Thursday, February 08, 2007

百年の大計ではないのか(教育再生会議第一次報告)

今日は一日中「人格性」論文の直し。少しでも深く。苦手中の苦手なのだが、適切に深く。締め切りが十日ほど延びた。嬉しいやら、不安やら。

春のベル哲研(第21回)のお知らせ、hmさんどうもありがとう。困った、重なってる。他の人もいろんな情報お待ちしてます。



私がゆとり教育の反対者のように見えたとすれば、それは誤解である。「ゆとり教育」は必要な改革過程であったと思っている。ただ、親にも、何よりもまず親にこそ、ゆとりが与えられるべきであり、親が自覚的にゆとりを求めて闘うべきであったと思っているのである。

「ゆとり教育」の“戦犯”(Web現代、2003年10月22日)
論旨が読み取りづらいが、
マニュアル世代が多数を占めるようになってきた官僚・教員たちにこそ小・中学時代に「ゆとり教育」が必要だったのである。

そのとおりである。しかし、付け加えさせてもらおう。 数十年来の「会社至上主義」「仕事人間大量生産」によって、家庭で子供を育てていく力が衰えてはいないか。土日が休みとなると、親たちは子供を塾や習い事に通わせることで安心しようとしてはいないか。家庭が教育を学校に任せすぎるようになったとすれば、それはなぜか。マニュアル世代が多数を占めるようになってきた子どもの親世代にもまた、小・中学時代に「ゆとり教育」が、ただし親や地域共同体自身がゆとりをもって子どもの教育に参加できるような「ゆとり教育」が必要だったのである。たしかに、子どもは教師に教えられて育つものだ。しかしまた、子どもは親の背中を見て育つものでもある。


[教育再生報告] 百年の大計でないのか
『南日本新聞』、2007年1月27日付社説

 政府の教育再生会議が第1次報告を決定した。これを受け、安倍晋三首相は通常国会に教員免許法改正案など関連3法案を提出する方針を示すとともに「教育再生国会にしていきたい」と表明した。
 報告には、ゆとり教育見直しに伴う授業時間数増、教員免許更新制、教育委員会改革などさまざまな処方せんが並ぶ。だが、これまでの教育のどこがどう問題だったのかが見えてこない。
 肝心の現状分析が欠落したまま処方せんを並べても、説得力に欠ける。
「50年先、100年先を見据えた議論もしてまいりたい」(首相)というなら、腰を据えて取り組むべきだ。急ぐ背景には教育再生で政権浮揚のきっかけをつかもうという思惑が見え隠れする。夏の参院選に備える動きととられても仕方あるまい。
 問題はまず、ゆとり教育見直しとして掲げた授業時間数の10%増だ。「すべての子どもに高い学力を」という首相の意向をくんで盛り込まれたに違いない。だが、子どもたちの学力のどこにどんな問題があり、授業時間数という処方せんにたどりついたのか、判然としない。
 ゆとり教育については、文部科学省や中央教育審議会は「趣旨は間違っていないが、手だてに問題があった」として、学習指導要領の見直し作業を積み上げているところだ。どんな学力を目指すのか、十分な論議もないまま、政治の力で横やりを入れるやり方は乱暴すぎる。
 授業時間数を増やすことと学力との相関関係が実証されていないことは、文科省も認めている。それどころか、学力世界一といわれるフィンランドの授業時間数は、日本よりはるかに少ない。
 2003年の公立小中学校授業時間数は、日本の9歳から11歳が年間709時間に対してフィンランドは654時間、12歳から14歳が817時間に対し796時間となっている。
 また、報告は基礎・基本の反復・徹底など指導方法にまで言及しているが、これらは学校が子どもの状況に応じて判断すべき事柄であり、官邸が口を出す問題ではない。
かつての画一教育に戻そうというつもりなのか。
 ゆとり教育見直しなどいったん消えかかったテーマが、報告に次々と復活したのは「先送り、先送りでは首相の指導力が見えないということになる」という官邸の意向だったという。教育は政治の道具でなく、子どもや国民のためにあることを忘れてはならない。

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