Friday, September 19, 2008

反時代的考察(哲学と大学に関する)

来週の金曜日に、公開共同研究「哲学と大学」ワークショップ「大学の名において私たちは何を信じることを許されているのか」が行われる。よろしければどうぞ

また、こういった試みと無関係ではないので、次の情報にも注意を喚起しておきたい。

科学研究費補助金研究成果公開促進費「学術図書」に関する要望



学問を取り巻く環境は常に動いている。現在のような状況の中では、《両面作戦》をとらねばならない。

一方では、「レイプを傍観している者はレイプに加担しているのと同じである」と主張し、「今ここ」の重要性を強調する必要がある。人文科学の学問性・科学性を社会・政治状況からの超越・価値中立に求めることには罠があると繰り返し主張せねばならない。やじろべえの傾きを是正するただ一つの方法は、真ん中にではなく、傾きとは逆の側に重しを置くことである。これが対抗運動(contre-mouvement)の意味だ。

しかし、他方で、この「今ここ」が必ずしも「アクチュアル」である必要はない、ということは繰り返し述べておかねばならない。「現在を読み解く」のに「役立つ」哲学、といった論理には警戒が必要だ。「書を捨てよ、街へ出よう」といったフレーズが人々の耳に心地よいのは分かる。学問のジャーナリズム化・ポピュリスト的戦略はいつの時代にも表面的には勝利者である。

あるいは「書を持って街へ出よう」が青空大学や地下大学の企図なのでもあろう。また、それをそのまま実践可能な学問もあるし(ある種の社会学・心理学)、それに親和性の高い学問もある(ある種の政治学・経済学)。今日隆盛している人文科学・社会科学はいずれもこの範疇に属する。

だが、書を抱きしめ、部屋に閉じこもるという大学に特有の挙措が必ずしも反動的で保守的な身振りなのではないし、あらゆる学問が「アクチュアル」でありうるわけでもない。数学の哲学の専門家が己の専門を政治化したり、アクチュアルなものにしたりすることで問題が解決されるはずもない。

「速くあれ、たとえ場を動かぬときでも!」

「大学の非大学化」は、支配的な趨勢(大学の企業化)においても、対抗的な運動(地下大学、CIPh)においても共通した傾向である。だが、「大学の名を救う」という試みに批判的な射程があるとすれば、それは大学という「場所」に特有の「重さ」を、単に否定するのではなく、背負い投げのように、その重みを逆手にとって、ある種の「運動」と「軽み」に転じることであろう。

ここ数十年理念として奨励されてきた「学際化」は、硬直化した非生産的な「制度」の隣に、流動的で創造的な「擬似-制度」ないし「非-制度」をつくることであったと解される。CIPhやUTCPはその最も成功した例といっていいだろう。しかし、それと同時に――同時性・並行性を殊に強調しておく。「あれか、これか」ではない――、「制度」のただ中で、「哲学」という学問のただ中でどもること、哲学を外から批判するのではなく、内側から批判することの重要性もまた、強調されねばならないのではないか。

私は自らの専門であるベルクソン研究においてそれを「制度」の脱構築という形で、「運動」として実践しているつもりである。最近、専門の外に打って出ていくことばかりが強調され過ぎている気がしてならない。プラトンやヘーゲルでは食っていけないから生命倫理や環境倫理を副専攻にしておけ、と。それはまったくそのとおりだし、私自身も副専攻を持とうと努めているが、しかし、主要な研究分野(それは典型的な「制度」である) は単に放置されていくばかりではないか。

制度の脱構築、それは何も抽象的なことではない。制度を揺さぶるということである。「制度」内で自明視されている事柄がある。例えば、西洋の有名な研究者をお呼びし、お話を拝聴し、お客様として下にも置かないもてなしをする…。昨年行なったシンポでは、逆に、日本人の仕事を真っ向から対置し、同じ研究者として共に研究を行なっていこうという姿勢を示そうと試みた。

また例えば、西洋哲学研究がもつ無意識の「西洋中心主義」イデオロギーがある。私たちは知らず知らずのうちに思想雑誌・研究誌を西洋人の名前のものから読み、アジア人やアフリカ人のものを後回しにしていないか。他の国の人々が私たち日本人の研究を読むのを後回しにすることを自分でアシストするような論理に、自分自身無意識に加担してしまってはいないか…。ここに「東アジアにおける研究の過去の蓄積を現時点で検証し、未来に向けてネットワークを構築する」という視点を持ち込む。これが今年度シンポの戦略である。

また例えば、「西洋中心主義」は、西洋哲学研究の分野においては、実は「英・独・仏中心主義」にほかならない。まず世界へと開き(2007年)、次に自らの拠って立つ場(東アジア)を見つめ直した後で(2008年)、世界の拠って立つ場を見つめ直す(2009年)。国際シンポが「主要」な、「欧米の大国」ばかりで構成されないようにすること。絶えず世界の布置を強調すること。来年度シンポはその理論的実践(pratiques théoriques)となるだろう。

こういった試みは、これまでの日本における研究の蓄積から考えれば十分可能なことであったのだが、これまでインパクトを持った形で試みられてこなかった。もちろんこれで展望が開けるという保証はどこにもない。また、たしかにこの種の試みは一歩たりとも「制度」の外側に出ていくものではない。だが、どれほどささやかな試みと映ろうと、これは一つの理念的な実践(の批判)であるとともに、生き残りのための現実的な対策でもあるのであり、そして「制度」の内側から制度を撃つ「批判」なのである。

哲学は、単純化された二項対立の罠をかいくぐることのできる、反時代的(イナクチュエル)なものでなければならない。新しさには目新しさと共にいつまでも褪せることのない新しさがあるように、パフォーマティヴには、ショートリターンのパフォーマティヴと、来たるべきパフォーマティヴがある。私の考える「大学の脱構築」は、現在の状況にあっては、明確に後者に与するものである。

No comments: