Thursday, January 23, 2014

【クリップ】どこまでも紳士なアーセン・ヴェンゲルが頑なに拒んだ“ある儀式”

どこまでも紳士なアーセン・ヴェンゲルが頑なに拒んだ“ある儀式”

アーセナルの監督アーセン・ヴェンゲル。その佇まいから容易に想像できるが、彼はどこまでも紳士である。会った人を一度で虜にしてしまう魅力がある。そんなアーセンがプレミアリーグで拒んでいる“儀式”があるという。
2013年07月29日
text by 東本貢司 photo Asuka Kudo / Football Channel

約束の時間に遅れて来たヴェンゲルだが…

ヴェンゲル・コード
好評発売中の『ヴェンゲル・コード』(リチャード・エヴァンズ著・東本貢司訳)
 拙訳『ヴェンゲル・コード』(リチャード・エヴァンズ著)の冒頭近くに、ごく最近のアーセン・ヴェンゲルの言葉を引用したこんな一節がある。
「プレーヤー同士が実際に話もできないようでは最高レベルでのプレーには絶対に到達しない。ハイレベルなコミュニケーションがあって初めて高度なダイナミズムが生まれる」
 この原文を読んだ瞬間、わたしは思わず膝を打っていた。そして、苦笑した。“あの程度の体験”が「ダイナミズム」とはさすがにおこがましい。だが、少なくとも、わたしが彼の人柄にほだされ、以後彼の言う事に耳を傾けたいと欲したことは紛れもない事実だ。
 日本が初めてW杯本大会に出場した1998年、その開幕から約4か月前の2月のことである。当時アーセナルがトレーニンググラウンド、およびそのクラブハウスとして使っていたロンドン郊外の小さなホテルで、わたしは初めてヴェンゲルと対面し、言葉を交わした。
 あるプロジェクトでヴェンゲルにインタヴューの約束を取り付けていた数人のグループに同行、そのスーパーバイザー兼通訳補佐としてである。
 会見場所に指定されたホテルのダイニングルーム別室で待っていたわたしたち一行の前に、約束の時刻を一時間弱遅れて姿を現したヴェンゲルは、まず謝罪の言葉を口にした。
 が、次の瞬間、“飾り気”一つないテーブルの上を一瞥した彼は、さっと立ち上がるとすぐ近くの厨房に通じる仕切り戸に近寄り、声高に人を呼んだ。そして、純白のシャツの袖をまくりあげたヴェンゲルの影の向こうに現れた給仕らしき女性に、彼が語気鋭く浴びせたささやき声を、わたしは聞き逃さなかった。
「君たちには、わたしの大切なゲストをもてなすという発想すらなかったのかね!」
 そして再び、眉間に深いしわを寄せて彼はわたしたちに頭を下げた。しばらくして運ばれてきたのは……ヴェンゲルたってのオーダーによるミネラルウォーターだった。

一度会っただけの相手に披露した驚くべきマジック

 それからちょうど3か月後、わたしは別の同行者とともに再び同じホテルを訪れていた。その翌日に行われるFA決勝、ニューカッスル戦に向けてのアーセナルの記者会見に参加するためである。
 会見開始までの空き時間、ホテルの中庭をそぞろ歩き、ほれぼれとするような颯爽たるスーツ姿のデニス・ベルカンプやトニー・アダムズの姿を遠目に愛でなどしていたところ、ふと気づくと、数十メートル先から手を上げてこちらに向かってく長身の紳士がいる。
 誰あろう、ヴェンゲルその人だった。思わず後ろを振り返ったが、それらしき人影はない。そのときのわたしの表情、仕種たるや、至極滑稽なものだったに相違ない。
 まさか一度きりの機会を覚えてくれていたとは、そして、そんな離れた距離からわたしを認めてくれたなんて―――ぎこちなく照れ笑いをしながら返礼を返すわたしに、その直後、ヴェンゲルはさらなる驚きのマジックを披露したのだからたまらない。
 満面の笑顔で手を差し出したヴェンゲルは、次の瞬間、悪戯っぽくわたしをねめつけた。
「やあ、しばらく。でも、いつの間に髪に青い色を入れたんだね?」
 あるアドバイスを真に受け、遊び心で白髪の部分にのみ色が出るヘアマニキュアにわたしが“手を染めた”のは、その2か月前のことだったが、その間、誰一人として気づいた(ないしは指摘した)人はいなかった。それを初めて、アーセンの口から聞くとは。
 一瞬呆然としたが、それでも何とか「申し訳ない、赤と白じゃなくて」と、下手なジョークを絞り出したわたしの肩を、アーセンはくすくす笑いながらその長い腕がぐいっと伸ばしてポンと叩き、こうのたまった。
「おやおや、君が仮にチェルシーやエヴァートンのファンだとしても、わたしと君の間に何か変化が起こるはずもないだろう。違うかね?」

ブリティッシュフットボール界独特の“儀式”

ヴェンゲル・アーセン
アーセン・ヴェンゲル監督【写真:工藤明日香(フットボールチャンネル)】
 それがヴェンゲルという人だ。常に人を見ている。その印象を記憶にとどめ、理解しようとする。わずかな変化も(美点も瑕疵も)見逃さない。そして、彼なりの最適な言葉をひねり出し、彼なりの最善の対応をひねり出す。それこそが〈コード〉のベーシックであり、彼を慕い畏怖する人々(プレーヤー)の脳に訴えるコミュニケーション術なのだろう。
 その極意中には当然、あえて言葉を伴わせないケースもある。「無言」もまた重要なコミュニケーションテクニックの一つなのだから。それに関連して、イングランドを誰よりもよく理解し、その礼儀、マナーに敬意を示すヴェンゲルが、これまで頑なに拒んできた、あるブリティッシュフットボール界独特の“儀式”がある。
 おそらくは紳士協定の証しとしてであろう。ゲームが始まるまでのほんの一時、ホームの監督がビジターの監督をスタジアム内の自室に招き、ワインやカクテルをふるまって談笑するという、いわば自由裁量に基づく習慣がある。
 当然、これから行われる試合に関することは一切話題にされない。あくまでも、政治経済や互いの家族についてなどの四方山話を通じて「友情」を確かめ合い、それとなく健闘を誓い合うのである。
 殊に、“この業界の古顔”のサー・アレックス・ファーガソンはこのひとときをこよなく愛し、最大の好敵手ヴェンゲルにも「とびきり上等のワインを用意して」再三招待の意を伝えたが、つれなくされるばかりだった―――と自伝の一節に書いている。
 たぶん、理由はごく単純に、ヴェンゲルにとって「筋が通らない」ことだからだろう。公の場ならともかく、閉ざされたプライベートな空間(それも“敵”の懐)で二人きりの時間を過ごすことは道義に反する、と。それもまた彼の為人(ひととなり)に違いない。
 ならば、いつの日か、揃って“しがらみのない自由の身”になったとき、この二人の老兵がほろ酔い気分で愚痴を叩き合うシーンを、是非、覗き見してみたいものではないか。
【了】

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