Thursday, December 08, 2011

悩み事:新プラトン主義→アリストテレスという尺度

中世の哲学を講義しているのだが、悩みの一つは、新プラトン主義をどう位置付けるのか。

まず、アヴィセンナ(イブン・シーナー)である。彼について、ラッセルは『西洋哲学史』の中でこう述べている。

「アヴィケンナの哲学は、回教徒の先行諸哲学者よりは、アリストテレスにより近く、新プラトン主義的である面はより少ない」(第2巻419頁)。

「アヴィセンナは、アリストテレス的な学問体系のうちに新プラトン主義的な要素を盛り込むことへと向かっている」(リーゼンフーバー『中世哲学史』、256-257頁)。

つまり、アヴィセンナは、それ以前の哲学者に比べれば、よりアリストテレス的ではあるものの、依然として新プラトン主義的側面は持っている、ということである。

次に、アヴィセンナ(イブン・シーナー)からアヴェロエス(イブン・ルシュド)への変化は、どうか。

「アヴェロエスは、それまで不当に新プラトン主義の影響を受けていたところの、アリストテレスに関するアラビア人の解釈を改善しようと腐心した。彼はアリストテレスに対して、宗教の始祖に抱くような尊崇の念を払っていた。それはアヴィケンナがもっていた敬意をさえ、はるかに凌駕するものがあった」(ラッセル、420頁)。

「アヴェロエスにとって哲学とは端的にアリストテレスの理論のことであり、彼の功績は、古代末期からイスラームの哲学者に至るまで一般的に見られた新プラトン主義――とりわけ流出論――の傾向の強いアリストテレス解釈から、アリストテレス自身の教えを救い出したところにある」(リーゼンフーバー、271頁)。

イスラム哲学の側からの概説書も同じ見解をとっている。

「彼〔アヴェロエス〕はまた、アヴィセンナのような哲学者たちの、より一層の新プラトン主義的傾向に対してかなり疑問を抱いていたので、その哲学的著作の中で純粋にアリストテレス的論説を提示しようとした」(オリヴァー・リーマン『イスラム哲学への扉――理性と啓示をめぐって』、48頁)。

ということは、ここでもまた、変化の基準は「新プラトン主義から純粋アリストテレスへ」である。

ところが、アヴェロエスからトマス・アクィナスへの移行もまた、「アリストテレスの新プラトン主義的理解から、純粋なアリストテレス解釈へ」と評されることが多い。

 「トマスの時代までは、アリストテレスに関するひとびとの諸観念は、新プラトン主義的な堆積物によって曖昧にされていた。しかしトマスは、真のアリストテレスに従って、プラトン主義を嫌い、聖アウグスティヌスに見られるような形のプラトン主義までも是認しなかったのである。キリスト教哲学の基礎としては、プラトンよりもアリストテレスの方が好ましく、マホメット教徒やキリスト教徒のうちのアヴェロエス主義者たちは、アリストテレスを誤って解釈していたのだ、ということをトマスはうまく教会に説得した」(ラッセル、447-448頁)。

しかも、ご丁寧に、 こんな但し書きがつくこともある。

「トマスは、アリストテレス思想を、古代末期とアラブ人思想家による新プラトン主義的解釈から解き放ったが、彼自身もまた、徐々に(新)プラトン主義的な分有の形而上学に接近していくことで、ギリシア最高の思想家たちと多面的な対話を行ない、プラトンとアリストテレスのあいだの緊張をより高次の存在理解・精神理解へと創造的に高めることになった」(リーゼンフーバー、上掲、333頁)。

なんだか、落語の回りオチのようだ…。

アリストテレスを「スケール」(尺度)とする進展の把捉はたしかに分かりやすいと言えば分かりやすいが、厳密な目盛りをつけてもらわないと、あまり役に立たない。というわけで、今その作業にひとまず取り組んでいる。

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