Sunday, November 28, 2010

シンポ無事終了!



ご報告が遅れましたが、結婚論シンポ福岡篇は盛況のうちに終了致しました。ご来場いただいた皆様、宣伝・告知・開催にご協力いただいた方々には、厚く御礼申し上げます。今後ともご厚情を賜りたく、何とぞよろしくお願い致します。


当日のプログラムは、

第1部:交換とコミュニケーション

フレデリック・ケック氏は、まず、英国の人類学者タイラーの生物学的・進化論的・自生的結婚観――「外で殺されるか、外で結婚するか」というタイラーの言葉に集約されるこの結婚観は、インドとイギリスなど、大英帝国内における植民地主義的結婚政策に加担するものでもあった――に対して、レヴィ=ストロースが『親族の基本構造』において、象徴的-文化的・構造主義的・構築主義的結婚観を対置したことを強調する。また、ボーヴォワールが刊行直後に書いた書評で、後の多くのフェミニストたちとは異なり、「女性の交換」というレヴィ=ストロースのテーゼを評価し――ケック氏自身の言葉で言えば、レヴィ=ストロースとボーヴォワールの立場は「外で結婚するか、内で行き詰まるか」(インセスト・タブーの回避から生じる族外婚)――、彼女自身の小説群においては、このような構造主義的視点から現代社会における「男性の交換」が描き出されてはいないかと示唆した。

大森晋輔氏は、「侵犯の思想家」というクロソウスキーの通俗的なイメージと、そこから安易に生じうる彼の「逸脱的結婚」観を拒絶し、むしろクロソウスキーにおける言語の次元に注目することを提案する。二十年を隔てて書かれた二つのサド論の変遷――二つ目のサド論は、クロソウスキーの特異な結婚観が端的に表れている『歓待の掟』のすぐ後に刊行されたものである――に如実に見られる、このような思索の深化は、しかしながら、クロソウスキーにとって強迫的とさえ言える主題であった「結婚」との訣別を意味しない(『生きた貨幣』は1970年に刊行されている)。したがって、「結婚か言語か」の偽の二者択一を峻拒し、「結婚と言語」を同一地平において、「切り離しえない」ものとして扱う視点が要求されるのではないか、と大森氏の発表は示唆している。

二人の発表に(そしてもちろんレヴィ=ストロースとクロソウスキーに)共通する主題、それは結婚という現象を「交換とコミュニケーション」の視点から眺めるという姿勢である。レヴィ=ストロースが「未開」部族という「冷たい社会」の構造化要因として取り出した「女の交換」を、ボーヴォワールが、現代社会という「熱い社会」においては「男の交換」も存在するという形で変換してみせたのだ、というケック氏の指摘と、「非言語による言語の侵犯」という説から「古典的言語そのものの徹底による言語の侵犯」という説へのクロソウスキーのシフトには、『歓待の掟』における夫・男の「分身」の問題が関係しているのではないかという大森氏の発表に見られる示唆は、共鳴しているように思われる。

第二部は、セクシュアリティと所有の問題である。これについては、また改めて報告することにしたい。

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