ひょっとしたらすでに『現代思想』の特集号などにもっと完全なものが出ていたのかもしれませんが(あるいはおそらくほぼ確実に"Zizek Reader", BlackwellReaders, 1999. にはあると思われますが)、現実逃避にジジェクのbiblioを作ってみました(全く不完全なので、各言語の追加情報をお待ちしております)。
処女作『最も崇高なヒステリー患者-Hegel passe』(1988)は、「ジャック・アラン・ミレールの指導のもとに作成され、1986年11月にパリ第8大学精神分析学部で受理された第3期課程博士論文「徴候と幻想の間にある哲学」に手を加えたものである」(原著、p.10.)が、フランス(語)で、精神分析系の小出版社から出版されている。
巻末のbiblioによれば、1983年にはすでに、パリの精神分析雑誌の≪政治に関する精神分析的パースペクティヴ≫と題された特集号に「スターリニズム:unsavoir decapitonne」という論文を、二年後の1985年にはミレールの主催する(すなわち「正統」ラカン派の)雑誌に「政治権力とそのイデオロギー機制について」を執筆しており、修行時代をパリで過ごしていたこと、当時から今と変わらぬモチーフを持っていたことが窺える。
この処女作自体がすでに彼のスタンスをはっきりと表している。すなわち難解とされている対象(ラカン理論、ドイツ観念論)を、軽薄とされている大衆文化(ハリウッドの最新作、SF小説)を例にとって明快に読み解いて見せること、知の行商人に徹することである。
他人(教養を持った大衆層、学生層だけでなく、狭義の知識人層まで含めて)の目を引くにはこれが最も手っ取り早い方法であることは明らかであろう。我々はこの彼の知的=政治的スタンスを彼の出自、非西欧と結び付けるべきだろうか。少なくとも、非西欧国出身の知識人はどういう戦略を駆使して「のしあがる」(といって悪ければ「同じ土俵に立つ」)ことが可能になるか(多くの点で共通点を持つイーグルトンとの比較は、この点でも興味深いだろう)ということの顕著な一事例であることは間違いない(王子さんのクッシーとの共著のスタイルも、この点から考察されるべきだろう)。
この飽くことなき行商人魂は当然、言語の選択にも表れている。次の第二作『イデオロギーの崇高な対象』(1989年)は、英語で、ロンドン-NYの左翼系出版社Versoから出版されている。この著作の「成功」(どの程度の規模のものなのかは知らない)が、MIT Pressという一見硬そうな(実像は全く知らないが)出版社から『斜めから見る』(1991年)を出すことを可能にしたのであろう。以後、この行商人は、もっぱら英語でしか書かないことにしているようである。
世界市場を考えれば当然の選択だろう(この点は、デリダとの比較が興味深い。デリダは「他者の単一言語使用」などといって自分の辺境性を強調したいようだが、所詮彼だってvery French ! なのである。この機会に指摘しておきたいが、ほぼ同様の言語戦略をとることが外国人にもできたとして(それ自体は全く掛け値なしに快挙なのであるが)、果たして同様の受け入れられ方をしたかはきわめて疑わしいところである)。
ほぼ毎年着実に新作を送り出し(英語の著作は19)、1999年には、「時の人」「話題の人」になったことを意味するReaderシリーズに加えられるほどにまで「栄達」の道を極めた。矢継ぎ早に繰り出されるパンチはいささか新味に欠くところもあり、消費スピードが桁外れに速い日本ではいささか消費され尽くした感もあるが、出発地点のフランスにおいては僕の知る限り6冊程度、さほど噂になった様子もない。対照的なのはドイツで、現在までに(僕が確認しえたものだけで)16冊、それも日本よりは流行の消費サイクルがゆったりしている(ごく最近、立て続けに(ポケット版も含めて)翻訳が出ているようだ)。
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