★加國尚志『沈黙の詩法――メルロ=ポンティと表現の哲学』(
『自然の現象学』(晃洋書房、
「表現となる直前に身体で感じられるもの」とは、
言葉の重さとは、
2017年05月
まずタイトルにぐっとつかまれました。永井訳のネーゲル・
まだはじめと最後を読んだにすぎませんが、とても面白く、
ともかく話題になりそうな本ですね。
★中田光雄『デリダ 脱-構築の創造力』(水声社、2017年5月)
早速ご著書を拝読するにつけ、
★本郷均「「中間」における言葉について」(
「表現の可能性とその挫折もまた、 その中間の見えないものによって与えられている」(p.132)。通常は無であり沈黙であり透明にとどまる「中間」を、 「表現を促すもの」「 見えるようにすることにおける見られるものの生起」と捉え、 ベルクソンのイマージュ、ハイデガーの芸術作品、メルロ= ポンティの肉といった諸概念にその理解の手がかりを求めようとす る非常に興味深い試みだとお見受けました。 普段はなかなか結びつけて考えることのないテーマが「中間」 というキーワードによって実際に結びついていくさまは刺激的でし た。例えば、ドゥルーズのmilieu等も入れて、 私も自分なりに考えてみたくなりました。
2017年04月
★納富信留『哲学の誕生――ソクラテスとは何者か』(ちくま学芸文庫、2017年4月10日)
これは実は、ちくま新書版のときにもいただいていたのですが、今回もいただきました。自分の文章を少しでもましなものにしたいと考えて、先ごろ蓮見重彦の『監督・小津安二郎』の旧ちくま学芸文庫版と新版を首っ引きで一行一行読み比べておりましたが、今回もそれをやってみました。
★倉田剛『現代存在論講義』(新曜社、2017年4月7日)
ついに出ましたね。数年前からお話だけはたびたび伺っておりましたが、こうして形になったものを見ると、本当に隅々までよく考え抜かれており、一つの「芸術作品」にも似た味わいがあります。「どうしたことか一昨年あたりから再び私の中に出版に対する意欲が湧いて」(i頁)、続編まで一気に書き上げられたとのことでしたが、これは愛息のご誕生と関係があるのでしょうか。
ともあれ、まだ序論と第一章冒頭を読み終えたにすぎませんが、「哲学には固有の問いと方法および説明方式がある」という倉田さんの信念には私もまったく同感であり、特に、「哲学が科学の成果を一刀両断することができないのと同様、科学の側も哲学的議論を容易に一蹴できると考えてはならない。(それは)クラシックのピアニストが、ジャズピアニストに向かって「あなたの演奏法は誤っている」と述べるようなものである」(vii頁)というくだりには――倉田さんらしさを感じつつ――、快哉を叫びたくなりました(もちろん、ジャズとクラシックの間を自由に行き来するアンドレ・プレヴィンなどの例外もあるのでしょうが…)。私自身、専門外のこういった議論ではしばしば途中で挫折しがちですが、今回は(ユイとミノルのおかげで)最後まで読了できるのではないかと期待しています。
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