【クリップ】『図書館戦争』との戦争
本のメルマガvol.516より
■「散慮逍遥月記」 / 停雲荘主人
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第5回「『図書館戦争』は表彰され『はだしのゲン』は……」
(…)
図書館業界関係者にはおなじみの図書館総合展にて毎年表彰される「Library of the Year」の今年の部において,『図書館戦争』の「原作者、出版者、映画関係者、関係する図書館等、ムーブメントとして」特別表彰されることが決まったのだそうです。
Library of the Year 2013 プレスリリース - loy13-prel.pdf
http://www.iri-net.org/loy/loy13-prel.pdf
このニュースを聞いたとき,僕は心の底から落胆しました。
(…)銃火で本を吹き飛ばすシーンを映像化することが可能な「図書館」理解の貧困さ,それまで図書館という場所に積み上げられてきた「記憶の継承」をないがしろにして「図書館の自由」を賛美したと称しているようなシロモノは,それが何であれ,まず「キッチュ」であることを疑った方がいいでしょう。
「図書館」という場所は,価値の共生はもちろんのこと価値相対化ですらない「価値の並立」という状態を,何とか維持するために継承されてきた叡智を学ぶための場所でもあります。そのような存在が必要なのは「価値にかかわるすべての問題は最終的な答えを出すことはできない」(アイザイア・バーリン)からなのです。安易な価値相対化の問題ではないのですよ。突き詰めたら血を見るような価値の衝突を回避する余地を作る,世の中が両立し得ない価値と価値の対立故に,戦火に巻き込まれないようにするにはどうしたらいいか,その知恵が継承され詰まってる場所のはずです。
そのような場所であり,存在であるはずの「図書館」を,原作者が描きたかったラブ・コメディと軍事のために,「図書館の自由」をダシにして図書館を戦場にする,そのような創作が「キッチュ」ではなく何だと言うのでしょうか。そして,キッチュを称揚し,顕彰する図書館業界の舞い上がりぶりは,既に業界のオールド・ウェーブを代表するひとびとが編集する「ず・ぼん」13号に掲載された,『図書館戦争』原作者と編集部の対談記事が,その一端を示していました。
(…) 中には「創作だから」「ラブコメだから」「映画だから」と弁護する方もいらっしゃいますが,僕が問題にしているのは表現技法ではありません。そこで描き出される,もしくは描き出されたものの背後にある「図書館」へのまなざしそのものに問題があるのですから。アニメだろうが実写だろうがフィクションだろうが現実だろうが同じことです。
戦火に巻き込まれた図書館の話としては,ルーヴァン大学の図書館(『図書館炎上』法政大学出版局,
http://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-00385-1.html )やアルジェリア独立戦争時のアルジェ大学図書館,また最近では『バスラの図書館員』(晶文社, http://www.shobunsha.co.jp/?p=1057 )もあります。図書館が破壊されることは「ひとつの文化が消滅する」象徴として扱われているのですよね。
そのあたりを,あの原作者がそもそもわかってないだろうなあ,という推測は,原作に対する図書館業界関係者の苦言に対して,発言者の乗降する駅まで調べ上げたという発言で暗に圧力をかけたという,「ず・ぼん」で自らが明らかにした原作者の振る舞いから,それほど間違ってるとも思えないわけです。
「ず・ぼん」の編集部は左翼系であり図書館問題研究会系の方々だから,ますます疑問がふくらむのです。つまり,このひとたちは「図書館の自由」を守るために「耳をすませば」や「相棒」にクレームを入れ,公共図書館の門前に旧日本軍の大砲を展示することを批判した方々に,思想的には極めて近いはずです。であるにもかかわらず,「図書館の自由」という「悠久の大義」があれば,目的が手段を神聖にするとばかりに,フィクションとはいえ戦争を,武器をとることを肯定したのは紛れもない事実。
『図書館戦争』がすぐれて「図書館と政治」の問題であるが故に,政治思想的には左翼だったはずの「ず・ぼん」の編集部があそこまで『図書館戦争』と原作者を持ち上げたのは,図書館業界を代表するオールド・ウェーブには致命的な失陥でした。彼らは善良なアナキストでしょうが,政治的にはおおよそ無能なリビジョニストということができます。結果的に彼らの中で「図書館の自由」は手段ではなく,自己目的化してその思想的基盤は枯渇してしまったということが言えます。
『図書館戦争』は本当にキッチュでしかないのだけど,キッチュがこれだけもてはやされることについて,いわゆる大衆消費社会と新自由主義におけるキッチュの役割と効果を,図書館業界は立ち止まって考察する必要があるのではないでしょうか。『図書館戦争』を称揚したことに口を拭って,相変わらず『はだしのゲン』問題でも「図書館の自由」を図書館業界が錦旗にしているのは自家撞着でしょう。
そして,図書館業界のオールド・ウェーブによる称揚だけではなく,図書館総合展という業界のニュー・ウェーブにおいても『図書館戦争』が表彰されるということは,図書館業界が挙げて『図書館戦争』に,原作者に,「図書館の理解者」であることを認定したに等しい行為です。いくらなんでも,これはおかしい。
結局のところ,業界が1980年代の成功をもたらした偉大な政策文書である『市民の図書館』を現在もなお信奉し続け,来館者数や貸出冊数の多寡が図書館業界において「よい図書館」の指標で在り続ける限りは,「図書館」そして自己目的化した「図書館の自由」が新自由主義の申し子とも言えるキッチュに侵食されることを押し止めることは難しいのでしょう。僕は2000年頃からこちら『市民の図書館』を奉じることは,公共図書館経営を新自由主義に明け渡す,その橋渡しだという意味のことを繰り返し言ってきたのですが……。
図書館業界の方々は何を考えて,どんな効果を狙って,『図書館戦争』を表彰するのでしょうね。
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