを決行する。後年、俗に「自叙伝」と呼ばれるヴェルレーヌ宛書簡で、当時を回顧してマラルメは次のように述べる。
「単にポーをもっとよく読もうとして英語を学んだ私は、二十歳のときイギリスへ旅立ちました。主として遁れ去るためでしたが、その一方、この国語を話せるようになって、これを学校で教えて世の片隅で生活し、他の糊口の手段を強いられるのを免れるためでもありました。私は結婚していたので、それは差し迫っていました。」
二十歳のマラルメが1862年9月に発表した「芸術の異端、萬人のための芸術」を読むとき、例えば以上のような状況を頭に入れて読むのと読まないのとでは、意味がぜんぜん違ってくる。
繰り返せば、若者の傲慢で内実の伴わない単なる強がりかもしれない。ロマン主義から派生した高踏派の典型、そう文学史的にくくることも間違いではないだろう。だが同時に、詩しかなかった八方破れの青年にとって、平凡ながらも幸せを手に入れた人々が「ついでに」「ちょっとした(偽善的な)好奇心で」詩集を購入し、気晴らしに詩を口ずさんだり批評家を気取ってくさしたりするのを見るのは憤懣やるかたないことだったに違いない。
現在、私たちはルサンチマンを胸に腐るマラルメも、努力するマラルメすらも、思い浮かべない。志ん生と精進もそうだが、マラルメと努力という言葉ほど一見懸け離れたものはない。そして、それは彼らの栄誉である。
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言うまでもなく、私は自分の怠惰を弁護しているのである(笑)。
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