リール電子交通網は2、3日前から大パニックのようです。さっき送ったメイルは、緊急手段を使いました。ところでmtさん、あまりに素早い返信ありがとうございました。私は普段は数日に一度、しかも自分が出した直後にメイルを受け取るので、こういう「速度」をあまり実感していなかったのですが。
>>難解とされている対象(ラカン理論、ドイツ観念論)を、軽薄とされて
>>いる大衆文化(ハリウッドの最新作、SF小説)を例にとって明快に読み解いて見せるこ
>>と
>ここを読んで東さんを思い出しました。
まさに!ここに(特に「目を引くにはこれが最も手っ取り早い方法…」の直後に)東浩紀さんへの言及を入れていたつもりだったんですが、編集の過程で消えてしまっていたようです。
ちなみに私が強く「行商人」の印象を受けたのは、「アメリカの嫌いなところは…」とか「デリダの許しがたいところは…」、さらには「もちろんジャック=アラン・ミレールは私の友達ですが、私が思うにラカンの教えで彼のやり方と全く異なるのは…」などといったフランス人(分析家)のツボをおさえた発言もさることながら(アメリカでは逆のことを言っているのだろうことは十二分に予想がつく)、帰り際彼の著書を買い求めようとしていた女性に「そんな、お代なんていいから…」と会計の女の子から金をひったくって押し戻した姿(大統領になろうとしただけあって、心得ている)、リールの精神分析家2、3人と駅のほうへ消えていく(狭い街なので、講演が終わってからまた街中で見かけたのです)彼のチノパンにダンガリーのシャツ一枚(しゃべりまくるからそれでも汗だく)、ヤッケの上からリュックという学生のようないでたち(少し大きなttさん、という感じ)で、帰り道でもしゃべりまくっていたあの姿。彼が今ほどは売れていなかった頃からバックアップしてくれた(?)というリールの精神分析協会への、あれは彼なりの心づくしなのかもしれない)。
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デリダのあのスタイルは、病的なまでに高められ洗練された自己防御の姿勢である。彼はもはや「何故私はここで発言するのか」「何故」「この場所で」「今」と問いを分割して問うことに数十ページを割くことなしに、著書を始めることは不可能なのである。「病的」な過ちを指摘されることへの怖れは、あれほど錯雑としたスタイルの著書を作りながら、いやそのような著書を作らざるを得ない理由と表裏一体の「徴候」として、彼の著書に誤植を見つけることは困難である。あれは異様に綿密に校正をやっているに違いない。
本当にデリダの「スタイル」は、彼の「思想」に必要なのだろうか。「自由にせよ、平等にせよ、その正確な定義などがどうして求められえよう、未来はありとあらゆる進歩へとうち開かれているというのに。とりわけ未来は全く新しい条件の創造へと、今日のところはまだ実現されえぬ自由や平等、いやおそらくはまだ考えることすら出来ない自由や平等の様々な形態が、そこで可能となる条件の創造へとうち開かれているというのに。我々に出来ることは、せいぜい粗筋を描くだけのことでしかない」。
「来たるべき民主主義」や「メシア主義なきメシア的なもの」が意味するのがこの引用文以上のことであるのならまだしも、この程度のことはベルクソンにだって言えるのだ。というか、この引用はベルクソンからのものである。
デリダは大思想家であり、彼はあのようなスタイルで書いた。ゆえにそこには何がしかの解くべき秘密が隠されているに違いない。という想定の下に書かれた出来のよい学生のレポート。というとあまりに言いすぎだろうけれど。いや、やはりそのように解釈すべきではない、東さんの著書は。
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