Wednesday, June 07, 2017

いただきもの(2017年4月-6月)

2017年6月
★加國尚志『沈黙の詩法――メルロ=ポンティと表現の哲学』(晃洋書房、2017年3月30日)
 『自然の現象学』(晃洋書房、2002年)に続く第二作目でしょうか。私はまだ単著を出していないので、先生の着実な歩みに賛嘆の念を覚えます。まだ読み始めたばかりですが、序言の言葉、「もしことばが日常のコミュニケーションで人々を行為に導くだけのものなら、本書に収められた文章は必要ではないだろう。しかしそれとは別種のことばと共に生きはじめるものと共にしか生きることのできないような人々が、やはり存在する」という言葉に惹かれました。
 「表現となる直前に身体で感じられるもの」とは、表現に至るまでの躊躇や澱みや滞り、加國先生の文章に頻出する「はじめる」という言葉は――「風に揺れはじめる」「立ち上がりはじめた波」「ふるえはじめた弦」「生きはじめ、生き直そうとしはじめる」――、ベルクソンの「持続は遅れる、いや持続とは遅れである」という言葉を思い出させます。

 言葉の重さとは、軽々しく言葉にしてしまうことで消えてしまうものに繊細であり続けようとする意志の強さでもあるのですね。言葉の軽い私の自戒にせねばと思いつつ、加國先生の哲学的営為のぶれない軸を垣間見た思いがいたしました

2017年05月
★L・A・ポール『今夜ヴァンパイアになる前に――分析的実存哲学入門』(奥田太郎・薄井直樹訳、名古屋大学出版会、2017年5月30日)
 まずタイトルにぐっとつかまれました。永井訳のネーゲル・コウモリ本へのオマージュである(202頁)ということですが、Transformative Experienceをこう訳せるセンスに脱帽です。また、帯は編集者かもしれませんが、短い言葉で端的に本書のポイントをまとめつつ、本文へと巧みにいざなう文章で、やはりつかまれました。

 まだはじめと最後を読んだにすぎませんが、とても面白く、とても読みやすいです(宮野さんのご助力もずいぶんあったと聞きました)。ぐいぐい引き込まれます。あとがきではジョジョに言及されていましたが、藤子不二雄の短編「流血鬼」を併読するとなおいっそう楽しめること、請け合いです(もしお知り合いなら、ポールさんに教えてあげると喜ばれるのでは・・・)。
 ともかく話題になりそうな本ですね。ご成功を心よりお祈りしております。


★中田光雄『デリダ 脱-構築の創造力』(水声社、2017年5月)

 早速ご著書を拝読するにつけ、帯に記された一連のお仕事を見るにつけ、先生のお仕事の常人ならぬ生産性、凝縮された内容の密度、可能な限り渉猟されている文献の博識さ、全体に漂う学的厳格さ、そのいずれにもただ圧倒されるばかりです。


★本郷均「「中間」における言葉について」(早稲田大学哲学会編『フィロソフィア』第104号、2017年3月)
 表現の可能性とその挫折もまた、その中間の見えないものによって与えられている」(p.132)。通常は無であり沈黙であり透明にとどまる「中間」を、「表現を促すもの」「見えるようにすることにおける見られるものの生起」と捉え、ベルクソンのイマージュ、ハイデガーの芸術作品、メルロ=ポンティの肉といった諸概念にその理解の手がかりを求めようとする非常に興味深い試みだとお見受けました。普段はなかなか結びつけて考えることのないテーマが「中間」というキーワードによって実際に結びついていくさまは刺激的でした。例えば、ドゥルーズのmilieu等も入れて、私も自分なりに考えてみたくなりました。

2017年04月
★納富信留『哲学の誕生――ソクラテスとは何者か』(ちくま学芸文庫、2017年4月10日)
 これは実は、ちくま新書版のときにもいただいていたのですが、今回もいただきました。自分の文章を少しでもましなものにしたいと考えて、先ごろ蓮見重彦の『監督・小津安二郎』の旧ちくま学芸文庫版と新版を首っ引きで一行一行読み比べておりましたが、今回もそれをやってみました。

★倉田剛『現代存在論講義』(新曜社、2017年4月7日)
 ついに出ましたね。数年前からお話だけはたびたび伺っておりましたが、こうして形になったものを見ると、本当に隅々までよく考え抜かれており、一つの「芸術作品」にも似た味わいがあります。「どうしたことか一昨年あたりから再び私の中に出版に対する意欲が湧いて」(i頁)、続編まで一気に書き上げられたとのことでしたが、これは愛息のご誕生と関係があるのでしょうか。
 ともあれ、まだ序論と第一章冒頭を読み終えたにすぎませんが、「哲学には固有の問いと方法および説明方式がある」という倉田さんの信念には私もまったく同感であり、特に、「哲学が科学の成果を一刀両断することができないのと同様、科学の側も哲学的議論を容易に一蹴できると考えてはならない。(それは)クラシックのピアニストが、ジャズピアニストに向かって「あなたの演奏法は誤っている」と述べるようなものである」(vii頁)というくだりには――倉田さんらしさを感じつつ――、快哉を叫びたくなりました(もちろん、ジャズとクラシックの間を自由に行き来するアンドレ・プレヴィンなどの例外もあるのでしょうが…)。私自身、専門外のこういった議論ではしばしば途中で挫折しがちですが、今回は(ユイとミノルのおかげで)最後まで読了できるのではないかと期待しています。

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