Wednesday, December 05, 2012

【訃報】歌舞伎俳優・中村勘三郎さん…57歳

勘三郎さん天使の紙吹雪舞う中、出棺 喪主の手紙にすすり泣き

デイリースポーツ 12月11日(火)12時30分配信
勘三郎さん天使の紙吹雪舞う中、出棺 喪主の手紙にすすり泣き
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紙吹雪の舞う中、江川卓氏、中村獅童、中村福助らに運ばれる中村勘三郎さんの棺=東京・文京区の自宅(撮影・金田祐二)
 今月5日に急性呼吸窮迫症候群のため57歳で亡くなった歌舞伎俳優・中村勘三郎さんの告別式が11日、密葬として都内の自宅で営まれ、歌舞伎俳優の松本 幸四郎や脚本家の宮藤官九郎ら関係者約500人が参列した。喪主の長男・勘九郎、次男・七之助は京都・南座で公演のため、告別式には列席しなかった。

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 勘九郎、七之助、好江夫人が思いをしたためた手紙を元フジテレビアナウンサーの野間脩平氏が代読。「心が折れそうな家族を励ましてくれました。11月初 旬に声が出た時の言葉は『好江(妻)、雅行(勘九郎の本名)、隆行(七之助の本名)、愛(勘九郎の妻)、七緒八(孫)、ありがとう』でございました。」と 読み上げると、参列者からすすり泣きが漏れた。

 勘三郎さんの棺は義弟の中村福助、勘三郎さんを父のように兄のように慕っていた中村獅童、演出家・野田秀樹氏、野球評論家の江川卓氏らが支えて運び、出棺の際には、天使をかたどった紙吹雪と、銀のテープが舞い、「中村屋!」「十八代目!」の掛け声も飛んだ。

 当初は非公開の予定だった祭壇の模様も報道陣に公開された。遺影は2009年、長男・勘九郎の挙式の際、写真家・篠山紀信氏が撮影したタキシード姿でほほえむ姿で、勘三郎さんの大好きだった赤ワイン2本とカレーも添えられた。

 また、戒名は歌舞伎に人生を捧げた勘三郎さんにふさわしく、演技に関係する「演暢院釋明鏡大居士(えんちょういんしゃくみょうきょうだいこじ)」と付け られた。棺に掛けられた衣装は六代目尾上菊五郎から譲られた勘三郎さんの当たり役でもある「船弁慶」の静御前の衣装がかけられた。

 なお、葬儀・告別式は27日、東京・築地の築地本願寺本堂で執り行われることが発表され、葬儀委員長は大谷信義松竹株式会社代表取締役会長。喪主は長男の中村勘九郎と次男・中村七之助が連名で務める。

勘三郎さん 野田氏に“闘病劇”つくれ

2012年12月7日
 2010年5月13日、舞台「表に出ろいっ!」で共演した野田秀樹氏(左)と中村勘三郎さん  2010年5月13日、舞台「表に出ろいっ!」で共演した野田秀樹氏(左)と中村勘三郎さん
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 劇作家で俳優の野田秀樹氏(57)が6日、急性呼吸窮迫症候群のため5日に亡くなった歌舞伎俳優の中村勘三郎さん(享年57)について、都内で取材に応じた。
 公私にわたり25年以上の深い親交があり、最期もみとった野田氏は、勘三郎さんが入院中に「今のおれの状態を芝居にしろ」と“闘病舞台”の製作を提案していたことを明かし、「演劇界にとって喪失を超えた災害」と、同い年の巨星の急死を悔やんだ。
 生涯を芝居にささげた勘三郎さんらしい、エピソードだった。「一回、アイツが自分の状態を芝居にしろと言ったんだよね」。5日に逝った勘三郎さんをみとった、親友・野田氏は病床での勘三郎さんの提案を明かした。
 勘三郎さんが6月に入院してから、野田 氏は毎日のように見舞いに訪れていたというが、2人の間で練っていたのが「野田版 曽根崎心中」など、7つの新作の構想。その中に、食道ガンと闘う自分自 身を芝居化するという提案があったという。野田氏自身98年に、右目を失明した体験を基に舞台「Right Eye」を完成させていたが、それをヒント に、勘三郎さんは究極の役者魂の表現を目指したようだ。
 野田と勘三郎さんは1985年に東京・渋谷の路上で偶然出会い、意気投合。それ以 降、公私に親交を温め、野田が脚本した勘三郎さん主演の新作歌舞伎「野田版 研辰の討たれ」(01年)、夫婦役で共演した「表に出ろいっ!」など、現代劇 と古典芸能の枠を超え、コラボしてきた。
 「フェードダウンしていくようだった。入院中は看護師さんにちょっかいを出したりしていたけど、 最期は看護師さんが何人もお別れに来た。みんなから愛されるアイツの性格だよね」と盟友の最期のときを明かした野田氏。親友であるとともに演劇界の宝であ る勘三郎さんの急逝を「喪失を超えた被害。災害です」。フィールドを超えて多くの人を結びつけた演劇界の太陽が消えたことを嘆いた。

しのぶ 家族と勘三郎さんの最期みとる

2012年12月6日
 目を潤ませて中村勘三郎さんの最期を語る大竹しのぶ=東京会館(撮影・金田祐二)  目を潤ませて中村勘三郎さんの最期を語る大竹しのぶ=東京会館(撮影・金田祐二)
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弔問を終えタクシーに乗り込み帰途につく大竹しのぶ=東京・文京区(撮影・北野将市) 中村勘三郎さんの死に哀しげな表情で記者の質問に答える大竹しのぶ=東京会館(撮影・金田祐二)

 歌舞伎俳優の中村勘三郎さんが5日、急性呼吸窮迫症候群のため57歳で死去した。
  勘三郎さんとは20歳のころからの付き合いで、家族といっしょに最期をみとった女優・大竹しのぶ(55)は5日、主演舞台「ピアフ」(2013年1月16 日~2月13日、東京・日比谷のシアタークリエ)の製作発表に出席した。亡くなったわずか10時間半後とあって「冗談やってるみたい。全然信じられない」 とぼう然。「ノリさん(勘三郎さん)ががっかりしないような演劇を」と、言葉を絞り出した。
 30年来の親友が突然この世を去ったことがいまだに信じられなかった。「今、ここにいないということを現実に考える時間がない」。時折笑顔も見せた大竹だが、表情はやつれ切っていた。

 大竹は2日まで東京・渋谷区のシアターコクーンで舞台「日の 浦姫物語」に出演。その後「状況が大変」と聞き、4日の午前中から勘三郎さんに付き添っていた。家族とともに最期をみとると遺体とともに自宅に戻り、京 都・南座に向かう息子の勘九郎と七之助を抱きしめて送り出した。
 勘三郎さんががんを公表して以降は、しばしば見舞った。勘三郎さんが7月 27日にがん切除の手術を受け、その2日後にICUを歩いたときも立ち会い「まるで花道のようで、りりしくくかっこよくて『中村屋!』って感じでした。後 で『大竹しのぶに拍手もらっちゃったよ』って自慢してました」と振り返った。
 見舞ったときにはいつも芝居の話ばかり。新しい歌舞伎座の舞 台に立つことを切望していたという。最終的には体を動かすこともできず、話すこともできない状況にまでなったが、それでも大竹が指でピストルの形を作り撃 つまねをすると死んだふりをするなど、ちゃめっ気は忘れなかった。大竹は「後にも先にもあんな人はいない。歌舞伎界だけでなく、演劇界もどうなっちゃうん だろう」と憂えた。
 知り合ったのは舞台で共演した20歳の時。当時たまたま勘三郎さん から渡されたのがエディット・ピアフの評伝本だった。そのピアフを演じる舞台の製作発表の場で勘三郎さんについて語ることに「彼(勘三郎さん)の中で何か 意味があったんだと思います」と、運命を感じていた。


大竹しのぶ、オールナイトニッポンで思い出語った…勘三郎さん死去から一夜明け

スポーツ報知 12月7日(金)7時3分配信
 5日に急性呼吸窮迫症候群のため死去した歌舞伎俳優・中村勘三郎さん(享年57歳)の悲報から一夜明けた6日、野田秀樹氏、野球解説者の江川卓氏 (57)らと勘三郎さんの最期をみとった女優の大竹しのぶ(55)が、夜に放送されたニッポン放送のラジオ「大竹しのぶのオールナイトニッポンGOLD」 の番組内で思い出を語った。

 同番組では勘三郎さんが6歳の時にコメディアン・三木のり平さんとレギュラー出演していた「勘九郎・のり平の大人の幼稚園」のテープ(61年9月放送) を公開。貴重な音声テープに、大竹は「早口でしゃべるところは今も変わっていないですね。自由で正直で、そのままで変わらず57年生きてきた哲明(勘三郎 さんの本名)さんですね」と懐かしみ、「演劇の神様としていつまでも見守ってほしいな、と思います」と語った。

大竹しのぶ、看取る 親交35年「埋められない穴」…勘三郎さん死去

涙をこらえ思い出を振り返った大竹しのぶ
歌舞伎俳優の中村勘三郎(なかむら・かんざぶろう、本名・波野哲明=なみの・のりあき)さんの最期を見届けたのは女優・大竹しのぶ(55)、演出家の野田秀樹さん(56)、野球評論家の江川卓さん(57)らだった。大竹は5日、都内で予定通り、主演舞台「ピアフ」(来年1月16日から東京・日比谷のシアタークリエ)の製作発表に出席し、「演劇界は彼を亡くして、どうなっちゃうんだろう」と悲しみに暮れた。
 大竹は4日午前、「状況的に大変だ」という連絡があり、病院に駆け付けた。最期の様子については口を閉ざしたが、「冗談みたい。信じられない」と首をひねった。遺体に付き添って自宅まで行ったため、ほぼ一睡もしていないようで、顔は青白かった。
 大竹が20歳の時のミュージカル「若きハイデルベルヒ」で共演して以来の大親友。「ここに彼がいないということが現実として考えられない。実感がない」と涙をこらえた。
 4か月間の闘病生活を陰ながら支えてきた。7月の食道がんの手術の際にも病院に駆け付けた。「手術して2日目にICU(集中治療室)で何十メート ルも歩いていて、私と奥様で拍手をしたら、『大竹しのぶに拍手をもらっちゃったよ』と言っていた」と声を震わせた。「芝居の話をする時が一番楽しそうでし た」。最後は体を動かせず、自由に話すこともできなかったが、「ピストルで撃つマネをしたら死んだふりをしていた。看護婦さんも笑ってました。誰からも愛 される人でした」と悼んだ。
 この日の発表の舞台は仏歌手エディット・ピアフの人生を描くもの。大竹は20歳の頃に勘三郎さんにピアフの評伝本を勧められ、その存在を知ったという。「分厚い本を貸してくれたのに、返せないままだった」と悔やんだ。
 「歌舞伎界、演劇界は彼を亡くして、どうなっちゃうんだろうというのが正直ある。あの人の穴は誰も埋められないが、頑張らないといけないと思う。 私が役者である限り、彼ががっかりしない芝居をしないといけない」と言葉に力を込めた。夜には再び、勘三郎さんの自宅を訪れた。


勘三郎が言っていた「マズい」こととは?〈週刊朝日〉

dot. 12月10日(月)13時6分配信
 12月5日、57歳という若さで亡くなった歌舞伎俳優の中村勘三郎(本名・波野哲明)さん。二十数年来の親友だった野田秀樹さん(56)は、勘三郎さん の訃報を「演劇界の災害」と表現した。野田さんの舞台「THE BEE」を観劇した晩、勘三郎さんたちと飲みに繰り出したときの様子を、朝日新聞文化くらし報道部の藤谷浩二記者が明かす。

*  *  *
 私的な会話だったが、書き残しておくべきことがある。勘三郎さんは今年4月に新橋演舞場で上演された若手俳優による「仮名手本忠臣蔵」を厳しく評し、こ う続けた。「あいつらが死ぬ気で頑張らないと、歌舞伎はいつか消えてなくなっちゃうんだよ」。演出家・串田和美さんと始めたコクーン歌舞伎など、新しい試 みで注目されがちだったが、口癖は「型破りはいいが、型無しはマズい」。一番大切にしていたのは、先達の芸と古典歌舞伎をきちんと受け継ぐことだった。一 方で、コクーンなどでの「他流試合」に、“身内”である歌舞伎関係者が、あまり見に来てくれないと、寂しげなそぶりを見せることもあった。

「(難聴で)長く休んだのは結果的によかった。昔の台本を読んだり、勉強できたからね。この先、体は昔ほど動かなくなるかもしれないけど、踊りでも芝居でも味が出てくると思うよ」

 本人だけでなく、それは観客である私の期待でもあった。あの晩、「じゃあ、またね」と笑顔で手を振りながらタクシーに乗り込む姿が忘れられない。

※週刊朝日 2012年12月21日号

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