Friday, June 20, 2008

mnさん、アドレス受け取りました。では7月に。ブラジルは肌寒いそうです。hf

Thursday, June 12, 2008

パブリックかコモンか?サミット体制と明日の条件なき大学

デリダの『条件なき大学』の訳者である西山雄二さんが反グローバリズムの枠組みで大学について語るそうです。私は哲学・教育・政治の三位一体の観点から(様々な点で議論の余地があるとしても)基本的にはこのような試みに賛同しています。

こういった問題を哲学外在的と捉えるのは端的に間違っています。そして同様に、数年後、自分の研究環境が悪化して初めて「自分はあのとき何もしなかった」と気づいても遅いのです。

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パブリックかコモンか?サミット体制と明日の条件なき大学
日時:6月30日(月)3:00−5:00
場所:中大駿河台記念館 570号室

 洞爺湖サミットと連動して、「G8大学サミット」なる学長会議がはじめて開かれようとしている。サミットと同様、そこには何らの正統性もない。しかも、この会議の開催自体、大学という高等教育の布置を強引に書き換えるものである。近代の大学の概念はカントに遡り、国連の構想と同じ起源をもつ。それゆえ大学はドメスティックな存在であると同時に、まがりなりにも人権思想に根ざす国連の諸決定を参照してきた。だが、いまや先進国の主要な大学は、みずから進んでサミット体制に組み込まれようとしている。それは大学が高等教育の無償化をめざす国連の枠組みから離脱し、教育の商品化を推進するWTOの教義と結びつくことを意味する。

 問われているのは、学問の自由のみならず、大学という運動の存在論的な地平そのものである。大学は資本や国家といかなる関係を切り結ぶべきなかのか?

 かつてのデリダのように、われわれもサミット体制に抗する「条件なき大学」を語ることができるのだろうか?もしそうであるとすれば、パブリックな討議空間である以上に、学生と教員が共に生を営む場として、いかなる群集状態が想い描かれるべきなのだろうか?G8大学サミット開催と敵対しつつ、コモンとしての大学への展望を考えてみたい。

パネラー 西山雄二(東京大学UTCP、ARESER:高等教育と研究の現在を考える会)
     大野英士(首都圏大学非常勤講師組合)
     世取山洋介(首都圏ネット)
     コ・ビョンゴン(スユ)

司 会  白石嘉治

Tuesday, June 10, 2008

"Hyperbole. Pour une psychopathologie lévinassienne" de Yasuhiko Murakami

Voici un nouveau livre de mon ami Yasuhiko Murakami, représentant de la nouvelle génération des phénoménologues japonais :

Hyperbole. Pour une psychopathologie lévinassienne.
de Yasuhiko Murakami

Présentation :
Dans Lévinas phénoménologue (J. Millon, 2002), l’auteur a tenté de dégager la structure de la subjectivité transcendantale qui implique la possibilité de sa propre destruction dans son essence même. Hyperbole – Pour une psychopathologie lévinassienne s’efforce de préciser en quoi la destruction de la subjectivité – à savoir la possibilité de la maladie mentale, du désordre du développement et du traumatisme – peut s’inscrire dans l’horizon de la phénoménologie, dès lors que la destruction possible du rapport inter-humain peut s’inscrire dans la structure de la subjectivité. L’affection relevant de cette possibilité constitue comme un noyau de l’« éthique » lévinassienne (ch. 4). Contre cette possibilité, il faut assurer la possibilité de rétablir ce qui est détruit. C’est ce que Lévinas appelle le « sens » (ch. 5). Notre vie quotidienne implique toujours à son horizon ces deux pôles extrêmes d’« attraction ». L’« hyperbole » est le nom de cet horizon et de la méthode pour y accéder. C’est la notion de « demeure » dans Totalité et infini qui constitue la face positive de cette subjectivité vulnérable. La demeure se trouve au point de jonction de la sensibilité, de l’action et du rapport à autrui (ch. 2). Sans elle, il est impossible d’assurer le sens contre le non-sens. En outre, la théorie de l’il y a qui s’oppose architectoniquement à la demeure peut se lire comme prémisse d’une théorie du symptôme, comme amorce d’une phénoménologie du non-sens (ch. 3) Par suite, pour refonder ce projet de la psychopathologie phénoménologique, il faut resituer la théorie lévinassienne de l’altérité. Ce travail de refondation passe par la redéfinition de l’ensemble articulé des structures découvertes par Lévinas comme « affection d’appel » qui se distingue aussi bien de l’empathie husserlienne que de l’inter-corporéité du type merleau-pontien (ch. 1). Le projet de la psychopathologie phénoménologique ainsi réorienté permet d’entamer une analyse détaillée de l’autisme (ch. 1) et du traumatisme psychique (ch. 6).

Yasuhiko Murakami : Hyperbole. Pour une psychopathologie lévinassienne, Amiens, Association pour la promotion de la phénoménologie, 2008, 119p., ISBN 2-916484-03-05 (18€)http://www.europhilosophie.eu/recherche/spip.php?article289&var_mode=calcul

Monday, June 09, 2008

告知

『赤と黒』の新訳問題、とうとう一般紙にまで報道される騒ぎに発展してしまいましたね。誤訳は、指摘の仕方次第で有益にも不毛にもなるだけに、いささか好戦的に過ぎる今回の論評は残念です。



今年も大車輪の活躍をなさっている、友人の西山雄二さんが今度はヘーゲルについて語られるそうです。

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日本ヘーゲル学会主催シンポジウム「ヘーゲルとフランス現代思想」
http://wwwsoc.nii.ac.jp/hegel_jp/
日時:08年6月14日(土)13時~16時
場所:東京大学(本郷)法文2号館3階 1番大教室
提題者
今野雅方 「コジェーヴのヘーゲル論」
鵜飼哲(一橋大学) 「デリダにおけるヘーゲル」
西山雄二(東京大学) 「最近のフランスのヘーゲル論」
コメンテーター:熊野純彦(東京大学)、高田純(札幌大学)
司会:山口誠一(法政大学)

Saturday, June 07, 2008

ギリシャ語、ブラジル

安吾は神経症にかかっていたとき、語学をやって気を紛らせたといいます。

アトピーで苦しんでいた私も、実は、四月から古典ギリシア語を習い始めました。思索するほどには集中できない、かといって放心もできない(何かしていないと辛い)ときに何をするかで、ここ数か月苦しんでいました。ひとまずの解決策がこれです。

ギリシア語にはこれまでも無手勝流で挑んではいたのですが、やはり先生について学んだほうが効率がいいですね。圧倒的に時間がないので亀のような歩みですが、それでも着実に進むことができます。

今は、新約聖書を読んでいます。夏休みには、小さな偶然の積み重ねで出逢ったjn先生に手ほどきをいただいてプロティノスを読もうと思っています。

生半可な哲学史の知識を振りかざして「プラトン以来の西洋哲学は云々」という前に、古典ギリシア語もろくに読めない自分を見つめ直そう、ということです。



ブラジルでのシンポジウムがそろそろ迫ってきたので、一応宣伝しておきます。

昨年の12月に訪れたときは(その時の模様はこちら)、小さなセミナーをやらせてもらって、ベルクソンの第一の大著『試論』の私なりの読解を提示させてもらいました。今回も当初は「セミナーもやりましょう」という提案をいただき、第二の大著『物質と記憶』の自分なりの読解を披歴しようと思っていたのですが、さすがに三日間の大規模なシンポジウムの後ではやる方も聴く方も辛かろうということで中止にしました。

なので、上記サイトに予告されている「ベルクソンとレヴィナスにおける物質と記憶」をやるかどうか迷っています。これは、昨年、コレージュ・ド・フランスでやった発表「踏切板と石板―ベルクソンとレヴィナスにおける物質性の概念」の続編で、主に二人の記憶概念を扱う予定でした。

しかし、自分の都合から言うと、ここらへんで自分なりのMM読解のアウトラインを短時間で示せるようになっておくほうがいい気もする。

さて、どうしたものか。